ナイルブルー キラキラと太陽の光を反射させて輝いていた青い色。 綺麗で、優しくて、永遠に途切れることのない流れ。時間を忘れるくらい見ていた流れ。 この色の先に ・・・・・・・・・が待っていてくれると信じてた。 この流れを越えれば、会えるのかと、何度も何度も繰り返し考えて、川を渡ろうとしたけれど…… 結局、川を渡ることが出来なかった。 綺麗に澄んだ水面に映る自分は 黒く濁っていて…… 恐ろしいほど、この世もものでない……形をしていた… 真っ黒い塊が、大きな口を開けて笑っている。 真っ赤な・・・血の色をした色で・・・ にたり と笑っている こわい その黒に呑まれたら、二度とこちらへ戻ってくることは出来ないだろう そう、わかっているのに、 その色に全てを委ねてしまいたくなる。 冷たくて心の底から冷え切って行くのに 何も考えずに、感じずに、ただ、その無限に続く闇の中に堕ちて生きたい。 ううん・・・ちがう 闇の中こそが 戻るべき場所 ソウダヨネ 『愛しき……7』 「・・・・・・・・・ぅ・・・・・・」 ジョーノの深く澱んだ意識が、ふうっと浮かび上がってくる。 薄い目蓋がピクリと、次に細い指先が、薄い肩が順に動き、最後に引き結ばれた桜色の小さな唇から小さな声が零れた。 「・・・ぅん・・・、ぁ・・・・・・?」 「目覚めたか?」 「・・・・・・?」 どこかで聞いたことのある優しい声にジョーノの視線が自然と動くと、マハードが心配そうな顔でこちらを見つめている。 「マ、ハード・・・さま?」 全く状況のわかっていないジョーノは、蜂蜜色の瞳をパチパチと瞬かせた。なんだかとても昔の夢を見ていたような気がするが、夢から覚めるとそこは全く知らない景色で、ジョーノは不安気に辺りを見渡す。 ここはどこだろう。 広い部屋は手入れが行き届いていて、どこからかともなくいい香りが漂っている。大きな窓からは日差しが差し込み四角く床を照らしていた。 広いベッドも柔らかなシーツで覆われていて、毎晩うずくまる様に眠る硬い床の上とは大違いだ。 そして、ベッドを取り囲むようにいる数人の大人たち。地位の高さを物語る涼やかな姿と絶対的なオーラ。 その視線がジョーノに注がれていて、まるで観察されているような奇異の眼差しにジョーノは目をぎゅっと瞑る。 「どこか、痛いところはないかい?」 「・・・・・・?」 マハードの言っている意味がわかっているのかいないのか、ジョーノはううんと一度だけ首を横に振った。見た目どおりの幼い仕種に、マハードは微笑み、まだしっとりと湿っている金色の髪を撫でた。 「ジョーノは泉に落ちたアンズ様を助けたんだ。覚えていないのかい?」 「・・・あた、ぃが?」 「そうだよ。ジョーノのお陰でアンズ様は怪我一つしなかったんだ」 「・・・・・・」 マハードの言葉に、朝の光景を思い出そうとするジョーノだが・・・・・・ 確か、たしか、王妃様が泉に落ちて、悲鳴が上がって・・・えっと・・・それから・・・ シズカが何か叫んでて・・・それで、それで・・・? 中庭に響き渡る甲高い女官の悲鳴。 深い泉に沈んでいく王妃と、それを取り巻くワニの無数の影。 遠めからでもしっかりと見えた惨劇の予感に、独りでに体が動いていた。ただ無我夢中で泉に飛びこんでいた・・・・・・ような気がする。 しかし、どこからか記憶が曖昧になっていて、王妃を助けたことも全く覚えていない。 「あた、い、が・・・王妃さまを?」 思い出そうとしても、黒く塗りつぶされた記憶は見つけられず、ジョーノは首を傾げるばかりだった。 「その様子では覚えていないようだな。どうやら、泉の水門が壊れていてワニが迷い込んだらしい。今は兵士達がワニを追い出したから、泉は元に戻っているよ」 懸命に思い出そうとしているジョーノの瞳が不安そうに揺らいでいる。蜂蜜を溶かしたような瞳は今にも涙を溢してしまいそうで、マハードは震えている小さな手をそっと包み込んだ。 「猛獣に喰われる恐怖に記憶が混乱しても仕方の無いことなんだ。ジョーノはまだ小さい。無理に怖いことを思い出さなくてもいい…大丈夫。怖いことは忘れてしまいなさい」 「・・・ま、ハードさま・・・」 「大丈夫だからね」 猛獣と隣接する死の一瞬を覚えていないのは、幼子の防衛反応なのだろうとマハードは小さな手をぎゅっと握り締めた。 マハードの暖かい手に包まれて、小さく笑うジョーノ。 くすぐったそうに頬を染めて、ためらいがちに握り返してくる控えめな仕種が余りにも幼く、マハードの父性本能をくすぐってくる。しかし、それとは反対に神官としての理性が、ジョーノの回りで起こった不可思議な事件とのギャップに警鐘を鳴らした。 