傷跡.10


私にはあなたの声が聞こえました

その声は小さくて、か細くて、今にも消えそうなものでした

―たすけて―



街の雑踏にまぎれて

傷ついた心と身体を癒すことも出来ず

いつ、壊れてもおかしくないくらいの状態で

それでもあなたは生きていてくれた

地球上の数十億人の中でたった一つの大切な存在

もう見失わない

もう間違えない

2度と離れることの無いように

あなたの伸ばした手を

離しはしない





 「…ん…?」
 城之内がようやく目を覚ますころにはすでに昼をまわっていた。
 カーテンがひかれ薄暗くなっている部屋だが、もれてくる日差しの強さが時計を見ずともそれなりの時間を伝えてくる。
 「へっ……?」
 なんか、左の掌が温かい気がする…と、視線をやるとベッドの淵に突っ伏して眠っている海馬がいた。
 (かい…ば?)
 城之内の手を握り締めたまま、眠りについている海馬。
 手入れの行き届いた指先は城之内の体温と混じって温かい。さらさらとした髪がシーツの上に散っていて、微かに上下する肩の動きに合わせて寝息も聞こえてくる。
 誰にも見せることは無いであろう無防備な寝姿に、城之内は思わず笑いがこみ上げてきた。
 (黙ってたら、良い男なのにな。)
 普段の高笑いや人を見下したような態度から想像できない海馬の穏やかな寝顔。
 (こいつも寝るときがあるんだ。)
 肌触りの良いシーツの心地よさに、再び眠りに引き込まれそうになる……が、徐々に意識がはっきりとしてきた。
 「やべっ…!」
 城之内はベッドから飛び起きるとカーテンをひいた。高い位置に移動した太陽の光が部屋を明るく照らす。
 「まじかよ。何時なんだ?」
 城之内は朝の配達をすっぽかしたことに肩を落とす。時計を見るとすでに昼を回っていた。配達どころか学校にも間に合わない時間だ。

 昨夜も三度目の海馬の指名を受けてこの部屋に来たところまでは覚えていた。シャワーを浴びていて……そこからの記憶が曖昧だった。そして気がつくと今の状態なわけで。
 「とにかく、店長に電話しないと。」
 城之内は椅子の上にかけられた洋服を手早く身に着け、部屋を出ようとすると、背後から声がした。
 「………貴様の働く新聞店には連絡済だ。」
 「うわっ!起きた!」
 配達のことですっかり海馬の存在を忘れていた。
 「当たり前だ。誰がこの部屋をとっていると思っているのだ。」
 「海馬…さまです。」
 海馬の声はひどく不機嫌で疲れているように聞こえる。
 それもそのはずで夕べは城之内の身辺調査書を読み、熱にうなされる城之内の看病で一睡も出来なかったのだ。
 今日の仕事も全てキャンセルし、ようやくうとうとしたところをベッドから飛び出した城之内に踏みつけられれば、海馬でなくとも不機嫌になる。
 「熱はどうだ…まだ熱いな。」
 城之内のおでこに手を添えて体温を確かめる。手が添えられる一瞬、城之内の身体が強っ張った。これは虐待を受け続けたトラウマの為に仕方ないことだ。
 薬が効いているのか熱は少し下がったが、昨日の今日だ、通常なら立っているのもつらいはずだ。なのに、平然としている城之内にいらだつ海馬。城之内を軽々と抱き上げるとベッドへと運ぶ。
 「こらっ!おろせよ。帰るんだってば!」
 海馬の腕の中で抗議する。しかし、体力の落ちている今の城之内がかなうはずもなく、再びベッドの上に身を沈めることになる。
 上掛けを掛けられ体温計を脇に挟まれた……抵抗しようにも海馬の手際のよさに流されてしまう。
 額に触れる海馬の手が、見つめる深い蒼い瞳が優しくて心地よくて、城之内の抵抗する気をそいでいく。
 「食べたいものはあるか?軽いものを持ってこさせよう。」
 ピピッと体温計の音がする。体温を確認しながら海馬は問う。
 「、、、、いらない。」
 喉の奥が熱い。やっと出せた声が詰まる。
 優しくされることに慣れていない城之内は頭まで上掛けをかぶると顔を見られたくなくてごろんと背をそむけた。
 「そうか。では何か飲むか?」
 「いらない。」
 そっけない返事。うわずる声を隠すのに精一杯だった。
 「それより、医者代請求してくれよな。ちゃんと払うからさ。俺んち保険に入ってないからさ。一括払いは無理だけど、必ず払うからさ。」
 「いらん。もともとは俺のせいで出来た傷だからな。加害者として当然のことをしたまでだ。気にすることはない。」
 「たくっ、これだから金持ちはやなんだよ…とにかく払うものは払うから。」
 「好きにしろ。」
 意固地になっている城之内にこれ以上話しても無駄だと、海馬はあっさりとおれた。
 「おう。」
 満足そうに言うと城之内は起き上がった。話したいことが通ればこんなところに長居は無用だ。
 海馬のやさしい瞳に見つめられると背中がむずむずしてくる。心の奥に隠した感情が浮かんできそうになる。

