幸せな家族。ってなんだろう。 舞に結婚しよう。と、言ってから数日。俺は、このことをずっと考えている。 帰りを待っていてくれる人がいて、温かいごはんがあって、子供がいて、暖かい家がある。 子供の成長を楽しみにして、休日には家族と出かける。 家族のために働いて、老いて、死んでいく。 平凡だけど、それが、きっと幸せなんだろう。 壊れてしまった家族を知っているからこそ、平凡が幸せってことがわかる。 瀬人さんみたいな幸せな家族が欲しい。 瀬人さんみたいにって、憧れてうらやましくて、家族のことを考えたら考えるほど、あの冷たい部屋が異質なもののように取り残されてしまう。 幸せな家族があるのになら、あの冷たい部屋は何なのだろう。 なぜ瀬人さんはあの冷たい部屋にオレを入れたのか。 あの冷たい部屋はなに。 考えれば考えるほど分からなくなって、あのバーに行かなくなった。 瀬人さんと会わなくなってもうどれくらいになる? 本当の名前も、携帯の番号もメールも知らないオレに瀬人さんとの確かな繋がりなんかない。 ううん。 もともと、つながってなんかなかったんだ。 ダブルベッド 12 電話の音とコピー機の機械音。キーボードを叩く音。 人の声に、足音。 朝から、カイバコーポレーションは忙しく動いている。城之内もその歯車の一つとして、外回りの準備をしていた。 「城之内。昨日頼んでた資料は出来たか?」 「はい。大丈夫です。」 コピーした資料とパンフレット。城之内はファイルの中身を確かめて手帳を閉じた。 「じゃ、行くか。」 「はい。」 時計は9時半を指していて、約束の時間までぎりぎりになっている。 ホワイトボードに予定を記入して、城之内は本田の後を追った。 フロアを抜けてエレベーターホールへと。 「社長。今日の予定です。」 カイバコーポレーションの最上階から街を見下ろしている海馬。遥か下には人や車がミニチュアのように見えている。 「ああ。」 秘書の入れたコーヒーを手に街を眺めているその視線は、そこにいるはずの人を探しているようだ。 城之内と会えなくなって数週間。確かな連絡手段を持たなかった海馬にとって、城之内がバーに来なくなれば接点はない。 時間が空くに連れて、出掛けの泣きだしそうな城之内が鮮明に輪郭を整えていった。 あの時抱きしめて引き止めていたら、事態は変わっていただろうか。 城之内のいないマンションは温度と色を失い、持ち主の海馬さえ拒むような冷たさになっていた。 以前はその冷たさが心地よかったのだ。家族の重さから開放されて、一人、夜景を眺め時間を過ごしてきた。 城之内が部屋へ出入りするようになってからは、しがらみのない関係が空っぽの部屋に同化して、城之内の存在だけが海馬の心を埋め尽くす。 他人に感情を動かされるなんて、一人の他人にこれほどまで思考をかき乱されるなんて、城之内に会う前にはなかった感覚に、海馬は戸惑っていく。 もう、この、もどかしく自分を駆り立てる感情の名を海馬は自覚している。 でも、 答えはわかっているのに、答えを伝えたい時には、伝える手段を失くしていた。 いや、 もともと持っていなかったのだ。 「瀬人さま?」 優秀な秘書はここ数日様子のおかしい海馬に違和感を感じているようだ。さりげなく海馬の注意を引くために名を呼んでみる。 『瀬人さん』 「……!」 秘書の声が城之内のそれと重なり、反射で振り返る。が、いるのは城之内ではなく、秘書だ。 「本日は11時より、都内にて会食を兼ねた打ち合わせが入っております。高速も込んでいるようなので、早めに社を出るのがよろしいかと。」 「わかった。すぐに行くことにするか。」 事務的に予定を告げる秘書の声に、落胆してしまう気持ちを抑え、カップを机に置く海馬は、もうカイバコーポレーションの社長の顔をしている。 