『愛しき……6』








 ジョーノが砂漠を旅したその夜………



 

 眠ったままのジョーノは王宮の地下へと連れてこられていた。


 地下の狭い部屋にはもちろん窓など無く、一日中日の差さない空気は湿っていてかび臭い。
 埃と塵で汚れた床のあちこちに茶色く変色した、人間の血がこびり付いている。それもそのはずでこの部屋は以前、捕虜や罪人を入れておくために使われていたのだ。



 そんな寒気がする部屋で待っていたのは、正しく拷問といっていいラーラからの暴力だった。
 この部屋でかつて行われた罪人への拷問そのものの激しい暴力。それは小さなジョーノが受けるにはあまりにも過酷なもので、



「ィヤッッッ、ご…め……ィッ、な…ァさっぃっ…っ」

「このバカがっ!なんでお前なんかみたいなのが、神官さまと帰ってくるんだいっ。しかも、馬に乗って寝こけてくるなんて、前代未聞だよっ!」

「ぁ、あ、ぁ、ぁ…も、ぅ、しませんから……ゆるしっ、ぃっ…たっ…てく、だ…さ、ぃ」


 悲鳴にもならない小さな声が、汚い日干しレンガに浸み込んで消えていった。


 深い眠りを床に叩き付けられた衝撃で目を覚ます前に、次はもう何か硬いものが背中を打つ。

 何も分からないまま始まった、いつもの暴力の嵐にジョーノは逃れる術を何一つ持っていなかった。

 ちゃんと言いつけは守ったのに、どうして怒られるのか。やさしい神官は褒めて貰えると言っていたのに、どうしてまた殴られるのか。全身を貫く激しい痛みに耐えながらジョーノの大きな瞳から涙が溢れ出して止まらない。

 ただ、ただ、いつものように汚い床にうずくまり、何度も何度もラーラに許しを請うた。


「っ!!!がっぁ、っヤッ、ィっ、ぁ」

 その硬い棒とこぶしが振り下ろされるごとに、ジョーノの小さな身体に傷が増えていき、肌は裂け、血が流れ、体中が腫れ上がる。
 もう……傷の無いところなんてどこにも無い。

 小さな体を更に小さく丸めて少しでも身を守ろうとするけれど、ところどころ悲鳴を上げるように軋む音が体の中から聞こえてきて、たぶん骨も折れているのだろう。

 辛うじて原型を留めていた服も、今はボロ布と成り果てて手足に絡み付いているだけだ。それすら、埃と流れた血に汚れてしまっていた。


 いつも以上の虐待にジョーノの意識が朦朧としてくる。しかし、ラーラの怒りは納まらなる気配など見せず、ジョーノが謝るだびに殴り蹴り上げ、そして拷問用の棒を振り下ろすことをやめようとはしない。



「お前は自分の立場が分かっているのかいっ!お前のせいでとんだ恥をかかされたんだっ!!」

 怒り狂っているラーラに容赦は無い。それどころか、ジョーノを殴っている今も、ついさっきのマハードとのやり取りを思い出して、更に怒りがこみ上げてくるのだった。




****




『こんな小さな子供を砂漠に出すなんて、正気の沙汰じゃない。幸運にも今回は無事だったが、次は無いと思いなさい』

 マハードの口調が柔らかだが、その中には明かな叱咤が込められていて、ラーラのプライドを痛く傷つけていく。
 この原因を作ったジョーノを殴りつけたい衝動に激しく駆られながらも、ラーラは擦れる声を抑えて謝罪した。


