「すまない、ロキ…」
幾度目ともしれぬ詫びの言葉に弟は少し困ったように眉尻を下げながら微笑んだ。ウルドの泉への遠征の際に見知らぬ森を見つけた俺は、未開の地を踏破したい欲にかられ弟の制止も聞かず足を踏み入れた。複雑に入り組んだ森の中ですぐに俺達は東西を見失い、出口に向けて進んだ筈の足は目印をつけた樫の木に幾度も辿り着き、同じ場所をさ迷い歩いている事を自分達に指し示す。
「姉上、陽が暗くなってきた。今日はここで一夜を過ごせばいい。幸い背負い袋に燻製肉とパンを入れてあるんだ。道中で拾った栗の実もあるし、それで食事を取ろう」
そういうと器用に弟がナイフで枯れ木の皮を剥ぎ、薪にしたそれに魔術の火を灯していく。苔むした地面に腰を降ろし、弟の手作業をじっと眺める。
戦にも狩猟にも向いていないロキの優美な白い手は枝を集めた際についた泥で汚れていた。元々乗り気ではない弟を強引に誘ったのは自分だった。お前が行かないのならば一人で行く。そういうと自分に呆れながらも必ずロキは侍従を名乗り出た。今回の遠征もそうだった。気の置けない仲間達と過ごす日々も好んではいたが、時折弟と二人だけで過ごす長い時間が欲しかった。
だが今の姿を見ると大事なただ一人の姉弟に無理をさせている気がして、益々居心地が悪くなる。
「ロキ、薪は足りているか?俺が近場で拾ってこようか」
そういって立ち上がろうすると、その日初めて少し冷たい響きのある言葉で止められる。
「姉上、また迷われても困るんだ。少しでも申し訳なく思っているのなら私の側にいてくれないか」
「そうだな。すまない…」
詫びの言葉を述べると先ほどよりも柔らかな声音で近付くことを求められ、自分の肩にロキの白い手が伸び引き寄せられる。
「怒っている訳じゃないんだ。ただもし姉上を見失うことがあれば心配で…」
いつも弟は優しく、思慮深い。時折自分にもロキの慎み深さがあればと思ってしまう。ぱちぱちと薪が赤く燃え上がり、暗灰色の外套を纏った弟の広い肩に頭を寄せ、ゆらめきながら上空へと流れる炎を二人で眺める。静かで暖かい時間。このような状況にあっても不思議と不安はなかった。ロキがいれば、互いがあれば、暗い心が押し寄せたとしてもすぐに消え去ってしまう。
「シフ、母上、父上だな」
「どういう意味だ」
「こうして遠征を伸ばす要因になった俺に小言をいう順番さ」
「ふふ…」
「父上は俺の勇ましさを認めて下さる。だがシフと母上はやたらと"王女なのだから"と煩いんだ」
「心配なのさ、姉上のことが。皆アンタのことを愛している」
「……」
いつもロキが愛という言葉を語る時、それはどこか熱く、切ない響きを持っていた。もしや意中の人物がいるのだろうか。そう考えると心身ともに立派な青年へと成長した弟が嬉しくもあり寂しくも感じてしまう。
「ソー、そろそろ食事をとろうか。姉上の好きな葡萄酒すらない晩餐になるけれど」
「ああ。そうしよう」
白々と月が輝き、吐く息の白さと肌に感じる冷気が、更に深く夜が更けたことを伝えてくる。見張り番は自分から申し出た。少しでもロキの役に立ちたかった。岩を背にして座り、眠る弟の頭を脚に凭れかけさせた姿で夜を過ごす。
自分よりも遥かに体格に恵まれ、痩身ながら十分に男性的な体躯であるにもかかわらず、どこかロキには儚げな印象があった。時折弟の方がよほど奥ゆかしい王女として振舞えるのではないかと思えてしまう。今も自分の膝の上で黒耀石に似た艶のある漆黒の長髪が緩く広がり、長い睫毛を時折震わせながら静かな寝息を立てる姿は女性的な面差しと相俟って、まるで姉妹のようだった。
慈しみを込めて弟の秀でた額をそっと撫でる。
「ん…」
ロキの血の様に紅い唇から吐息が漏れ、白い瞼がうっすらと開く。
「すまない。起こしてしまったか…?」
「…いや、姉上」
どこかとろりとした灰緑の瞳が自分を見つめる。
「何だかとても…寒いんだ…」
「そうか、ならもう少し薪を…」
くべようとする手を白く大きな手に掴まれる。
「ロキ…?」
「姉上、もっと側に…」
ゆったりとした仕草で上半身を起こした弟が強く俺を引き寄せる。まるで久方ぶりの逢瀬を果たした恋人のように固く抱き竦められ、ひやりとした唇が外耳に押し付けられる。
「ああ、暖かいよ…姉上…」
「……」
どうして鼓動が跳ねてしまったのか自分でも分からなかった。