海馬もまた、必要なものを用意すると社長室を後にした。 ***** 「忘れもんないよな。」 「はい。任せてください。」 エレベーターが下りてくるのを点滅する数字を追いながら、城之内はエレベーターのドアに映るネクタイの歪みを直す。サラリーマンぽいこの仕草もやっと板についてきた。 ちょちょちょいと髪の跳ねを手串で直しているとエレベーターが到着する。 ベルの小さな音とともに、扉が両側に静かに開いていき―――。 城之内と海馬の時間が止まった。 瀬人さ……ん………? 扉の向こうの小さな空間に立っている人に城之内の思考が完全に止まる。 エレベーターは上の階から降りてきて、そこにいるのは確かに瀬人で、皺一つないスーツに隣には頭の良さそうな女性がいて、見間違えることなんてない瀬人。 上から降りてきたエレベーターに乗っていたのは、間違いなく海馬だ。 どうして、ここに……いるんだ……。 城之内は体が固まり動かない。 かけるべき言葉も分からず、ただ、呆然と海馬を見つめることしか出来なかった。 「「「「「社長!おはようございます。」」」」」 えっ!?社長!! そこにいる社員が一斉に海馬に頭を下げる。 瀬人さんが………社長? オレの会社の社長?? 嘘だろ……。 足先から温度が消えていき、震えてくる。 何度も酒を飲み、身体を重ねてきた人が社長だったとは想像だにしてこなかった。 まさか、こんな身近にいたなんて思いもよらなかったのだ。 名前も聞かなかった。 どこに住んでいるのか。どんな仕事をしているのか。 素性も電話番号も瀬人さんに繋がる情報を何一つ聞いてこなかった。 遊びだからと割り切って、軽い調子でやってきたけれど、きっと心の深いところでは聞きたくなかったんだ。 だって、聞けば。 本当の瀬人さんを知ったら、遊べなくなるじゃないか。 本能で瀬人の昼の顔を知るのを恐れていたんだ。 こんなの笑い話にもならない。 社長とSEXをしていたなんて。 海馬と城之内の不毛な遊びの関係の幕切れは、実にあっけなく時間にして数秒のこと。誰も乗る人のないエレベーターは、すぐに扉が締まり下降していった。 しかし、城之内には恐ろしく長い時間で、城之内をあざ笑うかのようにゆっくりと扉が閉まり、その向こうで驚愕に目を見開いた海馬が鮮やかに残像を残していく。 社員が頭を下げているなか、城之内は直立不動のままエレベーターの扉が閉まるまで、直立不動のまま動けなかった。 ***** 「城之内!!!」 「…っ!は、はいっ!!」 肩を強めに叩かれる痛みの城之内ははっとする。とたんに騒がしいフロアの音が流れ込んできて、じんとする肩に反射で手を沿え振り向けば、眉間に皺を寄せている本田がいた。 「本田さん…?」 「今日は変だぜ?外回りのときといい、風邪でもひいたのか?」 「いえ…………。」 心配そうにする本田も無理がない。当たり前だが、あれからの城之内は最悪だった。 外回りのときもも心ここにあらずで、簡単なミスを犯しまくっている。運転には集中しておらず、信号を見落として肝をひやした。 会社に帰ってきてからも、何かを考え込んでいるときもあれば、気の抜けたよう手が止まっていて、仕事は一向に進んでいなかった。 「まじ、おかしいって。」 「そんなことないです。」 「んなわけねえだろ。事故りそうになるわ。向こうで茶をこぼすわ、契約書を忘れそうになるわ。ありえねえぞ。」 「………すみません。」 小さく背を丸めて謝る城之内に、入社してから、仕事を横で見てきたがつまらない凡ミスの連続に、怒るという問題ではなく、城之内の体調を本気で心配をしていた。 「やばかったら、帰っていいぞ。」 「大丈夫です。」 どことなく顔色も悪い城之内が無理に取り繕っている様子に、ため息を一つつくと、城之内の机の電話が鳴った。 