漆黒の闇から深々と白い雪が降り続き、街を白銀の世界へと覆い隠す。

 賑う街の喧騒も雪のお陰か、何処か静寂に身を包むような音に変え、キラキラと輝くイルミネーションが空から舞い落ちる雪に淡く反射し、幻想的な雰囲気を浮かび上がらせている。

 十二月末のクリスマス、この時期は街路樹、ファッションビル、そして民家に至るまで様々な光の芸術が夜の街を演出する。

 友達同士で騒ぎながら歩いて行く者や、身に纏うコートの襟を立てて足早に家路に急ぐ者も有れば恋人同士腕を組み、肩を寄せ合って柔らかく白い雪が踊る中を歩いて行く者達も居て。

 メリークリスマスの言葉が飛び交う街中では、様々な人々が思い思いの暖かな時を過ごして行く。





Eternity is promised





静まり返る郊外に在る小さな公園内、外灯の明かりが其の寿命を尽きようとしているのか、チカチカと不規則な点滅を繰り返す様が、まるでたった一つだけのイルミネーションのように、雪の積もった公園内を照らしていた。

 夕方から降っては止みを繰り返していた雪は、日暮れと同時に本格的に舞い落ち続け、五センチ程動かぬ物の上に降り積もり、公園脇の柵に植えられた椿の赤い花弁の上にも重たげに積もっていて。

 其の赤に対比する朱色がパタ…パタ…と、音も無く真白な雪の上へと滴り落ちていた。





 一体どれくらい同じ場所に居たのだろうか、公園のベンチに青年には満たない中学生と思わしき少年が一人、頭や肩、其の身に白く雪を積もらせて寒さを感じていないのか、薄手の様相で少し躯を前屈みにして膝の上に曲げた肘を突いて脚許を見詰めている。

 遠巻きに見れば何か考え事をしている体勢に見受けられるが、彼の表情は伏せられて居る為窺い知る事は出来ないが、全く微動だにぜす一転だけを見詰めているようだった。

 そして彼の脚許が紅く、空から舞う雪が覆うよりも早く朱色の血で点々と染められて行く。

 前屈みの体勢で左手のシャツは袖口を肘まで捲り、右手に持ったカッターナイフの刃先は仕舞われているが手にした侭で、切った腕から滲み出ては滴る鮮血を、感情の篭らない瞳で見詰めていた。

 「貴様、死にたいのか?」

 「……アンタには関係無い」

 雪を踏みしめる音も立てず、しかも近付く気配すら感じさせずにベンチに腰を下ろしている少年の前に、一人の長身の男が歩み寄り、低い声で静かに訊ねれば、少年は短く返事を返すだけで、顔は上げようとはしない。

 其の間も少年の腕から滲み滴る血が雪を紅く染めて行くが、男も少年も其の場から少しも動こうとはしなかった。

 「用が無いなら向こうに行けよ」

 顔も上げる事無く脚許を見詰めた侭口にする少年に、男は踵を返す所か更にもう一歩前に脚を踏み出せば、彼の脚が少年の血で濡れた雪を踏み締める事となり、滴る鮮血が雪の変わりに男の黒い靴へパタリと落ち、滲む事無く線を描いて雪の上へと一本の線となって伝い落ちる。

 「靴、汚れたぜ?」

 「漸く顔を上げたな」

 のろのろとした動きで顔を上げた少年の先、保々真上に顔を上げる距離に立つ男を見上げて眉根を寄せたのは、嘗て眼にした事が無い程の、美麗ながらも深い深淵を思わせる蒼い双眸を持ち、少年と少し異なるが濃い茶色の髪と着込む黒いコートの肩に薄く雪を積もらせていて、この界隈では初めて眼にする男だと感じて口を開く。

 「アンタ……新しい借金取りか?」

 胡乱な瞳で見上げる少年に男は短く否定の返事を口にし、次いで意味深な言葉を続ける。

 「俺は貴様の望む者となる者だ」

 「何だそれ。訳解んねぇ事云うなよな」

 今更借金取りが一人増えようが愕かないと、口端を持ち上げては自嘲めいた笑みを浮べる少年に男はピクリとも眉を動かす事無く、まるで初めから彼がそう云うだろう事を見越していたかのようで。