 ラーラもまた神官には逆らえないのだ。


 マハードの腕の中で、何も知らずに眠っているジョーノに、ラーラは唇を強く噛み締めていた。






****









「―――ッィ!!!!!」



 ばき。



 背中に激痛が走ったと同時に骨が折れる鈍い音がして、ジョーノはぐったりと床に沈みこんだ。涙は既に枯れ果てていて、もう、声を上げることすら出来ない。




「……フン」
 糸の切れた人形のように床にうずくまるジョーノに、ようやくラーラの溜飲が下がったのか、腕を止めた。
「これで、馬鹿なお前でも分かっただろう。お前のような汚い奴は神官様に近づいてはいけないのさ。もし、今度同じことをしたら、コレぐらいじゃすまないからな」
 軽く乱れた呼吸を整えながらラーラはジョーノを見下ろすと、これが最後だと渾身の力で腹を蹴り上げる。
「ふっ―、ぐぁっ、」
 受身を取ることもなく、腹に突き刺さる爪先にジョーノの肺から空気が押し出されて、胃液が逆流してきた。
「わかったか?」
 床に散らばる太陽と同じ色の髪をむんずと鷲掴みにすると、ジョーノの顔を無理やり上に向かせた。
「…ゼイ…ゼイ」
 呼吸をするのもやっとのジョーノの意識は殆ど残っていない。その証拠に焦点の合わない瞳には何も映っていなかった。
「ほらちゃんと返事しな」
 グラグラと揺すられる腫れ上がった顔は、涙と汗とよだれと血液でドロドロに汚れていて原型を留めていない。

 すっかり弱ってしまったジョーノにラーラの片頬が醜く釣り上がる。このままジョーノの鼓動が止まったとしても、この女は笑みを崩さないだろう。

「返事は?」

「…………ぃ」

 しかし、この極限の状況でジョーノはラーラの問いに微かに頷いたのだ。もちろんラーラの言っていることはジョーノには理解できていない。ただ、長い年月を掛けて繰り返されてきたことに身体が反射的に動いているだけだが、


「そうだ、それでいいのさ」

 満足の行くジョーノの様子にラーラは腹の肉を揺らして笑い、ジョーノを床に投げ落とし、手を数回はたいた。



 汚れた手の埃を落すために……



 床に転がったまま身動き一つしないジョーノに、イライラが解消されていくのだが、数瞬の後には、そんなジョーノに別のイライラ感が湧き上がってくる。
「…たく、愚図な子だよ。いつまで寝てるんだ。罰として今夜はココで過ごしな」
 ジョーノの嫌いなこと、苦手なものを熟知しているラーラは、ジョーノに最もダメージを与えることのできる罰を実行する。
「一人でしっかり考えておきな。お前の立場ってやつをね」
 ラーラは吐き捨てるように言うと、踵を返し扉の方へと歩き出した。 






