祈り3



 この屋敷の奥には大きな蔵が建っている。頑丈な作りは屋敷の大きさに比例して立派なものだ。明り取りの小さな窓しかない漆喰の壁は他人を寄せ付けない冷たい空気を漂わせている。
 
 日が落ちた蔵の中は、細々としたランプの明かりだけが灯っていた。
 ガタンと入り口で音がして、ゆっくりと重い扉が開かれる。暗い蔵のなかに細長く差し込む月明り。
 「克也さま。」
 屋敷で働く女中が蔵の中へと入ってくる。女中が近づくとぷぅんと食欲をそそる香りがする。
 「夕食をお持ちしました。」
 「ありがとう。静香さん。今降りて行きます。」
 蔵の2階部分から少年〜克也の声が聞こえる。と階段を降りる音がして克也が姿を現した。
 「また、蔵書を見てらしたんですね。お体が汚れてしまいますよ。」
 静香ーと克也に呼ばれた女性。年のころは瀬人と同じくらいだろうか。長い髪を後ろで束ねて質素だが決して粗末ではない着物を着ている。
 静香は手にしていた夕食を乗せたお盆をテーブルに置くと懐からハンカチを取出して埃で汚れている、克也の鼻の頭をそっと拭う。
 「へへへ。上にも素敵な絵がたくさんあるんだよ。誰が描いたものなんだろうね。日本じゃない風景だったよ。」
 克也は興奮気味に話す。この蔵の中にはたくさんの絵画や水墨画、彫刻などの芸術品が国内国外問わず収集されている。1日の大半をここで過ごす時、克也は所蔵されている美術品の探索に没頭しているのだった。気に入った作品ならば何時間でも、それこそ”穴が開く”ほど作品を鑑賞しているのだ。
 「仕方ないですね。とにかく夕食です。せっかくの料理が冷めてしまってはもったいないですからね。」
 静香は食事を並べると濡らした手ぬぐいをお手拭代わりに克也に差し出した。
 「いただきます。」
 手を拭くこともそこそこに克也は食事を始めた。

 一体何度ここへ食事を運んで来ただろう。来訪者があると必ず克也は1日の大半を日の射さない蔵の中で過ごさなければならなかった。
 蔵の一角には畳みと一組も布団、机などか運び込まれていて、「克也」の空間が作られている。薄暗い蔵の中で一人、心細い思いをしているのではないかと、静香は不憫に思っていた。
 


 



 この地にようやく梅が咲き始め春の足音が近づいてきた頃、克也はここ軽井沢の屋敷にやってきた。
 静香の家族は代々、海馬家へ仕えてきた。両親もそのまた親も…変わる事なく続いていて、静香も例外ではなかった。
 いつものように台所で下働きをしていると、母親から旦那様がお呼びだと言われ居間に足を運ぶ。
 「お呼びですか?旦那様。」
 入りなさいと声がかかり静香は襖を開けると、ぱっと目に飛び込んできた、金色の髪と白い肌、空の色の瞳を持った少年。
 「静香がこれとは年齢が近いだろう。今日からこれの世話係をするように。」
 と主人から克也を預かってはや半年。初めはその容姿に戸惑いを隠せなかったが、克也の人なつっこく、人を引き込む笑顔に静香も次第に打ち解けるようになっていた。
 年齢が近いこともあって、単なる世話係というよりも姉のような友人のような存在になっていく。
 しかし、現実は甘くないもので克也が屋敷に来て数日がたった明け方、奥の部屋に呼び出された静香はそこでぐったりと横になっている克也の後始末を命じられた。
 乱れた浴衣を纏った様子からでも、何が行なわれたのか想像にかたくない。急いで湯の仕度をして呆然としている克也の身体を清めたのだった。
 その日からは朝の儀式が静香の日課となった。消えることの無い朱の痕から静香は目をそらし克也を清める。
 連日のように続く主人と克也の夜の行為。時には息子の宗次郎も加わり、克也の悲鳴が広い屋敷に拡散していく。しかし克也の心が折れることはなく、自分の運命を悟っているかのように翌日になるとあの笑顔が戻るのだ。屋敷の者たちも蔵に閉じ込められて、慰み者となっている克也の処遇を痛々しく思いながらも、何か手立てがあるわけではなく1日も早く主達がこの夜の行為をやめることを祈ることしか出来なかった。
 そして、静香はある程度年配の使用人たちが、克也のことを単なる興味本位でなく大切に扱っていることに疑問を持つようになった。