 再び顔を伏せて脚許を見遣る少年の後頭部を見下ろしては、更に其の下に位置する場所に有る、未だ鮮血を滲ませる白い腕へと双眸を流すと、縦横無尽に幾つもの線となって残されている痕跡具合からして、今回だけではなくかなり頻繁に、限りなく自傷癖に近い状況にまで陥っているのだろうと、少年の腕に残されているリストカット数から男は判断する。

 故に傷跡が消え去る前にこうして新しいのを刻み直しているとしか思えず、そして彼の親はこの件に付いては気付いて居ないだろう。

 案外親とはいい加減な物なのだと、男は嘆息する。

 しかも夜半に近い時間帯にも関わらず、見ている方が寒く感じさせられる程に薄手の服の上には上着の一枚すら羽織る事も無く、また片方の袖は捲くられている為、寒空の下で外気に触れる範囲が多ければ、其の分体温が奪われ易いと云うのに寒さも何も感じないのか、色の白い皮膚が色を失くして其の下に流れる血管を浮き上がらせているのさえ、少年は気にならないのか。

 けれども少年から吐き出される息は白く、留まる事無く霧散する。

 「家には帰らないのか?」

 「家?帰って如何するんだ?」

 男が問えば一度顔を上げた物の直ぐに伏せ、彼の問いには興味なさげに淡々と返事を返し、其処で漸く男が微かだが眉根を寄せたのだった。

 普通家に帰って如何するとは返事をしないだろう、彼のような年代の子供ならば。

 其れにこの時間は、子供は家に居るのが当り前なのではないのかと考えるもの妥当で。

 「今日明日は、貴様らが好きなクリスマスとか云う日なのだろう」

 少々引っ掛かりの有る云い方をした男だが、其の辺りは少年も気付いていなかったらしく、街の喧騒、流れる音楽、煌びやかなイルミネーションがクリスマス気分を盛り上げている事さえ関心が無いのか。

 「クリスマス?……あぁ、クリスマスね。そんなの俺には関係ねぇよ」

 短調な口調で綴ると、自ら刃を立てた傷口をカッターナイフを持つ手の甲でお座なりに血を拭うように擦るが、却って紅い範囲を広げたに過ぎず、しかし少年は其の侭捲り上げていた袖を戻すと腰掛けていたベンチからゆっくりと立ち上がり、手にしていたカッターナイフをジーンズの後ろポケットに仕舞うと、其の手で眼前に立つ男を薙ぎ払うような仕草で持って脇を通り過ぎては、頭や肩に積もった雪を払う事無く公園の出入り口へと脚を進める。

 「何処へ行く」

 「アンタが云う“家”に帰るんだよ」

 少年は男の問い掛けに立ち止る事もしないで公園を抜け、人が歩いた形跡の無い歩道を歩いて行けば、何故か彼の後を男が付いて来る。

 色の濃い服を居ていた所為か、腕の傷から滲む血は見た目には全く解らないが、今でも袖の下では止まらず滲み出ているだろうが、其のような様子を全く見せる事無く、少し背中を丸めてポケットに手を差し込んで少年は歩いて行く。







 公園から歩いて十分も掛からない場所に立つ住宅の入り口に差し掛かった時、少年は立ち止る事はしない物の、其れでも僅かに顔を上げて何かを確認したかのようで、男も釣られるようにして顔を上げたが、見上げた先は明かりが灯されている窓が大半で、其れ以外は外出で不在なのだろ、男には少年の家がどの窓に該当するかは解らないが、階段を昇って行く彼の後に続く。

 少年は三階に差し掛かった処で其の脚を居住空間の有る廊下へと向け、人の居ない廊下を真っ直ぐ歩いては突き当りが彼の自宅なのか、鍵を取り出さずに玄関のドアノブを掴んで数歩離れた場所に立つ男へと顔だけ振り返ると、何故か口角を持ち上げて、公園で見せた笑みとは異なる笑みを浮べるのだった。

 「序でだからアンタに面白い物を見せてやるぜ」

 其れだけを云うと、掴んでいたドアノブをゆっくりと廻した。

 住宅其の物が既に造りが古く、軋む鉄の音を立てて玄関のドアを開ければ、続きでリビングに繋がっている事も有り、三和土に立つ少年目掛けてカップ酒の容器が部屋の奥から飛んで来たが、其れを投げ付けた人物は余程酔っているのか、直接少年には当らなかったが玄関脇近くの壁に当たり、衝撃で砕けた破片が少年の頬を掠めた。

