その、深き深淵の底で。



       












 部屋を真っ白に染め上げる朝の日差しの中、珍しく海馬の隣でまどろんでいる城之内 。
 ふかふかの枕と真っ白な絹に包まれて、気持ちよさそうに上下する肩と背中。そして 人工的でない金色の髪が太陽の光を反射してきらきらと輝いている。



 たまの休日と隣に海馬がいる夢のような時間が過ぎる中、そんな時間を裂くように、 無粋な海馬の携帯が鳴り出した。
 案の定それは、仕事のトラブルからの呼び出しの内容で、海馬はため息を深くつき城 之内を起こさないようにベッドから出る。


「……ん。」
「起こしたか。」
「……ぅうん…大丈夫。仕事?」
「そのようだ。城之内は寝てていいから。」
 ふかふかの羽毛に包まれて、眠そうに目をこする城之内の髪をくしゃっとかき混ぜそ っと囁くと、寝室から隣の部屋へと移動していった。



「……私だ。」
 オフのこの時間に屋敷ではなく直接携帯に掛けてくるほどのことだ。よほどのことな のだろう。これで城之内と過ごせる貴重な休日がおじゃんになってしまうかもしれない 。
 海馬は苛立ちを押さえ、極力平静を装うと通話ボタンを押した。





 それから数分後。
 きっちりスーツに身を包んだ海馬を城之内がベッドに腰をかけて見送ることになって いた。

「2、3時間で帰ってこれそうだから、モクバと朝食をとって待っていろ。」
「ああ。」
「すぐに帰ってくるから。」
「気にすんな。適当にやってるから。」


 それなりに予定を立てて、密かに楽しみにしていた休日が潰れてしまうことに気落ち してしまいそうなのを見せずに城之内は笑っている。

「すまない。」
「こっちのことはいいから、ちゃんと仕事してこいよ。」

 片手をひらひらさせて手を振る城之内の笑顔が、眩しい朝日に照らされている。その 陽光があまりにも鮮烈すぎて、微妙な表情の変化がわからない。
 もし、その変化を海馬が気付いていれば会社に行くことはしなかったはずだ。それく らい些細なことでありながら重要な城之内の心の動きを見抜けなかったことを海馬は数 時間後に泣きたくなるくらい後悔することになる。



 海馬は何度もすまないと繰り返して、城之内を残し部屋を後にした。















******







「腹一杯だぜ。海馬ん家のメシは旨すぎる。ちょっと食い過ぎたかな。」

 モクバとの朝ごはんを食べ終えた城之内は、海馬の部屋に戻るために真っ赤な絨毯が 敷き詰められた長い廊下を歩いている。
 海馬自慢のシェフが作った料理は相変わらず絶品で、ついつい食べ過ぎてしまうのだ 。城之内はちょっときつく感じるベルトを一つ緩めていると、曲がり角の向こうから女 性の話し声が聞こえてきた。


「……あっ…!?」


 その声に驚いた城之内は反射的に半分開いていたドアの向こうに隠れるように逃げ込 んだ。


「………。」


 入り込んだ部屋は薄暗くて物置のようだ。整然と棚が並び、そこにはシーツや掃除用 具、ダンボールなどが積み上げられていた。
 人の気配の無い部屋に、城之内はほっと息を吐くと廊下の先から聞こえてる話し声を 探る。

「……。」

 ぼろい団地住まいの城之内と、世界屈指の社長の家。めったに訪れることが無いから か、城之内は屋敷で働く人が苦手だった。海馬の屋敷で働いているというステイタスが あるからだろうか、プライドが歩いているようなメイドとは極力顔を合わせたくない。
 早く通り過ぎてくれるように念じていると、運が悪いことにドアが開き、メイド達が 部屋に入ってきた。


「まじかよっ!!」


 城之内はサッと柱と棚の影に身を隠す。こんなことになるなら廊下ですれ違ったほう がマシだった。
 絶対に見つかるわけには行かないと、城之内は息を殺して物陰からメイド達の様子を 伺う。



 そんな城之内に気がつくはずもないメイドは取りとめの無いことを話しながら、ガシ ャガシャと、引いていたカートからシーツや掃除道具を下ろしていた。
 女性特有の噂話に花を咲かせつつ、所定の場所に道具をしまっていく。


(早く、行ってくれ…っ!!)


