ジョーノの視界にモノの境界線は無い。

 薄く水で輪郭を滲ませたような視界は、ぼやけて薄い膜に覆われているようだった。


 だから、夜空に懸かる月が凛と冴え渡るのも、無数に散らばる星があることも分からない。
 大空の色が青いことは分かっても、ナイル川に浮かぶ船の形は良く見えなかった。


 皿を割ってしまうのも、洗濯をすれば反対に汚してしまうのも、上手く廊下を磨けないのも、仕方が無い事だった。失敗をするたびにラーラに怒鳴られ、叩かれて、食事を抜かれる。
 奴隷のように扱われ、蔑まれる。そのたびに、蜂蜜を流し込んだような大きな瞳に涙が滲んできた。しかし、どんなにどんなに涙で瞳を洗っても、薄い膜が消えることは無い。反対に涙で滲む世界はもっと分かりにくくて、ジョーノは泣くことを止めるしかなかった。




 それともう一つ。

 視力が薄い代わりにジョーノの瞳には別のものが映っていた。

 それは人間の本質。
 他の人には綺麗に移る輪郭の代わりに、ジョーノには見えるはずのない人の心の色が見えている。

 やさしい色。
 綺麗な色。
 どす黒く、濁っている色。

 その滲んだ輪郭に被さるように、人は色々な色を纏っていた。どんなにきらびやかに着飾った綺麗な人も、ジョーノの目には醜いドレスを着た人にしか見えないこともしばしばだった。
 反対に奴隷のように使われている、召使が主人よりも高貴な色を持っていたりと、ジョーノは拙い知識の中、不思議そうに首を傾げるしかなかった。


 親しい友達もいないジョーノにとって、そんなことを話す機会も無く、それが普通の人と違うことも気がつかなかったのだ。




 シズカはやさしい色。ラーラは怖い色。



 ジョーノはそれくらいにしか気に留めていなかった。




 それが、普通でないということに、気がつくのはもう少し先のことー
















『愛しき…3』









 真昼の太陽が白く照りつける昼下がり。全てのものが白く滲んでしまうような王宮の中庭にジョーノが一人うずくまっていた。


 じりじりと焼け付くような日差しの下、ジョーノは一人草むしりをしている。


 中庭とはいえ、その広さは王宮だけに広大なものがあった。兵士の演習にも使われる庭はジョーノの手に余るほどの広さだ。
 その庭の草むしりを言いつけられたジョーノは、朝から延々と草を引き抜いていた。






「暑い…」

 眩暈がしてしまいそうな日差しにジョーノは、我慢しきれずに手を止める。
 吹き出た汗が暑さですぐに乾いてしまい、細い腕に塩の結晶となって残っていた。

「まだ、これだけかぁ」

 まだうっそうと広がっている庭の草に、ジョーノは息を吐いた。ジョーノの周りだけ草が無くなっているが、その何十倍もの面積がまだ残っている。気が遠くなるような作業にやる気なんてとうに失せていた。

 しかし、この庭を綺麗にするまで帰ってきてはいけないと、きつくラーラに言われている。とにかくやるしかジョーノの選択肢は残っていない。
 ジョーノは大きく息を吸い込んで深呼吸をすると、また作業を再開させていった。









 日差しが眩しすぎて目を顰めていると、ふいに手元が人の形に陰る。と、それに合わせて、頭上から声が降ってきた。





「こんなところで何をしているのだ?」

「ひゃぁっ?」




 誰かに声を掛けられるなんて思っていなかったジョーノが、びっくりして振り返ると、まず、大きな脚が見えた。

 次は青い、空の色よりも濃い碧い衣と、空に浮かぶ雲のように真っ白な衣。
 シミ一つ無い衣装と、黄金の飾りはその人の身分の高さを表している。そして太陽を背にして立つその人はとても長身だ。顔は良く見えないけれど、その良く通る澄んだ声色と鋭い視線に、ジョーノの身体に震えが走り抜けていく。


 王宮で働いているジョーノだが、これまでに一度もファラオや他の神官達を見たことが無い。だから、その長身の人が神官だということも、セトだということも知らなかった。


「…ぁ…の、その、え………っすみません」


 ジョーノは条件反射で謝ると、正座をして額が地面に着くくらい頭を下げた。
 ジョーノのように身分の低い下働きには、高い身分の人を見ることさえ許されていない。ラーラに身にしみるほど教えられてきた、作法を忠実に実行するしかなかった。