 「誰が帰って来いと云ったぁ!テメェが居ると酒が不味くなるんだよ!さっさと出て行きやがれ!」

 隣近所に聴こえそうな激しい怒声と共に、空の缶や僅かに中身の残った瓶を投げ付けるのは少年の父親で、碌に働く事もしないで呑んでばかりの生活を繰り返し、嵩んだ借金の合計金額は幾らになっているのか計り知れず。

 「とっとと出て行け!」

 「出て行くだろ!」

 大きな音を立てて閉ざされたドアの向こう、最後に何か叩き付けるような音がしたが、少年は振り返る事無く自宅の玄関に背を向ける。

 「だから云っただろ?家に帰って如何するんだって」

 腕を組んで佇む男に先程向けた同じ笑みを浮べて小さく首を竦めて見せては、再び男の横を通り過ぎ、昇って来た階段を降りて行こうとする少年に、もう一度今度は何処へ行くのかと男は呼び止める。

 「アンタには関係ねぇ。今度は付いてくんなよ」

 頬から一筋、真新しい傷から紅い血を滲ませた少年は、戻って来た時と変わらぬ歩調で階段を降り、何処かへ歩いて行く姿を男が佇んだ侭の場所からじっと見下ろしていた。







 「俺は付いて来るなって云ったぜ?」

 「付いて来てはいない。此処に来たら貴様が居ただけだ」

 「そう云うのを屁理屈って云わねぇ?」

 「如何だかな」

 自宅を後にした少年は再び公園へと舞い戻り、腰掛けていたベンチに雪を払う事無く座り込んでいた。

 脚許を朱色に染め上げていた物は、直も降り続ける雪により覆い隠され、其処が鮮血で染まっていたとは思えないまでに白く塗り替えられていて、脚を投げ出した恰好でジーンズのポケットに手を差し込んで、ベンチの背凭れに深く凭れ掛かっていた処へ、又もや男は気配を断って姿を現したのだ。

 少年は男へ目線だけを上向け、不機嫌そうに眉根を寄せて睥睨する風に睨め付けるも、男は小さく鼻を鳴らして一笑するだけで其れ以上何も云わずに徐に脚を前に踏み出しては少年の腕を、傷付いていない方の腕を取ると冷たいベンチに腰掛けていた彼の躯を引き上げる。

 「何すんだよ!」

 「帰る家が無いのだろう?ならば俺の処へ来い」

 「何で俺がアンタの家に行かないとならねぇんだよ!」

 掴まれる指の感覚からして大した力で掴まれていないにも関わらず、腕を振り上げても男の指は振り解けず、何をしていると云う視線で一瞥される。

 そして半ば引き摺られる形で公園の入り口付近へと差し掛かった時、つい先程此処へ来た時には無かった筈の車が一台停車していて、何処からか走って来たのならばヘッドライトの明かりやエンジン音が公園内にも多少なり届くのに其の明かりも無く。

 無点灯で走るにも暗すぎて危険なのに、それらは一切少年の耳に届かず、しかも車には薄っすらとさえ雪が積もっていなかった。

 更に見た事も無い高級車の後部座席のドアを、自ら男が開けて少年の腕を掴んだ侭先に乗り込めば、車内に引き摺り込まれる形で少年も続けて乗り込む事に。

 「マジにアンタの家に行くのかよ!?」

 「そうだが?其れに傷の手当てもした方が良い。破傷風に掛かるぞ」

 「……そんなの、平気だ」

 覗き込むような視線で少年自身が刃を立てた腕を見遣る男の視線に顔を背け、少し腕を背に隠すようにすれば、見詰められる視線が外されたのを感じ、次いで腰を下ろしたシートに背中を預けた感触が伝わり、そろりと少年が横目で男へと見れば、顔は前を向いているが蒼い双眸のみを少年に向けては、フッと口端を緩く持ち上げて見せられ、彼は慌てて視線を逸らして車窓の外を見る風に顔を背けた。







 少年と男を乗せた車はエンジン音も振動も感じさせる事無く、夜の街中を走って行く。

 賑う人の群れ、そして赤と白の上下と帽子を被った者が数人。

 クリスマスケーキ売りなのか、ピザの配達人なのか、彼らは皆接客関連の仕事の者達なのだろう、そんな偽者のサンタクロースを遠巻きに眺めては、少年は無意識に小さく溜息を零していた。

 家族で過ごしたクリスマスは、既に思い出す事も儘ならない程昔のような気がしてならず、だからと云って感慨に耽るでも無く、少年は車窓の外へと向けていた顔を戻してシートに背中を預ける。