 「かあさんは克也さまのことをどう思う?」
 朝の仕事もひと段落し、休憩を取っているときに静香は共に働いている母に聞いてみた。
 「………克也…さま…の…ねぇ…どう思うと聞かれてもねぇ。」
 すすっていた湯飲みを置くと、母親はあからさまに困ったような顔をする。どうやら「克也」のことは禁句になっているようだった。
 「かあさんも知ってるでしょ。克也さまが旦那様からどんなことを…」
 「黙りなさい。」
 厳しい口調で一括する母親。途端に表情も険しくなる。
 「お前が言う資格などないよ。私たち使用人は旦那様のご命令に従う事が仕事だよ。」
 いつもの母親らしくない態度に静香は戸惑いを隠せない。
 「でもっ……私は克也さまの世話役なんだから、知る権利はあるはずだわ。」
 静香もまた一歩も引かない。どうしても知りたいのだ、何故母親を筆頭に年配の使用人たちは克也のことをどこか慈しみのあるような、懐かしい人を重ねるような目で見るのかを。
 「…仕方ないねぇ。あんたも言い出したらきかないから…判ったよ。」
 食べかけの団子をひょいと摘むと、母親はそっと耳元で囁いた。
 「ここでは話せないから、夜まで待ちなさい。」

 その夜、静香は母親から「克也」の事情を聞かされることとなった。
 「克也」は旦那さまの娘が駆け落ちをして生まれた子供だということ。
 その駆け落ちの相手がアメリカ人ということ。
 すでに両親が他界しているということ。
 つまり旦那様は自分の孫を毎晩弄んでいるのだった。
 静香は尋常ではない主人の行為に身体が震える。母親もまた苦渋に満ちた表情で、1枚の写真を引き出しの中から取り出した。
 「これは?」
 2人の女性が並んでたっている白黒の写真。
 「かあさんとお嬢様だよ。」
 お嬢様とは克也の母親だろう。よく見るとどこか面影があるようだ。
 「お嬢様は素敵な方だったよ。気取らずに誰にでもお優しくて…気丈な方でね。母さんとは年が近いこともあってね、ずいぶん良くしていただいたんだ。読み書きを教えてくれたり、外国のお菓子を分けてくれたり…」
 昔のことを語る母親の声は涙声だ。
 「写真でもわかるだろう?とても美しい方で社交界でも評判の女性だったんだよ。そこで出会ったアメリカ人と恋をされた。」
 もちろん周りは二人の交際に猛反対だった。すでに婚約者も決まっていて結婚の日取りまで決まろうとしていた時だったからだ。この時代の婚姻は当人の意思ではなく家のため。海馬家のためにするのは当たり前だった。
 「お嬢様はこの時代の女性としてはご自分の考えをしっかりとお持ちでねぇ…家長の言葉が絶対の権限を持つ封建的な海馬家に反発があったんだろうね。そしてお嬢様は家を出られた…」
 「そんな…」
 静香は手にした写真と涙を拭く母親を交互に見る。
 写真に映る着物姿の女性は確かに克也の面影がある。目元や口元が良く似ているようだ。
 「あのときの旦那様の怒りようは、誰も近づけないくらいすごいものだったよ。お嬢様のことは目の中に入れても痛くないくらい可愛がっておられたから、裏切られた気持ちが強かったんだろうね。」
 「克也」は娘の忘れ形見でありながら、娘を奪った憎いアメリカ人の子供でもあるのだ。
 「てっきり、アメリカで生活をされているとばかり思っていたのに…まさか、お亡くなりになるなんて思ってもみなかったよ。」
 祖父は苦悩する。克也さえいなければ娘は死なずに済んだのかもしれない。克也の父親に出会わなければ娘は奪われなかったのだ。海馬家に傷をつけることもなかった。
 その、苦悩と怒りの矛先は幼い克也に向くのだ。娘の面影を残していながら、あの男にそっくりの姿を持つ克也か憎くみ、毎夜、娘を奪った男の身代わりに克也を弄るのだった。
 「髪の色、目の色は違えどもお嬢様に瓜二つな克也様にあんなむごいことをされるなんて……」






