男達が砂漠から忽然と消失した数時間後――







 砂漠は沈んでいく太陽が辺り一帯を赤く染める時間帯になっていた。




 今日の夕日が特別に赤いのか、砂漠全体が真っ赤な炎に焼かれているような錯覚に陥ってしまうほどの色になっている。

 そのあまりにもの赤色に
 人は美しいと言い、
 また別の人は不吉な色だと言うだろう。

 怒り狂う炎のようで、血の色ともとれる見事な赤い夕焼けが、砂漠の真ん中にある神殿を同じ色にし、一種の異様な雰囲気をかもしだしていて、そこにいる人々の深層心理から恐怖心を的確に引き上げていくようだった。



 まるで吸い寄せられるようにやって来る、『なにか』に怯えるように……











 愛しき……5









 神殿の中庭で数人の男達が手綱を手にしたまま、半ば呆然とした様子で真っ赤な空を見上げている。
 この神殿に努めている神官達だ。


 視界を遮るものの無い地平線に沈んでいく夕日は、王宮から見えるものとは別格の壮大さがあり、神の存在を感じさせられるだけの力を秘めている。
 その光り輝く荘厳な姿に、思わず手を合わせる神官もいた。

 



「これは…すごいな…」
「私も長年ここにいますが、こんなにみごとな夕焼けは初めて見ました」
 老年の真っ白な髭を蓄えた神官の一人も、見事な夕日に大きく頷いている。
「儀式に手間取ってしまったが、こんなに荘厳な太陽を見れたと思えば得したのかもしれないな」
「はい。ファラオがこの場に居られないことが残念ですね」
 音も無く地平線へ近づく太陽に目を細めつつ、手を合わせていた神官が顔を上げた。
「では、次はファラオも同行していただけるように進言してみよう」
 きっとこの国の主も喜ぶに違いないと想像しつつ、神官の一人……マハードはやさしく微笑んだ。
「恐れ入ります」
 マハードの笑みに神官の一人の頬が赤くなる。夕日に溶け込んでいるのが幸いだ。

 知性と理性に富んだ神官の中でも、マハードの容姿は群を抜いている。
 兵士と互角に渡り合える逞しい身体は褐色に日焼けしていて、真っ白な神官服が良く映えている。内面からにじみ出る知性に秀麗な美貌が相乗されて、老若男女を惹きつけて離さない。
 そして、胸に下がる黄金のリング。
 それは選ばれた者にしか所持することを許されていない特別なもので、エジプトの繁栄を脅かそうとする魔物に対抗出来る唯一の道具だ。
 王に襲い掛かってくる敵の兵士をその腕でなぎ払う強さと、魔物を封じ込める力を持つマハードは、若い神官達の憧れでもあり、目標でもあった。



「そろそろ帰るようにしよう。この時間だと馬を飛ばしても夜になってしまうからな」
「わたくしが至らないばかりに申し訳ありませんでした」
「気にすることはない。失敗は誰にでもある」
 そう、神官達は、今日の儀式に必要だった重要な呪具の一つを王宮に忘れてきてしまったのだ。そのために必要以上に時間がかかってしまっていた。

 マハードはすまなそうにしている神官の一人に、涼しげな笑みで制しながら肩をポンと叩く。
 全く嫌味の感じさせない仕草はこの青年の特徴なのだろう。

「ありがとうございます」
 さりげない気遣いに神官はもう一度頭を下げた。

 しかし、神官の言うとおり、簡単に終わると考えていた儀式は、気がつけばかなりの時間を費やしてしまっていた。赤毛の愛馬を引いたマハードは、赤く大きくなった太陽に目を細める。
「今夜は無理をせずにここで過ごしますか?」
 昼間の灼熱地獄の砂漠も怖いが、盗賊が闊歩する夜の砂漠も恐ろしい世界だ。神官の一人は明け方早くに出発すればどうかと提案してみる。
「いや、王も我々の帰りを待っているだろう。それに明日は明日で別の祭事が待っているからのんびりとする訳にはいかない」
「わかりまし……っっ!?」