飾り紐のついた短衣から覗く、痩身で、だが鋼のような筋肉がしっかりとついた胸は雪の様に白く、どこか青さの混じる涼やかな香気は成熟した男のもので。すらりと伸びた手足は弟の美貌をより引立たせ、暗い外套を纏ってはいても王族としての気品が和えかな光のようにその身体からは滲んでいた。
子供時代は当に脱していたのに、今になって漸く、誰よりも愛しい弟が魅力的な若く美しい青年だということに気付いてしまう。
ほんの一時でも異性として意識したことを恥じ入り、羞恥に染まる顔を逃げるようにその厚い胸板に擦り付けると甘い声で名を呼ばれ、ますます腕の檻がきつくなる。姉弟としての親しみなのだろう。ロキの紅い唇が金糸の髪に、すがりつく指に、寒さで赤らむ頬に、安堵させるかのように柔らかく押し当てられる。誰かと肌を触れ合わせる事がこんなにも温かく、心地の良いものだとは知らなかった。薪の炎よりも穏やかな暖かさに包まれ、隙間のないほど密接に弟と重なり合う。
闇夜の森に細い鳥のさえずりが響き渡り、宝物に触れるように慎重に、柔らかな仕草でロキの手が俺の肌を緩々とさすり、染み入るような寒さから遠ざける。
常日頃から王女として扱われることは不本意なことでしかなかった。
旧知の友である三銃士でさえ戦場では自分を庇護し、それが益々自身の性別を厭う原因にもなっていた。
弟も例外ではなく、幼い頃より常に王女として俺を扱ってきた。だが不思議なことにロキからそう扱われることだけは、決して煩わしいものではなかった。
手の甲にされる口づけは密やかで甘く、祭りの日に父上の王冠を模した金銀細工の冠を被ろうとしても必ず弟に止められ、花嫁の被り物と同じ菫や薔薇でできた花冠を厳かに飾られた。
鍛錬の為の稽古よりも、読み書きや侍女達と供に絹布(サンダル)に刺繍する日々を望まれ、一度黙って騎馬槍試合に参加した時などは、危険を伴う祭事に参加するなど王女の自覚がないのかと普段穏やかな弟とは思えぬほど厳しく責められ、暫くの間会話すら拒否されたほどだった。
近隣諸国との紛争を終息に向かわせる為の戦も初めは頑なに反対された。最高神オーディンであっても全ての民を守ることはできない。死に行く星の心臓で作られたムジョルニア。その高潔な神器に選ばれし者として人々を救いたい。それが俺の運命だ、と、そう弟を説き伏せると供に戦うことを示され、戦場でも必ず見守る眼差しが傍にあった。
今もこうして俺を敬い、気遣う弟の細やかな心配りが気恥ずかしく、だが甘い充足を自分の胸に呼び起こす。
「姉上、寒いだろう。もっと私にしがみついて…」
鼓膜を震わせるようにして囁かれ、びくりとその刺激で身体が震えてしまう。
弟の望みのまま、硬く逞しい身体にすがりつくと緩やかに背を撫でられる。
「ロキ…そのように近くで囁くな」
そう抗議するとふっ、と温かい吐息が内耳に吹き込まれ、またびくびくと弟の腕の中で身体が震えてしまう。
薄赤く染まった顔で睨みつけると道化染みた笑顔で見返され、軽やかな笑い声とともに自身の髪に口付けが落とされる。
やがて月明かりに照らされた温かな腕の中で穏やかな眠気が降りてくる。
私が番をするから眠ればいい。そう囁かれ詫びながら重くなった瞼を閉じる。閉じた瞬間、はらりと自分の頬にロキの黒髪が触れ、柔らかく濡れた何かが唇に押し付けられる。弟の腕の中は母の胎内のように穏やかな安らぎに満ちていて、唇に触れたものの正体を確かめる前に俺の意識は深く沈んでいった。
一夜が開け、朝特有の澄み切った空気の中、残り火に灰をかけながら溜息を吐く。
「さて、どうするかな…」
「簡単さ。私が上空から出口を見つけるから姉上は私の進む方向についてくればいい」
「?」
そういってロキが取り出したのは女神フリッグの鷹の衣だった。
「お前…彼女から借り受けていたのを黙っていたのか…?」
「ふふっ。姉上もこれで無謀な遠征は懲りただろう?」
高らかに笑いながら弟が見事な鷹の姿となり、上空へと上っていく。
悪戯好きな弟に一杯食わされた形になった俺のしかめ面さえ、ロキにはおかしくてたまらないようだった。
晴れ渡る青空の中、弧をえがきながら飛翔する鷹を眺めながら、ふと昨夜、眠る前に唇に感じた暖かく濡れた何かを思い出す。無意識に唇に触れるとその名残は甘い疼きをもたらすようで。慌てた俺はごしごしと自分の口を腕でぬぐった。