「ん?」


 その太い足に細い腕が絡みつく。



「イっ…ァっ、ゃだ…っ!ォイテぃかないでっ!」

 意識を失ってしまったとばかり思っていたジョーノが、震える両腕の力を振り絞ってラーラにすがり付いていた。

「ご、めんなさいっ!もう、しな、いから、こ、こは…ッ、いたく、ない、」

 必死にジョーノは謝った。反射ではなく今度はしっかりとした意思を持って。ただ、ただ、この暗闇の中に一人残されたくない一心で、ジョーノは謝罪の言葉を繰り返していく。


「おね、が…い、します」


 ラーラの足にしがみ付くこと自体が、次の暴力に繋がることは十分に分かっている。それでも、ジョーノはラーラから離れることが出来ない。

 もし、この腕が離れてしまったら、この部屋に一人残されることが火を見るよりも明らかなのだから。


「もぅ。しない、っからっ…っ、」


 枯れたはずの涙が顔を濡らしてる。
 それほど、ココが嫌だった。いや、正確には光の無い暗闇が怖いのだ。



 殴られる痛みなんかより、暗闇が怖い。




 どうして嫌いなのかと聞かれれば、答えられないのだけどとにかくジョーノは闇が怖い。


 闇の中に何かが蠢いていそうで、光を持たない闇と自分自身との境界線が無くなっていくような感覚。

 闇に喰われてしまう。

 ジョーノの本能が闇を拒絶していた。


 だから、必死に、何度もラーラに謝った。



「ぉ、ねがいで…す」

 でもジョーノが必死になればなるほど、ラーラを喜ばせることにしかならない。ジョーノが懇願すればするほど、ジョーノの嫌がる姿が見たくなるのだ。

「駄目だ。馬鹿にはお仕置きが必要なんだ。一晩ゆっくりと反省しな」

 泣いて縋るジョーノを見下ろし、ラーラは本当に笑いながらジョーノを投げ飛ばした。

「っぁ、ヒゃっぁ!」

 小さなジョーノは軽々と宙に舞い……


「、ァ゛ッ、がぁ゛っ、」


 床に叩き付け垂れる激痛に一瞬息が止まる。




 苦しい



 痛い



 目の前が別の意味で暗く霞んでいく中、


「っ、やっだ」


 痛みを懸命に堪えて、ラーラに手を伸ばしていく。








 オイテイカナイデ




 と。



 声を出すだけでも苦しいのに。腕なんて到底上がらないのに……





 ……なのに………ラーラは無情にも……







「………ふん」




 部屋を出て行ってしまった。






「−−−−−ィャァ――っ、ァぁ!」








 重い音がジョーノの耳に届いて、地下室が闇に変わる。





 窓一つない四角い穴蔵が闇に塗りつぶされて、ジョーノの絶叫が誰にも聞かれることなく、闇に吸い込まれていった。















「−−−−ァーーーーぁっ、ゃ、」






 コワイ……暗いところはイヤ。






 ……こわい…………から…




 真っ暗な中、ただ一人…心臓が止まる。呼吸が止まっていく感覚。





 手足の先から冷たくなっていき、全身も冷えていって…命が無くなって、肉の塊と化し、意識が闇に溶けて輪郭を無くしていく。







 死に行く先に、手を伸ばしても助けてくれる人はいない。一人ぼっちで死を迎えなければいけない、恐怖。








 だれか…タスケテ…!


 






 ジョーノは無意識に、自分の身体を抱きしめる。闇に溶けないように………






 でも……





 とくんとくんとくん、くん、、と、、く……と、、、、





 徐々に鼓動が小さく、遅くなって…指先から感覚が無くなっていき…




 こわ、い……っ




 ジョーノの意識を闇の中から現れる何かが、縛っていくと……














 ド…ンッ!!!











 真っ暗な地下室に、新たな闇色が生まれ









 音も無く、王宮に広がっていった……


















******













「これで、何人目だ」

「15人です」

「原因は判らないのか」

「全力で調査しているのですが…まだ手がかりさえ掴めていなくて…」

「何が起こっているのだ…」






 ここは王宮の一角にある執務室。


 ジョーノが閉じ込められた地下室とは違い、豪華で清潔で陽の光が溢れている。もちろん夜には灯りが焚かれ、別の意味で明るくなる。

 20畳ほどの広さをもっている執務室がエジプトの政治の中心地だ。

 窓の外は雲一つ無いくらい晴れ渡っているが、良い天気とは対照的に神官達もファラオも、みんなの表情は暗い。



 それもそのはずで、王宮ではちょっとした事件が起こっているからだ。


 ここ10日ほどの間に王宮ないでは、行方不明になる人間が多発していた。
 兵士や女中、神官見習い、貴族達……が忽然と姿を消してしまっていた。その人達にはこれといった繋がりは無く、中には初めて王宮に足を踏み入れた者もいるほどだ。
 いなくなる時間もまちまちで、深夜から明け方、昼間と全く共通点も、符合するところが一切ない。

 誘拐されているならば、脅迫状も届かず、
 殺されたとするならば、死体も見つからない。

 ましてや、自殺なんて考えられず、その後の消息が掴めない不可思議なことに、


 気が付けばいなくなっていた。


 と、表現するのが一番しっくりくるような消え方に王宮にいる誰もが首を捻り、そして、次は自分の番かもしれないと、恐怖した。


 そんな得たいの知れない恐怖と根拠のない噂が渦巻くなか、パニックを避けるために、神官達が召集されたのだった。

 部屋の真ん中には置かれた大きなテーブルを囲み、顔を付き合わせること数十分で執務室は重い空気に包まれている。上座に座るファラオも沈黙したままだ。
 
 神官達も、ファラオと同じように腕を組んでいる者もいれば、目を閉じ考え込んでいる者もいる。また、ある者は膝を激しく揺らしていた。



「―― とにかく、もう一度整理してみよう」
 重い沈黙を破るように、マハードが口を開いた。
「まず、最初の犠牲者は衛兵−1人。おそらく深夜の巡回中に行方不明になった。そして、それからは1日に1人から数名の犠牲者が出ている」

