「くそッ……!」
「兄上、ヴァルハラの酒樽をすべて空にするつもりか?」
角杯に数杯目のエールを注ぎ、飲み干す自分を呆れた顔で弟が見つめてくる。
「父上は愚かだ!俺は誰よりも最強だ!オーディンの息子、ソー・オーディンソンだぞ…!」
今日告げられた言葉がどうしても自分の耳から離れなかった。王宮を出るときは必ず近習の兵士をつけろ。三銃士でもいい。一人では行動するな、と。
「父上は心配なんだ」
数世紀に一度生まれてくるアスガルド人の異種。男性体でありながら子を産む者。それが自分だと知らされた時、動揺で何も考えられなくなったことを覚えている。暫くは酒色に溺れ、誰の言葉にも耳を貸さなかった。その自分に矜持を取り戻させたのは何があっても常に味方でいてくれた大切な弟――ロキだった。
「兄上はいずれ王になる。妻を娶り、子を成す事もできるだろう…それまでに何かあればどうする。皆アンタが心配なんだ」
弟のゴブレットからは温められたりんご酒の良い香りが漂っていた。養母によく似た理知を湛えた眼差し、玲瓏な美貌、上背はあるものの細い身体――何もかもが自分とは違う。だが誰よりも気の合う存在だった。
「…お前はいつも誤解しているな…お前が王になるかもしれぬし、母上も父上も、アスガルドの民も、何より俺もお前を慕い、愛している。我が友、我が弟…」
「いや、王になるのは兄上だろう。それは誰もが分かっているさ」
いつの頃からか、ロキは翳りのある表情を見せるようになった。何故苦しむのか、諦観を滲ませるのか。自分にはどうしても理解出来ないことだった。
「近習の兵士を側に置くのが嫌なら私でもいい。私が兄上を守ってみせる」
「お前が?」
思わず大声で笑ってしまう。傲慢は時に罪だ、とそう窘める強く美しい幼馴染みの言葉を思い出す。
「いいか、ロキ。お前を守るのはこの俺だ。幼い頃からずっと守ってやっただろう?これからもそうさ。お前には武芸の才もない。あるのは母上から教わった魔術だけだ。そのお前に何ができる?」
酷い言葉だ、兄上。紅い唇がぽつりと言葉を漏らす。雪のように白いロキの顔がより一層屈辱で白くなる。さすがに言葉が過ぎたことに気付き、謝ると身の内に沸いた憤りを鎮めるようにゴブレットを傾け、弟が静かに酒を飲む。
「――兄上の身に何かあれば、私は一生自分を許せない。脆弱な弟だとアンタはからかうが、兄弟を想う心は兄上と同じなんだ。頼むから父上や私の進言を受け入れてくれ…」
「ロキ…」
横木を組んだテーブルの上に置かれた細い手を自身の厚い手のひらで覆い、そっと握る。
「兄上、雪だ」
その言葉に目線を外に向けると灰色の空から小さな雪のかけらが一つ、また一つと落ちてくる。
「よし、今夜は酒場に繰り出すぞ。寒い日には美味い酒と音楽で暖まる必要がある。勿論お前も一緒だろう?」
「まったくアンタは…」
笑いながら自分を見る灰緑の瞳が穏やかに狭められる。それに笑顔を返すと角杯に新しく注がれた酒を呷る。
何も恐れるものはなかった。憂慮や不安も自分には無用のものだった。荘厳な神の国、アスガルド。その黄金の国の栄華と同じように自分の前途もまた、祝福されたものだと、そう信じていた。