 神官は誠実に頷こうとして、ふと神殿を包んでいる空気が変わったことに気がついた。



 砂漠の真ん中にいるはずなのに、冷めさと湿気を含んだ風がどこからとも流れてきて、全身に鳥肌が立っていく感覚。

 
 神官であるならば何度も経験したことのあるその空気は、魔物が現れたときに良く似ていて、背筋に冷汗が流れていった。



「……っ…マハードさま…?」
 マハードに視線を移すと、やはり厳しい表情のマハードがいた。
「ああ。大丈夫。わかっている」
 今までの優しげな面差しが一変し、厳しいものに変わっている。
 口調はあくまでも冷静だが、その視線は怪しげな気配の元にある夕陽に彩られる砂漠の一点を見据え、ただ事でないことを示していた。



 こんな砂漠の真ん中で魔物と遭遇してしまうのか……


 確かに魔物は時と場所を選ばないものだと理解していたつもりだ。神官として、いつどんな時でも身を投げ出す覚悟は出来ていた。しかし、現実としてこの状況に立たされると、己の不運を呪ってしまいたくなる。


 神殿を丸ごと飲み込んでしまいそうな気配が、刻一刻と濃度を増していて、その密度と質にそこにいる全員が魔物の存在を認識させられていく。


 絶対的な信頼を置くマハードが居るとわかっていても、異質なモノへの恐怖が先に立ってしまう。もしかしたら、マハードでさえ太刀打ち出来ないのかもしれないと、最悪の結末が頭の中を過ぎっていく。
 一介の兵士や神官では魔物と互角に戦える術は持っていないのだ。それでも、他の神官や兵士はなけなしの勇気を振り絞って、それぞれの武器に手を掛けていった。



 ぴいんと張り詰めた空気と、神殿を覆いつくさんばかりの魔物の存在。
 気を抜けば、自分自身さえ黒く塗りつぶされてしまうと、そこにいる誰もが思った。





 そんな絶望的な沈黙の中、マハードが先に動く。





「そこか」


 闇色の気配の最も強いところを探っていた視界の隅っこで、小さな影が一瞬見えたからだ。そのあまりにもの小ささにマハードは違和感を覚えながらも、胸に下がる黄金のリングを握り、臨戦態勢に入っていく。


 そして、マハードに少し遅れて兵士達も各々の武器を握る手に力を込めていった。


 とうとう現れたであろう魔物の存在に、一気に緊張感が高まり全員の視線が影の消えた石壁に集中する。ああ、きっとあの石壁の向こうでは魔物が牙を剥いているに違いない。脚が震える自分を叱咤し、戦う覚悟を決めた時……






「!!!!!!!」






 石壁から小さな影がひょっこりと顔を出した。






「っ!!!」







 音も無く現れた魔物は真っ赤な夕日を背に、長い影をこちらへと伸ばしてくる。それはまるで地を這う蛇のようで兵士達の恐怖を煽るには十分すぎるほどの役目を遂げていた。


 つつっ。と冷たい汗が流れ落ちていく。
 極限の緊張の中、魔物と対峙する数秒が果てしなく長く感じられ、夕日に身体を焼かれじりじりと焦げ付いてくるような錯覚に囚われてしまいそうだ。


 どれくらいそうしていただろうか。


「……?」



 小さな影は兵士達の意向に反して、そこに佇んだまま一向に動こうとしないのだ。


「……?」


 今だ神殿を圧し包む圧倒的な魔物の気配はそのままなのに、どうしてか小さな影からは魔物の匂いが一切しない。それに魔物とするにはその影はあまりにも小さすぎる。


 とうてい魔物とは思えない不釣合いな小さな影の違和感を、そこにいた人間の誰もが感じ、改めてその影を凝視すると、

「……こ…ども…?」

 魔物だと思っていた小さな影は、ただのやせっぽっちの小さな子供だった。

「…っ!?」

 ぼろ雑巾のような粗末な服と身体は埃に塗れていて、ガタガタと震えている。その姿はまるで怯える小動物のようだ。


「…はぁ?」
「なんで、こんなところに子供がいるんだ!?」
 極度の緊張が解れた兵士達は小さな影のギャップに、思わず武器を取り落としてしまいそうになってしまった。