 そして前を向いていた顔を横に座る男へと向けながら、まるで初めからこうなる事が予め解っていたかのように、男は少年の望む者となると口にしていた為、借金取りでは無さそうだと理解出来るが、初対面の相手を掻っ攫うように車に乗せて彼の処へ行くと云うが、其れは一体何処なのか、何の目的が有るのか謎が尽きず、しかし強いて云うのならば、こんな車の中なのに公園よりも、自宅よりも暖かいと感じたのは単に暖房が効いているからでは無く、唯何となくそんな気がしてならない少年は、もう一度男に問うた。

 「アンタ、本当に何者なんだよ」

 「俺はアンタでは無い、海馬だ」

 「ふぅ〜ん。俺だって貴様じゃねぇ、城之内って名前が有るんだよ」

 「知っている」

 「え?」

 まさかそんな答えが返されるとは思わず、瞠目した面持ちで海馬と名乗った男へと顔を向けると、表札を見たと種明かしをされ、云われて見れば、そう云えば彼は自宅まで付いて来たのだったと思い出し、小さく「あ…。」と声を零して顔を紅く染め、其れを誤魔化すかのようにそんな事よりも質問に答えろと些か声を大きくすれば、言葉の侭だと応える。

 「城之内、貴様が望めば俺は天使だろうが悪魔だろうが、死神だろうが何にでもなる。何ならサンタクロースとやらになっても構わんぞ?」

 「は?何だそれ」

 シニカルな笑みを向ける海馬に、そんな莫迦げた事が出来る訳無いだろう、所詮人は人でしか無いのだからと胡乱な瞳で見遣れば、信じる信じないは勝手だと鼻を鳴らす彼に城之内は眉唾物だと顔を顰め、次いで何かを口にしようとした処で不意に海馬が着いたぞと零す。








 「いつの間に、ってか、此処何処だよ」

 「俺の家としか云いようは無いが?」

 生まれてこの方十五年、小さな街に住んでいる城之内だが、促される形で車外に降り立った彼が眼にしたのは、とても自分が生きてきた街に在るとは考えられない外観の建物で、屋根から何から何まで白く雪で覆われた、まるで異国の地を思わせる景色に言葉を失くして呆然と佇む。

 小さい頃、妹と見た絵本の中に出て来たような木で出来たログハウスを見上げ、こんな場所が有るのならば話題の一つにも昇るだろうに、其れらしい話しを耳にした例も無く、反動的に廻りを見渡して見れば、民家らしきに物は一見も見当たらず、何故か大きな樅の木が枝を広げた上に雪を積もらせていて、此処だけ別の世界の如く城之内の眼に映る。

 「此処……何処だよ」

 無意識に口を吐いた呟きを海馬は軽く聴き流し、唖然と佇む城之内の腕を引いて建物内へと脚を向ける。

 木目の扉を開けて中に入れば、自然に室内に明かりが灯った気がしたがきっと気の所為に違いないと緩く首を振り、自分の家も質素だが、この家の中も然程物は置かれて居ないも関わらず質素に感じないのが不思議でならず、腕を引いていた手が離れて彼が室内の壁際にある大きな暖炉に近付けば、何もしていない筈なのに焼べられた薪に火が点き、赤い炎が姿を見せた事により、先程家の扉を開けた時に室内に明かりが灯ったのは気の所為ではなかったのだと城之内は察する。

 「もしかして、アンタ……海馬って魔法使いか何かか?」

 そうでなければ勝手に部屋の明かりも暖炉の火も点かないだろう、其れに城之内が望む者にもなれない筈だと考えた処で、彼は慌てて窓辺へと走って近付き、窓の外を見遣れば此処まで二人を乗せて着た車は何処にも無く、其れよりも、短時間の間に雪の上に出来た車輪跡の轍を雪で消すのは不可能なのに、何故か一本も跡が残されてはおらず、小動物の足跡さえ何も無い新雪で覆われている状態に等しく、しかも玄関の傍に二人分の足跡が忽然と姿を現したかのように残されているのみで。

 「如何なってんだよ」

 城之内は驚愕するしかなかった。





 冷たい窓ガラスに両掌を張り付けて窓の外を見詰める城之内に海馬は近寄り、いつまで其処に張り付いて居るのだと腕を取り、すっかり赤々と薪が燃え出した暖炉の傍へと連れて行き、床へと敷かれた毛足の長いラグの上に直接対面する位置で座らせると、城之内へ向けて片手を差し出した。