「何を謝る必要がある?私は何をしているのかと聞いているのだ」


 地面に額を擦りつけて震えている小さな子どもに、セトはやや呆れた様子で、膝をつく。


「こんな時間に外にいれば、倒れてしまうぞ」
「……っ!?」


 今は一日で一番暑い時間帯だ。
 大の大人でもへばってしまう暑さに、こんな小さな子どもが耐えられるはずは無い。それに、草の抜かれている量からいって、相当の長い時間ここにいるはずだ。
 細い手足に白く噴いてしまった汗の結晶に、自然に眉間に皺がよる。

「とにかく、日陰に移動しよう。何か冷たい物を用意させる」

 そう促そうとすると、何故か小さな子どもは驚いた様子で顔を上げ、逃げるように草の茂っているところまで下がると、怯えるように頭を横に振った。



「   !!!  」


 やっと顔をあげたその子供に、セトは言葉を失ってしまった。



 小さな身体には余分なものはついてなく細くて、今にも折れてしまいそうだ。着ているものは古い上に汚れて、擦り切れて、ところどころ穴が開いてしまっている。
 その下から覗く、色褪せた痣や、出来たばかりの赤い内出血の跡。もちろん、切り傷もいたることろに残っていて、この子供が日常的に暴力を受けていることを如実に語っていた。
 ガリガリの骨と皮ばかりな小さな身体を更に小さくして、何かに怯えている子供。
 その哀れな姿に、いたたまれなくなったセトが手を差し伸べる。
 しかし、




「…だめ…叱られる」
「?」


 耳を澄まさないと聞こえないくらい小さな声でそう拒絶して、ジョーノはまた草に手を伸ばした。小さなに手に新たな汚れが付いていく。

「バカ者が、本当に死んでしまうぞ」
 ジョーノの頑なな姿に不快感を隠さないセトが、ジョーノの腕を掴み作業を止めようとすると、


「イッ……たっ!!」
 突然、ジョーノが腕を押さえて悲鳴を上げた。
「どうした…っ!!」
「ィ、ぁ、…イっ、い…」
 痛みのあまりに腕を抱えたまま丸くなろうとするジョーノを、セトが強引に引き起こすと、腕が赤黒く腫れ上がっている。毒虫に刺されたようだ。
 その腫れ方から相当強い毒だと判断したセトは、すばやく衣の裾を破り、ジョーノの細い腕をきつく縛る。

「イッ…たいっ!」
「動くな」
「ひっぁっ」

 痛みに腕を引こうとするジョーノを強い口調で静止させ、セトは傷口に吸い付き毒を吸い出していく。

「やめてっ!痛いっ!!」
 傷口を抉るような痛みに、ジョーノの顔が真っ赤に歪んで、大きな蜂蜜色から透明な涙が流れ落ちていった。
「ばか者がっ、死にたくなければじっとしていろ」
「っい!!」

 暴れるジョーノをセトが一喝する。もしかしたら蠍に噛まれてるかも知れないのだ。一刻を争う自体に、セトの額に汗が滲んでいた。

「…ぅっ…」


 いつもの怒鳴られかたと全然違う、セトの気配にジョーノの身体から力が抜けていった。怒られているのに、心のどこかがほっとしてくる感じは何故なんだろう。
 刺された腕は熱くて痛いのに、傷口に触れる唇は柔らかい。
「……?」
 どうしてこの人は、こんなことをしているのだろうか?
 生まれてから一度も経験したことのない、他人からの施しに、泣くのを忘れたジョーノは大人しくセトを見つめた。




 綺麗な色してる。




 ぼんやりとしたセトを包む碧い色。
 それは透明でとても澄んでいて、空の色と同じだ。なのに強い力を秘めていて、色自体が光輝いているようだ。




 お日様みたい。



 その力強さと暖かさにジョーノは、眩しくて目を細めた。
 ジョーノの霞んだ視界と色の無い世界を丸ごと塗りつぶしていく、セトの強い命の色は空に浮かぶ太陽と同じくらい眩しくて、触れるところから暖かさが身体の中に染み込んでくるようだ。



