友と一緒に
「ぶも!」
「ぶも?」
その日、俺は夜明けとともに狩りに出た。駿馬にまたがり、丘を越え、林を駆け抜け、そうして森の奥へ分け入った。弓矢を携え、獲物を探していると奇妙な声が傍らから聞こえてきた。
「これは一体…」
近づくとそれは後肢に傷を負った、アスガルドでは見たことのない生き物だった。ミッドガルドに存在するカンガルーによく似た外見で身の丈は俺の膝あたりまであり、毛の色は暗緑で頭の後ろ部分のみが黒かった。野犬にでも襲われたのだろう。発達した後肢の一部は肉が裂け、太い尾にまで血がじくじくと滲みだしている。よく見れば点々と血の跡が遠くまで続き、必死に逃げてきたことを窺わせるものだった。
「可哀そうに…」
馬から降り、傍らに膝をつき、まだ子供だと分かるその生き物に手を伸ばすと、警戒したのか高く鋭い鳴き声が小さな口元から漏れる。
「ははっ。大丈夫だ。俺が狩るのは鹿か猪だ。傷つけることはしない」
人語を理解するとは思えぬもののそう話しかけると、長く黒い睫毛が揺れ、大きく丸く美しい灰緑の瞳がじっとこちらを見つめてくる。そのどこか高貴さを感じる面差しに笑みを返し、眉間の短い毛をさりさりと撫でてやる。
「……」
無言のまま短く漏れた鼻息を了承の証しと受け取り、自身が纏う兎毛で裏打ちされた短外套をめくり、上衣の裾を破り、それを傷口に当て巻いていく。
「ぶもっ…」
「よし、これでいいな。水を飲むか?」
飲み水を入れた革袋から水を手のひらに垂らし、差し出すと喉が渇いていたのだろう。美味そうにごくごくと飲み干していく。寄せ餌として用意していた楢の実も長い鼻をひくつかせ、匂いを嗅いだ後、静かに瞼を伏せもそもそと食べ始める。
「さて、どうしたものか…」
周囲には勿論、こちらを伺う仲間の気配は感じられず、だがまだどこかにこの奇妙な生き物を襲った害獣が潜んでいるかもしれなかった。
胡坐をかいた上に頬杖を着き、見つめると無言の眼差しが向けられる。それがどこか縋るように感じられて、胸元の金具で留めたマントを外し、その小さな生き物をそっと包み込む。
「ふふっ。こうしてみると赤子のようだな」
「ぶもっ!」
胸元に抱え込んだ暖かな塊にそう話しかけると抗議の鳴き声がかけられる。だがじっと腕の中で暴れることなく納まり、こちらを見上げる眼差しについつい頬が緩んでしまう。
「お前が気に入るかどうかは分らぬが…仮の住処だと思えばいい」
馬に跨り、ヴァルグリンドの外門を目指し走り出す。顔にかかる風が心地いいのだろう。赤いマントでくるまれた中から伸ばされた長い鼻がひくひくと揺れ動く。抱きかかえた左手で鋭角ではない顎をさすると気持ちよさそうに瞼が閉じられる。いつの間にか自分の心は見事な雄鹿を仕留めた時よりも大きな喜びに支配されているようだった。
「ははっ。今日はお互い大変だったな…」
目の前でひくひくと鼻を動かす獣に話しかける。
王宮では予想通りちょっとした騒ぎが繰り広げられた。ファンドラルは俺が奇妙な獲物を持ち帰ったと騒ぎ、母上を含めた女達は大きな両耳をふりふりと動かす幼い生き物を気に入り、冷静沈着な父上はいつも通り、お前が決めたことならばそれでいい、と穏やかに告げるだけった。
背もたれのある長持ちの上に座し、膝に乗せた暖かな獣を撫でながらテーブルに腕を伸ばす。怪我をした後肢は到着してすぐに治癒の間で治癒の神・エイアによって手当され、いまその患部は清潔な白い布に覆われていた。
「ん?どうした?」
侍女に用意させた果物や陶製のメーザーに注いだ水を口元に運んでもぷいと顔が反らされる。青々とした白樫の葉を近づけても結果は同じで思わず首を傾げてしまう。
