蜂蜜酒とチーズB
プラムや柘榴(ざくろ)などの赤い果物から出来たハート型の小さなケーキ、刻んだ木の実を入れた鵞鳥(がちょう)の卵のオムレツ、洋梨や林檎などの種子のある果実、ヤマウズラの煮込み、ペイストリーに包んでレアに焼いたローストビーフ――。
宴席に饗された様々な料理に目を輝かせる姉を横目で眺める。
私にとって、そして多くの恋煩う者にとっての大切な祝日。
想い人への愛、愛の理念、愛を司る神への愛、様々な愛に身も心も捧げることを祝う二月の宴。
特に恋人との愛を称えるこの日は、毎年、私にとって大切な一日だった。赤い琺瑯(ほうろう)で加工した金属のハート型の襟留めを用いることで他者への愛情を示し、アスガルド一(いち)美しい、だが国で一番といってもいいほど鈍い姉を祝宴に誘う。
「毎年この宴は珍しい料理が出るから好きなんだ…!」
干し葡萄や香辛料の入った紫色の焼き菓子を口にしながら、上機嫌で喋るソーに溜息が零れそうになる。ホーンでにぎやかに奏でられる愛の音楽"シイヴァリー"も、情感を掻き立てる様々な料理も、蒸留した薔薇水の上に浮かべられたローズマリーやのこぎり草がもたらす馨しい香りも、すべて姉にとっては何の効果もないものだった。共に出席した武骨な仲間達と新しい戦術について話し合い、珍しい料理を堪能し、愛にちなんだ他愛のない幾つかの遊戯を大勢の参加者とともに楽しみながら夜を過ごす。
親友であるシフや養母であるフリッガによって誰よりも麗しく着飾った最愛の姉を毎年暗澹たる思いで眺め、口に出来ぬ言葉を葡萄酒で押し流す。祝宴の儀式としてバトラー(酒類管理係)が並々と酒を注いだ主賓席の大きなタンカード。本当にあの中に"愛の精霊"が宿っているのか。毎年疑わしい気持ちで眺めてしまう。宴が終わり、上機嫌のソーを部屋まで送り届けるのも弟としての私の役目だった。夜の回廊は大広間から離れるほど喧騒が遠くなり、壁の張りだし棚に置かれた蝋燭の灯りと月光の朧げな光だけが私達を照らし出す。姉は歌い、時には笑いながら暖かな手のひらで私の手を包む。昔と何も変わらなかった。まだ姉よりも背が低く、華奢だった私を力強く導く手。肌を通して伝わる、ただ一人の姉弟へと注がれる温かな心。祝宴の後、別れた私が何を想うのか。夢の中で美しく着飾った自分がどうされてしまうのか。何も知らないソーは自室の前で礼を告げ、私の頬に柔らかな口づけを落としていく。あの瞬間、いつもただ名前が呼ばれることだけを願ってしまう。弟としてではなく、恋する者として、花びらのような姉の唇から私の名がこぼれれば、全てが成就するのにと、そう愚かにも考えてしまう。
「姉上、私はいいよ」
「折角の祝宴なんだ。今夜は思い切り楽しむぞ…!」
そういって人々が集う場所に連れていく。天鵞絨のペティコートに絹のガウン、錦の袖と錦の裏付きのオーバー・スカート、麻地のヨークと内側の袖、真珠付き天鵞絨の帯状胸飾り、黄水晶の首飾りに翡翠と金鎖のフェロニエール(額飾り)。精緻な衣装に身を包み、艶めく黄金の長い髪を一つに束ねたソーの姿は、王女としての気品と可憐さに溢れ、私だけではなく周囲の者の目も楽しませる。愛らしく美しい姉を抱きしめ、恋人達を称える祝宴らしい心地に浸りたいと思いながら中央に進む。
「私はただ一人を選びます。
すべての方々の中から…」
愛を祝うこの宴席の中で必ず行われるものの一つ。小さな輪を作りお互いに向き合って腰掛け、後ろ手に隠された球を持つ者を当てる遊戯。中央にいる鬼が"愛の印"である小球を持つ恋人が誰なのかを見事当てれば、鬼役と球を持つ者が恋人同士の対になり、輪の中から抜けていく。遊戯も終盤に差し掛かっているのだろう。最後に残された4人の中で、片方の手袋を手にした男の歌う声が流れてくる。
