日曜の新聞配達を終えた城之内はぶらりと自転車を、堤防まで走らせていた。
途中コンビニで買ったおむすびと、ペットボトルのお茶を籠に詰め、ただ、なんとなくペダルを漕いだ。
特に理由はない。
なんの目的もなく、城之内はポケットから携帯を取り出して、ボタンを押す。
春の吹き抜ける早朝の風がなんとなくそんな気にさせたのかもしれなかった。
あの事件の後、借金無くなり、父親との関係も前に向かって進んでいる。
借金から開放された城之内はもう、体を売る必要も無くなり、海馬の有能な弁護士のお陰で生活費には困らないようになった。生活保護を受け、贅沢を望まなければ明日の生活費には困らない財布をもてるようになっていた。
なによりも、城之内名義の通帳には、見たことのない数字が並んでいる。
だから普通の学生のように遊戯たちのように、普通に学校に通えばいいのだと、海馬に言われていた。
しかし、城之内は新聞配達だけはやめようとしない。奨学金を貰っているのが第一の理由だけれど、義理堅く頑なに配達を続けていた。
そのお金が父親の治療費に充てられているのだと、城之内に告白されれば、海馬に言うことは何もできないのだった。
城之内の望んでいたささやかに過ぎる日常が過ぎる中、何故か、城之内自身がその中に溶け込めずにいるのを、城之内は気づいているだろうか…………。
これは、そんな、ただの日常のお話…………
自転車を30分ほど走らせると、目の前広がる河川敷。
河川の堤防には、河に沿うようにグラウンドが一列に並んでいる。
サッカー用。野球用。公園。多目的に使えるもの……。
寒い冬を過ぎて、日々力を増す、太陽に照らされて、時間を惜しむようにすでに、グラウンドはたくさんの人々が集まっていた。
そんな中、おそろいのユニフォームを着た野球チームがいくつもそれぞれに練習や試合を行っている。
時折聞こえてくる歓声が城之内の耳をくすぐっている。
城之内は何気なく、自転車を止めると、緑の下草の覆い茂る土手に腰を下ろした。ビニール袋からペットボトルを取り出すと、蓋を捻り、中身を口にする。
乾いた喉を、冷たいものが潤していった。
「貴様の呼び出しはいつも突然なのだな。」
ふいに頭上が陰り、声が振ってくる。
振り返らなくても分かる。
海馬だ。
言い方は尊大だけど、城之内に話しかけるときには優しさが混ざっていて、城之内は薄く笑った。
「たまには早起きの休日もいいもんだろ?」
ごそごそと、ビニールから同じものを取り出し、隣に腰を下ろした海馬に渡す。
「おごりだぜ。」
「気前のいいことだ。」
海馬も城之内の調子に合わせて、お茶を受け取るとそっと城之内の様子を伺う。
こんなふうに、海馬を呼び出すときは、必ず、城之内は何かを話すときなのだ。
それは、些細なことで、気に止めないでいいようなこと。
遊戯や本田ならば何の意味も無い話ですむが、城之内の場合は違う。
失っていた五感とともに、押し込まれていた城之内を引き上げていくための重要なことなのだ。
足元に転がる小さな石でさえ、城之内にとっては大切な記憶を引き上げる何かになるかも知れなかった。
城之内を受け入れてから、海馬に課せられた城之内を探すという行為。それは、まるで砂漠で一粒の砂金を探すような、終わりの見えない途方な作業だったけれど、その先にいる新しい城之内に会うために、海馬は注意深く、城之内の発する言葉に意識を集中させていく。
「ここってさ、俺がまだ、小さいころは何の整備もされてない土手だったんだ。
今は、こんなにきれいになったんだな。」
城之内は温かい風に導かれるように、その押しやっていた記憶をたどり始める。
「見えるか、あそこでみんな野球をしてる。
俺にもあんなふうに野球をやってたこと、あったんだぜ?