 兵士の報告をまとめながら、背筋が寒くなってくる。

「そして、今朝も兵士の1人が居なくなった…」


 一番最近の犠牲者は、非番の兵士だ。
 部屋で休んでいた兵士は、飲みかけのビールをテーブルに置いたまま……消えてしまった。机には明り取りの火が焚かれ、椅子には脱いだ服が無造作に置かれていた。

 そんな生きている痕跡を残したまま、その部屋の主は姿を消した。まるで、ちょっとそこまで用を足しに行っているくらいの様子で。

 しかし、兵士の消息は昼になっても一向に掴めなかった。



「……これは…まるで……」




 いったい消えた人間はどこへ行ったのだろうか……?




 生きているのか死んでいるのかさえ判らない尋常ではない事件に、神官の顔色が悪い。




 そう、この状況に似た事例を皆、知っている。





 そこに居る誰もが同じことを考えつつ、それを即座に否定した。



 

 アンナコトハアリエナイ



 と。






 しかし、マハードのそばで控えていた神官の1人が口を開く。







『 神隠し…… 』







「!!!!」





 禁断の一言に、空気が凍りついた。









 生きた痕跡を残したまま、消えてしまった村人。
 いまだに、生霊が村を彷徨っていると噂が絶えない村。

 足を踏み入れたと同時に感じた、薄ら寒い魔物の残滓に足元から飲み込まれていくような感覚は、今でも時々夢に見てしまうほど忘れられるものではない。
 

 忘れてしまいたい。出来れば二度と触れたくない、村。

 しかし、魔物はそんな人間の弱さを嘲笑うかのように、ひっそりと心の奥を舐めていく。







「めったなことを言うのでないっ!」
「申し訳ございません」

 珍しく声を荒げたマハードに、神官は即座に誤った。皮肉にもマハードの切羽詰った反応が、より『神隠し』を実感させてしまっていたが。


「仮に、魔物の仕業だとしても、我々が魔物を逃すわけない」
 マハードは胸に下がる黄金のリングを示し、神官の発言を否定する。砂漠の神殿の時とは違い、王宮には黄金を携える神官が6人もいるのだ。
 王宮に魔物が紛れ込めば即座に捕らえる自信があった。現に今までもそうして来ている。
「残念ながら私にも、魔物の気配は一切感じられませんでした」
「私も同じだ」
 マハードに続いて、アイシスとカリムも続いて頷く。
 
 選ばれた6人の神官が鉄壁の守りを固めている王宮で、神隠しなど起こってはいけないのだ。神官としての自負とプライドが思考を頑なにしてしまっているが、やはり、明かな動揺を隠すことは出来ない。



「事の事態が掴めるまでは、ファラオと王妃様の警備を増やし、王宮には単独行動を控えるように徹底することにしよう。そして、われわれも交代で魔物について徹底的に調査をする。いいな?」


 答えの出ない論議に、マハードは仕方なく対処策を高じる。どんなに人よりも優れているとはいえ、所詮は人の子。未知の領域への対応はそれが限界だ。
 その先に破滅が待っていると判っていても、本能がそれから目を逸らさせてしまう。これといった根本的な解決策を見出せないジレンマに、知らず知らずのうちにため息が漏れた。


「神隠しの村……か」


 深く椅子に腰掛けて天井を仰ぎ見る。


『……生き残りの子供がいるとすれば、今頃どうしているのだろうか…?』


 ふと、神官の言葉と真っ赤な夕陽を背にしたジョーノが重なった。

「ふ…そんなことはありえない」
 
 ジョーノは王宮で働いていた子供だったことに間違いは無い。
 それにあの腕の中で眠っていた小さな身体と可愛らしい寝顔は人間そのもので、ジョーノが生き残りの子供だとは到底思えなかった。
 たまたまあの時は幸運にも砂漠を越えられた……それだけのことだ。