 安堵感にざわつく神官達のなか、一人、マハードだけは臨戦態勢を崩さない。
 予想外の魔物の形に一瞬気が削がれてしまいそうになったが、自分の甘い考えに自嘲気味に口元を歪めている。

 魔物とはそういうものなのだ。

 人間の弱みに付け込んで、一瞬の隙にこちら側を喰おうとしてくる。あまりにも弱弱しい姿に惑わされそうになったが、これも魔物の常套手段の一つに過ぎないのだ。マハードは人間弱みに付け込んでくる浅ましい魔物をぎりりと睨みつけ、

「子供に化けても無駄なこと。さあ、真実の姿を見せろ」

 悠然と黄金のリングを掲げた。


「!!!!!!!!!」
「マハードさまっ!!」
「やはり、魔物かっ!!!」

 兵士達の表情が一気に強張り、下ろしていた剣を再び構えた。魔物ならば子供の姿をしているとしても、迷うことなく斬れる訓練はされている。

 赤く光る切先が子供にまっすぐに向けられて、兵士達の焼け付くような殺気に神殿から音が消えていく。


「そのような小ざかしい姿で、われわれを欺けると思うな」
 マハードの凛とした声が神殿に響き渡る。
 魔物とていつまでも無防備な姿のままでいれるはずが無い。いつでも応戦出来る態勢のまま徐々に距離を詰めていく。

 しかし、そんなマハード達の緊迫した状況の中、小さな子供は変わらずそこに立ちすくんだまま動こうとしなかった。
 一向に攻撃を仕掛けてくる素振りもない。それどころか、大きな瞳に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうにしている様子は明らかに怯えているようで、
「………?」
 これも魔物の戯れなのだろうか?子供の姿に化けたまま人間の恐慌に戸惑う様子をあざ笑っているのだろうか?そんな異種の存在への憎憎しい思いが渦巻く中、マハードはふとした違和感に気がついた。


 不自然なことに怯えている子供からは魔物の気配が一切感じ取れないのだ。


 神殿に立ち込める魔物の気配は刻々と濃さを増しているのに、小さな子供は何事もないようにそこにいる。


「…っ?」
 夕陽に溶けてしまいそうな儚げな影は、まるで、ずっとそこにいたようでいて、闇から産み落とされたようにヒトとしての実態がまるで感じ取れなかった。




 ヒトか魔物か……?



 何百という魔物との戦いを制してきたマハードですら、目の前の子供が見極められずにいた。 魔物のようでヒトのような。
 魔物がヒトの姿をしているのか。それともヒトに魔物が憑いているのか。ただのヒトなのか。
 いくつも浮かぶ仮定がまるで謎かけのようで、頭が混乱して、結論が出せない。


 空気さえも赤く色を変えている夕陽に、突然現れた小さな子供。沈む太陽に合わせて姿を現すのは魔物か盗賊と相場は決まっていて、こんな砂漠の真ん中に子供がいるはずもないのだ。
 知識がこの子供は魔物だと言っている。しかし、人間としての直感が子供はただのヒトだと訴えていた。


 思考の堂々巡りをしている間にも刻々と時間だけは過ぎていき、兵士達の集中も限界に達しようとしたころ、
「ここは神聖ところだ。お前のようなものが来るべきところではない。囚われたくなければここから立ち去りなさい」
 長い沈黙を破るようにマハードがようやく口を開いた。
「…ぇ、…ぁ…ぁご、め…んなさ…ぃ」
 燃える様な夕陽を背に、小さな身体がここからでも見て取れるくらいビクリと跳ねあがり、そのまま砂の上にひれ伏した。


「!!!!!」



 地面に額を擦りつけ縮こまる姿はまさしく人間そのもので、兵士達の間にどよめきが走る。




 この子供はヒトなのだろうか?