 王様……なのかな…



 きっと王様ならこんな色をしているのかもしれないと、ジョーノはまだ見たことの無い、この国の主を目の前の人に重ねていった。









「さ、これで消毒をすれば大丈夫だろう」
 応急処置を終えたセトは血で汚れた唇を拭うと、傷口を綺麗な布で覆い、ぐしゃぐしゃの髪を整えるように、頭を撫でる。
 片手ですっぽりと掴めるくらいの小さな頭を撫でると、ジョーノは小さく微笑んだ。さっきまでの怯えた様子とは全く違う、子供らしい笑顔にセトもようやく厳しい顔を崩した。

「…ぁ、ありがとう……ございま、す」
「毒は吸い出したから大丈夫だと思うが、念のため今日は大人しくしたほうがいい。なんなら、私の部屋で休むといい。医師に消毒させよう」
「っぇぁ…その、もう、へいき…だから……いい…で…す」

 手当てしたほうの腕を大事そうに庇いながら、ジョーノはぺこりと頭を下げる。

「まだ、毒が残っているかもしれないのだ。悪いようにはしないからおいで」
「……へいき…なの…」

 セトのやさしい声色にも、ジョーノはやはり心を開くことは無い。何かに怯えるように震えている。
 その警戒心の強さとおどおどした様子に、セトの眉間に皺がよる。このままジョーノを帰したら、せっかくの手当てが無駄になってしまいそうだ。

「大丈夫だから。私から言っておこう。君の上の人は誰だ?」
「っ!!!」


 上の人。


 セトの言葉にジョーノの顔色が変わる。
 セトのなんてこと無い言葉でさえ、ジョーノにとっては恐怖の対象にすり替わってしまうのだ。
 もし、このことがラーラにばれたら、どんな折檻が待っているか分からない。

 ジョーノは中庭に鬱蒼と茂る雑草と、セトを見比べて泣き出してしまいそうになる。


「へいきです。もう、行かなきゃ…っ」

 涙を堪えて無理に笑顔を作り、ジョーノは振り返ることなく逃げるように駆け出した。

「待ちなさいっ!」

 小さい体は回廊の影にすぐに押しつぶされていき、セトの視界から簡単に消えてしまった。その身軽さはまるで野生の動物のようで、セトは唖然と立ち尽くすしかない。
 エジプトで最も洗練されているはずの場所にいた、獣のような子供。もしかしたら、獣というよりも王宮に迷い込んだ一匹の魔物と表現するのが正しいかもしれない。



 傷だらけで、汚くて、普段のセトならば嫌悪の対象になるはずの存在なのに、儚げで今にも消えてしまいそうな影に、何故かセトは気になって仕方がなかった。






 それが、ジョーノの未来を変えることになる出会いだということに、気がつくのはもっと先のことだ。

 



















******








 その夜も更けたころ……




「あっい…」




 王宮の回廊を、ふらふらと回廊を歩くジョーノの姿があった。今日はちょうど新月で昼間のような白で埋め尽くされるのとは対照的に、黒一色だ。
 一定の距離で篝火が焚かれているものの、その範囲は狭くすぐに影と光の境界線は消えうせてしまう。そんな暗闇の中、ジョーノは夢遊病者のように王宮を徘徊している。


「みず…水が飲みたい…」
 昼間のせいで身体が燃えるように熱く、喉が渇いて仕方が無い。結局夕飯も食べられなかったからお腹も空いている。
 熱でふらつく思考はもう空腹感で埋め尽くされていた。
 とにかく何か、食べたい。

 ただそれだけが頭の中をぐるぐる廻っている。もう、ジョーノは自分が何をしているのか分からなくなっていた。






「だれだっ?」

 ちょうど中庭に差し掛かったとき、前方から一人の兵士が歩いてくる。王宮内の見回りの時間なのだろう。

「動くな!」

「ィッ!」


 兵士の手元で揺れる松明と、腰の辺りからする鉄の擦れる音に、ジョーノは竦んで動けなくなってしまった。
 ジョーノが動かないことを確かめると、兵士はゆっくりと歩を進めてくる。徐々に地近づいてくる炎の揺らめき。