 砂の舞う無人の村に彷徨う子供がどうしてもジョーノになってしまい、そんな残像を振り切るように軽く頭を振る。


「どうした。何か気になることでもあるのか?」
「…っ!?……セトか」

 肩を叩かれて、ハッと振り返るとセトがいた。
 どのくらい考え込んでいたのか、いつの間にか会議は終わっていた。上座に居たはずのファラオの姿も既に無く、椅子に座っているのはマハードだけになっていた。

「…いや。なんでもない。困ったことが起こったと、途方に暮れていただけだ」
 半分は本音で、半分は疑惑を隠すために。マハードは肩を竦めてみせる。

「……ならいい」
 平常心を作り出そうとしているマハードに、これ以上追求することを諦めたセトは気づかれないように息を吐く。
「すまない。気をつかわせてしまったな」
「気にするな。この状況ならば誰だって気弱になるさ」
「……ははっ…同情はありがたいが、そうも言ってられん。この国の平和はわれわれの腕にかかっているからな」
「気になることがあるなら、なんでも相談してくれればいい。力になるぞ」
「……ありがとう」


 連日の異変に、セトも休まる時間がないはずだ。なのに、いつもと変わらない様子がとても頼もしく見えてくる。
 どんなときも冷静に居られるのがセトの強さなのだ。

 ポンポンと肩を叩いて、部屋を出て行くセトの後姿を目で追いつつ、マハードの思考はジョーノのことで一杯だった。


 無関係だと信じたい裏側で、危険を知らせる警鐘が鳴り止まない。



『出来る限り、ジョーノから目を離さないようにしよう……』



 独り言のように呟いて、マハードも席をたつ。




















 そんなマハードの心配もよそに、犠牲者は確実に増えていった。








*****





 長く不安な夜を払う力強い太陽の日差しが王宮を照らしだしていく。
 早朝の清涼な空気は、人々の不安な気配を一掃し、寝床で目覚めた人に生きていることの喜びを実感させる。
 人の足音。食べ物の匂い。誰かの話し声。どこからとも無く、人が生きている活気が王宮に満ちてくる。



 そんな早朝の回廊をジョーノとシズカが両手に荷物を抱えて歩いていた。



「もう、平気なの?」
「…うん。痛くないよ」

 両手いっぱいに荷物を抱えたシズカがジョーノの顔を覗き込んでくる。

「ほら、もう、この辺が赤いだけ、だし」
 ジョーノは少しだけ赤みの残る腕を指し、シズカと同じく折りあがったばかりの衣を両手に抱え、小さく微笑んだ。
「……だね」





 翌日、地下室から引きずり出されたジョーノは、目を覆いたくなるほど酷い状態だった。
 体中が傷だらけで、裂けた皮膚に生乾きの血がこびり付き、服もボロボロに汚れている。今まで何度もラーラの暴力を目撃してきたが、あれほど酷い傷は見たことがない。
 一体どれほどの暴力を加えられたら、ああなってしまうのか。見ているだけで全身が痛くなるようで、シズカは溢れてくる涙で顔をぐしゃぐしゃにして、ジョーノの手当てをした。

 酷い仕打ちをするラーラに腹を立てても、シズカも反抗することは出来なかった。もしも、ラーラの反感を買えば、暴力の捌け口がシズカに向かってくるかもしれない。
 どうしても踏み出せない自分の心の弱さと絶対的な身分の差に、シズカは唇をかみ締めて、ジョーノの血を拭っていったのだった。



 