 マハードの秀麗な眉間に皺がより、額から冷たい汗が一筋流れ落ちた。



 
「…ぁ、っ……」
 兵士たちがざわつくなか、子供はおぼつかない手つきで麻袋から小さな呪具を取り出すと、それを差し出して、聞き取れないくらい小さな声を搾り出す。
「…こっ、これを、マハード様に、わた……すように…」
「私に?」
 何故名前を知っている?
 砂粒のような小さな声に名前を呼ばれ、マハードは思わず目を見開いて、神官たちと顔を見合わせた。
「は…ぃ。そう、言われました」
 子供は俯いたまま何度も頷くと、呪具がよく見えるように小さな手を上げていく。
「本当なのか…?」
 にわかには信じがたい事にさすがのマハードも、思わず声が裏返ってしまった。
「王宮から本当に一人で砂漠を越えてきたのか?」
「…は、ぃ」
「まさか…」
 

 仮にジョーノが本当に王宮からの使いだとしても、こんな小さな子供が砂漠を越えてくるなんてとうてい不可能な話なのだ。
 どう見てもジョーノの姿は、砂漠を越えてきたにしては、おかしい所だらけだ。


 着ているのは粗末な服のみの裸足で、日よけも飲み水も持っていない。砂漠になれたマハード達さえ、緊急事態に備えある程度の荷物は準備しているのだ。
 まるで近所へお使いをする以下の装備の上、王宮から歩いて来たはずのジョーノからは、疲労感の何ひとつも感じ取れない。
 ただ、ぼろぼろの服だけが、辛うじて強行軍の名残を残していて、風に裾を揺らしている。



「信じてはなりません。これは魔物に違いないです」
「砂漠を子供が一人越えてくるなんて、あり得ない」
 側にいる神官達が口々に言い、兵士は無言で頷いた。


 魔物は、か弱いものに上手く化けて人を襲うのだと、子供の頃から教えは骨の髄まで浸み込んでいる。
 突然現れたジョーノを魔物だと言うのは当然のこと。そして誰よりもマハードは魔物の恐ろしさは熟知していた。


 ああ、でも、この子は本当に人間の子供なのかもしれない。


 マハードはジョーノに切りかかろうとしている兵士を片手で制すると、
「ここは私が行こう。私が一番の適任者のようだ」
 胸に下がる黄金をさらりと指で示し微笑んだ。
「ですが、もしものことがあったときには…」
「気にするな。仮に魔物だとしてもたいした力は持っていないだろう」

 その根拠に、胸に下がるリングは冷たく光っているだけで、何の反応も示していない。もし、本当に魔物が子供に化けているならば、その魔力にリングが激しく反応するはずなのだ。


 マハードは大きく息を吐いて気持ちを整えると、ゆったりとした歩調でジョーノに近づいていく。
 表情はいつもと変わらない涼しげなものだが全神経を、ジョーノと、胸のリングに集中させている。しかし、どんなに近づいてもリングは微動だにせず、ほんの数メートルの距離はすぐに無くなってしまった。



「……」




 改めて側まで来ると、ジョーノは本当に小さな「人間」の子供だった。目で見て分かるくらい震えて怯えている。
 余りにもの怯えように、刀を抜いてしまったことが馬鹿馬鹿しくなってしまい、思わず口元が緩んでしまう。
「これを…か」
「はい」
 小さな掌に乗せられている見慣れた呪具に、マハードは驚きを隠せない。それはじっくりと見る必要も無いくらいに、紛れもない本物だったのだ。

「一人でここまで歩いて来たのか?」
「……はい」
「本当に?」
「…………はぃ」


 軽く眩暈がする。


 本物の呪具に人間の子供。

 砂漠の真ん中で、二つの真実が成り立つことなんて常識ではありえない。
 ジョーノが魔物ならば、明らかな悪意をもってマハードの元に現れただろうし、呪具が偽者ならば、砂漠の民のいたずらだと片付けることができる。