「森では食べていただろう?」
何があの時と違うのか。どこか責めるような視線を向けられ、がりがりと自分の髪を掻いてしまう。
「参ったな…ほら。人間の俺から見てもひどく美味そうに見えるぞ」
そういってぱくっ、と葉を口にくわえるとぶもっ!と短い鳴き声とともに凄まじい勢いでくわえた葉の反対側をくわえられる。
そのままじょりじょりっ、と葉を咀嚼され、歯で挟んだ軸もぱくりと食んだ後、むにゅっ、と鼻の下の二つの膨らみを唇に押し当てられる。
「……」
これは何なのか。口づけなのか。そもそも獣と口を重ねあうことを口づけといっていいのか。そうぐるぐると混乱した頭で考える俺に催促するようにまたぶもっ!と短い鳴き声がかけられる。細長い白樫の葉を手に取り、近づけるとまたぷいっと顔が反らされる。だが口にくわえると嬉しそうに葉を食んでくる。そうして何度餌をやったのか。膝に乗せた獣が満足する頃にはすっかり俺の口元は葉の噛み残しで汚れ、それすらもぺろぺろと舌で舐めとられてしまっていた。
「ま、まあいい。腹はこれで満足したな。さあもう夜も遅いんだ。ゆっくり休むといい」
腕に抱え、寝床として自室に置いた揺り籠の中に連れていくとじたばたと腕の中で身体が揺れ、ぴょこっ、と抜け出た小さな生き物が怪我した後肢を引きずりながら寝台へと向かっていく。
「そこがいいのか…?」
そう尋ねると短い鳴き声が上がり、木枠で出来た寝台の下で自身を待つ幼い獣を腕に抱え、ともに敷布の上に横たわる。
「あっ、こら……!」
鋭く黒い爪を持つ小さな前肢が自分の胸元をかりかりと掻き、寝衣がはだけ、ふるっ…と発達した自分の胸筋があらわになってしまう。
「ぶもっ……」
どこか満足そうに声を発した生き物が俺のむちむちと盛り上がる胸の谷間に長い鼻を押し付け、すうすうと寝息を立て始める。
「やはりまだ子供だな…」
その安らかな寝顔に思わず笑みが漏れてしまう。だが不意にまだ名をつけていなかった事を思い出し、暫し思案に暮れる。
「何がいいのか…呼びやすいものがいいな。それでいて外見と合うような…」
途端名がひらめき、眠りを妨げぬよう小さな声で眠る幼子に呼びかけてみる。
「お前の名はロキだ。良い名だろう?お前にぴったりだ…」
微笑みかけ、その額に唇を寄せると自分にも睡魔が穏やかにやってくる。
「ロキ…」
呼びかけながら瞼を閉じるとひくりと動いた耳が俺の頬をかすめ、その柔らかく羽毛のような感触に自然と笑みが零れてしまっていた。
「ソー、稽古に付き合ってくれ」
旧知の友にそう声をかけ、寝室の扉を開ける。
「……」
いつ見ても見慣れぬ光景にひくりと頬が引きつってしまう。ソーが、この世間知らずの陽気な王子が奇妙な獣を連れ帰って五年が過ぎた。その間に獣はすくすくと成長し、いまやすくすくどころではない大きさにまで育ち、ソーほどではないにしろ、成人した青年並みの体格と身の丈に育ってしまっていた。
そしてその育ちすぎた獣を兄弟のいないソーは弟のように溺愛し、この奇妙な動物もまた自身の仲間のようにソーを慕っていた。
「んっ……」
キルトの上かけがめくれ、まだ就寝中のソーの逞しい前腕があらわれ、形のいい指がごしごしと目元をこする。そのソーの大柄な身体にのしかかるようにして背後から、地球のカンガルーに良く似た外見を持つ獣が縋り付き、陽の光にきらめく王子の豊かな黄金の髪に顔をうずめ、長い鼻をひくひくと揺らしながら同じように惰眠を貪る。
「……」
