明日の


 腹部に感じた違和感と鈍痛。それが、始まりだった。



 壁際のライトにすかされた、いくつかの写真を見て、医者が難しそうな顔をしている。どこからどう切り出せばいいのか考えあぐねているようだ。
 写真はもちろん風景画でもなければ、スナップ写真でもなく、黒と白で構成されたあまり見たくもないものだった。
 覚悟が出来たのか医者はレントゲン写真から視線を移すと、洗いざらしのシャツにジーパン姿の少年を正面か見た。
 「……いつから、おかしいと思ったのかな?」
 「さあ、気が付いたらおかしかった。」
 少年はまだ事の重大さに気づいていないからか、特に悪びれることもなく答える。
 「今日は一人で来たのかい?お父さんかお母さんがいてくれると助かるのだけど。」
 少年は医者の歯切れの悪さにイラつく。
 「俺一人さ。なぁ、はっきりと言ってくれよ。これでも俺は忙しい身なんだぜ?」
 椅子に腰かけて、両足をブラブラさせる。子供っぽいしぐさが余計に医者の口を重くさせた。
 「家に電話して、ご両親にここまで来てもらえないかな?城之内君。」
 医者はメガネを押さえる。
 親という言葉に城之内の表情が曇った。床に視線を落とし、口を固く結ぶ。
 「………」
 重く、長い沈黙が診察室を押し包む。グリーンのカーテンの向こうから聞こえる他の患者たちの話し声が耳についた。
 「……親はいない…。」
 感情を押し殺した低い声。
 「困ったな…親がいないとなると…じゃぁ君の保護者を呼んでくれないかい?とても重要な話なんだ。」
 城之内の薄く真っ白なカルテに、医者は日本語ではない文字を書き込んでいく。読めない文字の羅列が城之内を不安にさせる。
 「俺、変な病気なのか?ただ、ちょこっと腹が痛いだけなんだけどさ。」
 「お腹が痛い…か…参ったな…」
 医者は本当に困っているようだ。カルテに記載されている生年月日と年齢が余計な装飾品となっていた。

 息子と同い年じゃないか。

 「城之内君はまだ中学生だよね。保護者がいないなんて変だよ。親を怒るわけじゃないから私の言うとおりにしてほしいんだ。」
 医者は机の上にある電話を城之内の方へ移動させた。
 「ね。いい子だから。」
 医者は受話器を城之内に持たせ、外線ボタンをおす。受話器からはツーと無機質な音がしている。
 「…病院に来るような、親はいない。だいたいさぁ…俺の体だろ?何で俺が一番初めに聞いちゃいけないんだ?」
 受話器を医者に突っ返し、城之内は医者を睨んだ。
 まっすぐで、怖いもの知らずの琥珀色の瞳に、医者は観念したように口を開いた。
 それは、中学生の城之内にとっては死刑宣告に等しい病名だった。
 

 「………ぇっ?」
 聞きなれた、それでいて自分とは全く縁のないと思っていた、病名に城之内は返す言葉を忘れた。
 「もう一度言おうか?」
血の気の引いた城之内に先ほどの苦悩はどこにいったのか、淡々と業務をこなしていく。
 「いい……で、俺はどうすればいい。」
 がたがたと震える体に鞭打って、城之内は気丈に振舞う。
 「出来ることなら、このまま入院して検査だ。結果に合わせて、適切な治療に入る。もちろん手術は免れないよ。」
 だから、保護者が必要なんだと、医者は付け加える。
 
 医者がレントゲンを指して、病巣について説明をしている。
 城之内は自分の腹の内部が撮影されたレントゲンをただ、ぼうっと眺めているだけだ。医者の声も耳に響いてくるだけで頭のなかには入ってこない。
 「………とにかく、保護者と連絡が取りたいんだよ。このままだと、入院はおろか検査もできないんだから。分かったかい?」
 医者はカチリとボールペンをノックする。
 「えっ……あっ…は…い…」
 今にも消え入りそうな声で城之内は呟くと卓上の時計に視線を向けた。
 
 親父、いるかなぁ……って、電話止められてたっけ…?