 皮肉なことに両方が真実で、両方が本物だからこそ起こる矛盾に、掌の中の呪具とジョーノを交互に見比べながら、マハードは深く思案を重ねていった。


 この国を守る神官としてならば、この子供を切り捨ててしまえばいい。仮に人間の子供だとしても、誰もマハードを咎めるものはいないはずだ。
 このままこの子供を放置すれば、王宮に災厄を招いてしまうだろう。不吉な芽は早いうちに摘み取ってしまわなければならない。


 それが、マハードの役目でもあるのだから。


 しかし、何故かこの時、マハードは子供を斬ることが出来なかった。どうしてかなんて理由は無いけれど、砂漠の闇に葬ることが出来なかったのだ。


 遥か彼方から見えない何かが、マハードの思考を奪っていく。
 地べたで小さくなっている子供を見下ろしていることしか出来ず、言いようのない感覚を振り切るように目を瞑る。

 そしてジョーノを排除するのではなく、しばらく傍観することに決めた。

 


「ありがとう。砂漠を越えてくるのは大変だっただろう?」

「マハードさまっ!」
「ええっ!?」
 

 背後で神官と兵士が息を呑むのが分かる。
 マハードは呆然としている神官達に軽く頷いて、心配のないことを無言で伝えた。
 神官たちが心配するように、100%安全の保証は無い。しかし、それと同じでジョーノの嘘を証明するものもない。

 胸に下がる黄金のリングが何の反応も示さないとなれば、ジョーノの話を信用するしかない。少なくとも黄金の呪具は本物なのだから。


「名前は何というのだ」
「……ジョ……ノ」


 地面から聞こえてくる消え入りそうな小さな声に、マハードは苦笑しながらジョーノを立たせ服に付いた砂埃を払い落としてやる。
「砂漠の強行軍は疲れただろう」
 小さな体からは数回、叩いただけで砂が落ちてしまった。
「……ぃぇ」
 マハードの大きな手に、身を硬く強張らせつつ、ジョーノは小さく首を振る。

 ジョーノにとってマハードの不審よりも、ラーラの言いつけを守れたことの安堵感のほうが大きいのだ。だから、こうしている今も、マハードの探るような視線に気が付くはずもなく、目をぎゅっと閉じて成すがままになっていた。

「喉は渇いていないかい?水を用意させよう」
 見たところ水筒は持っていないようだし。と、言う言葉は隠しておく。
「ぁ、いえ、ぃ、ら…、なぃ、です」
「遠慮しなくてもいいんだよ」
首を横に振るジョーノは本当に喉が渇いていないようで、マハードの眉が少し寄る。しかし、不思議なことにジョーノは喉の乾きは無かったのだ。

 灼熱の砂漠を水分補給も、食事さえないまま越えてきたのにも関らず、飢餓感は一切なかった。それどころか反対に、腹は満腹に近いほど満たされている。こんなに満腹感があるのは久しぶりのことだ。
 その上、疲労感も無い。ほぼ一日を歩き詰めだったはずなのに、身体が軽いのだ。




 たしか、途中までは疲れていたような気がするけれど……?


 ジョーノはどこからかごっそりと抜け落ちている記憶に不安を覚えつつも、マハードが何か言うのをじっと待っていた。

 王宮の最下層で働くジョーノにとって、命令されることは当たり前のことなのだ。




「では、王宮に帰るとしよう」
「ぇっ…、も、ぅ?」


 やっと着いたと一息つく間も無いまま、帰らなければならないことに、ジョーノははっと顔を上げる。
「も、帰る…?」
 これから儀式があるとばかり思っていたのに。
 これでは砂漠を越えてきた意味がまるで無いではないか。