 早く出て行ってくれと、祈るような思いで気配を殺している城之内の耳に、特定の人名が入ってきた。



「ねえねえ。知ってる?瀬人さまの噂なんだけど。」




(………噂?)
 つつっと城之内の背筋に汗が一筋流れる。



「何?」
「ふふふっ。私も最近聞いたんだけどね。瀬人さまと、あの子のことよ。」
「ええっ〜〜〜。何よそれ〜。もったいぶらないで教えてよ。」


(あの……こ……)
 メイドの嫌な物言いに、嫌な予感がして口の中がからからに乾いてくる。



「ほら、あの子よ。最近、瀬人さまにくっついてくるようになった子よ。たしか、城之内っていったかな。今日も来てるじゃん。」

「あー。あの…そういえば最近よく見るようになったかな。瀬人さまの友達なんでしょ 。瀬人さまに友達なんて珍しいなって思って見てたけど。」

「違うわよ。友達じゃないんだって。私も聞いただけなんだけで、大きな声じゃ言えな いんだけどね………。」


 メイドの一人がもう一人のメイドに得意げになにやら耳打ちをする。
 一瞬、部屋に静寂が来て、そして、


















「ええっ!!!!!うそっ!!それ、信じられない!!」









 メイドが驚きのあまりに、大声を出した。





「しーっ!!声が大きすぎっ!」
「ごめん。だって、信じられなくて。それってマジなの?」
 

「本当なんだってば。確実みたいよ。」
「うそっ!まじ?やだっ!!」



「私だって信じたくないわよ。憧れの瀬人さまがゲイだったなんて。」
「やだやだっ。そんなにはっきり言わないでよ。リアルすぎ。変な想像しちゃうじゃな い。」
「私だってや〜よ。でもさ、あの子、夕べも瀬人さまの部屋に泊まったんだから。客室 も用意したのにさ、入った形跡さえなかったのよ。」
「嘘〜〜〜なにやってんのって感じ?あ〜〜。ちょっと瀬人さまに幻滅かも……。」
「だよね。私も瀬人さまに憧れて、ここに来たクチだもん…。」
「玉の輿ねらってたのに〜〜。」
「私だってそうよ。ゆくゆくは瀬人さまに見初められてこのお屋敷の女主人になるつもりだったのに。」




「はーーぁ。」
「はーーぁっ。」



 がっくりと肩を落とすメイド二人。息のあったコンビはまるで漫才師のようだ。



「でもどうして?今までそんなそぶりなんかなかったじゃない?女っ気も無かっ たけどさ〜。」
「でしょ。だから、きっとあの子が瀬人さまのことたぶらかしたのよ。」
「マジ!?」

「うん。だって、あの子ってさ、親がアル中で、ものすっごい借金があってそれを瀬人 さまが肩代わりしたみたいよ。」

「えっ〜!なにそれっ?」

「それに、瀬人さまの前はやくざの情婦で、売春もしてんだって。」

「結構、可愛い顔してるのにね。人は見た目によらないわ。」

「相手がやくざじゃない。犯罪がらみのこともやってたみたい。」

「で、どうしてそんな子が瀬人さまとくっ付くのよっ!!」

「瀬人さまと、高校のクラスが一緒で、あの子もデュエルするんだってさ。きっとその 辺から瀬人さまに近づいたのね……たく、何の魂胆があるんだか。」

「最低。瀬人さまのお金を狙ってたんじゃないの?借金を肩代わりさせたんでしょ。私 の瀬人さまにゆるせない。」

「絶対、やくざの力とか使ってさ、瀬人さまの弱みとか握ってるんだわ。それで金を巻 き上げたのね。ひどすぎわ。」

「だね。そうじゃなきゃ、瀬人さまがあんな子を屋敷にあげるわけないわ。」

「だわ。あ、それ、瀬人さまのベッドシーツよ。」

「………やだっ。汚い。早く言ってよ。触ったじゃないの。」




 真っ白なシーツが床に落ちる。



「夕べも瀬人さまの部屋でなにやってたんだか。」

「………想像したくもないわ。最悪。」

「あんな子に捕まっちゃうなんて、瀬人さま、可哀想すぎるわ。ムカツク!!」

「あの子さえいなかったら、瀬人さまも道を外れなかったのよね。」

「そうそう。瀬人さま、最近帰りが遅いじゃない。きっとあの子にまとわりつかれてる から、会社から出れないのよ。」

「あー。だから、今日も会社に行かれたのね。急に慌てて出て行かれるから、緊急事態 かと思っちゃったわ。」

「せっかくのお休みの日に、ここに上がりこんでくるなんて、まったく失礼しちゃうん だから。瀬人さまの休息がどれほど大事なことかわからないのかしら。」

「わからないから来るんだけどね。」

「最低すぎだわ。それ。あんな子、いなくなればいいのに。」

「ほんと、私の瀬人さまを返して欲しいわ。事故にでもあってくれないかな。そしたら スッキリするのにね。バチが当たったんだってさ。」

「ついでにこの世からいなくなってくれてもいいわ。」

「過激すぎる発言ね。」

「いいんじゃない。私の瀬人さまを誑かした罰なんだから。」

「だわ。」


 メイドはうんうんと頷いて、シーツをモップの柄で持ち上げると、惜しげもなくゴミ 箱に捨てる。

「こんなの捨てちゃえ〜っと。」

「捨てちゃえ。汚らしい。」


 まるで言いがかり的な苛立ちをゴミ箱にぶつけ、メイドの話が過激さを増してきたと き、


「ほらほら、無駄話はやめて、持ち場に戻りなさい。いつまでサボっているのですか? 」


 メイドの声を聞きつけて、手をパンパンと叩きながら中年の女性が入ってくる。


「「すみませ〜〜ん。」」



 中年のメイドに追い立てられて、メイド達は部屋から慌てて走り去っていく。




「………最近の若い子は何を考えているんだか。つまらない噂話に夢中になって。」
 中年のメイドは深いため息混じりに、残された掃除用具を片付けて、
「瀬人さまも…何を考えておられるのか……。困ったものですね。」
 ぽつりと呟くと、部屋を後にした。








 カチッとスイッチが切れる音とほぼ同時に部屋の扉が閉まり、残された城之内を暗闇 が包んでいく。

「    ……     」

 柱の影から、一部始終を聞き、目撃していた城之内。そのあまりにも的確で湾曲した 事実に、全身脂汗でびっしょりになっていた。
 壁に体を押し付けて、がたがたを震えて、漏れる嗚咽を塞ぐために口元を両手で押さ えたまま、瞳孔が開いたその瞳には何も映っていない。