 妙なところで、現実に戻らされた城之内はくすりっと笑う。
 「少し考えさせてもらえますか?明日もう一度来ます。」
 城之内は頭を下げると、診察室を後にしようとする。
 「待ちなさい。取りえず、痛み止めを出しておくから、薬をもらって帰りなさい。それから、明日は必ず来るんだよ。手術は1日も早いほうがいいから。」
 来たときより大人びてしまった、少年がグリーンのカーテンの向こうに消えた。





 「よおっ遅いぜ!城之内。」
 たまり場にしている喫茶店に重い足取りで出向くと、連れの蛭谷が片手を挙げて城之内を迎える。
 タバコのむせ返る煙に顔をしかめると、城之内は蛭谷を連れ出した。


 「んだよ。どこに行くんだよ。」
 城之内に腕を掴まれ、引きずられるように歩道橋の上につれてこられる。
 城之内はさっきから、一言もしゃべらない。いつもは分けられていた前髪が、乱れて目元を隠している。
 「たくよ〜気まぐれもいい加減にしないと怒るぜ?」
 ポケットからタバコを取り出すと火をつけ、胸いっぱいに紫煙を流し込む。
 城之内は流れるヘッドライトから目を離すことなく、柄にもなく考え込んでいるようだ。
 「おい?今日のお前、変じゃねえか?悪いものでも喰ったか?」
 いつもの調子の蛭谷の口調に、城之内の唇がようやく笑みを作った。しかし、視線は下をむいたままだ。
 「………金かしてくれないか?」
 「はぁっ?」
 こんなところまで、連れ出された挙句の金の無心にさすがの蛭谷も呆れるしかない。
 「んだよっ、またじじいが借金でもこいたのか?」
 城之内の家庭環境を知っている蛭谷の頭の中に、即座に父親のことが浮かんだ。
 しかし、城之内は父親の借金で蛭谷はおろか、他のものでさえ頼ったことが無かった。普通ではない城之内の様子に蛭谷は戸惑う。
 「…返せないような額なのか?」
 タバコを咥えなおして、聞いてみる。
 城之内は唇をゆがめたまま、首を横に振った。
 「違う…親父じゃない。」
 親父のことでの悩みならばどれだけよかっただろう。城之内は隣にいる蛭谷に向き直り、薄く笑う。
 その儚げな表情に蛭谷の心臓がどくんと脈打った。
 (こいつはこんな顔をしたっけ?)
 「俺、癌なんだって。今日な病院にいって来た。」
 「はぁ?」
 思いもよらない告白にタバコが手から落ちる。
 「ここんとこにな、癌が居座ってるんだって。医者が言ってた。」
 シャツの上から腹をさすって、城之内は人事のように言葉を続ける。
 「結構、やばいらしくて手術をしないとだめらしい。蛭谷も知ってる通り俺ん家にはそんな余裕は無い。親父はあんなんだしよ…金なんてどんなに探しても出てこないさ。」
 「親父さんには言ったのか?」
 先ほどまでの軽い気配は消えて蛭谷は真剣だ。城之内が冷めれば冷めるほど、蛭谷に熱が篭る。
 「言えねぇって、あの親父だぜ?『クソガキ、死んでこい』の一言で終わりさ。」
 「馬鹿やろうっ!言ってもいない前から決め付けてんじゃねえよ!!」
 ドンっ!と手すりを叩きつける。
 「……言えるわけねえだろ。」
 吐き捨てるように城之内が言う。捨てたのは何だろうか。
 「俺は癌になりました。手術をしなければ死んでしまいます。お金を用意してください……って、どの面さげて言うんだ?…たまんねえだろうがっ!……だから、蛭谷に言ってんじゃねぇか……お前んち医者だろ?」
 「まさか…?」
 「そうさ、お前ん家の病院に行ってきた。何なら聞いてみな。本当のことだからさ。」
 冗談や嘘ではない現実味が蛭谷の背筋に流れる。
 「なんで、放って置いたんだよ。自分の体だろ?分からなかったのかよっ。」
 病気の当人より、蛭谷のほうが顔色が悪い。
 「ああ。わかんなかったさ。ちょっと腹が痛いかな。とか、気持悪いな。とか、風邪だと思ってたんだよ。」
 「馬鹿だ…馬鹿だよ…どうすんだよっ」
 城之内の胸倉を思わず掴み、そして、慌てて手を離した。
 「ごっ…わりっ…痛かったか?」
 家庭環境上、幼い頃から何人もの患者を目にしていた蛭谷。癌の痛さは嫌というほど見ていている。  
 「ははっ、平気だよ。薬飲んでっからさ。」
 他人事のように笑う城之内。
 パパァー
 車のクラクションが夜の街に響き渡った。
 城之内は歩道橋の手すりにもてれると、白く霞む夜空を見上げる。