 気落ちするのを隠せず尋ねると、マハードがやさしく微笑んだ。

「もう今回の儀式は終わってしまったのだ」
「そ…ん、な…」
「なに、ジョーノが気にすることではない。君の役目は十分に果たしたのだよ」
「ほん、とう…、…に?」
「ああ。この砂漠を一人で越えてきたんだ。それだけで十分価値はある」
「、お、こられ……、ない?」
 おどおどとした瞳が長い前髪の下で歪んでいる。ジョーノは一体何に怯えているのだろうか?
「もちろん。怒られるはずないだろう?反対にご褒美がもらえるだろうな」
「ぇ?」
 ジョーノがハッとするように顔を上げた。
「ご…ほう、びが…?」

 ラーラに怒られることが日常のジョーノにとって、誰かから褒めてもらえるなんて無かった。もしかしたら、ラーラからも褒められるのかと、強張っていた表情が明るくなる。

「私からもファラオに進言しておこう。王宮に一人で砂漠をこえた勇敢な少女がいたとね」

 青ざめていた顔に赤みが差し、はにかんだように笑うジョーノを抱き上げる。
「っ!!ぇっ!」
 急に視界が高くなり、びっくりしたジョーノがマハードにしがみ付いた。

「マハードさま!」

 もちろん驚いたのは、神官たちと兵士も同じでぽかんと口が開いている。

「はははは………気にするな」
 ジョーノの頭を撫でながら、マハードは心配いらないと神官たちに目配せをする。ジョーノの様子からとりあえずの危険はないだろうと判断をしたのだ。
 そんなマハードに神官たちもとりあえず納得し、それぞれの武器を納めていく。


 第一、あの圧迫感のあった魔物の気配は霧散していて、神殿は正常な空気にもどっているのだから。
 不可解ながらも危機を脱し、ようやく息を吐く神官と兵士。
 こうしていると、先ほどまでのことが幻のような気がしてくる。


 いや、もともと魔物などいなかったのかもしれない。ただ、赤い夕日と砂漠の中にいた心細さがありもしない魔物を勝手に作り出してしまったのだ。





 そこにいた誰もが思い、納得していく。













 それが、ヒトとしての力量を遥かに超えた恐怖に対する、ヒトとしての防衛本能なのだと、誰も気が付くことは無いけれど。










 マハードでさえ、その本能に抗えるはずもなく、


 
「怖がらなくていいぞ。間違っても落すことはないからな」
「……マハー…ド、さま」
 首に回る細い腕に目を細め、マハードは微笑んだ。頼りなげなジョーノに、庇護欲が沸きあがってきて。


 魔物への警戒心もが、見えない何かに消し去られてしまっていた。


 当初の疑念も、ジョーノに対する疑問も全てを消去されてしまったマハードは、ジョーノを腕に優しく抱き上げながら、軽々と愛馬に跨った。
「ぅぁ…!」
 ジョーノは生まれて初めて乗る馬に思わず声を上げる。いつも遠くでしか見たことのない馬は、想像以上に大きく力強い存在で。
「すご、ぃ!」
 蜂蜜色の瞳をきらきらと輝かせ、それこそもみじのように小さな掌で馬の鬣にそっと触ってみる。
 
 それは正真正銘の人間の子供で、その仕草が昔のファラオに重なり涼しげに目を細めた。

「馬は初めてかい?ひとっ走りすればすぐに王宮に着いてしまうよ」
「す……ぐ?」
「一日掛けて歩いてきたのが嘘みたいに感じるだろうな」
 
 あの長い道のりがどうすれば『すぐ』に変わるのだろう。ジョーノは不思議に感じつつ、頷いた。

「さあ、急ぎ王宮に戻るとしよう」
 兵士や神官も同じように出発の準備が整ったことを確認し、マハードは軽く手綱を引く。
「きゃ…!」
「大丈夫怖くないから。それにすぐに馴れる」
 バランスの取れないジョーノを片手で支え、器用に馬を操つるマハードは、小さな頭が縦に振られるのを待った。
「……は、ぃ」
 ぎゅうっと鞍を握り締めジョーノが小さく頷くと、
「いい子だ。しっかり掴まっているのだよ」
 マハードはジョーノの身体を抱き寄せた。
「……はい」
 他人と密着するのも、労わられるのも初めての体験にジョーノの顔は真っ赤に染まっている。