 「腕を見せて見ろ」

 云われて一瞬何の事を示しているのか理解出来ずに首を傾げて見せれば、海馬は差し出した腕で城之内の左手首を掴むと、ピクリと肩を跳ね上げ、ゆっくりとだが袖を捲られて行く度に短く息を呑み込むのは、乾いて付着した血が皮膚とシャツの生地を張り合わせているからで、公園で血糊を手の甲で擦った所為で其の範囲は広く、海馬が彼の袖を肘の少し上まで捲った頃には傷口が僅かばかり開いてしまったのか、再び新たに朱を滲ませ始めていた。

 しかし海馬は何も口にせず黙々と滲み出る血を拭い、薬を塗布して包帯を巻いて行く。

 パチパチと薪が爆ぜる音だけを耳にして、炎の明かりで茜色に照らされる少し伏せられた海馬の顔を眺め、誰かにこうして手当てをして貰うのは初めてだったなと思い返しているのと同時に、そんな事をしなくても良いのにとさえ城之内は考えていた。

 「こうされるのは迷惑か?」

 「え?そんな事……無い。けど、初めてだから愕いてる」

 「そうか」

 「……うん」

 顔を上げられる事無く訊ねられた声に、城之内は眼許に影となって落とされる海馬の睫を見遣りながら返事を返せば、徐に顔が上げられ、思わず顎を引いて僅かながら背を反らしてしまえば、顔へと伸ばされた手に反射的に首を竦めて硬く眼を瞑る。

 「此処も、少し切れていたな」

 「――――ッ!」

 声と同時に自宅の玄関先で投げ付けられたカップ酒の、割れた瓶の破片で切れた頬に海馬の親指が触れ、そっとなぞる動きを見せれば、城之内は竦めた首を更に縮込ませる。

 なぞる先からスゥッと消えて行く紅い痕跡に、城之内にも感覚で理解出来たのか、硬く瞑っていた瞳を薄く開き、眼前に居る海馬へと顔を上げる。

 「俺は城之内を傷付ける事はしない」

 「……うん」

 嘗て其処に傷が残されていた筈の頬に宛がっている指先で、幾度か慰撫するように撫でてから頬を離れ、代わりに城之内が其処に触れては何も無いのを確かめる中、海馬は白い包帯の巻かれた彼の左腕を取ると、一度目線を落としてから見詰める彼の双眸へと瞳を合わせる。

 「何故これ程までに自傷する。何もしない限り中々痕は消えんぞ」

 「手当てしてくれたのは有り難いけど、海馬には関係ない」

 重ねた視線を外して眉根を寄せる城之内に、海馬は一つ鼻を鳴らすように息を吐き、半ば揶揄する口調を織り交ぜて口を開く。

 「そんなにまでして己の存在を知らしめたいのか?其れとも生きている証を自分自身で確認する為か?どちらにしろ自傷しても意味が無い事くらい知っているだろうに」

 「だったら何だって云うんだよ!海馬には関係ないって何度も云ってるだろ!」

 「あぁ聴いたな」

 「だったら俺の事なんか放って置けば良いだろう!今までずっとそうされて来たんだから俺は平気なんだよ!変な同情心何て要らねぇから俺に構うな!」

 海馬に触れられていた腕を城之内は振り上げ、其の場で勢い良く立ち上がると、今しがた手当てをしてもらった左腕に巻かれた包帯に手を掛けると、くるくると解きだして全てを取り除くと、見上げる海馬に向けて叩き付けるように投げ付ける。