「私の愛しい貴婦人が、私に球を下さることを祈ります――」
「ロキ、次の輪に加わろう」
内緒話をするように楽し気にソーが囁きかける。姉の背にあわせて屈み、短く返事を返す際に偶然を装い、絹糸のような金色の髪に唇で触れる。スミレ香油の優しげな香り。夢の中でもその香りを思い出せるように記憶に留める。
鬼役の男が球を持つ相手を当て、華やかな歓声が沸き起こる。これですべての参加者が恋人として対になる。
拍手とともに新しい参加者たちが輪を作る。当然、というか予測していた通り、ソーが意気揚々と鬼役を名乗り出る。たとえ一時でも対になりたいのだろう。参加者の男達が熱を帯びた瞳で見つめる中、些か芝居がかった仕草でアスガルドの王女が歌い出す。
「笛を吹きながらやってきました。最初は2月、それから5月――わたしの殿方が玉座に座っておいでです――…」
ちらりと透き通る青い瞳が悪戯そうにこちらを見つめる。その意図に気付き、内心で溜息を吐く。明らかに自分の後ろ手の中に球はなかった。鬼役が間違えた相手に手袋を渡せば、今度はその相手が鬼になる。そうすれば仮初といえども私がどこかの娘と対になる。下らない悪戯に付き合うつもりはなかった。密やかに呪文を唱え、手中に球を呼び寄せる。片手の手袋が膝に置かれ、期待に満ちた眼差しでこちらを見つめる姉に軽く微笑む。
「――この小球はあなた様のものです。私のものではございません。
私はあなた様を、"私の恋人"に選びます」
告げながら、球を乗せた自身の手を悪戯好きの王女に差し出す。
湧く歓声と悔し気な男達の声。企みが阻止されたソーが、憮然とした顔つきで私が持ち上げた球を見つめる――。
「姉上のあの顔…」
密やかに笑いながら、昨年と同じように、終宴後のソーを下の中庭にある上階の部屋へと送り届ける。
結局遊戯で対になったことで、宴の間は恋人同士として過ごすことが出来た。仕来りを重んじるソーは一度も私の傍から離れず、私を誘う娘達とも、姉に言い寄る男達とも無縁の祝宴を味わうことが出来た。
「まったく…」
宴の余韻か、愚痴を呟く姉の頬はほんのりと赤かった。
「俺はこれでも心配してるんだぞ? お前が俺ばかり構うから…」
「たった一人の姉弟(きょうだい)なんだ。――何よりも大事だよ」
「……」
嬉しさとばつの悪さが口を噤んだ表情から読み取れる。
手を繋ぐと戦傷の刻まれた小さな手が緩やかに握り返す。そのことに穏やかな喜びを感じながら回廊を進んでいく。
「明日は父上の命で三銃士とともにヴァナヘイムへと出立するんだ。情勢観察もかねてな。お前は?」
部屋の前に着き、こちらを振り返ったソーがそう尋ねる。
「いつも通りだよ。午前は王への謁見に同席して、午後は新しい魔術書を手に入れたからそれを試して――」
「そうか、数日はお前に会えぬかもしれないな」
今夜、誰よりも美しかった出で立ちで寂しげに呟かれ、思わずその肩に手を載せる。
「ロキ…?」
「姉上のせいで今年の祝宴も恋人を見つけられなかったんだ。少しくらい恋人の代わりをしてくれたっていいだろう――…?」
笑いを含んだ強請る声。あくまで冗談だと思わせる必要があった。一瞬の沈黙の後、誰よりも愛しい者が大人しく自身の胸に身体を寄せる。抱きしめると肌は熱く柔らかだった。いつものように頬への口づけが与えられ、微笑む顔が私を見つめる。
「………」
また今夜も夢の中でソーは私のものになり、未知の悦びをその身に受けることになる。
あとどれだけ"姉弟"のままでいられるのか。
募る想いは境界線の影を更にぼやけさせていくようだった。