 しかし、その目の裏にはメイドの歪んだ口元が。耳には声がこびり付いていて、壊れ たレコードのように同じところを繰り返して離れない。





 キタナイ。

 サイテイ。

 セトサマガカワイソウ。

 シンジャエバイイノニ。



 その言葉の一つ一つが、城之内の塞がらない傷跡を抉り、引き剥がしていく。



『キタナイ。』
 夜毎、抱かれていた体。
 金のために、欲望にまみれて、命じられるままどんなことでもしてきた。
 違う。そうじゃないと生きてこれなかったんだ。


『サイテイ。』
 汚れきった体と罪を隠して、嘘をついて、友達づらしてきた。
 遊戯たちを騙している。
 違う。遊戯とは友達なんだ。約束したんだ。信じるって。

『セトサマガカワイソウ。』
 アイツとは何の関係も無いのに、手を煩わせてしまった。
 ただ、海馬のことが好きなだけなんだ。











『シンジャエバイイノニ。』












 おまえなんてうまれてこなければよかった。
 おまえなんてうまなければよかった。











 ケガラワシイ。








 屋敷に訪れるたびに感じていた違和感の元がはっきりとした。
 メイドや使用人の痛い視線と侮蔑の色。客人として扱いながら、どこか慇懃無礼で冷 たい態度。
 使用人たちはありきたりの丁寧な仕草で城之内に接しつつも、招かれざる客として敬遠していたの だ。

 いつから?
 いつから、メイド達は城之内の過去と海馬との仲を知っていた?
 ずっと城之内のことをそういう目で見ていたのだ。
 ただ、城之内が知らなかっただけで。







 けがらわしい。








 もう、ここにはいられない。
 これない。






 廊下ですれ違う使用人。庭を手入れしているおじさん。料理を作ってくれた人……みんな、城之内の穢れた口外出来ない過去を知っているのだ。

 にこにこと笑顔でいる下では、冷たく城之内を見下していて、敵視して いて………。


 むき出しの敵意を知った今、城之内の顔色が無くなっていく。
 そして、


「   げえっ  」



 両手で抑えていた口元からさっき食べたものが逆流してきた。
 



「  うぇっ   」



 今までにない嘔吐感に立っていられず城之内は、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
 シャツを着ていても判るくらい腹が凹み、背中を猫のように丸めて、何度も何度も嘔 吐を繰り返していく。



「   ぁっ……げほっ……んぐぅっ…  」


 食べたものが床に広がっていき、その上に涙が落ちていく。



 吐いても、吐いても。
 胃が空っぽになっても、吐き気が胃の痙攣が治まらない。吐くものが無くなって胃液 すら出ないのに、それでも吐き続ける城之内。


 腹が痛くて苦しい。
 勝手に痙攣する腹の苦しさに耐えかねて、ぎゅっと床に爪を立てたら、何枚か剥がれ た。


「  …ぃっ……っ!!… げほっ   」




 薄暗い倉庫の影でうずくまり、何度も吐きながら、涙を流しならが、城之内は誰かと もなく謝り続けている。
 繰り返し、だた、


「ごめんなさい……。」

 と。
 許してくれる人はいないのに。




 城之内の嗚咽と言葉さえ聞き取れない小さな声が、いつまでも暗い部屋の中で繰り返 されていく。








 海馬………ごめんなさい。



 助けを呼ぶ声さえ、暗闇の中にかき消されていった……・。















******









 それから数時間後。
 ようやくトラブルを解消した海馬が屋敷に戻ってきた時、そこに城之内の姿は無い。


 朝、出たままと変わらない寝室に城之内はいなくて、テーブルの上には無造作に置かれ たままの財布と携帯電話が残されたままになっていた。

 そこにいた気配を残しながらも、冷たくなったベッドのようにずっと前にいなくなってしまったような消え方に、嫌な予感が走る。




「……………城之内?」





 窓から差し込む日差しが眩しい。


 









******








「  はぁ  はぁ……。 」

 冷たい硬い鉄の扉をくぐって城之内は、待つ人のいない自宅に帰ってきた。
 あれからどうやって海馬邸を出て、どういう道のりでここまで帰ってきたのかも判らない。という今もその視線は宙をさまよっていて、虚ろなままだ。家に着いたのか自覚しているのかも怪しい。


 重い扉が重力により閉まり背後でがちゃんと音を立てる。


「  は……は……ぁっ…  」


 父親はまだ施設に入院したまま。
 母親も静香も田舎にいてここにはいない。
 誰一人いない家はしんと静まり返っていて、空気すら動いていなかった。なのに、狭い玄関の向こうには………誰もいないはずの家にいたのは………。





『お帰り。まってたよ。』



 小さな少年………傷だらけの少年が立っていた。


「    だれ……だ?   」
 その少年は体のあちこちを怪我していて、汚れた不衛生な服を着ていた。もちろん汚れているのは洋服だけではなく、少年自身も汚れている。
 垢で首筋が黒くなっているところを見ると、何日も風呂に入っていないのだろう。
『誰だなんて、失礼だなぁ。俺は俺じゃないか。』
 目の前に立つ少年の唇が、真っ赤な唇が歪み、城之内に悠然と笑いかけてくる。その不気味な威圧感に、部屋の温度が下がったようだ。
「誰だよ……てめえ…ここは、俺の家だ…。」
 えもいわれない恐怖から逃げるため、ぶるぶると頭を振る城之内。もう城之内にはこの少年の正体が薄ぼんやりと分かっていた。
 そうだ、少年を見た瞬間に分かっているんだ。