 「手当てしてくれてありがとうよ。でももう直ったからそんな物は要らねぇ」

 云うや否や扉へと向かう城之内に海馬は焦った風でもなく、逆に何処か含みの有る声色で床に腰を落ち着かせた体勢の状態で声を掛ける。

 「此処が何処かも解らぬのに何処へ行こうとするんだ?」

 「帰るんだよ」

 海馬は胡坐をかいた姿勢で片方の膝の上で頬杖を突き、口角を持ち上げて嘲笑する表情を浮かべて見せ、城之内には如何する事も出来ないのだと謂わんばかりに綴っては煽る。

 「如何やって?」

 「歩いてでも帰るんだよ」

 「ほぉ、何処に帰ると云うんだ?貴様に帰る場所が有るのか?」

 自宅で目の当たりにさせた現実を蒸し返す科白を口にしては、城之内に返させる言葉を失くさせる。

 「帰る場所が無くてもアンタと居るよりかは、公園で野垂れ死んだ方がマシだ」

 「そうか、貴様に其れが出来るのならば遣ってみろ」

 「…………。」

 思惑通り、反論する言葉を失った城之内は戸口で眉根を寄せては唇を噛締め、視線を反らして処無下げに彷徨わせる姿に、海馬は漸く腰を上げて彼の傍へと歩み寄る。

 そして自らドアノブに手を掛けて軽く押し開けると、扉の向こうは止んでいた筈の白い雪が再び舞い始めたのか、深々と音も無く空から舞い落ちていて、外から吹き込む冷たい風が二人の頬を掠める。

 「出て行くのだろう?城之内、克也」

 何で、俺の名を……?」

 自宅の玄関先に表札が出ていたが、其処には苗字のみしか記されておらす、自ら名乗っていないので彼が知る由も無いのにと、彷徨わせていた双眸を瞠目させて勢い良く顔を上げれば、海馬は如何する?と瞳で訴えたのを城之内は読み取り、何かを綴ろうと開いた唇を閉ざして眉を顰めると、海馬はドアノブに掛けた手を引き戻して扉を閉ざす。

 「帰れないのを無理に帰る必要は無い。どうせ帰った処でまた追い出されるのがオチだ」

 「……知ってる」

 「ならば暫く此処に居ろ。学校とやらも休みなのだろう?」

 学校は既に冬休みに入ったが、そもそも城之内は義務教育期間中だのだが碌に学校にも行かず、街中をふらふらしているので休みだろうと関係なかった。

 友達と何処かへ遊びに行く約束も有る筈が無く、家に居れば働く事を放棄した父親が溺れた酒の力で持って城之内へと、我が子へと暴行を繰り返す日々で、こんな毎日ならば家に居ない方がどれだけましか解ったものでも無いが、結局は如何する事も出来ずに繰り出される行為を甘んじて受け止めるしかなく。

 「城之内はまだ子供なのだから、子供らしく痛みを訴えろ」

 「子供扱いするな」

 「俺には貴様はまだまだ充分過ぎる程のお子様だ」

 柔らかな金茶の髪をくしゃりと掻き混ぜ、其の侭彼の頭を引き寄せては、海馬は自らの肩口へと宛がい、軽く宥める形で引き寄せた頭部を二度程叩く。

 「其れに久し振りにクリスマスとやらを味わえ」

 「え?」

 「こう云うのは好きだろう?お子様なのだから」

 思い掛けない海馬の言葉に城之内が俄かに驚愕した声を挙げれば、海馬は片手を肩の高さ近くまで持ち上げてパチンと一つ指を鳴らす。

 途端、今まで一色しかなかった室内の明かりが、突如何処からとも無く出現した、大きなクリスマスツリーに飾られた色取り取りの色彩に覆われ、出入り口以外に有る扉がゆっくりと開いたと思えば、何やら微かにぶつかり合う様な陶器の音が聴こえ、聴こえた音の後から右へ左へとグラスや皿、ポットを頭上に持ち上げて歩いてくる小動物が、危なげな歩みで、暖炉の近くに次々に置いて行き、食器関係の次にはホールケーキやらチキンなどクリスマスならではの料理も運び込まれ、其の余りにも有り得ない光景に唖然と眼を瞠り、アレは一体何だと海馬へと訊ねれば、緩く首を傾げて。

 「違うのか?」

 却って真面目に訊き返され、城之内としては違わないけど違う気もすると、返事のしようも無いと言葉に詰まり、自分よりも更に小さい年齢の子供や女の子ならば小動物が漫画のように二足歩行で料理を運ぶ姿を見れば可愛いと思うだろうが、自分は小さい子供でなければ女の子でも無く、如何反応したら良いのだろうかと内心で拱いていれば、何が違うのだろうかと眉根を寄せて考え込む海馬に、彼が他の誰でもない自分の為だけにしてくれているのだと思えば、反応に困る光景で有れども嬉しくない筈も無い。

 「あの、さぁ」

 「何だ?」

 眉間に深い皺を刻んだ海馬の袖を引き、考え込む意識を己へと向けさせると、云い淀みながらも城之内は彼の蒼い双眸をしっかりと見詰め、次いで今まで一度も見せた事の無かった笑みを彼へと自然に向けるのだった。