『砂漠越えの一件といい、この小さな少女のどこに、そんな力があるのだろうか』 手の中にある小さな手は、子供のものそのもので、何の力も持っていない。マハードが少し力を込めるだけで容易く砕けてしまえるだろう。 それなのに、一歩間違えば、いや、普通ならば確実に命を落としていたであろう事件を、なんなく潜り抜けてしまった現実に、偶然や奇跡の言葉だけでは片付けられない何かがあるような気がしてならなかった。もっと奥深いところに何か得体の知れないモノが隠れていると、生存本能が訴えかけている。 キケンダ コノコハ、アブナイ チカイミライニ、ワザワイノモトニナル なのに、考えようとすればするほど、思考が散漫になっていき、考えていることすら忘れてしまいそうになってくる。 ダメダ……シコウヲトメルナ モットカンガエナケレバ……… ジョーノの背後に隠れている未知の、想像を遥かに越える恐怖の存在感が、マハードを目隠しするように手を伸ばしてくるようで、その得体の知れない圧迫感に、視界がぐるりと回り呼吸困難に陥ってしまいそうだ。 アア・・・ ダレモキガツカナイノカ ココニバケモノガイルデハナイカ マックロナ… ドウシテ・・・・・・ダレモ、ワカラナイ…ンダ… マハードは他の神官達に助けを求めようとするが、他の神官達は気がつかない様子でジョーノを見ているだけだ。 アァ・・・喰ワレテ・・・シマウ そうしている間にも、真実の闇はそこまで迫ってきていて、絶対的な『死』を前に、マハードは絶望のまま、『オワリ』の時を覚悟した。 もう、駄目なんだと―――命が停止してしまう。 他の頼れる神官がいるなか、死の闇に呑み込まれてしまいそうな正にその瞬間、 闇が音を発した。 「いた…ぃ…マハード…さま」 と。 ジョーノの鈴の音のような声に、マハードの握りつぶされていた思考と、真っ黒な闇が瞬間的に弾き飛ばされて――― 「ごめん。痛かったね……強く握りすぎてしまったようだ。ジョーノはアンズ様の命の恩人だ。正しくエジプトの未来を救った英雄だね」 一旦停止してしまった思考は、死の恐怖と疑問を忘れ、何を考えていたのかを忘れ、ただそこにあることのみが真実なのだと挿げ替えられていくのだった。 まるで、何かに操られていくように…… 「怖いことは忘れてしまいなさい」 「・・・はい」 「それでいい」 マハードはそう自分に語りかけるように呟くと、上掛けをそっと掛けなおした。 マハードの柔らかい笑みにジョーノもつられて表情が緩む。シズカとはまた違った優しさに胸の奥が暖かくなってくる。 親子というか、仲の良い兄妹のような二人の様子に、他の神官達もつられて笑っていた。 そんな穏やか空気が流れる中、外の廊下がにわかに騒がしくなる。 だんだんとこちらへ近づいてくる複数の足音と、賑やかな声。 『・・・・・・待ちなさい・・・そんなに走ったら・・・だろ』 『もう、あなたが遅すぎる・・・・・・のよ』 扉越しにでもはっきりと聞こえてくる声の主を、マハード達は心得えているのか顔を見合わせて苦笑いしている。 「・・・????」 不安気にマハードに目をやれば、大丈夫だからと頭を撫でられる。 「アンズ様だよ。ジョーノが目を覚ますのをずっと待っておられたんだ」 「っ!?王妃さま?」 「怖がらなくていい。アンズ様はとても優しい方だから」 「・・・・・・・・・で、も・・・」 マハードがそう言っても、ジョーノの表情はますます暗くなっていく。 下働きの身分のジョーノにとって、王妃は天上の人だ。 側によることはもちろん、口を利くことだって許されない。こうしてマハードと話していることすら身分違いの出すぎた行動なのだ。もし、こんなことがラーラに知られたらどんな暴力が待っているかわからない。 ラーラによって体に叩き込まれてきた痛みと恐怖に、ジョーノは反射的にベッドから逃げ出そうと起き上がった。 「ジョーノ!!動いたら駄目だ!」 「いぁっっ!!」 マハードの静止と程同時に全身に激痛が走りぬけ、肉が裂かれるような痛みにジョーノは体を抑えてうずくまる。血の気の引いた真っ青な顔で、額には脂汗が滲んだ。 「・・・いた・・・い」 じりじりと焼け付くような痛さを懸命に堪えていると、ふうっと暖かいものに体ごと包まれた。 「・・・・・・っ・・・・・?」 傷ついた体を労わるように抱き止められる。 「ジョーノはアンズ様を助けるときに怪我をしているんだ。急に動いたら傷口が開いてしまう」 「・・・っ・・・はっ・・・っ?」 どうやら、ワニとの遭遇でジョーノは傷を負ったらしい。しかし、今のジョーノにはそんなことを気にする余裕は全くといっていいほどない。身に覚えの無い怪我よりも、それを遥かに凌ぐ恐怖があるのだ。 