傷跡 番外編 『 仮死 』







「にいさま、お帰りなさい。」
 海馬の乗るリムジンが車止めに到着すると同時に、玄関が開き、モクバが兄を出迎える。
「ああ。ただいま。」
 にこにこと、海馬の鞄を持つ弟の肩をポンポンと叩き、海馬は出迎える面子を確認していった。
「城之内は、どこに居る?」
 今夜は開発中の新作を試そうと、城之内に屋敷に来るように、約束をしていたのだが。
「城之内なら、部屋で待ってるよ。」
 鞄を胸に抱えて、モクバは城之内が客間にいると告げる。
「そうか。ならいい。」
 頭を下げる召使の前を通り過ぎ、海馬は城之内の待つ2階へと階段を登っていった。
「……にいさま…。」
 兄の後姿を見送る、モクバの表情が暗く歪んでいることに気づくものは、いない。

 だだ、一人を除いて………




******




「入るぞ。城之内。」
 数回、扉を叩くと、城之内の返事を待たずに、海馬は部屋へ入る。
 そして、


「っ!!!!」


 目の前に広がる、異様な光景に海馬は息を飲んだ。


電気の点いていない暗闇を、テレビの灯りだけが部屋を照らしている。その正面には城之内が微動だにせず座っている。膝元にはゲーム機が出してあり、海馬と新作を試そうと準備していた様子が伺えた。
「……城之内……?」
 海馬の呼び声にも、城之内がこちらを向こうとしない。海馬がこの部屋に入ってきているのは、歴然としているのに、視線はテレビの画面につながれているように動かなかった。
 テレビの照り返しを受けて、城之内が赤や青、黄色に色を変える。
『……海……さま……は…経営のノウハウを……』
 テレビから聞こえてきた、アナウンサーの声と、特定に人物の人名に、海馬は一瞬で城之内の状態を悟った。
「城之内っ!!!」
 ものすごいスピードで城之内の側へと駈け寄り、テレビを遮るように城之内を腕に収め、テレビの電源を落す。
 部屋は再び暗闇と化し、開かれたままのドアの隙間から漏れる一筋のオレンジ色の筋が絨毯の上に伸びることとなった。
「城之内…。大丈夫だから。もう、大丈夫だ。」
 瞬きをすることもなく、声も発さず、身体が強ばって固まっている城之内を腕に掻き抱いて、海馬は何度も、大丈夫といい続けた。血流さえ止まっていたように冷たくなった身体を、強く抱きしめて暖めていく。



 消えたテレビで流れていたのは、世界屈指の経営者をクローズアップした特集番組だった。その回ごとに特定の人間を取材して番組を作る、ありふれた宣伝番組だ。きっとゲームを用意しながらつけたチャンネルで、たまたま剛三郎の回が再放送されていたのだろう。
 海馬はそう納得し、そして、次に、城之内の状態に歯をぎりりと噛み締め、消えた画面を冷たい炎で焼きつくさんばかりの勢いで睨み付けた。

 城之内は沢山の数え切れないほどの人間に抱かれて、生きてきた。
 彼らにとってはひと時の戯れでも、城之内にとっては地獄の時間。そんな時間を幼いころから繰り返し、一人苦しみながら生きることを強いられてきたのだ。
 視界を隠し、城之内を抱いた人間は身元を隠したつもりなのだろうが、城之内は覚えている。
 視界を閉ざすことによって鋭敏になった、聴覚と嗅覚が男たちを覚えていた。
 テレビに出てくる、俳優や、政治家。学者、コメンテーター……正論を垂れ流しする識者ぶった人間の、歪み淀んだ欲望が城之内の生きる糧だったのだ。

 そして、亡き義父、剛三郎もその一人。

自分を守る方法さえ知らないまま、傷ついてきた城之内。海馬と再会することによって、手足に巻きついていた枷を解くことは出来たが、深く抉られた傷口を再び広げる、凶器は日常の中に溢れていた。
 テレビや雑誌から垂れ流しにされる情報が、城之内の心の奥にしまい込んだ、記憶を容赦なく引っ張り出してくるのだった。
 なんてことない事が引き金になり、城之内を混乱させ、苦しめる。現に今も剛三郎の声に反応して、古い記憶が甦ったに違いなかった。
 どれくらいの時間、一人、部屋に居たのだろうか?この状態がどれくらい続いていたのか。
 感情も無く、泣くことも助けを呼ぶことも出来ず、微かに息をしているだけの、屍のように反応のない城之内に海馬の胸が締め付けられた。
 海馬は城之内を腕に納め、
記憶の向こうで、剛三郎に陵辱されたその日、その時間を体感している城之内に呼びかけている。
『大丈夫だから。俺がここに、側にいるから』と。
胸の奥深くまで、抉られた傷を一刻でも早く癒すために、城之内がこちら側に戻ってくるまで、抱きしめ続けた。