 目の前にいる少年は―――。


『俺は君だよ。城之内克也。』

 痩せこけ、今にも倒れてしまいそうな少年は、真っ赤な唇を三日月の形に開いて、絶望的にそう告げる。



「うわっぁあああっ……っ!!」
 喉に悲鳴が絡まって、上手く叫び声にならなかった。城之内は瘧のように震えながら、後ずさりし後ろ手で、扉をあけようとする。しかし、鉄の扉は溶接されたようにビクともしない。

『また俺を置いていくの?俺だけをここに残していくの?酷いよ。ずるい。君はズルイ。だから、もう、行かせないよ。やっと捕まえることが出来たんだから。』
 ガタガタと扉をゆする城之内に少年がゆっくりと近づいてくる。
「くっ……っ!!来るなぁっ!!」
 城之内は金色の髪を振り乱して、後ろに下がろうとするが、背後を扉に阻まれて逃げるところなんてない。
『俺、ずっと待ってたんだぜ。俺がここに帰ってきてくれるのを。寂しかったんだ。』
「ひぃっ…」
 両手をだらりと下げ、ふらふらと歩く少年は昔の城之内だった。げっそりと痩せているのに、栄養不足の頼りない足取りなのに、目だけは爛々としていて、唇が血を啜ったように赤い。
 幽鬼のような、みすぼらしい城之内がそこにいる。
『お帰りなさい。』
「うわっぁっ!!」
 城之内はぎゅっと目を閉じて、少年を弾き飛ばすと家の中に掛け逃げていく。



 こんなのは異常だ。
 誰もいない家に、ましてや、昔の自分がいるなんて絶対にありえないと正常な意識が城之内にそう告げている。
 ありえないと頭の大部分では分かっているのに、それでいて、否定出来ない自分がいて、城之内は短い廊下の隣にある台所へと逃げ込んだとき、再び、あの、嘔吐感が腹からこみ上げてきた。
「うっ……ぐぇ…。」
 流しの淵に手を掛けて、吐く。しかし、空っぽの腹から出てくるのはわずかな胃液ぐらいで、城之内を更に苦しめる。
「げほっげほごほっ……。」
 涙を滲ませて、嘔吐を繰り返す城之内のシャツを誰かが引っ張り、また、あの声がした。

『逃がさないよ。みんなで待ってたんだから。』
「ひやっっ!?」

琥珀色がぎらりと光って、



『 ま っ て た ん だ    み ん な で 』

「    ぐぅっ   !?  」


 くすくすと無邪気に笑う少年の背後に、もっといるはずの無い人がいて、城之内の呼吸が一瞬止まった。

『いつまで、ほっつきあるいてんだ。クソガキ。』
 父親が、
『悪い子ね。』
 母親が、
『おにいちゃん。』
 静香が、いた。


「……う…そだ。」
 城之内は崩れそうな身体を精一杯流しに掴って支えて、目の前に現れた少年と父親と母親と静香を凝視する。
 忽然と部屋に現れた家族。みんな少年と同じく、酒に汚れ、生活に疲れ、泣きつかれた、澱んだ色で城之内を見ている。
 ただ、じいっと城之内を見つめていた。
「うそだ…うそだ…。」
 昼間からの恐怖に、がたがたと身体の震えが止まるどころか、激しくなっていくばかりだ。息をするたびに、狭くなった喉がヒューヒューと鳴る。


『うそなんかじゃないさ。とうさんも、かあさんも、しずかも、みいんなおこっているんだ。おれのせいで、ふこうになったって。おれがいるから、こわれちゃったって、おこってるんだよ。』

 少年が笑う。

『なのに、ずるいよね。ひとりだけ、しあわせになろうとするなんて。おれたちをおいて、ここをでていってしまうなんて、ずるいよ。ほら、みてごらん。おれにしあわせになる権利なんかあるの?おれがなにをしてきたのかよくみてごらん。ほら。』



 少年が『ほら』、といったと同時に、鼻をつく異臭がして、一瞬で部屋の様子が変わった。


「ひゅっ……ぁぁぁぁ……。」


 太陽の光の差し込んでいた明るい部屋が薄暗くなり、綺麗に片付けられていたはずのところに所狭しと溢れるゴミの山。
 張り替えられたはずの壁は染みだらけで、茶色くくすんでいる。
 昔のこの家がそのままの状態で戻ってきて、膝が抜けた城之内はその場にへたり込んでしまった。
「ぁぁぁぁっああっ!!」
 髪をぐしゃぐしゃに掻き毟り、消してしまいたい過去の記憶に、嗚咽を漏らす。そんな城之内を更に追い詰めるように、少年が城之内の髪の毛を乱暴に掴み上げる。
「いっぁっ…!」
『だめ。目を反らさないで。ちゃんと見るんだ。俺の本当の姿をっ!!!!!』
 城之内の閉じた目が痛みによって開いていき、そして、そこに映ったものに、今度こそ本当に絶叫した。
「うわあああああああああっ!!!!!」



 限界を通り越した汚い部屋で繰り広げられている昔の時間。

 
 テーブルで父親に犯されている城之内。
 半分開いた襖の向こうで、知らないおじさんの腹の上で喘いでいる城之内。
 父親の部屋で足を開いてあられもなく、盛っている城之内。
 椅子に座った父親の奉仕をしている城之内。