 期待してはいけない。

 望んでも手に入らないのなら欲しいなんて思ってはイケナイ

 「じゃ、俺、帰るから。」
 「もう少し、寝ていろ。」
 平然と帰ろうとする城之内にあきれた海馬は体温計を目の前に突きつけた。そこには39の数字が表示されている。
 きょとんとした顔で全く数字に興味を示さない城之内。と、言うより平熱が何度であるかさえ知らないだろう。この男からは生きるための基本的な知識と感覚が欠如しているようだ。
 「平気だって。久しぶりに熟睡したからさ。身体も軽いし。サンキューな。」
 片手をひらひらと振ってベッドから抜け出そうとする城之内。

 熟睡ではない―――薬が効いたからだ。
 身体が軽い訳ではない―――熱が高いせいだ。

 自分の身体に対してあまりにも無関心すぎることに、海馬は改めて城之内の病の根深さを痛感する。
 生きていくために、他人の心配は無用だと自分の弱さに蓋をして、「大丈夫だよ」といつものオトモダチの遊戯達にむける笑みを浮かべ立ち上がりかけた城之内。
 幼いあの頃、出会う前からも別れた後も、こうして何もかもを覆い隠して生きてきたのだろうか。

 大丈夫なんともないよと。

 海馬は城之内の腕を掴むとベッドに座らせた。
 「―――!」
 掴まれた力の強さに顔をしかめる。どうやら簡単には帰してもらえそうにない。一秒でも早くここを立ち去りたいのに。
 「貴様は人間の平熱を知っているか?知らないのなら教えておいてやる。36℃だ。今の貴様は3℃ほど高いぞ。普通の人間ならおとなしく寝ているものだ。」
 「ふうん。じゃあ、俺は人より高いみたいだな……平熱だ。帰るぜ。」
 海馬のまっすぐな視線に耐えられず、視線を反らす。
 「わかった。なら、少しだけ話をしよう。それが終われば帰るがいい。」
 頑なな城之内の態度にこれ以上引き止めることは無理だと、海馬は話題を変えた。
 城之内は暫らく考えたようだったが無言でうなずく。
 ようやく聞く耳をもった城之内に胸をなでおろすと、海馬は先ほどまで読んでいた調査書と椅子を持って、城之内の前に腰を下ろした。
 「悪いとは思ったが、少々調べさせて貰ったぞ。」
 海馬はクリップで束ねられた分厚い調査書を城之内に手渡した。
 「はあ?調べたって、なにを?」
 不振気な城之内は調査書を受け取ると、書いてある内容に眼を通す。
 そこには城之内の家族構成から家庭環境、人間関係、生活全般の至る所までが記されていた。もちろん、夜ごと売春をしていることまで赤裸々につづられていたことは言うまでもない。
 「な…んだよ!これは!」
 調査書を持つ手が震えている。顔色は青ざめて唇をぎゅっと噛んだ。
 「てめえ、何様のつもりだ!人のプライバシーをなんだと思ってる!」
 城之内が海馬の胸ぐらをつかんで詰め寄った。琥珀色の瞳が怒りに見開かれて、海馬を貫く。
 バサッと床に調査書が散らばった。
 「………」
 海馬は何も答えない。城之内が怒ることは予想していた。
 「………なんで、なんで……」
 城之内には海馬の意図することが分からない。
 ただの興味本位なのか?それにしては手がかかりすぎている。今の城之内は海馬にとって一文の得にもならないどころか、負担にしかならない存在のはずだ。
 退屈しのぎのお遊びの範囲としては、いささか度が過ぎている。
 混乱しきっている城之内をなだめるように、海馬は口を開いた。
 「俺は幼い頃一時的ではあるが施設にいたことがある。」
 「……………!!」
 城之内の目が大きく見開かれた。
 「…なに……?」
 海馬はシャツを握りしめていた城之内の手をほどく。
 「そこで、お前と会った。たった、2日間だけだがな。」
 海馬は半そでのシャツから覗く、城之内の腕に残る傷跡を指でたどった。
 「忘れてはいないぞ。子供の頃のお前と風呂場でケンカをしたことも、嵐におびえて震えていたことも。そして、交わした約束も…………な。」
 迷いの無い青い青い瞳。城之内の嘘など見ぬいてしまうはずだ。