 もう、この世には居ない死んだ義父を、今日このとき以上に憎んだことはない。
 もし、許されるならば、もう一度義父をこの手で殺してやりたいと、亡き義父を恨んだ。


*****


 やがて、海馬の温もりが城之内の身体に移ったころ、城之内がようやく、こちら側、に戻ってきた。
「かい…ば?」
 薄暗い部屋の中、自分の身体を支える腕と、すっかり鼻に馴染んだ香りに城之内は安心したように、身体を預ける。
「おかえりっ…て、いつ帰ってきたんだ…。」
 海馬邸に着いて、この客間に通された城之内は、まだ、帰らない海馬を待つためにテレビのスイッチを入れたところまでは、鮮明に覚えていたが……。
「あっ……。」
 画面が現れるよりも先に、誰かの声が聞こえてきて…。フラッシュバックしてきた記憶に飲み込まれてしまったのだった。
「せとっ、おれ……またっ…」
 城之内の股間が小便を洩らしたように、濡れていて
ジーパンが濃く色を変えてる。何をしてしまったのか理解した城之内の動揺を表すように琥珀が揺れる。
「心配することではない。なんともないだろ。大丈夫、俺ならここにいるから。」
 大きく見開かれた瞳から溢れてくる涙を拭い、深い情に満ちた腕の中にきつく、城之内を抱き寄せる。
「怖いことなど、もう、一つもないぞ。誰も、追っては来ない。大丈夫だ。」
 遅れて来た恐怖に震える城之内を抱き、何度も何度も、大丈夫だと、言葉を続ける海馬。
「うん…」
「大丈夫。」
「うん…」
「大丈夫。」

 簡単に口を開ける、心の傷。

 そこから滲み出て来るものは、トラウマであり、ストレスであり、思い出したくない記憶と負の感情の塊。
 城之内も海馬も果てのない、過去の大人たちの自分勝手な欲望の産物に、必死に抗っていた。
 どこまで行けば城之内の傷は治るのか、城之内の心の平穏はどこにあるのか。はっきりとした答えの無いまま、二人は見えない敵に戦いを挑みつづける。

 ただ、そこにある二人の絆を信じて。

 城之内も海馬の背中に両腕を回し、海馬の言葉に何度も、うん、うん、と頷いていった。

 城之内の動揺が納まるのを待って、海馬は部屋の灯りを点けた。
 ぱぁっと明るくなる視界に目を細める城之内だが、暗闇がはれたことに、心のどこかで安堵する。
 床にへたり込んだままの、城之内に濡らしたタオルを手にした海馬が隣に座った。
「話せそうか?」
 城之内の汗を拭いとりながら、海馬は静かに問いかける。
 今日のように恐慌状態になるのは、もう、何度も経験していて、そのたびに二人は沢山の話をする。
 その作業は苦痛だったけれど、
 海馬は城之内の苦しみを受け止めなければ、ならなかったし、
 城之内もまた、海馬に伝えることによって、心が軽くなっていた。そして、古い記憶を昇華させていく。
 楽しいことも、苦しいことも、糧にして二人の絆は固く結ばれていくのだ。
「………ごめん。」
 城之内は話せないと首を横に振る。
 脳内にこびり付いている、剛三郎との行為。剛三郎が海馬の義父でなければ、告げることが出来るかもしれなかったが、今は出来なかった。
 肩を落とし、震えている手に、海馬はそっと手を重ね、
「無理しなくていい。話したいときに話せばいいんだから。」
「…ごめんな。せと。」
 城之内の澄んだ琥珀から、堪えきれない涙が零れ落ちて、絨毯に染込んでいった。
「気にするな。城之内が謝ることではない。」
 そう、悪いのは大人なのだから。
「今夜は泊まって、行くのがいい。
 夕食が食べれるようなら、用意をさせるが。」
 重ねた掌を暖かさとやさしさで包み込んで、海馬は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう…な…せと……今夜は一緒に寝てくれるか?」
「もちろん、いいぞ。」
 昇華しきれない、記憶と折り合いはつくのだろうか。
 まだ、震えている頬をそっと包み込んで、海馬は汗で冷たくなった額に唇を寄せた。





















 先の見えない、暗い闇と、陰謀が、海馬と城之内の知らない所で、動き始める。
 



 静かに確実に。



『コレハ、警告ダ。ジョウノウチ。』



 誰かの、声が闇の中から聞こえてくる。
 



 



 ここまで、読まれた方。お疲れ様でした。
 このお話は番外編というよりも、次につながる序章といったところだと思います。
 
 背景はこちらからお借りしました。
NEO HIMEISM