「なら、いいんだ。でもね、あのときは本当にびっくりしたんだから」
「……ごめん、なさ、い」
「やだっ!ジョーノが謝ることないの」
 
 衣の間に顔を隠すジョーノはすっかり怪我も治っていて、気をつけて見ないと怪我をしていたところなんて判らなくなっている。

「怪我もたいしたこと無かったみたいだし、安心したよ」

 シズカはすっかり綺麗になった怪我の跡を目で追いつつ、ジョーノの回復力の速さに内心驚きを隠せなかった。


 ジョーノの全身いたるところにあった傷は、たった数日で見る見るまに塞がっていった。普通ならば一ヶ月は掛かると思われる怪我も気がつけば僅か10日間ほどで完治していた。
 ジョーノに関心を持たない他の人間は気がつかないが、間近で見ているシズカは違う。ジョーノの人並み外れた回復の仕方に、どこか疑問を覚えつつも、ああ見えてもラーラは手加減していたのだと一人で納得するしかなかった。


「う、ん。シズカが手当て、して、くれたからだよ」
 嬉しそうな笑顔のジョーノにつられてシズカも思わず笑顔になる。
「ありがとう。ジョーノにそう言ってもらえて、手当てした甲斐があるな〜」
「うん」
 ジョーノの声は相変わらず小さいが、その笑顔は確実に明るい。それもそのはずで、ここ数日は神官の仕事を手伝うことがほとんどになっていたからだ。
 神官の目に晒されるからか、ラーラの暴力はなりを潜め、無理難題を言いつけられることも無くなっていた。ぼろ雑巾のようになってしまった服も、新しいものに変えられていた。
 いつもならば人目を気にして、おどおどしているジョーノも、マハードの側にいると安心したようにしている。あんなに失敗をしていたことも、普通にこなせるようになっていて、ドジで足手まといと言われていたのが嘘のようだった。


 今朝もマハードの言いつけで、出来上がったばかりの神官服をセトのところへ届けるために、回廊を行く途中だ。
 朝日がキラキラと差し込む回廊に長い影を落としつつ歩いて行くシズカとジョーノ。
 歩幅の小さなジョーノに合わせてゆっくりと歩く。ここならばジョーノに合わせても怒る人はいないのだから。
 少し大きめの服の裾が歩みに合わせて揺れていた。長めの前髪をそれに合わせてなびいていて、ふっうっとのぞく蜂蜜色の瞳にふとした違和感を感じたシズカ。



「そういえば、ジョーノって最近、眉間に皺を寄せなくなったね」
「?」
「あー。気がつかないかも知れないけど、ジョーノって、眉間に皺を寄せる癖があったんだよ」
「……、そう、なの?」

 不思議そうに首を傾げるジョーノの眉間を指差す。

「ほら、ここだよ。ここにいっつも皺がよってたんだから」
「??」

 ますます不思議そうな顔をするジョーノ。


「そうかな…?」
 シズカの言っていることは全く判らないジョーノだったが、怪我が治っていくのに合わせるように、ジョーノの視界もクリアになっていた。
 以前は薄い霧が立ち込めるようにぼんやりしていた視界が、今は清涼な空気の中に居るように、遠くまで輪郭をくっきりと見せている。シズカに指摘されるまで、気がつかなかった景色の変化に、ジョーノは眩しそうに遠くを見つめた。

 こんなに綺麗な中庭を見たのは生まれて初めてのことだ。

「泉がきれい。ぴかぴかしてるね」

 回廊は中庭を横切るように造られていて、中庭にはナイルの水が引き込まれちょうど泉のようになっている。水面に浮かぶように咲いている蓮の花が可憐に咲き、その美しさを競っているようだ。


「うん。綺麗……ァっ、あそこにいるのは、王妃さまだよ」
「…?王妃さま?どこ?」
「ほら、あそこ」

 花と泉に見とれていたジョーノは気がつかなかったが、泉を挟んだ反対側で王妃がお供とつれて泉に訪れていた。

「きれい」

 漆黒の髪に金細工の髪飾りが映え、日差しを受けて輝いている。職人が丹精に織り上げた絹もふんわりとしてわずかな風でも揺れて、女神のような美しさだ。
 ジョーノは遠目だが、初めて見た王妃の美しさに憧れと共に思わず見入ってしまった。

