ウィダシンズ
「いくら鞍の前輪に巨大な葡萄酒の瓶を下げた馬を連れてきても無駄だからな」
「残念だな。パンやチーズ、鱒のパイも積み込んで来たのに」
眺めの良い野原、綺麗な芝地に美しく澄んだ泉、遠くに広がる葡萄畑。
故郷から遥かに離れた土地で旅を続ける自分を何故見つけることが出来たのか。
疑問がそのまま顔に出ていたのだろう。ただ一人の兄弟である弟――ロキが眉根を寄せた笑顔を見せる。
供も連れず、自身の前に現れた弟は毛織物製(サージ)の外套を身に纏い、鋲が打たれた牛革の半長靴を履き、王位を持つ者とは思えぬような質素な身なりに扮していた。
「近習の者達に探させたのさ」
「そうか、お前はもうアスガルドの王だからな」
「兄上、旅の間に随分捻くれてしまったじゃないか」
「……」
国の宝物庫に侵入し、強力な兵器である"冬の棺"を奪おうとした氷の巨人を罰するためにヨトゥンヘイムへと赴き、4人の勇士達と共に戦闘を繰り広げた。その事が父であるオーディンの怒りに触れ、譲り渡される筈だった王位は第二王子であるロキへと引き継がれ、鎧とムジョルニア、王族としての身分すらも奪われ、国外へと追放されてしまっていた。
「ヴォルスタッグ達は近くの旅籠に留めてあるんだ。私が先に話をした方がいい、とそう諭されたからね…。兄上も今夜はそこに泊まればいい。野宿ばかりしていたのだろう。アンタの自慢の髪も汚れてしまっているじゃないか…」
白磁の肌を持つ柔らかな手のひらがそっと自分の髪を撫でる。
昔から快活な自分に比べ、少し気弱な弟だった。だが母に似て優しい心根の持ち主だった。久方ぶりに触れるその優しさに、頑なだった心が僅かに解れていく。
「――愚かだな、お前は。王が国を離れてどうするんだ」
「心配しなくてもアスガルドにはもう一人の私を置いているんだ。魔術の師である母上以外には見抜けない筈さ」
旅の始まりはただ追放された悲しみと父への怒りだけが渦巻いていた。だが様々な土地を旅し、多くの場所で目にした、民に重税を課し、自身は贅の限りを尽くした祝宴を開く貴族や、不毛な土地で作物を懸命に育てる貧農の者達を目にし、いかに自分が傲慢で愚かだったのか。それを少しずつ考えるようになっていた。
「兄上、私はここに長く留まることは出来ない。だが見知らぬ土地に兄上を一人残していくつもりもない。共に帰るんだ、故郷へ」
甘い野の香りが風に吹かれ、流れてくる。遠くには風見の高い尖塔の群れ、実り多い豊かな森。徐々に空が夕暮れの色へと変わっていく。じきに鳥達も囀りをやめるのだろう。
「父上が許してくれるまで俺が戻ることはない」
「兄上…」
「だが久方ぶりに会ったんだ。お前たちともに酒を酌み交わそう」
「ああ、そうだな。共に飲もう…」
衣服が汚れるのにも構わず、土埃でくすんだ衣装を纏う自分を弟が抱きしめる。同じように抱き返した身体は、アスガルドにいた頃よりも幾分細くなってしまっていた。自身の追放で父母だけではなく、何よりも大事な弟もこうして悲しませていたのだと漸く気付き、愚かさに唇を噛みしめる。親愛の意味を込めた口づけが頬に齎され、受け入れるために瞼を閉じる――。
「俺がいぬ間の行軍は夜の宿営も不安だろう?頼りになる者がいないのだからな」
「なに酒樽の酒と食料が異様に減らなくなった分、逆に気楽なもんさ」
多くの時間を共に過ごした仲間達。ホーガン、ファンドラル、ヴォルスタッグ。懐かしい友と再会を喜び、酒を酌み交わす。決して大きくはない旅籠での宴にも拘わらず、まるで戦勝の宴席のような高揚感が互いを包む。宿での湯浴みの後、ロキが用意した衣装はアスガルドにいた頃、よく身に着けていたものだった。黒革の外套、ベルト付きの胴着、拍車革のついた長靴。それらに身を包み、新鮮なチーズ、ライ麦のパン、ゴブレットに注がれたエール、焼いた野兎――この土地での食事としては十分に贅沢なものを口にする。
「ロキのお蔭さ」
途中、ぽつりとファンドラルが言葉を漏らす。
「君を長い間探していた。勿論私達も会いたかった。だがオーディン様に捜索を固く禁じられていたんだ。君が本当に心から反省しなければ帰還はない、と――だがロキは、どんなに禁じられても密かに君を探し続けた…そうして彼のお蔭でまたこうして会うことが出来たんだ」
「大袈裟だな。兄上が戻る時期が来たんだ。それだけさ」
穏やかに語る弟からは以前にはなかった若き王としての威厳が滲んでいるようだった。王に成れぬ者と、王に成った者。自分が失った栄光に胸が微かに痛む。だがどこか弱さのあったロキが逞しく成長した事は兄弟として喜ぶべき事実だった。
「お前を誇りを思うよ、ロキ」
笑みながら弟と肩を組む。
「ならばキスは?」
昔、戴冠式の前に交わした軽口を弟が口にする。笑いながらロキの頭を揶揄うように撫で、旧知の友と杯を重ねる――。
宴が終わり、各々の宛がわれた部屋に戻る途中、厩で馬の手入れをするホーガンを見かける。