 「ご馳走様でした。おいしかったです。」
 全て綺麗に平らげた克也は箸を置くと手を合わせた。
 「どういたしまして。」
 静香はテキパキと空になった器をお盆に乗せる。
 「克也さま、もちろん今日もどこかへ行かれてましたね。」
 「ばれてた?」
 「当たり前です。」
 静香は克也が蔵から抜け出していることを知っている。もちろん他の使用人たちも何も言わない。そっと見守るのだ。
 へへっと克也は照れ隠しに頭をかいた。
 「どこへ行かれたのですか?」
 「いつもの所さ。あの湖が好きなんだ。」
 克也は蔵を抜け出すと必ず名もない小さな湖に足を運んだ。鏡のように澄んだ湖面を見つめていると心が落ち着くのだ。克也の胸の苦しみを湖は癒してくれた。
 「ふふっ。良かったですね。今日はどんな絵を描かれたのですか。静香にも見せてください。」
 すると克也の表情が曇る。スケッチブックは失くしてしまったのだから。
 「……湖に落として来ちゃったんだ、急に狸が出てきてびっくりして、掛けてきたから…」
 「大変、探して来ましょうか?」
 名も無い湖は海馬家の所有地の中にあるので、里の者の目に触れることはないと思うのだが万が一の事もあるので、静香は湖に行こうとする。
 「いいよ。明日、拾ってくるから。」
 克也は暗くて危ないからと引き止める。
 「気をつけてくださいね。くれぐれも人目につかないように。」
 屋敷の使用人たちは克也の「脱走」を黙認しているから心配はないとしても、現在は瀬人とモクバが滞在している。もしものことがあってはいけないと静香は念をおした。
 「うん。大丈夫。気をつけるよ。」
 まかせて!と胸をどんと叩く。
 「…本当ですよ。」
 静香はやはり不安そうだ。そんな静香の心配をよそに克也は一枚の紙を恥ずかしそうに静香に手渡した。
 「静香さんを描いてみたんだ。どう…かな。」
 「……これが私ですか…?」
 B5サイズほどの紙には静香が描かれている。庭を掃いているときのものであろうか箒をもっている。
 「…うん。今朝描いたんだ。」
 「有難うございます。こんなに綺麗に描いていただけるなんて。宝物にします。」
 「喜んでもらってうれしいな。」
 克也はにこにこしている。両親が健在だった頃はよく似顔絵を描いていたものだ。かつての克也の家にはたくさんの絵が壁に飾ってあったのだった。
 「でも、綺麗に描きすぎではないですか?私はこれほど美人じゃないわ。」
 静香は恥ずかしそうに頬を赤らめている。
 「ううん。静香さんは綺麗だよ。おかあさんの次だけど…」
 と、克也の大きな瞳から涙が零れる。今は亡き両親を思い出したのだろう。静香は思わず克也をぎゅと抱きしめた。
 「克也さま。お可哀そうに。」
 やわらかく暖かい静香の胸に収まる小さな体からはほのかに森の香りがした。
 複雑な立場を理解しているのだろう、克也は同じ年頃の子供より大人べて見えるときもあるのだが、まだ11才。亡くなった両親が恋しくてもなんらおかしくは無い。
 「声を出していいのですよ。この中なら誰にも聞かれないから。」
 堪えきれない悲しみを少しでも和らげる事が出来ればと、静香は声を殺して泣いている克也の頭を撫でる。
 「……ごめんな…さい…大丈夫だから。」
 どのくらいそうしていただろうか、克也は顔を上げると鼻を啜る。そして着物が汚れてしまったとあわてて手ぬぐいを探しだした。
 「気にしないでください。もともと、汚れていますから。」
 涙で濡れた着物を拭く克也の手を止めると微笑んだ。
 静香のやさしい微笑みはどことなく母に似ている。記憶の中にしかもういない母親はこんな笑顔で克也に笑いかけていてくれている。
 「……静香さんは俺のこと、気味悪くない?」
 「えっ?何故そのようなことを…?」
 日本とアメリカとの混血で見た目は少しも日本人に見えない克也は、海馬家でも異端の存在だ。こうして都会から離れ、隠居している祖父の側で暮らしているのも海馬家の為に「克也」を世間の目から隠す必要があったからだ。
 「だって見た目はこんなだし……おじいさまや…」
 「そんなこと無いですよ!私は克也様のことが大好きです!」
 静香には克也の言いたいことが痛いほど判る。
 「ほんと…?」
 「ええ。」
 静香は大きく頷くと言葉を続ける。
 「克也様は何も悪くないです。むしろ旦那さまたちのほうが酷い…克也様はお優しくて素直で…」
 所詮は使用人の身。何も出来ない自分自身に憤りを感じ、静香はもう一度克也を抱きしめた。
 「すみません。克也様。何も出来なくて…」
 「…くるしいよ。」
 「あっ!すみ…ません。」
 腕の力を緩めると克也が笑顔を作っている。いつもの克也だ。
 「ありがとう。静香さん。」
 「克也…さま…」
 静香に心配をかけてはいけないと克也は精一杯笑顔を作る。しかしそれは痛々しい微笑みだった。
 ぼーん…
 蔵に置いてある柱時計が鳴る。
 「もう、こんな時間。克也様もう行かなくては…すみません。」
 気がつけば時がかなり過ぎている。こんな状態の克也を蔵に置き去りにしなくてはならない事に、後ろめたさを感じながらも静香は蔵を後にした。
 旦那さま達はしばらく東京にいるから、ゆっくりとお休みくださいと付け加えて静香は蔵の重い扉を閉じるのであった。