「当たり前よ。なんたって王様のお眼がねに適った、国で一番素敵な女性なんだから」
「…うん」

 当たり前のように供を引き連れて優雅に朝の散歩をしている王妃に、シズカも羨望の眼差しを送る。きっと彼女には悩みなんてあるはずがないのだ。

「あ〜〜あ。早く私にも素敵な人が迎えに来てくれないかな〜」
 王妃に自分を重ねてうっとりと夢を見るシズカ。せっかく王宮で働いているのだ。それくらいの特権はあっても良い。
 同じ年頃の娘が集まれば、毎回この話で盛り上がる。この下働きの身分から開放されるには身分の高い男性の妻になるのが一番の早道だ。
「絶対に良いお嫁さんになる自信はあるよ。ねっ!ジョーノもそう思うでしょ!」
「……ぅん」
 満面の笑みのシズカにつられて頷くジョーノだったが、表情はぎこちない。
 シズカがお嫁に行くということは、もう、一緒に入れなくなるということなのだ。ただでさえ友達がいないジョーのにとってシズカがいなくなってしまったら、一人ぼっちになってしまう。

 シズカもいなくなっちゃうのかな……

 寂しいから離れて行かないでと言いたいけれど、そんなことを言えばシズカに嫌われてしまう。ジョーノは胸の奥に渡来する一抹の寂しさから逃げるように、もう一度視線を泉の対岸に向けると、


「あれ?何かい、るよ」


 澄んだ水面に不穏な影が動いているのを見つけた。


「どうしたの?」
 シズカもジョーノの指差す方に目を凝らす。するとジョーノの言うように、黒い影のようなものがゆらりゆらりと蠢いているではないか。しかも、その影は一つではなく、いくつも無数に泉の底を動き回ってる。


「うそっやだ!」
 シズカは悲鳴を上げようとした口を両手で抑える。下手に物音を立てて刺激したくない。恐怖に体が震えて、動けなくなっていた。
「…ジョーノ…王妃様に知らせないと…」

 対岸にいる王妃はまだ、影には気づいていないようで、泉に咲く蓮を摘んでいる。時折聞こえてくる笑い声に、シズカの頭がパニック状態に陥っていった。

「どうしよう…」

 そんなことをしている間にも、王妃の元に集まっていく影。もう、走っても間に合わない。
 隣にいるジョーノも固まったように蠢く影から視線を逸らせなかった。


「…ああっ…」


 どうしていいのか判らないまま、徐々に影との距離が縮まって…いく…




「危ないっ!!逃げてええええ!!!」
 頭が真っ白になったシズカが大声で叫んだ!!


 と、同時に、水面から影が飛び出して







「キャアアアっ!!」




 バシャッ!!!




 甲高い悲鳴と、鈍い水音と共に王妃が泉へ引きずり込まれていった。





「アンズ様!!」
「王妃様が、泉に落ちたぞ!!!!」
「ワニが、泉に紛れ込んでいる!!!!!」


 対岸にいるシズカとジョーノの耳にも、兵士と女官達の慌てた声が入ってくる。


「王妃さまが、泉に…どうしよう…」
 呆然としたシズカは膝から崩れ落ちた。兵士がさかんにワニが。と、叫んでいる。誰もが王妃の命はもう無いのだと絶望的に思う中、




「ジョーノ!?」



 ジョーノが泉に飛びこんだ。








****








『いた!!』




 必死に両手両足を動かして泳いでいくと、キラキラと輝いている髪飾りが見えてくる。既に意識が無いのか動かない王妃の周りには、無数のワニが周りを取り囲むように群がっていて、ジョーノは泳ぐスピードを上げた。


『王妃さま!』


 懸命に手を伸ばし、王妃を掴もうとするがワニが邪魔をして近づくことが出来ない。鋭い牙をむき出しにした獰猛なワニがジョーノの方へと威嚇してくる。


『だめっ、王妃さまを食べないで!』


 薄暗い泉の中、やってきたもう一匹の獲物に、ワニがジョーノの方へ近づいてきた。


 小さなジョーノと獰猛なワニでは勝敗など目に見えている。一撃で終わりだ。しかも、ここは水の中。圧倒的に有利なのはワニのほうだ。ワニも本能で判っているのだろう、小さな獲物をいたぶるような目で、ジョーノを捕らえていた。