 堅く閉まった押入れの中から聞こえてくるのは、ごめんなさいごめんなさい。と泣いている城之内の声。
 玄関先で、父親に殴られている城之内。
 風呂場で父親に蹴られている城之内。
 
 流れる血を拭うこともなく、泣きながらゴミ袋を漁っている、少年の城之内。


 台所では両親が喧嘩をしていて、静香は部屋の隅っこで膝を抱えて泣いている。




「  ぁ   ぁ   ぁ     」
 忘れられるはずのない過去が津波のように押し寄せてきて、城之内の大きく見開かれた瞳から涙があふれ出てきた。
 もう、現実とか異常だとか関係ない。だたこの目の前にあるのが真実なのだ。
 汚く、誰にも知られたくない真実。

 もちろん、海馬にも知られたくない醜い己の姿がそこにあった。
 誰にも見せたくない醜くて汚い城之内。



『オマエナンカウマレナケレバヨカッタンダ』
 父が笑う。
『ドウシテウマレテキタノ』
 母が泣く。
『オニイチャンキタナイヨ』
 妹が両目を塞いでいた。

 狭い部屋のあちこちにいる、たくさんの家族がみんな、城之内を攻め立てている。一斉にこちらを向いて、真っ黒な虚の眼光が城之内を絡みとっていった。


「 ぃ……ぁ    ぁ……ひぅっ…  」
 悪い夢を、幻を見ているようだ。
 床に座り込んだまま、ひくひくと喉を引きつらせて城之内は金縛りにあっている。もう、呼吸でさえ怪しい。
 流れ落ちる涙が床に染みを作り、止まらない。


 そんな中、ゴミの山に埋もれていた少年がむくりと立ち上がると、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
「   はっ  ぁ  ぁ   」
 逃げたいのに身体は動かない城之内は、精一杯首をふり、それ自体を否定するけれど、少年は消えない。消えるどころか城之内を見下ろす側に到達すると、
『はい。』
 1本の包丁を鼻先にかざす。
「………。」
『おれにあげる。いるでしょう?』
 ああ、少年の口が真っ赤だ。
 城之内には分かっているだろうか。その包丁はかつて城之内に振り下ろされたものと同じだということを。
「………。」
 震える手が引き寄せられるように、その包丁を握ると、鈍く光る切っ先を見つめた。
『つかってごらん。楽しいよ。』
「………ひゅっ……。」


 見上げると、少年が寂しそうに笑っていて……笑っているのに、泣いていた。その透明な琥珀の色とぶつかった時、金縛りが解けた城之内は悲鳴のような叫び声をあげて、包丁を少年に突きつけた。



「あああああああああああああああああああああああああっ」



 横一線になぎ払った包丁を、テーブルで城之内を犯している父親に突き刺し、自分の部屋で城之内にのしかかっている男の腹に刺した。そのまま、廊下で城之内を殴っている父親に向かっていき、台所で喧嘩をしている両親をなぎ払う。

「あああああああああああああああああ」


 城之内が包丁を振り回すたびに吹き上がる、真っ赤な血が薄汚れた壁に飛び散り、天井をも濡らす。瞬く間に、部屋が赤く染まっていって、その真ん中で、返り血を浴びた城之内が狂ったように咆哮していた。


「ああああああああああああああああ」


 真っ赤な血を吹き上げながら、切られた父親や男がばたばたと倒れていき、最後に残ったのは、一人の少年。
 包帯だらけの痩せこけた、城之内。




『もう、おわりなの?』
 髪を振り乱して、息を切らしている城之内は対照的に、痩せこけた城之内はくすくすとあざ笑いながら、血を滴らせる包丁の切っ先を真っ赤に熟れた舌で舐め上げていった。
 赤い舌が更に赤くなって……

「ウワあああああああああああああああああああああ」
 城之内は包丁を投げ捨ててて、城之内を床に押し倒しその首を力一杯に絞めた。
『ふふふっ』
「はあっはあっはあはあっははははっ!」
 それでも、笑うことを止めない城之内を、城之内はもっと締め上げていく。
 首を絞めながら、城之内は泣いていた。恐怖に慄き、震えている号泣する。止まらない涙が城之内の上にぼたぼたと落ち、城之内を濡らしていく。
『ふふふっふふっ』
 全く抵抗をしない城之内は、真下から大きな眼を見開いて、笑い続けた。
「やめろっおおおおっああああああ」
 城之内はありったけの力を込めて、首を絞める。両腕はぶるぶると震え、筋肉が痙攣して、血管が浮き、汗が珠を作っている。
 その腕に残る一筋の傷跡。
「あああああああああああああああっ」
 城之内の叫びと共に、その傷が、裂けていった。





 内側から。





 傷口が開くと同時に、そこからにじみ出てくる真っ赤な血液。それはどの色よりも赤くて鮮烈で、城之内の腕を伝い、城之内を濡らして塗りつぶしていった。
『   ふ    ふ     うっふ    ・・・  』
 城之内が真っ赤に濡れると、満足したのか、ようやく城之内の笑いが終焉を迎えて、人形のように動かなくなる。