早く仕事に戻らなければ、どんなお仕置きが待っているのかわからない。こんな痛みでさえ、ちっぽけなものなのだと思えるほどラーラからの虐待が心に刻み込まれていた。 原因はどうであれ、仕事をすっぽかし身分をわきまえなかった事実はラーラの怒りを当に買っているだろう。今のジョーノに出来ることは一秒でも早く仕事に戻ることだ。 短い呼吸で痛みを必死に絶えながらもジョーノの頭の中は、恐怖心で一杯になっていた。 「だ、いじょうぶ・・・あたい、も、う帰らないと・・・」 ジョーノは小さな声を振り絞る。 「・・・は?何を言っている?」 真っ青な顔で震えて、こうして支えていないと起き上がることさえ出来ないのに、どこが『大丈夫』なのか。獣にやられた傷はそれでなくても痛いものだ。 大の大人だって数日は寝込んでしまうものなのに、どうして子供のジョーノが耐えられるのだろうか?痛い痛いと泣きわめいても仕方の無い怪我なのに。 マハードはジョーノの異常な我慢強さに、眉間の皺を深くしていった。 「駄目だ。今動いたら傷口が開いてしまうんだよ」 「・・・これ以上、ここにいたら・・・マハード、さまに・・・迷惑が、かかって・・・」 諭すように言っても、ジョーノは下を向き頭を横に振るだけだ。 本当にもうココには居られない。 これくらいの痛みなど、ラーラへの恐怖心に比べればかすり傷の程度にもならない。それよりもラーラの怒りの矛先がマハードへ向くほうが何十倍も怖い。ジョーノは涙を堪え、マハードの腕を押した。 「手当て、してもらって、ありがとうございました」 きゅっと口を閉じ口角を上げる。 「ばっ・・・!」 その痛々しいジョーノに絶句してしまったマハードは言葉を繋げない。しかし、代わりに別の声が降ってきた。 「駄目よ。わがまま言っちゃ。マハードの言うことをちゃんと聞いてね」 「・・・・・・っぃ!」 「・・・・・・アンズさま・・・ファラオ!」 痛みに気を取られている間に、アンズと王が側にやってきていたのだ。 マハードの肩越しに二つの頭が見え、ジョーノはぎゅっとマハードの上着を掴む。 「ジョーノはとっても働き者で勇気があるのは、わかったわ。でもね、怪我をしたときはちゃんと休まない駄目よ。もし、また倒れちゃったら他の人にも迷惑になるのよ」 アンズはマハードの隣に腰を降ろすと、まだほんのりと湿っている金色をした頭を優しく撫でた。 「それにね、命の恩人にお礼もしないで、働かせているなんてわかったら、私は国中の笑い者になってしまうわ」 「・・・・・・」 「ね。私のためにもちゃんと怪我をなおしてちょうだい」 「・・・・・・・・・王妃さまの、ため?」 「そうよ。私のため。それがジョーノのためにもなるの」 どうして怪我を治すことが王妃の為になるのかが理解出来ず、ジョーノの言葉の語尾が疑問系になっている。 マハードに体を支えて貰いながら、アンズのほうへ顔を向けるとその隣に王がいた。 「おう、さま・・・」 初めて間近で見る王と王妃にジョーノは、我を忘れて見入ってしまった。 太陽の化身といわれる王はその言葉通りに、輝くような黄金に負けないオーラを全身に纏っている。もちろん隣にいる王妃も同じで、見た目の美しさとは別の輝きを放っている。 その光はジョーノの皮膚を突き抜けて、冷たくなった心をポカポカと暖めていくのだ。 ラーラと根本的に違う色に、ジョーノの警戒心が見る見る間に溶けていくのが判る。指先から熱を持っていくような感覚に、ジョーノの体から次第に力が抜けていく。 そして、とどめのようなファラオの言葉。 「俺からもお願いしよう。ジョーノはしばらくココで、怪我を治すために滞在するんだ。これは・・・・・・そうだな・・・命令だ。王である私からの勅命だ」 「命令・・・王様の命令・・・」 命令と厳しい言葉なのに、その言葉の持つ意味はとても柔らかくて、ジョーノは顔を真っ赤にさせて微笑み小さく頷いた。 しかし、ジョーノの意識があったのはここまでで、頷いた頭が上がることは無く、マハードにぐったりと体の支配権を譲り渡してしまった。 「ジョーノ!!」 「熱い。すごい熱が出てる。誰か医師を呼んできてくれっ!」 「大変だわっ!!」 マハードの腕の中で意識を失ってしまったジョーノに、騒然となる神官達。 にわかに動きだした空間で、たった一人動かない人物がいた。 その青い人は、右往左往する神官達の間で、ただ一人 微動だにせず ジョーノを見つめていた。 ああ、ジョーノがナイルブルーと思った青い色に写っているのは、一体何なのか。それは誰にもわからない。 つづく ****** 小休止ですね 早く、展開させていきたいです。あと数話でお話の全体像が見えてくると思われます(汗) |