 そんなジョーノの反応を知ってか知らずか、マハードは耳元で囁いた。
「ちゃんと前を見ていなさい。疲れてしまうから」
「……はい」



 馬の嘶きと共に、砂が舞い上がりジョーノを乗せた馬が神殿の門をくぐる。ジョーノを追うように神官たちが後に続き、神殿は元の静けさを取り戻していった。

















******












 砂漠を駆けるマハード達。
 神殿を出てから既に半時ほどが過ぎていて、空には満点の星が輝く時間になっていた。

 ジョーノが教えられた道順とは違い、比較的安全なナイル川沿いを進むルートを取ったマハード一行は、何事も無く王宮へと向かっている。もう少し駆ければ王宮が見えてくるだろう。


 順調に馬を走らせているなか、マハードは不意に傾いだジョーノの身体に、慌てて馬を止めた。
「ジョーノ?」
 返事も無く、くたりとしたジョーノにマハードがくすりと笑う。

「マハードさま。どうかされましたか?」

 急に止まったマハードに神官も引き返してくる。

「すまない。ジョーノが眠ってしまったようだ」
 腕の中にある高くなった体温と深い呼吸に、ジョーノが寝たことを察すると、マハードはフードでジョーノの身体を包み込んだ。
 疲れていたのだろう、深く眠り込んでいる様子が微笑ましい。
「さすがに夜は冷えてきますから。とくにナイルを渡ってくる風は一段と冷たいですからね」
 フードの隙間から覗く金色の髪に目をやりつつ、神官はポツリと呟いた。
「しかし、今でも信じられません。こんな小さな子がよく一人で砂漠を越えて来たなんて。運が良いだけではすまされません」
「そう……だな。反論はしない」
 神官の言うことに頷き、マハードはナイル川を挟むように広がる砂漠を眺めると、ため息とも取れるような、息を吐き出す。
「まったく、幸運な子だ」

 月明かりを受けて、輝いている寝顔に思わず手が伸びていく。


 ふっくらとした頬は柔らかで、白い。しっとりと濡れているように見える唇も紅を入れたような色で、改めて間近で見ると普段は隠されている愛らしさが垣間見えて、正直もったいないと思ってしまった。

 ちゃんと普通の服を着て、綺麗にしていれば可愛いのに。

 少女趣味は無いと断言出来るマハードだが、ジョーノを前にしてそれも崩れてしまいそうだ。不謹慎にもイケナイことを妄想しそうになってしまう。
 今はまだ幼さに誰も振り向かないが、数年後のジョーノはきっと王宮でも1、2位を争う美人になるだろうと頬が緩んでくる。


 そんな他愛も無いことを考えていると、神官の一人が何かを思い出したように、辺りを見渡した。





「そういえば、神隠しの村はこの辺ではないですか?」









 ―― 神隠しの村 

 ある日突然、村人が消えてしまった村のことだ。
 
 作りかけの食事も、漁に使う網も、玩具も、タバコも、食料さえ残したまま、消えてしまった村人達。

 かまどからは湯気が立ち昇り、テーブルには飲みかけの水があり、猟師が手入れしていた網は湿ったまま残されていた。
 その側にはタバコには火が付いたまま煙を立ち昇らせていて。



 ただ、人間だけが消えてしまった。




 盗賊に襲われたと推測するには、争った形跡も無く、村を放棄するにしては生活がそのままに残されすぎていた。

 大人から子供まで、老人も赤ん坊でさえ誰一人として残ることなく消えてしまった村人。

 神官も、兵士も出来る限りの捜査と調査をしたが、原因どころか手がかり一つ掴めず、お手上げ状態だったのだ。



 名高い神官ですら判らない村人の消失に、人々はこの村のことを『神隠しの村』と呼ぶようになった。
 きっと村人は神の逆鱗に触れることをしたに違いないと、人々は口々に噂した。