 がちゃりと鍵の掛かる音を最後に蔵には静寂が戻る。

 扉の閉まるのを見届けると、克也は絵を描こうと灯りの下に移動した。スケッチブックを探そうとして、湖のほとりで落としてきたことを思い出す。
 背の高い青年。きっとあの人が「瀬人」という人物なのだろう。
 「夜が明けたら急いで、探しに行かなくちゃ。スケッチブック残ってるかなあ…」
 絵を描くことを諦めた克也は明日のことを考えながら眠りにつく。
 高く暗い天井を眺めていると、何故か瀬人の姿が浮かんでくる。
 瀬人……かぁ……
 初めて会ったのにどこか懐かしいような、不思議な感覚かして。
 へんなの…
 眠りが克也をやさしく包んでいった。


 



はうぅっ。やっと克也の事情が書けました。お気づきの方もいると思いますが、瀬人といとこじゃん。しかも叔父や祖父に手篭めにされてるようですね。しかもまた小さいし…ワンパターンですみません。だって好きなんだもん(いばるな!)
静香はさりげなく年上です。モクバと克也が同年代です。
「瀬人」には違和感が無いのですが、「克也」は違和感をバリバリ感じつつ「城之内」にいようかなと思いつつ打って降りました。
お稚児城之内…虐めがいがあるわ。ふふふ・・・
背景はこちらからお借りしました。