ともだちになろう
小指を絡ませあって
交わした約束
幼い子供どうしの他愛もない約束
でも、それが俺の全てだった

凍りついたように動けない城之内。答えるべき言葉が見つからなかった。

思い出してくれたのか?
あの約束を。
目の前にいる海馬はあの嵐の晩と変わらない優しい瞳。暖かな手。
おれは、待っていたんだ。
海馬が思い出してくれることを。
たった、一言の言葉を。

 「海…馬………せ………とっ………俺………っ」

 城之内の目頭が熱くなる。
 俺はこの腕をとってもいいのだろうか?
 長い時間、苦しかったんだ。
 助けて貰いたかった。
 この手は救いの手なのか?

 「海馬………」
 城之内が何か言いたげに口を開いた。

逃げ出したりなどと思うなよ。
代わりは妹にさせる。
―代わりは海馬にさせる。―

 城之内の頭の中に響く言葉。
 幼いころ、父親に売られたときから、繰り返し繰り返し言われ続けた言葉が鮮明に蘇ってきた。

 そうだ、俺は逃げられない。
 あいつらの手口は分かっている。人の弱みにつけ込んで骨までしゃぶり尽くす。後には何も残らない。
 きっと俺と海馬の関係が知れればそれこそ海馬に迷惑がかかってしまう。
 俺には守る者は一つだけど、海馬には何千何百人という社員とその家族の生活がかかっているのだ。
 もう、俺たちだけの問題じゃないんだ。
 海馬を巻き込む訳にはいかない。
 今ここで海馬の手を取ることは出来ない。多分これからもずっと。
 …そして、城之内は諦めた。

 「くっくっ………っ」
 情けないことに笑うことしか出来ない。
 「…………?」
 「な〜に言ってんだ?海馬?施設がどうしたって?俺と会った?」
 髪をかき上げて自嘲気味に笑うと、海馬の腕を振り解いた。
 「おあいにく様。俺はな施設なんざ数え切れない位転々としてるぜ?育児放棄した親のせいでな。俺、頭わるいからさ〜お前のことなんて覚えちゃいないね。それにこの腕の傷は中坊の時にケンカでやっちまったやつだ。誰かと人違いだよ。残念でした。」

苦しい。
胸が苦しい。
あれほど思い出して欲しかったのに、思い出された今がなおさらつらかった。
あんなに手に入れたかったものなのに、やっぱり手に入れることは出来ないんだな。

 城之内の態度の豹変に海馬の表情がくもった。
 「…………城之内………」
 海馬の手が金色の髪に触れた。

 ごめん。海馬。せっかく思い出してくれたのによ。やっぱりだめみたいだ。

 「俺にさわるんじゃねえっ!」
 城之内が声を荒げる。
 「俺に触れていいのはなSEXの時だけだ。ああ、まだお前とはしてなかったよな。もう日が高いけど今からやるか、夕べのこともあるからサービスするぜ?俺の体はイイらしいぞ。みんなそういってるぜ。お前もそのくちなんだろ?」
 「…………強がるな。城之内。全て知っていると言っているだろう?」
 海馬の真摯な眼差しに気圧されてしまいそうだ。しかし負けられない。海馬を守るために城之内は自分を押し隠す。
 「何を知っているって?俺の何をどの位知っている?俺が売春していることか。あれには書いてなかったからな、ついでに教えておいてやるよ。俺の初めての相手は父親だぜ。ハハっ・・・サイコーだろ。それからは客をとるようになった。あの日から一日たりとも抱かれていない日はないさ。この体で毎日男の欲望を受け止めてたんだ。もちろんお前もその一人さ。」
 独りよがりの強がり。城之内は精一杯悪びれる。借金にまみれて男たちに身を任せるすれたサイテーの俺を演じなければならなかった。
 全ては海馬を巻き込まないために。
 海馬には絶対に気づかれてはいけない。
 「全て、知っている。俺を誰だと思っている。調べれば解ることだ。」
 城之内を強く抱きしめた。暖かくて広い海馬の胸の中に城之内が包まれる。海馬の早く鼓動する心臓の音が聞こえた。