父さんが、チームの監督やってて、俺もいや応なしに入れられて、土日は朝から野球ばっかやってたんだ。
暑い日も寒い日もずっと………。
あんなふうにな。
休みもないし、疲れるし、ゲームも出来なくてさ。でもな、でも……すっげー楽しかった。面白かったんだ。
いつもは仕事ばっかしてる父さんと一緒に練習して。『監督』って呼ばれてる父さんはかっこよかったんだぜ。」
城之内はそこで言葉を切ると、真下のグランドの少年野球をしている一段に目を細めた。
歓声を上げて応援している母親たち。
白球に一喜一憂して、がむしゃらにボールを追う、子供たち。
きっと、今、城之内の記憶の中で、昔の自分と重なっているのかも知れないと、海馬は思った。
城之内の琥珀色が揺らいでいるからだ。
初めは子供のような無邪気に笑っている。しかし、それは次第に負のほうへと流れていくのだ。
城之内の受けてきた虐待がそうさせる。大人のエゴによって何度も何度も繰り返してきたその行為の一つ一つが、盾を持たなかった城之内を抉り、切りつけてきた。
楽しい思い出はそのまま、嫌な思い出へとバトンタッチしていって、気がつけば城之内は眉間に皺を寄せて、膝を抱えていた。
「父さんの会社がおかしくなって、優しくて人当たりの良かった父さんが酒乱になって暴力を振るうようになって、俺たちはチームを辞めた。野球をやめた。
父さんの仕事が上手くいっているときは、みんな、父さんのこと持ち上げていたのに、いざ、大変になってきたら、掌を返したようにみんな冷たくなったんだ。
大人って汚いよ。
野球とは関係ないのにさ。
俺はまだ、野球をやってたかったのにな。
大人って、ずるいよ。」
ああ。
だから、ここなのかと、海馬は納得する。
眼下に広がる穏やかな日常の中に、昔の家族を探している城之内。
「おれ、野球……続けたかったんだ……。」
なんの力も持てなかった子供の頃。
大人の事情で、辞めざるを得なくなって、続けたいという我侭も言えないまま、心の中にくしゃくしゃに丸められて捨てられていた、あの頃の思いがやっと昇華されようとしている。
子供のころ理不尽に感じたことを口にして、城之内は嫌な記憶の先に結ばれていた、大切なことを見つけることが出来た。
「おれ、とうさんとやきゅうやるのだ、すきだったんだ。」
ふっうっと力の抜けた言葉と、城之内はまだ施設にいる父親を思う。
父親もあの日のことを覚えているだろうか。と。
城之内の心の中で、整理されないまま積み重なっていた記憶が一つに組み上げられて、
「おれさ、最終回で、逆転ホームラン打ったことあるんだぜ!」
城之内は興奮気味に暑い夏の日のことを語っている。
「もう、2アウトで1点差がついててベンチのみんなも、応援にきてる親もみんな、負けるって諦めてたんだ。
でも、俺は負けたくなくて、諦めたくなくて、思いっきりバットを振ったんだ。ただ、遠くに飛んでけって、思いっきり、振ったんだ。」
眼下のグランドから親達の歓声が聞こえてきた。
「そしたら、ボールがすっげぇ、飛んでった。
綺麗な弧を描いて、遠くにな。
気持ちよかった。父さんも友達も手を振ってて、俺も夢中で手を振って、んで、ホームベースを踏んだら、みんなが迎えてくれて、父さんもすっげ、うれしそうな顔してて、大きっな手で頭を撫でてくれて、母さんも喜んでた。」
雲ひとつ無い、真っ青な空に吸い込まれるように飛んでいった、白球。
羽が生えたみたいに、軽やかに遠くへ。
城之内は目を閉じて、そのボールを心の中で追っている。
ずっと遠くまで。
ああ。
記憶には新しいも、古いも区別は無い。
どんなに時が経つとしても、色あせることなく、鮮やかなその時が城之内の中にもちゃんとある。