 ジョーノは怖くてぎゅっと目を瞑る。


「……んだ、餓鬼かよ」
 オレンジ色の範囲にジョーノが入ると、兵士はあからさまに落胆した声を出した。
「たく、驚かせやがって。とっとと自分の部屋に戻れ」
「……ご、めんなさぃ」
 しゅっと刀を鞘に納め、兵士はジョーノの頭を拳骨で小突いた。真夜中の不審者に内心、心臓が飛び出しそうなほど身構えていたのだった。たかが迷子の子供に臨戦態勢に入っていたのかと思うと情けなくなる。
 兵士は苦笑いをしつつ、ジョーノを灯りのあるところまで連れて行くことにした。これ以上宮殿内を迷子になられても困る。

「部屋の近くまで連れてってやるから」

 すると、それまで俯いていたジョーノが顔を上げ、




「でも、、あたい…」




 オレンジ色の炎が揺らめく下で、



「…おなかが…へったの」



 妖艶に微笑んだ。




「おなかがね、ぺこぺこなの」




 微笑みのまま首を傾げる。





「……っ!!」


 その子供とは思えない艶やかな仕草に一瞬で、兵士が魅入られてしまった。



 こいつ、こんなに色っぽかったっけ?



 ただの汚い餓鬼だとばかり思っていたのに、間近で見ると、小さな唇は桜色でふっくらと濡れていて、骨と皮の貧相な身体は思っていたよりも均整が取れている。
 何よりも炎を照り返して揺れている蜂蜜色の瞳は妖しく滲んでいて、兵士を真っ直ぐに見上げていた。
「……ごくっ」
 はだけた胸元から、膨らむ前の果実が覗いていて、兵士の下半身を直撃し、理性を奪っていった。



 夜中に徘徊してるほうが悪いんだぜ。


 
 兵士は食欲にも似た、強烈な性欲に、自然と湧き上がってくる生唾を飲み込んで、ジョーノの肩に手を掛ける。



「じゃ、俺が上手いもん食わせてやるぜ」
「本当?」
「ああ。俺についてきたら、腹いっぱいにしてやる」
「うれしい!ありがとう!」


 ジョーノは飛び上がらんばかりに喜んで、兵士の太い腕に抱きついた。

「こら、行き成り飛びつくな。松明が危ないだろうが」

 なんて軽口を言いつつも、腕に感じる柔らかい肉に兵士の股間が膨らんでくる。部屋に連れ込んでなどと悠長に考えていたが、理性がもう持ちそうにない。

 このまま暗がりに連れ込んでしまおう。
 どうせ誰も通るはずないさ。


 兵士はジョーノを抱き寄せて、王宮の奥へと向かって歩き出していく。





「……おいしそう」
 逞しい腕に走る血管の脈動と、確かな男の匂いにジョーノはうっとりと溶けたように頬ずりをしている。
「こらこら、もう少し我慢しろ」
 兵士はまんざらでもなさそうに、ジョーノの頭をわしゃわしゃとかき回した。
 しかし、腕をしっかりと掴むジョーノの蜂蜜色の瞳が赤く色を変えていて、桜色の唇を真っ赤に濡れた舌が舐めていることに、兵士は気付くことは無かった。


 もちろんすれ違う人もいないまま、二人は夜の闇に紛れていく。















 いただきます




















 翌日、忽然と消えた兵士にちょっとした騒ぎが起こるが、ジョーノの耳に入ることは当然あるはずも無く……











 やがて、兵士は王宮から逃げ出したのだと、人の頭から離れていった。



















 何も覚えていないジョーノは今日も延々と中庭の草をむしり続けていく……












 

 オンリーで腐的な燃えがMAXです。もう、その勢いのまま書きぬけていきたいです!!
 
 しかし、ただ今とっても長い「自分の文章嫌い」期に突入してるようで、書きたいのに中々思うように書けない日々だったりします。


 なのに、書きたい話が脳内のすし詰めってどういうこと!!

 そんなこんなで、駄目なりに頑張って書いています。

 
 変なところは多めにみてくださいませ。
 




 やっとセトが登場しましたが、古代エジプト、女の子ジョーノという捏造も甚だしい状態を受け入れてもらっているのか、ちょっと不安だったりします。

 これってやはり自家発電の域なんだろうな……はぁ…
 よかったら最後までお付き合いくださいね〜〜