 だめだ、流されてしまう。

 城之内は腕を突っ張る。
 「おれはやっていないことはないぜ。SMだって、ポルノにだって出たよ。金になることならなんだってやってきた。俺はそうやって生きてきた。よく見ろよ俺は汚れてるんだ。」
 「馬鹿者、何度も言わせるな。知っていると、行っているだろう。」
 城之内は首を横に振った。さらさらと髪が音をたてる。
 「おれは、お前とは違うんだ。お前のいうところの昔のガキ同士じゃない。今は大会社の社長としがない一般市民だ。立場が違いすぎるだろ?だから、もうおれにかまうな。」
 「関係ない……お前の過去を知ったうえで、あの晩に誓った約束を果たそうと思う。お前は物覚えが悪いらしいからな、覚えられるまで何度も言うぞ。友達になろう…とな。」
 城之内が一番欲しかった言葉。
 その言葉に城之内の感情が揺らぐ。

 だめだ、流されちゃいけない。海馬を受け入れたら俺は一人じゃ立ち上がれなくなる。

 城之内は思いを断ち切るように海馬の腕を振り切った。
 「やめとけ、一時的な感情だよ。若気のいたりってやつさ。お前は俺の不幸さに同情してるだけさ。俺にこれ以上深入りするな。お前はこの町で一番高い社長室から町を見下ろしてるのがふさわしいだろ。そうすれば俺なんか目に入らなくなる。俺は俺、海馬は海馬。お互い違う道を歩いている。」
 城之内は怖かった。海馬を巻き込んでしまうことが怖かった。
 海馬を傷つけてしまうことが怖い。
 「さよならだ。」
 海馬の腕の中からすり抜けると、飛び切りの笑顔を残して城之内は部屋から出てゆく。

 俺は笑えていただろうか?

 城之内は閉まった扉に体を預けると、体中の力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
 呆けたように宙を彷徨う瞳。
 海馬の言葉が耳に何度も木霊する。

 嬉しくて嬉しいはずなのに、
 悲しくてつらい。
 相反する感情が城之内の心を苛んだ。
 「せと、、、ごめんな。」
 何故か涙は出なかった。

 一人取り残された海馬。
 「馬鹿のもが。泣き顔で笑うんじゃない。余計にほっておけないだろう。」
 海馬は床に散らばった調査書を拾い上げるとページをめくる。
 「あの様子だと、このことには気がつかなかったようだな。」
 そのページには城之内の両親のことが記載されていた。
 二人がどこで知り合い、愛し合い、城之内が生まれてきたのかが。
 昨晩、一度目をとおしたところだったが、改めて読むと頭に引っかかるところがあった。
 海馬は携帯を手に取ると、再び磯野を呼び出す。
 ワンコールで磯野がでる。
 「……もう一度、城之内の母親のことを調べろ……そうだ、特に17年前の辺りを集中的にだ。」

 他、仕事のことをいくつか指示を出す。そして、記憶している番号を押した。

 悪いな。どうやら俺はしつこい性格らしい。
 海馬はこみ上げてくる笑いを噛み潰しながなら、コール音を聞いていた。





  あけましておめでとうございます。
 よい、新年を迎えられたでしょうか?
 とりあえず、短いですがUPします。
 新年早々暗いですね。痛そうな城之内くん…そんな彼が大好き!
 海馬と城之内の会話だけで終わってしまいましたね。
 そうそう、このお話は春までには終わるでしょう。きっと20くらいまでかな…今で10だからようやく半分か。
 6/11のオンリーには行きたいなあ〜(願望)

 傷跡10の背景はこちらからおかりしました。