 真っ赤な口を上げながら、距離を摘めて来るワニの群れ。






 ジョーノを丸呑みにしてしまうほどの大きな口。





 屈強な兵士ですら恐れをなしてしまうワニと対峙するジョーノは





















 笑っていた……























 そこにはいつものおどおどした気弱なジョーノはいなくて






 別人のような微笑を浮かべていた。






 蜂蜜を溶かしたような大きな瞳は真紅に色を変え、水に揺らめく金色の髪がジョーノを一回りも二周りも大きく見せている。
 




 そして、ワニの群れを睨み付け













『 喰 う ぞ 』










 と、




 一言だけ口が動く。





 その異様な気配はこの世のものではなく、地の底から沸きあがってくるどす黒いオーラに、戦意を喪失したワニが逃げ出していった。



















******





「誰が、飛び込むものは居ないのか!!」

「早く泉の水を抜くのだっ!!!」



 兵士に怒鳴り散らす上官の声と、女官の悲鳴が錯綜する中庭はパニック状態に陥っていた。


 泉の周りは騒ぎを聞きつけた兵士達で埋め尽くされている。
 泉の底には王妃がいると判っているのに、誰も飛び込めないでいる。どこからか紛れ込んだワニがいる泉に誰もが躊躇し、王妃の最期を悲観するしかなかった。

 

 たくさんの人々が息を詰めて水底を覗き込む中、水底から王妃が浮かび上がってくる。



「王妃様だっ!!!!」



 ざん



 水しぶきを上げて王妃が水面に顔をだした。意識の無い王妃はぐったりとして、ジョーノに抱きかかえられている。



「アンズ様っ!!」


 特に目立った外傷はなく、気を失っただけのような王妃の様子に、兵士達が安堵して岸へと引き上げていく。


「ご無事だ!!!」


 確かに動いている鼓動に、中庭に歓喜の声がこだました。

 手を取り合って喜んでいる女官や兵士。誰もが王妃に気を取られ、ジョーノの存在を忘れていた。



「…よ、かった…」
 その様子を見たジョーノも小さく笑う。冷たい水に体温と体力を奪われていて、1人で泉から出ることも出来なくて、岸にしがみ付いていた。



「よ、かっ…た……」





 意識を取り戻した王妃に、安心したのか急に力が抜けていって、誰にも気づかれないまま、再び泉の底に沈んでいった。















*******











 ごおおおおおっ……ん





 耳の奥に響いてくる水音がうるさい。
 力を出し切った手足は重く、体に力が全く入らない。


 もう、水をかくことも出来なくて…呼吸も出来なくて……



 ジョーノはだんだんと遠くなる水面を見上げながら、ゆらゆらと揺れる波が綺麗だと、眺めていた。









 死ぬ……のかな…







 どこかへ行ってしまったワニも、ジョーノが水底につく頃には戻ってくるだろう。





 確実に迫ってくる死をぼんやりと受け入れつつ、重力に身を任せていくジョーノ。








 …あ…れ…?





 沈んでいく体と、少しずつ暗くなっていく視界に、何か綺麗なものが近づいてくる。




 だれ…?



 きれい…な、色?



 お日様みたいに光ってる。眩しいのにやさしい色で、あったかい。





 それは真っ青な神官服を身にまとった青年で、いつか中庭でジョーノを助けたセトだった。沈んでいくジョーノを掴まえると、しっかりとその腕に抱き寄せた。

 日差しに包まれたような心地よさに包まれて、ジョーノが目を開くと、まっすぐにジョーノを見つめる青い色とぶつかる。







 綺麗
 
 青い空のようで、深い夜空みたい。

 深くて綺麗で、澄み切っていて……もっと綺麗な色をしてる。

 


 ナイルブルー









 ずうっと昔に見た色……




 一日中…………、さんの帰りを……待っていた…川…の色







「……ブルー」





 ジョーノは広い腕の中で、微笑みを浮かべて目を閉じた。
















 ナイルブルー








 つづく……




******











 

 もう、なんだかな〜な展開どございますが…
 つぎ、行ってみよ!!