いつだってちゃんと引き出せる思い出。
大切な城之内の過去の時間。
そんな時の中にいる城之内は子供のような顔をしていて、
海馬は目を細める。
記憶の旅を終えた城之内が、ゆっくりと目を開くと静かにこちらを見つめている海馬と目が合った。
「あっ……。」
一瞬、城之内と海馬の周りから音が消え、春風が二人を揺らす。
真っ直ぐに向かってくる青が、白球の飛んでいった青空と同じで、城之内はくすりと笑う。
「?」
人の顔を見て笑うなんて、失礼な奴だと思いつつ、海馬はそんな城之内が愛おしくてたまらない。
「そんな顔で、俺を見るな。キスしたくなる。」
こちら側へ戻ってきた城之内に海馬がすることは一つだけ。
いつもと変わらない愛情で包めばいい。
変わらずに城之内を抱きしめてキスをすればいい。
「………ばかいうな。…………こんなとこで、出来るわけないだろ。」
真剣な真顔で恥ずかしげもなく告げる海馬に、城之内のほうが真っ赤に照れてしまった。
「一向に構わんが?」
どこまで本気なのか気の知れない海馬に、城之内はふいっと視線を逸らし、がさごそとビニールからおにぎりを一つ取り出すと、包装をはがしていく。
「……………俺がかまうんだ…………第一てめえのためだろうが……。」
作業はそのままにぼそりと呟く城之内。
高校生としては大きずぎる看板を、城之内は気遣っているようだ。
頬を染めた城之内は太陽を反射させている川面を目に映しながら、三角形のおにぎりを一口、ぱりっと噛み切ると残りを海馬に渡した。
「…………これで、我慢しとけ。」
本当に小さな声と、城之内の手の中にある一口かじられたおむすびを、海馬は受け取り、同じようにかじりついた。
「一気食いはしなくていいぜ。」
「するわけないだろう。」
海馬の特技はしなくていいと、城之内はいつもの調子で茶化して笑う。
海馬の口の中に広がる、海馬の好きな具の味に、海馬に小さな幸福感が沸いてきて、
「うまい。」
城之内と同じように、かじったおにぎりを返す。
城之内もまた、それを食べて。
おにぎりは二人の中に納まっていった。
「あ〜〜〜あ。なんだか、久々にバットを振りたくなったぜ。」
城之内はゴミを詰め込んだビニールの口を縛り、大きく伸びをする。何もない一日は城之内にとっては、なかなか慣れないことのようだ。
「そだ。海馬。
バッティングセンターでも行くか?たまにはなんにも考えないで、身体を動かすのも楽しいぜ?」
「おもしろそうだな。」
海馬は立ち上がると草を叩いて、城之内に手を差し出した。
「どちらが多く打つが競争しよう。まあ、勝つのは俺だがな。」
にやりと笑う海馬もまた子供のようだ。
「余裕だなぁ。俺のバッティングを見て、驚くんじゃないぜ?」
海馬の手を強く握る城之内。
わぁあ。
わあ。
グランドから再び歓声が聞こえてきて、つられて見ると、ボールが遠くまで飛んでいる。
綺麗な弧を描いて。
真っ青な空に向かって。
城之内の大好きな
あの色に向かって。
う〜〜ん。
なんだか、ほんわかしたものになったような。たまには、こんな傷跡な二人もいいかなと発作のように湧き上がりました。
城之内くんのユニフォーム姿(野球少年)……を一人想像してものっそ脳汁が垂れました。是非彼には、セカンドあたりをしっかりと守って欲しいです。
ただ、これも、この後に続くということで、ここに入れています。
同じ過去を辿るのでも、『仮死』とは対照的なお話になりました。
あと、一つここに入るお話を書いたら、傷跡も次の章に進んでいくでしょう(←予想かよっ)
次のお話は早く書きたいが、きっと、また、石を投げられそうです…
背景はこちらからお借りしました。