 「海馬の考えている事は俺には良く解んねぇけど、でも有り難う。スゲー嬉しい」

 「あ……否、構わんが」

 自嘲の笑みでも無く、卑下た物でも無く極自然に浮かんだのであろう、思わず海馬は眉間に刻んだ皺を消す程瞠目し、らしくも無く歯切れの悪い返事を返してしまえば、彼の腕の中からするりと抜け出し、暖炉の傍へと駆け寄っては本物だと声を挙げ、触っても逃げないと笑みを零す城之内を見遣っては、海馬も佇む戸口から脚を踏み出す。






 年に一度のクリスマスを、共に祝う親も無ければ家族も無く。

 例え居たとしても家に居れる事を拒否され外へと追い遣られ、雪の降る寒空の下で自傷行動に走る城之内。

 痛みさえ感じないと、感情の篭らない表情を浮べて既に笑う事を忘れた容貌で、じっと滴り落ちる朱色を見詰めていたのに。

 「城之内、漸くちゃんと心から笑えたな」

 「え?……ぁ、うん」

 たった僅かな時間だったが、其れでも彼に向けて手を伸ばせば、一瞬躯を強張らせはするが、硬く眼を瞑る事も首を竦める事もしなくなった。

 少し乱雑に髪を掻き混ぜて遣れば擽ったそうに首を竦める仕草を見せるが、海馬の手を拒む事はしなくなり、懐くのが速い分脆く壊れるのも速いだろうと、眼の前で屈託無く笑う城之内をそう海馬は見分する。

 見詰められる視線に気付いたのか、城之内が海馬へと少し照れたような笑みを向ける。









 ゆっくりと穏やかなに時間は過ぎ去り、窓の外は真っ暗となった、時刻は深夜。

 しかし彼の帰りを心配する筈の親は酔い潰れているか、街を彷徨っているか。

 赤々と燃える暖炉の火の前で城之内が己の身を守るように手脚を丸め、規則正しい寝息を立てているのを海馬は見詰めるが、彼の眠りは浅いのか、時折ピクピクと閉ざされた瞼が揺れるのは、いつでも飛び起きられるようにと習慣になった所為だろう。

 彼の父親を見れば致し方ないと頷けるが、本当ならば頷いてはならない処なのだ。




 年に一度、世界中で一人だけランダムに選出し、一年間だけ其の者の望む者になると云う特異な、人で在って人に非ずの種族で在る海馬が、今年偶然選出したのが城之内で。

 海馬に対して何者かと訊ねる割には、望む者を口にしていないと反芻し、眼が醒めた時にでも訊いて見ようと、身を丸めて眠る彼を起こさぬよう、注意しながらそっと髪を梳き撫でるのだった。

 だがきっと彼は望む者を口にしないだろうと予測出来るのは、たった数時間しか行動を共にして居ないが、今までまで係わって来た者達の誰とも異なる性質からで、如何した物かと逡巡し、もし彼何も望まなければ其の時己は…――――。




 部屋の明かりは全て落とされ、暖炉の中で燃える炎が唯一の光源。

 今もまだ窓の外は雪が舞っているのだろう、世に云うホワイトクリスマスかと海馬は口端を持ち上げる。

 窓の外を見詰めていれば彼の手が梳き撫でる城之内の頭が動き、海馬の顔が彼へと向けられるのと、城之内が躯を起き上がらせるのは保々同時だった。

 「……俺、帰る」

 何処か幼い仕草で眼を擦る城之内に、今度は海馬も揶揄する事も無く解ったとだけ口にすると、先に立ち上がって手を差し伸べるが、緩く首を横に振っては自ら立ち上がると、顔を合わせず扉へと向かう。

 扉を開ければ雪は止む事無く振り続ける中、城之内は白銀の世界を見詰めては小さく零す。

 「今日は有り難う」

 と。

 きっとこれは自分が見ている夢に違いないのだと。

 公園で自傷した後意識を手放したか、或いは家で呑んだ暮れの父親に暴力を振るわれて気を失った時に見ている夢に違いないと嘲う。

 夢だけは誰にも邪魔はされないから良いよなと眼を伏せ、口端を持ち上げて嘲って見せる城之内はとても子供とは思えぬ容貌で、思わず海馬は返すべく筈の否定の言葉を呑み込む。