「うぁっ  ひぃっくっ   ぅっ   」
 ようやく訪れた静寂に、呆然と座り込んでぼんやりと部屋を見渡すと、そこは血の海と化していた。天井から血が滴り落ち、壁も、床も真っ赤だ。テーブルと椅子は倒れ、ゴミの山が散乱している。いつのまにか、見知らぬ男や、家族は消えていて、
 城之内と、小さな城之内がそこに取り残されてしまっていた。

「   ぁ  ぁぁ  っあ  っ    」
 完全に混乱した城之内は、処理できる許容範囲を超えた現実に、思考がドロップアウトしていって、城之内に覆いかぶさるように倒れこんでいく。

 ぴしゃんと真っ赤な海に沈んでいく城之内にはもう、助けを求める気力すら残っていない。
 ただ、目の裏に一瞬だけ海馬が浮かんだような気がして…………















「城之内っ!!!」




 


 意識が赤くフェードアウトしていった。











*****








 海馬が城之内のところへ駆けつけたとき、起こってしまった非常事態に言葉を失った。

 城之内のいなくなった寝室で、よぎった不安が現実のものとなっていたからだ。



「城之内っ!?」
 海馬は靴を脱ぐのももどかしいなか、冷たい木の床の上でぐったりしている城之内を抱き起こす。
「城之内っ!!どうしたっ!!!目を覚ませっ!!」
 海馬は必死に城之内に呼びかけるが、反応は無い。
 腕の中の城之内は全身から脂汗を滲ませて、震えていた。呼吸も浅く不規則で時折手足が床から離れるくらい、痙攣している。
 その腕からは血が流れていて、海馬は慌ててその血を拭い取った。
「   ????   」
 そして、止血しようと傷の具合を確かめるが、海馬はその腕に眉間に皺を寄せる。血をふき取った腕には傷が無いのだ。
 城之内の血液を吸い込んだハンカチは赤く色を変えているのに、流れるほど血を吐き出していた腕には傷一つ無かった。ただ横一線に走る古い傷跡意外は何もないその腕。
 爪先が茶色く血が固まっているのに対して、綺麗な腕が力なく床に垂れていた。
「爪がはがれてる…なにが起こっているのだ……。」

 海馬の知らないところで起こっている非常事態に、萎えそうになる思考をフル稼働させて、腕の中にいる城之内に神経を集中させていく。ここから逃げてはいけないのだ。
 その当人は目を覚ます気配はないのに、閉じられてた目元からは涙が止まらず、口元が同じ形を繰り返していた。


「  ごめんなさい  ゆるしてください  」


 まるで筋肉にすり込まれたような唇の動きに、海馬の胸が締め付けられる。こんな時の城之内が連れ込まれている心の場所は酷くつらいところなのだ。いつもならば城之内が自力で戻ってくるまで、待っているが今日はそうしてはいけない気がしてならない。
 胸の中でざわつく焦燥感に追い立てられた、海馬は城之内に呼びかける。
「城之内っ!!!俺だっ!!分からないのかっ!!」
 頬を叩き、身体をゆすって深い底に沈んでいる城之内を探すこと数分、堅く閉じられていた目蓋がぴくっと痙攣して、
「城之内っ!!」
「   ぅ   ぁ    ?  」
 ようやく戻ってきた城之内に胸を撫で下ろし、ぎゅっと抱きしめようと腕に力を込めると、



「いやああああっ!!!!!!!!!」
 城之内が急に暴れ出したのだ。

「城之内っ!!!」

「ひいっあやあああやっああっ!!いやっいあぁあっ!!!」

 海馬の腕を振り切るために身体を捩り、手足をばたつかせて暴れていく。そこにいるのが海馬だということも分からないのだろう。
 必死の形相で身体をよじり、強く掴む腕を振り切ろうとする。


「ごめんなさいっ!!もう、しませんっしないからっ!!やめてっ!!!いやだっ!!」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにして、髪を振り乱して、こんなに錯乱している城之内は初めてで、城之内を押さえつけるので精一杯だ。
 
 


 何が起こったのだっ!!




 城之内の尋常でない暴れ方に、上着のポケットから注射器を取り出すとためらいなく、城之内に使った。主治医から不測の事態のときの為にと渡されていたものだった。簡単な説明を聞きながら、使うことのないことを願っていたのだが。
 針を抜いて数十秒もすると医者の言ったと通り、城之内の身体から力が抜けていった。
 今度こそ本当に眠りの中に意識を落とした城之内が、力なく海馬の腕の中に治まった。まだ、呼吸が不規則だけれど、それも時機に整っていくだろう。


 ようやく訪れた静けさに海馬はほっと息を吐いた。しかし、これで問題が解決したわけではない。とにかく城之内を布団に寝かそうとしたとき、海馬は部屋の違和感に気がついた。


「……?」


 城之内の怪我に回復をまってリフォームした城之内の家。ゴミを全て片付け、破れていた襖を入れ替えて、壁紙も貼りなおした。床も天井も磨き上げ、使えなくなった家電は新品に買い換えた。見違えた部屋に城之内でさえ驚いていた。
 ここで父親を待つのだと、うれしそうに語っていた城之内が記憶に新しい。
 海馬はそれ以来この部屋に来ることはなかったからだろうか、違和感を感じ取ることが出来たのかもしれない。