 俺な、別に病気が怖いわけじゃないんだ。
 怖くないといえば嘘になるんだろうけど、別にここで死んだって何にも感じないけどな。
 でも、なんかさ、くやしいじゃん。このまま死んじゃうのはさ。
 一つも良いことが無いまま、死んでもいいやと思いながら死ぬのは嫌なんだ。
 一つくらい良いことがあってさ、
 死にたくない。とか、捨てた人生じゃなかったかもなって思いながら、
 あの世に行くのもかっこいいじゃん。
 だから、
 今は死ねない。
 
 


 星の見えない空に、抵抗するかのように瞬く星を探す、城之内。
 その、大きく見開かれた琥珀色の瞳から一筋の涙がこぼれる。
 
 「城之内…」
 蛭谷には声を掛けることが出来なかった。彫像のように身動き一つせず、まだ中学生の子供が背負うには大きすぎる重みに、じっと耐えているからだ。
 これが、自分の身に起きたのならば、蛭谷はきっと動揺し、周りに当り散らして、現実に耐えられなくなっているだろう。
 一方、城之内は頼るべき親もなく、保護されることも知らずに、一人で全てを受け入れ受け止めている。
 「いくらだ…いくらあれば良い?」
 今、蛭谷に出来ることはこれしかない。城之内を支えることなんて出来はしない。ならば、環境を整えるだけだ。
 城之内は鼻の下を擦ると城之内はいたずらっ子のように笑う。
 「300万。」
 指を3本立てる。
 「分かったよ。これから、俺ん家に行こう。俺が親父に言ってやるから。」
 「ありがとな…恩にきるぜ。」
 城之内は先に階段を降りていく蛭谷に続いた。
 城之内の歩調に合わせ蛭谷はいつもよりゆっくりと歩く。



 「俺の親父は性格は悪いけどよ、腕だけはいいんだぜ?きっと、お前の癌だって全部とってくれるからよ…その…大船にのった気でいていいからよ。」
 「へぇ、たのもしいな。」
 「けどよ、それからはお前の気力しだいなんだぜ。なんせ、抗がん剤治療は辛いんだ。大の大人だって逃げ出すんだからさ。」
 「ははは……そりゃ、まいったなぁ…」
 「城之内なら出来るさ。絶対に出来る。そしたらさ、一緒に高校に行こうぜ?俺たちはやれば出来るんだからさ。」
 「高校か…考えてもみなかったけど…面白そうだな。俺たち2人で学校占めてやろうぜ。」
 「そうだ、絶対に行こうな。勉強の時間はたっぷりあるからよ。」
 「…そっちが辛そうだぜ…」

 二人の姿は雑踏に紛れていった。



 それから、月日は移り蛭谷と城之内はともに高校生となっていた。
 予想外に通う高校が別となった二人は顔を合わせることもめったにない。
 
でも、蛭谷はそれでよかったのだと思う。
 少し前にゲーセンですれ違った城之内がうれしそうに笑っていたから。
 小さくて奇妙な髪型の新しい友人と、同じクループだった本田とジュースを片手にゲームに熱中する姿には病魔を連想させるものは、一欠けらさえない。


 
 帰り際、すれ違うときに、そっと耳打ちをしてみる。
 「どうだ?調子は?」
 と。
 

 城之内は太陽のような笑顔で答える。
 「まぁな。ぼちぼちだよ。」



 「じょうのうちく〜ん。」
 何も知らない、新しい友が城之内を呼ぶ。
 「わりっ、じゃなっ。」
 城之内は踵を返すと、友たちの輪に入っていった。



 元気になった城之内を眺めていると、共に戦った病室でのことがうそのように、遠い昔のように感じられる。
 もう、共にいる機会が無くなったことに一抹の寂しさを感じつつも、城之内の幸せを願わずにいられなかった。
 

 一つくらい良いことがあってさ、
 死にたくない。とか、捨てた人生じゃなかったかもなって思いながら、
 あの世に行くのもかっこいいじゃん。


 あの夜の歩道橋での城之内の声が頭の中に甦ってくる。

 一つ以上、良いことあったじゃねえかよ。

 よかったな。
 城之内。


 蛭谷はタバコを咥えると、ゲーセンを後にした。







 風呂に入っていたら、唐突に浮かんだ小話です。また、死にネタかよ〜との突っ込みは受け付けません(苦笑)
 蛭谷の本設定は知りませんが、蛭谷って金持ちのボンボンくさくないですか?センチな蛭谷は大好きです。好みのキャラですよ。
 きふじんの腐った脳内ではもうちょっと暗い光景が広がっていましたが、やはり、死んじゃうネタは辛いのでこんな感じにしました・・・現実は甘くないですけどね。癌なんてそう簡単には直りませんよ(涙)
 よければ感想くださいね〜ほほほ。