 そして、不可解な失踪劇から数年。


 かつてそこにあった小さな漁村は、人々からも忘れ去られ朽ち果てていった。
 神への畏怖と神隠しにあってしまうかもしれない未知へのことへの恐怖に、誰一人として足を踏み入ようとしなかった。

 盗賊でさえ入ることを躊躇する村は、通常ではあり得ない速さで風化していき、今では僅かな土くれが残るだけになっていた。







「確かに、この辺りだな」

 神官のつぶやきに、マハードも浩々と流れるナイル川を見つめ、目を閉じた。今でもあの時の異様な光景は忘れられない。

 今でも時々夢に見ることがある。

 村人の息吹を残したまま、村人だけが消え、手がかり一つ見つけられなかった村。

 その異様な光景は『神隠し』というよりも、『魔物に喰われた』というほうがしっくりとくる。しかし、その魔物の痕跡すらたどることは出来なかった。


 魔物に対抗できる力を持っているのだと自負していたのに、そんな力など未知のモノに対して、全くの無力だと思い知らされたあの時。


『神隠し』にあったと結論付けるしかなかったのだった。







 否。








 神隠しと言わなければ、その得体の知れない恐怖から逃れられなかった。
 そう信じ身近にあるかもしれない闇から目を反らしたのだ。





 それが、後々の過ちの始まりだと認識していても。





 マハードは胸の奥に墨のように広がる闇を祓うように頭を振った。
「もう過ぎてしまったことだ」
 このナイルは全てを見ていたのかもしれない。村人がどうやって消えてしまったのか。あの日この村で何があったのかを知っているはずなのだ。しかし、ナイルは答えてはくれず、こうしてあの日と同様に静かに流れているだけだった。
 マハードはきらきらと月明かりを反射する水面を追いつつ、大きく息を吐き出した。

「そう…ですね。でも風の噂では、子供が一人生き残ったと聞いたことがあります」

 出どころは不明だが、あの村にはたった一人の生き残りがいる。との噂がいつの間にかエジプト全土に広がっていたのだ。
 性別は男だったり、女だったり。年恰好もまちまちだが共通しているのは、たった一人、あの村で泣きながら彷徨っていたということだ。
 今も、その子供が夜な夜な泣きながら、村を探して徘徊しているらしい。

 もし、それが真実ならばあの村の最期を知る子供が一人いるということになる。


「…くだらない噂だ。私が行ったときにはそのような子供はいなかった。それにもしも、仮に子供がいたとして、もうその子もこの世にはいないだろう。こんな荒れた土地で一人だけで生きていけるはずもない。良くて盗賊の一員になっていて、悪ければ奴隷にされている。もっと悪ければ死んでしまっている」

 マハードはくだらない噂を一蹴しながらも、どこかで引っかかるものを感じていた。



 もし、その噂が本当ならば、そこ子供は今頃どこにいるのだろうか。




 そんな素朴な疑問が脳裏に浮かび、ふと深く眠っているジョーノを見つめる。




 ジョーノくらいに成長をしているのだろうか?



「まさか…な」

 不意にそんなことを考えてみるが、あり得ないことに、首を振る。



「どうかしましたか?」
 マハードの聞き取れない呟きに、神官の一人が怪訝そうに首を傾げた。
「あ、いや、なんでもない。独り言だ……そろそろ出発するか」

 負に落ちそうな気を無理やり押し込んで、神官を促すマハード。

 あとひとっ走りすれば目指す王宮はすぐそこだ。



「はい」




 再び神官達は馬を走らせた。











 眠ったジョーノを乗せて。






 何も語らないナイルが浩々と流れ続けていく……


















 つづく……




******











 

 久々の更新です。
 気が付けば2ヶ月以上空いてました…本当に申し訳ない。
 
 
 後ほど近況を書こう。