「まさか……っ。」
 あの日から数ヶ月が経ち、城之内はここで生活をしてきたはずなのに、この部屋には生活感がないのだ。
 食器はもちろん、テレビでさえ見た形跡がない。もしかしたら、リモコンでさえ触っていないのかもしれない。料理をした形跡もなくて、ガス台は綺麗なままだ。ゴミすら落ちていない。かろうじてベランダで揺れている洗濯物が城之内の存在を感じさせているだけだった。
 あの時のまま時間が止まったような部屋に、海馬の背中に汗が伝い落ちる。

「俺は、なんということをしてしまったのだ…っ。」
 病室で眠れないと不安がっていた城之内をどうして一人、この家に帰してしまったのか。どんなに綺麗にしても、見せ掛けだけを綺麗にしても、城之内にとってここは地獄でしかないのだ。
 城之内が生きてきた中で一番つらい記憶のあるこの家。
 退院してから数ヶ月、城之内は一人ここでどんな思いで過ごしてきたのだろう。一人でどうやって長い夜を越えてきたのか。
「俺はなんて馬鹿だったんだっ!」
 台所に倒れている椅子とテーブル。そして、床に散らばった全く手をつけていない薬に胸が痛い。処方された薬を飲んでいなかったのだ。
「城之内っ。どうして……っ!!」
 腕の中で眠っている城之内を抱きしめる海馬の背中が震えている。


 


『 大丈夫だぜ。 』

 城之内はそういって笑っていた。
 大丈夫だからと、そう言って辛い感情飲み込んでいたのだ。ずっと昔から。『大丈夫』だなんて、そんな簡単な嘘を見抜けなかったのか。
 城之内は大丈夫と自分を誤魔化してきたのに…。

「大丈夫なわけないのだ……っ…その結果がこれではないか…。」
 あんなに城之内を支えるのだと決意したのに、城之内の言葉と見せかけの笑みに安心し、自己満足して、真実を見ようをしなかった不甲斐無い自分自身が情けなくて仕方がない。
「……俺では駄目なのか?城之内の苦しみも悲しみも受けとめる器はなかったのか?教えてくれ城之内。」
 ぽたりと、城之内の頬に雫が落ちる。


 海馬の部屋で、街中で、河川敷で。
 不意に浮き上がってくる城之内の記憶を整理していくだけではいけなかったのだろうか?
 流れる涙を拭いて、抱きしめて、城之内の心の部屋に整理されないまま放置されている思いを一枚一枚整頓して並べていくのではいけなかったのか。


 長い時間を費やして整理した、心の部屋を一気にぐしゃぐしゃにして、これまでの努力を無駄にしてしまう、衝撃に海馬は成す術を持っていないのだろうか……。もう、昔の城之内は戻ってこないのか。


「違う。俺は認めない。絶対に城之内を取り戻してみせる。」
 もう、一人にはさせないと堅く誓い、海馬は城之内を抱きしめた。









*****









「……あれ……?」
 ふうっと意識が目覚めたとき、そこは見知らぬ部屋に変わっていた。ふかふかの布団の肌触りが気持ちよくて、まだ重い目蓋をこする。
 ここはどこだろう。
 初めて見る家具に部屋。海馬の屋敷でも城之内の家でもないようだ。だけど使い心地や部屋の雰囲気がどこか海馬に通じているようで、少し安心できた。
「……。」
 窓の外はすっかり暗くなっていて、ドミノ街の灯りが見える。
「夜?」
 城之内は時間の流れに首を傾げる。
 今朝は仕事に行く海馬を見送って、それからモクバと朝食を食べて…部屋に戻ろうとして………。

「あれっ?それから、どうしたっけ?」


 海馬邸の廊下を歩いていたところまでは覚えているのに、その先の記憶がぷっつりと無い。休日の一日をどう過ごしたのだろうか。何度も何度も頭の中で時系列に思い出そうとするのだが、全く思い出せなかった。

「どうなってんだ!?」

 刃物で切り取られたように無くなった記憶に苛立ち頭を掻き毟ろうとしたとき、
「イタっ!!」
 指先の痛みに城之内は顔を顰めた。
「なんだよこれ?怪我してる……?」
 両手の指先には真っ白な包帯が巻かれていて、その下がジンジンと熱をもっている。記憶と同様に覚えのない傷に城之内はベッドから飛び起きた。


 鮮明に動き始めた思考が、記憶の無い時間にしたであろう失態に青ざめてしまう。
 きっと確実にやらかしてしまった自分が想像に堅くない。城之内はベッドを抜け、部屋から廊下に出た。足元の明かりだけの廊下は薄暗くて、心元ないが廊下の先の部屋から灯りが漏れていて、足音を立てないように歩いていく。

 部屋と部屋の作りから、ここが海馬邸ではなくどこかのマンションのようだ。フローリングの廊下の先はリビングに通じているのだろう。きっとその部屋に海馬がいるはずだ。城之内は無意識のうちに傷跡の残る腕をさすっていた。





『……………。』
『…………。』

 ドアノブに手を掛けようとした城之内の動きが止まる。ドア越しに話し声が聞こえて来たのだった。

『……だから、何度でも申しますが、彼は然るべきところに入院させるべきです。』
『だめだ。』
『いえ、彼のためにもなる。今日は瀬人さまが間に合ったから大事に至らなくて済んだのです。もし、これが真夜中や、瀬人さまの出張中だったらどうしますか?』
『…………。』