 「夢の中だけでも、いつまでも今の倖せな気分で有り続けたいよ」

 そう最後に一言呟くと、振り返る事無くいつの間にか停車していた車に乗り込み、海馬が何かを云う前に早く出してくれと、ハンドルを握る運転手に声を掛けると、ゆっくりとした速度で車は動き出し、やがて佇む彼の前から遠ざかり、そして雪の舞う空へと飛び立ち、城之内の住むべく街へと向かう。

 「あの莫迦が。夢で有る筈無かろうが……」

 城之内を乗せた車が走り去って行った方向を見詰めて海馬は嘆息し、結局何も望む者を口にしないで帰って行ったなと呟く。

 「精々後で愕くが良い。城之内」









 そして瞬く間に月日は流れ、あの日の出来事は城之内の中では完全に夢の出来事だと片付けられ、気付けばあれから三回目のクリスマスを迎えようとしていた城之内は、あの時と同じ様に公園のベンチで腰を下ろしては白い息を吐いていた。

 今夜があの日と異なるのは、白く街を覆い尽くしていた雪が、今年はまだ一度も其の姿を見せてはおらず、相変わらず城之内は薄手の様相だが其の身には、一枚上に学ランを羽織っていて、左袖を捲くり上げて薄っすらと線となって残されているリストカットの痕跡を指先でなぞっていて。

 「自傷癖は治ったようだな」

 「あ……。アンタ」

 不意に眼の前が翳り、頭上から掛けられた忘れた事の無い低い声に、城之内は呆然と顔を上げる。

 「アンタでは無い」

 「かい……ば。海馬ぁ!?嘘だろってか、何で?えぇぇ!?」

 城之内はベンチに腰掛けた侭大きく眼を瞠り、人差し指で指し示しては、何故夢の中に出てくる海馬が実際に現れているのかと眼を白黒させ、言葉にならない声を挙げる城之内に溜息を零す。

 「貴様が望む者を云わなかったお陰で……」

 「何の事だ?」

 「は?」

 よもや忘れて居たのかと棘の有る云い方をすれば、海馬の方こそ自分が何者か教えてくれなかった癖にと城之内は唇を尖らせ、だから自分も云わなかったのだと続け、望む者を口にしても実際そんな事は有り得ないだろうと首を竦めれば。

 「云い忘れた貴様のお陰で、俺は永遠に貴様の者だ」

 「…………はい?」

 態とらしく溜息を吐いてみせる海馬に城之内は更に瞳を瞠ったが、直ぐに眉根を寄せて視線を彷徨わせる。

 「城之内?」

 「……ずっと?」

 「あぁ。ずっとだ。城之内が俺を不要と思った時までずっとだ」

 拙く短く言葉を紡ぐ城之内に、海馬は解り易く答えて行く。

 「俺へのクリスマスプレゼントが、海馬かよ」

 「有り難く思うが良い」

 顔を伏せてしまった所為でどのような表情で口にしたのか解らない為、海馬が城之内の肩へと手を掛ければ小さく肩を震わせている振動が伝わり、訝しんで彼の名を呼べば。

 「仕方ないから貰ってやるぜ」

 飛び掛るように海馬の首に腕を廻して抱き付けば、城之内の腰に腕を廻して抱き寄せる。

 「そろそろ夢の中だけの倖せも、色褪せただろう」

 「そんな事無いぜ。海馬はあの時の侭変わらねぇ」

 こうして触れる手の感触も変わらないと、この三年間ずっと夢で感じていたと城之内は海馬の片手を取り、自らの頬へと、刻まれた傷を治してくれた方へと宛がうと、海馬は彼の痩身を強く腕に抱き込むと、城之内もまた彼の背に腕を廻すのだった。





 はらりと二人の上に一つ、白い雪が舞い落ちる。

 また一つ、また一つと雪が降り出すと、海馬の肩口に顔を埋める城之内の閉ざした瞼の下からも一つ、透明な雫が舞い落ちた。




 永遠を約束してくれた者と共に或る事が、一番の倖せだと願う。

 其れが至高のクリスマスプレゼントだと、城之内は静かにそっと声無く涙する。


 












 なんということでしょう……最初から最後まできふじんの好みの海城です。いつかはリストカット城を書いて見たいと思いつつ、実現しないままなのに、ボスがやってくれました。もう、胸キュンで読んじゃいました。フリーだったのでもちろん強姦…もとい、強奪です☆
 ボス ありがとうございました〜〜