なぜ一緒に寝るんだと聞いたことがあった。昔からの習慣らしく、こいつは一人寝が寂しいんだと豪快に笑いながらソーは答えた。だがどう見ても、どうじっくり見ても、どう贔屓目に見ても、そんな繊細な性根の持ち主には到底思えなかった。ロキが成長するにつれ、何故か起こしに来るとソーの寝衣がほとんどはだけてしまっている回数も多くなっていた。ロキは寝相が悪いんだ、とそうソーはにこやかに語るものの、やはりどう見てもそのような理由とは思えず、はだけられた胸元に時折のぞく赤い嚙み跡といい、もやもやとした疑問だけが雪のように降り積もっていた。
「あ、ファンドラル…来ていたのか?」
そう声を掛けながらソーが起き上がり、大きく伸びをする。同じように太い尾で調整を取りながらロキも発達した後肢を駆使して勢いよく寝台から飛び降り、不快な気持ちを現すためか、だん!と足を強く踏み鳴らす。
「……」
昔から何故かこの奇妙な獣には嫌われていた。だが今ならその理由がはっきりとわかる。独占欲だ。常にソーを構うのは自分でないとロキは気が済まないようだった。
「まったくいつもお前は朝は機嫌が悪いな…そら餌だぞ」
そう呑気にソーが声をかける。今日もいつものようにほとんど寝衣ははだけ、むちむちとした肉付きのいい身体は全裸同然に露わになってしまっていた。その姿のままそばにある飾り棚に手を伸ばし、前夜用意させた葉を口に含むとロキが近づくのをじっと待つ。
「…………」
ソーに朝会うとき、必ず動揺することその二がやってくる。まるで兄弟のように仲のいい一人と一匹が互いの口を介してもしゃもしゃと葉を食み始める。何故口から与えるのか。甘やかしすぎじゃないのか。疑問は尽きないがたとえソーが葉を口に挟んでも、ロキはそれを抜き取り食べればいいだけだった。だが何故か必ず奴はソーが口にくわえた葉を抜かずに食べきり、その上むちゅっ、と毎回自分の口元をソーの唇に押し当てる。ソー自身も慣れたものでそうされると食べ終わったのを確認し、新たに葉をくわえ始める。
ちがう、そうじゃない。
誰かこの一人と一匹にそう諭して欲しかった。茫然自失の態で見守る自分を灰緑の丸々とした瞳が不意に見返し、自分の優位性を表すかのようにふん、と長い鼻が鼻息を軽く漏らす。どう見ても好敵手扱いされているのは確実だった。そういえば地球のカンガルーの雄は発情期になると雌に寄り添い、交尾の時期を伺いながら周囲に近づく別の雄を両手を器用に繰り出して追い払うという。ソーの背後にいるロキにそんな姿を取られたことがあったような、なかったような。思い出したくはなくて記憶の片隅に閉じ込めただけでやはり確実にあったような。やっぱり自分の幼馴染はそういう対象で見られているのか。思わず気が遠くになりそうになり、酒場女たちの豊かな胸に慰めてほしくなってしまう。
「どうした?ファンドラル、顔が青ざめているぞ。具合でも悪いのか…?」
「い、いや心以外は元気だ。構わないでくれ…」
「そうか、ならいいが。ロキ、食べ終わったら俺は稽古に行くからな。母上に御本を読んでもらうんだぞ」
そう愛情とともにソーがロキに話しかけ、わしわしと頭を撫でる。国王も王妃もソー同様にこの奇妙な獣を気に入り、温かな親愛を注いでいた。言葉を話せずともロキは人語を理解するようで、数々の書物をフリッガ様が読み聞かせているようだった。
「ぶもっ」
了承するようにロキが鳴き声を上げ、すりすりと頬をソーにすりつける。
「ロキ」
太陽を彷彿とさせる陽気な笑顔がソーの顔に浮かび、ぎゅっ、と小さくも可愛くもない生き物を愛し気に抱きしめる。例えソーが獣に伴侶として想われていても彼が幸せならそれでいいのではないか。そう無理やり結論を出し、やれやれとため息をこぼしながら仲睦まじい二人をじっと眺める。うれし気にひくひくとロキの長い鼻も揺れ、バルコニーから入り込んだ艶やかな蝶がその鼻先に不意に止まるのだった。