 海馬は誰と話しているのだろう。扉に阻まれて聞き取りにくい声にも城之内はドアに耳をくっつける。


『今までもそうですが、海馬さまの知らないところでも発作を起こしていたに違いないのです。症状の大小は置いておいて、彼は、苦しんできた。そうでしょう?瀬人さま。』
『そのことに、異論を挟むつもりはない。だが、城之内はそれを乗り越えてきているのだ。』
『お言葉ですが、それは違います。瀬人さまが気がつけなかっただけのこと。幸運にも凌いでこれただけのこと。このまま放置すれば、近いうちにまた、今日のような発作が起こるのです。そのときに、瀬人さまが側にいる確証はありますか?』


 発作……?
 城之内は会話の内容に耳を疑った。
 この記憶の途切れている時間になのをしでかしてしまったのだろう。指先に撒かれている包帯が、とんでもないことをしてしまったような気がして、城之内は扉の前でまた、動けなくなってしまう。


『もちろん、確証は無い。
 もちろん、専門家にところに行くことが、城之内のためになるかもしれない。だからといって、このまま、城之内を施設に入れることは出来ないのだ。もし、今ここで城之内の手を離してしまったら駄目だ。離してしまったら最後、城之内はきっと俺のもとには戻ってこないだろう。』

「……っ!」
 語気を強める海馬に、城之内の琥珀色が揺れる。


『愛情の履き違えとも、素人の浅い考えととってもいい。だが、俺は城之内を手放さない。
 城之内は確実に前へ進んでいるのだ。止まった過去の時間から開放されて、未来を見れるようになった。その一歩は小さくてもどかしいかもしれない。でも、城之内は誰よりも強い心を持っている。
 自惚れかもしれないが、城之内は俺を信頼している。俺は絶対に城之内の手を離さないことを信じていてくれているのだ。ずっと繋いでいなくてもこの手は城之内に繋がっている。そんな手をどうして離すことが出来る?出来るわけないだろう?離したくない。今日から俺はここで城之内と暮らしていく。そうすれば城之内を一人にすることは無いだろう。混乱が起きたときもすぐに対処できる。』

『瀬人さま…。』

『もう、決めたことなのだ。俺は邸を出て、ここで城之内と暮らす。』

『…………わかりました。そこまでの覚悟があるならば、私が口を挟むまでもないでしょう。それに、瀬人さまが一番彼の本質を理解しているようです。その絆にはどんな専門家も勝てないのです。私も出来うる限りサポートしていくので、いつでも呼び出してください。』

『すまない。我がままを通してしまったな。』




 つつっと城之内の頬に涙が流れている。海馬の言葉に、涙が独りでに流れ出して止まらない。
「……ぅっぁっ……。」
 どうして、そんなことが言えるのか?生まれも育ちも現状も正反対の俺に、ここまでの愛情を掛けることが出来るのか?
 医者の言うとおり施設にでもどこにでも入れてしまえばいい。そうすれば海馬の手をわずらわせなくてもいいのに。


『気になさらないでください。きっと、瀬人さまならば、彼を支えることができるはずですから。』
『ありがとう。』

 どうして、俺なんか……。

 傷跡を中心に腕が熱くなってきて、そこを抑えようとしたとき肘がドアノブに引っかかった。




 ガタッ!!



「うわぁっ!!!……ぁっ……かい……ばっ……。」

 音も無く扉が開き、廊下が明るくなる。

「城之内。起きたのか。」
「……う……うん。」
 主治医と話していた海馬は何事もなかったように、城之内のほうへ歩いてくる。城之内は腕に手を添えたまま、どうしていいのか分からなかった。
「気分はどうだ?」
 泣き顔の城之内に話を聞かれていたのだろうと察しつつ、海馬は何も言わずに城之内の背中に手を回す。
「……へ…いきだから…。」
 こみ上げてくるものを抑えようと城之内の背中が揺れ、でも、抑えられない衝動のまま、城之内は海馬に抱きついた。



「ごめんなさいっ。海馬……っ!!俺、がんばるからっ!!」


「っ!!」


「俺、頑張る。がんばるから……っっひぃっくっ…。」

 止まらない涙が海馬のシャツに染み込んでいく。嗚咽にしゃくりを上げつつも、城之内は必死に海馬にしがみ付いた。そして、何度も頑張ると言った。


「城之内。大丈夫だ。俺が守って見せるから。どんなことがあっても、城之内を守る。だから安心していいんだ。」
「かいばっ……。」

 震える城之内をぎゅっつっと抱きしめて、海馬も何度も大丈夫だと伝える。城之内が頑張ると言った回数だけ、大丈夫だと言い続けていった。




 海馬のやさしい声と、強い力に城之内は何度も頷いて、心の奥深くに澱んでいたヘドロのように塊を押し流すように泣き続けた。






 ありがとう。
 海馬。
 俺、がんばる。
 がんばるからっ!




 だから







 俺を離さないで………。




 ずっと、離さないでいて……!










 深い闇の中で、わずかに光を放つものに必死にすがりつき、その真っ暗で見えない先を歩いて行く城之内。
 その光が消えれば、きっと前にも後ろにも進めないことが分かっているのだから。



 でも、それでも進んでいかなければならない。

 



 自分自身のために。そして、海馬のために―――。

































 まだ、わからないの?













 じょうのうち。


























 城之内はまだ、本当の闇を知らない。















 海馬もまた、おなじこと。






















おしまい。





     



 がっつり、暗いですね。
 これで、序章は終わりです。次は『彷徨』突入します。
 
 石は投げないでくださいませ。

 背景はこちらでお借りしました。
 NEO HIMEISM