”そうです、あのつつましい女が、みずからそれと気づかないで、引き返すことを許されない道へ駆り立てられてくるのを、私は見たいのです。
 そして彼女の足と危険な傾斜が、彼女をわれにもなく前へ運びつづけ、私に従わせるようになるのを、私は見つめたいのです。”

――コデルロス・ド・ラクロ「危険な関係」




















「どういう事だ。母上はどこだ…!」
 父上がオーディンの眠りについた日の午後、母の部屋を訪れた俺を待っていたのは旧知の兵士だった。
戦争と勝利の神であるアスガルド軍の指揮官ティール、老いてなお勇猛な男は恰幅のいい身体を揺らしながら厳粛な面持ちで口を開いた。

「ソー、国王が眠りに入られた事でフリッガ様は酷く動揺されてしまってな…静養のために宮殿を離れたのだ」
「母上が父上の元を自ら離れるだと?母上は賢く気丈だ。それに誰よりも父上を案じている。そんな世迷言を俺が信じるとでも思うか?」
「王が――新しい王がそう仰られたのだ。我々は従うしかないのだよ」
「新しい王?なんの話をしている…」
「オーディン様が眠りにつかれる僅か前に私に命じられたのだ。自分に何かあればロキを王に据えよと…」
 告げられた言葉をすぐに信じることは出来なかった。第一王子としての慢心から玉座は自分に与えられるのものだ、と半ばそう信じていた。脆弱でいつも自分と父の陰にいた弟。ロキに玉座が巡ることがあっても、それは自分が王を辞した後だと思っていた。

「国王の眠りで国は混乱を帯び始めている。統治者が必要なのだ。それはお前も分かっているだろう…?玉座を巡る兄弟の醜聞などもってのほかだ。頼むからロキに従ってくれ…」
 初めて戦場に赴く前夜、戦士として父から武具を授与された自分を誇らしげな顔で眼前の男は見つめていた。戦場で敵を倒すことに惑いを抱くなと教えてくれたのも彼だった。国の行く末を憂いながらも自分を案じる男の言葉に否やを唱えられる筈もなく、力なく項垂れる。
「――せめて弟と話したい。ロキに会わせてくれ」
「すまぬがそれも無理だ」
 ティールの合図とともに数人の衛兵が彼の背後から現れる。
「お前は今、混乱状態にある。ほとぼりが冷めるまで幽閉しろとの命令だ」
「……」
 自分を慕う者たちを傷つけることが出来るのか。そうここにはいない弟に試されているようだった。俺は力なく瞼を閉じ、観念の吐息をそっと漏らした。








 王宮にある自室のように様々な調度品が飾られた独房の中で俺は来る日も来る日もロキを待ち続けた。
 ティールに命を下したのは本当に父上だったのか。幻術を得意とする弟の顔がどうしても脳裏から離れなかった。自分の焦燥や不安をロキに会うことで解消したかった。この状況下は明らかに異常だった。それでもなお元の日常に戻れる筈だと安易な確信がどこかにあった。



 そうして自身の我慢も限界に差し掛かったある日、まるで何事もなかったかのように待ち続けた相手は俺の前に現れた。




「酷いな。退屈凌ぎに奏でるかと思って贈ったリュートも水差しも硝子の杯も壊されてバラバラだ…兄上の粗暴さにはほとほと嫌気がさすね」
 独房の前で悠然と腕を組み、そう弟が言葉を漏らす。二本角が聳える黄金に輝く兜と鮮やかな深緑のマントを纏ったロキの顔は奇妙な興奮と自信に溢れ、これまで庇護してきた弟とは別の人物のようだった。

「ロキ……ッ!」
 憤りのままに間を隔てる障壁を握りしめた拳で打ち付ける。
「次は牙を剥いた獣だ。すべての物事を大槌で解決しようとするのはアンタの悪い癖だ」
「何故俺にこのような事を…!」
「武力で玉座を奪還されても困るのさ。折角父上が私に譲ってくださったのだ。私は今、国王として振る舞い、民の信頼を得ようとしている。その過程を例え兄弟といえどもアンタに邪魔されたくはないんだ」

「…本当に、…本当に父上がお前を王にするとそう命じたのか…?」
「ふふっ…兄上、アンタも言っていたじゃないか。どちらが王になるかは分からぬ、と。兄上は自分の強さを過信している。傲慢で無鉄砲で危険だ…そこが王になれなかった所以さ」
 白い手が障壁に充てられ、遮るものがないかのようにそれが壁をすり抜け、独房の中に弟が足を踏み入れる。
「だが案ずるな、我が兄よ…アンタには王の恵みを与えてやろう」
 冷やりとした手が自分の頬に添えられる。不吉な予感で怖気立つ自分の唇を濡れた何かが強引にふさいでいく。ぬるりと小さな種子のようなものを含まされ、咄嗟に狼藉を働いた弟の顔を強く殴る。何があってもただ一人の兄弟を庇護してきた。その守るべき相手が地面に倒れる姿に思わず口元を歪めてしまう。

「酷いな、兄上…初めての口づけがこんなに荒っぽいものになるとは思わなかったよ」
 弟の声が徐々に遠くなる。まるで水中から空を見上げた時のように視界が歪み、身体から力が抜けていく。
「二度目の口づけは優しいものを頼むよ。これから先、何度でも、私たちはそれをするのだから…」
 自分の大柄な体躯が油で手入れされた漆喰の床に倒れ、その衝撃で鋼の胸当てが鈍い音を立てる。歯を食いしばり、必死に立ち上がろうとする自身をあざ笑うかのようにロキの笑い声が独房に響き、混乱とともに意識が闇に閉ざされる。

 ふと自分の名を呼ぶ声が耳を掠めた気がした。それが現実なのか、幻聴なのか。悪夢の中にいる俺はそれすらも分からなかった。