「はい。営業3課の城之内です。」 内線の表示に城之内の顔がいっそう強張り、受話器を持つ手が見た目にも分かるほど震えている。そして、分かりましたと小さく答えると、立ち上がった。 「っ城之内!どこ行くんだっ!?」 本田が城之内を引き止めるが、顔色をいっそうなくした城之内は操り人形のようにふらふらと、本田の声も聞こえないまま営業のフロアを出て行ってしまった。 ****** カイバコーポレーションの最上階。 真っ赤な絨毯が敷き詰められ、木目の落ち着いた内装の廊下に城之内がいる。 平社員など最上階にはめったに足を運ぶことはない。上司の指示があるときしか行くことのない別世界は下のフロアの喧騒が届くこともなく、静寂が支配している。 そんな真っ赤な廊下を踏みしめて城之内は指示された部屋の前にいる。 社長室。 傷一つない磨き上げられた硬い木の扉に掛かる小さなプレートには、重みの違う文字が刻まれてる。 この向こうに、瀬人がいるのだ。 ドアの前に立ち尽くし、もう、何分が経過しただろうか。 何度もなんども深呼吸をしてドアを叩こうとするけれど、体温を無くしてしまった身体は動こうとしなくて、鼓動だけが耳元でガンガンと鳴り響いていた。 このまま逃げ出したい衝動に駆られながらも、しかし、ずっとここにいるわけには行かない。 社長命令なのだから。 「………。」 ごくりと湧き上がってくる生唾を飲み込むと、城之内は意を決して扉を叩いた。 「入れ。」 すぐに、中から声がする。社長の……瀬人の声が。 「…………失礼します。」 心臓が口から出てきそうだ。身体が震えて、ドアノブを回すのも覚束無い。萎えそうな自分を叱咤し、ドアを開けると、見たことのない視界が広がってきた。 燦々と日差しが眩しい社長室。 一面ガラス張りの向こうは真っ青な空がパノラマのように広がっていて、それを背に大きく重厚な執務机がある。 簡素だが豪華な調度品で固められた部屋に、負けず劣らない存在感の一人の男が城之内を迎える。 海馬瀬人。 カイバコーポレーションの社長であり、城之内の雇い主。 真っ直ぐにこちらを見つめる蒼い色に城之内は扉の前から動けない。 その色はバーで向けられてやんわりしたものでもなく、ベッドでの熱のこもったものでもない。 映画館で見た愛情溢れたものでもないし、最後の冷たい蒼でもなかった。 ただ、一人の社長の色で、そこには他の感情など一つもない。 社長と社員。 それだけの繋がり。 繋がりと呼ぶにはおこがましい脆弱な繋がりだ。 冷たい汗が背中を伝っていった。 「城之内克也だな。」 「……………はい。」 カラカラに干からびた喉をやっと震わせて、城之内は小さな声をひねり出した。 「そうか。」 ふうっと大きく息を吐いて、海馬は椅子に深くもたれ天井を仰ぐ。 「まさか、ここで働いているとは思いもよらなかったぞ。」 「………。」 抑揚のない声に、城之内は唇をかみ締めた。 海馬は何を思っているだろうか。目の奥が熱い。 「あのっ……!オレ、瀬…社長を…その…社長だなんて…しら…っ…。」 「もういい。職場に戻れ。」 「っ!!」 強めの口調に、やっと出た言葉を飲み込んで、城之内は手を爪が食い込むほどに、握り締めた。 海馬の蒼い色が城之内をきつく貫いていて、玉がすくんだ。 「すみません……。」 社長が言うからには従わなければならない。何も言えず、弁解さえ出来ないまま、城之内は深々と一礼し、ドアを開いていった。 その出来た隙間に吸い込まれる寸前、海馬が一言だけ――― 『酒は飲むな。まだ、未成年だろ。』 と、言った。 そのわずかだけど、瀬人を思い起こさせる声色に、城之内は泣きそうになるのを堪え小さく頭を下げた。 12 城之内くんの苦難は続きます。 |