「乾し草を宿屋の主人からもらってこようか」
「いや、大丈夫だ」
普段寡黙な男が馬櫛で馬体を梳きながら短く返事を返す。
「なあ、ソー」
「なんだ」
「本当に戻ってこないつもりなのか」
「ああ」
「――お前は覚えているか。ヨトゥンヘイムでのラウフェイの言葉を」
「ああ、覚えているさ。俺が力を誇示したがっていると。――確かにその言葉自体は正しかったな…」
「違う、"アスガルドの館は裏切者だらけだ"といっていただろう。あれをどう思った」
「奴はただ父上の名を汚したかったのさ」
「そうか…」
不意に馬櫛を動かす手が止まる。
「俺は今も王になるのならばお前だと思っている」
「ホーガン…」
「戻ってこい、ソー。オーディン様が永久にお前の追放を望んでいるのならば今回の遠征もきっと見逃されはしなかった。戻ってお前が王になるんだ。ロキではなくお前が――…」
「……」
「待っていたよ、兄上」
部屋に戻ると上機嫌の弟が嬉し気に抱き寄せる。
「ロキ…?」
一人ずつ部屋を宛がわれていた筈だ、そう告げる前に眼前の顔が滲むほど近くなり、酒の味がする唇が押し付けられる。
「お前ッ…酔っているな…」
うら若い娘からならまだしも、同性からの口づけに嫌悪で顔を歪め、綿の袖で口を拭う。
「何度もしているのに…兄上が覚えていないだけでそれ以上のこともね…」
「…?」
奇妙な言葉に首を傾げると花のように柔らかく微笑まれる。
「冗談さ。明日にはもう別れなきゃいけない。それが寂しくてね…」
夕食時に供されたものとは別の赤葡萄酒が部屋にあるハナブに注がれていく。
「鱒や雉のパイはないけれど、葡萄酒だけは本当に持ってきたんだ。兄上に飲ませたくてね」
渡されたそれを口に含むと、馨しく味の良い酒が心地よい刺激となって喉を通り過ぎていく。
「兄上…」
互いに向かい合う様にして4脚の腰掛けに座り、杯を傾ける自分の膝に白い手がそっと置かれる。
「アスガルドに戻ってきてくれ」
「ロキ、俺は…」
「私は兄上がいないと駄目なんだ。分かるだろう?」
「……」
「私を支えて欲しいんだ…」
弟の真摯な眼差しを直視できず、目を反らす。ロキの纏う縞模様のシャツを見つめていると不意に奇妙な酩酊が身体を包む。
不安定な興奮が嵐の中の小舟のように激しく上下し、徐々に息苦しさが付随していく。
「ロキ、すまない。飲みすぎたようだ…」
あれしきの量で酔う筈がなかった。疑問符を抱えながら弟に身体を支えられ、寝台に横たわる。
汗が滲み始めた額を冷やりとした指が撫で上げる。
「兄上、大丈夫だから。じきに楽になる――」
さっきまで穏やかだった灰緑の瞳が硝子のように無機質な光を湛えながら自分を見つめる。戦勝を上げるたび、祝福する仲間や民に囲まれた自分を遠くから見つめていた弟の瞳を思い出す。今と同じ、あの酷薄な瞳。
「兄上…」
熱で溶けるバターのように、弟の声が溶け自分の思念と絡まっていく――。
「ん……」
椋鳥がかしましく鳴く声で目を覚ます。
昨夜あれほど感じた悪寒や酩酊は跡形もなく消え去り、ただ熱のある気怠さが自分を包むだけだった。
上半身を起こし、朝の澄んだ空気の中で大きく伸びをする。飲み比べを頻繁にしていたヴォルスタッグには決して知られたくはない事だったが、どうやら悪酔いしてしまったようだった。僅かばかりの金で旅を続け、普段口にすることのない豪勢な食事をたらふく食べてしまったのも要因なのかもしれなかった。
「…ッ…」
身動くと微かな鈍痛が下腹部を襲う。覚えのない痛みに眉根を寄せると、扉が軽く叩かれ、弟が部屋に足を踏み入れる。
「兄上、目覚めたのか」
いつの間に着替えたのか、上等な亜麻の夜着が自分の身を包んでいた。昨夜とは違う、どこか熱のともる指先が自身の肩に乗せられる。
「もうすぐここを発つよ」
「ああ」
湧き上がる寂しさを気取られぬように声を返す。
「宿の主人に話をつけたんだ。私が次にここを訪れるまでこの部屋は兄上のものだ」
「ロキ…?」
「また酒を酌み交わそう。まだ話したりないことも沢山あるんだ」
摘み取ったばかりの林檎の花に似た軽やかな香りが鼻をかすめ、緩く自身の身体が抱きすくめられる。弟の良い香りのする肌の香をつい最近も酷く間近で嗅いだ記憶を思い出す。だがそれがどこでだったのか。あれは夢なのか。些細な掛け違いが存在するような違和感に囚われる。
「また会おう、兄上」
「ああ…」
頷くと満ち足りた笑みがロキの整った相貌に浮かぶ。だが弟の願いを適えてやることは出来なかった。まだ様々な場所に赴き、過去の過ちを悔い、そうして進むべき道を考える必要があった。故郷に戻るのはいつになるのか。数年か、数十年か――。
「ロキ」
声に出して弟を呼ぶ。またいつか、この聡い兄弟は自分を探し出すだろう。その時ともに帰還できる事を願いながら、親愛の情を込めて微笑みかける。例え言葉に出さずとも、想いが伝わることを願いながら同じように抱き返し、束の間の充足を味わうのだった。