祈り〜KATUYA・3〜


 ……………
 ………あれっ?……
 ………
 ここは……どこ?……

 月明かりの中に浮かび上がる見慣れない天井。
 清潔で柔らかな布団。
 克也は一瞬自分がどこにいるのか判らなかった。

 俺の家じゃない。
 
 おかあさん……

 時計がないので正確な時間はつかめないが、物音一つしない静寂のなか克也の思考は冴えてくる。

 おかあさん……死んじゃった……

 克也の隣には必ず母がいた。嵐の晩は手を握り、寒い夜は同じ布団でお互いの身体を温めあって。一人で過ごす夜は今までに一度も無かった。
 現に十数時間前は母の存在があった。
 なのに、見知らぬ土地へつれてこられ、母がどこに運ばれたのか、克也に知るすべは無い。

 一人になっちゃった……

 おかあさん。

 闇夜を写して濃さの増した、克也の青い大きな目から大粒の涙があふれ出した。目蓋の決壊を超えた涙は途切れることなく流れて、頬を濡らし枕に染込んでいく。
 たった一人の肉親を失い、見知らぬ土地へつれられて、克也の幼い心は不安と悲しみに占領されてしまっている。

 おかあさん。
 おかあさん。
 おかあさん。

 堪えきれない嗚咽がもれ、克也は慌てて布団を頭まで被る。
 シーツをぎゅっと握り締めて、克也は声を殺して泣いた。
 母を思い、父を思い、一人の不安に押しつぶされて、克也は泣きつかれて意識が眠りへと引き込まれるまで、泣いていた。



 「おはようございます。克也さま。」
 気が付くと、襖の向こう側から名前を呼ばれている。この声は夕べ紹介された女性の声だ。たしか、名は…
 「お目覚めですか?克也さま。静香です。入ってよろしいですか?」
 「はっ、はい。」
 克也は慌てて布団から出て、正座をした。
 「まぁ、克也さま。」
 克也の返事を待って、襖を開けた静香は、布団の横でちょこんと正座をした克也の姿に思わず表情を崩す。
 「おはようございます。」
 頭を下げて挨拶をする、克也。
 「おはようございます。克也さま。私は使用人ですから、頭をお下げにならないでくださいな。私が困ってしまいます。」
 「でもっ…」
 着の身着のままの生活から、いきなりの環境の変化に克也は戸惑っていた。しかし、静香のやわらかな笑みにつられて克也もまた笑みを浮かべる。
 「朝食の準備が出来ていますから、早く着替えてまいりましょうね。だんな様がお待ちですよ。」
 静香は克也の浴衣の帯を解く。
 「じっ、、、自分でやります…やれるからっ」
 他人の手が伸びてきて、克也の脳裏に夕べの宗次郎とのことが浮かび、とっさに身構えてしまった。
 「…すみません。でも、これが私の仕事ですから。」
 「自分でやります。」
 克也はあれは何を意味していたんだろうと、考えてみるが、知識のない幼い思考では判断することはできなかった。
 静香の手伝いを拒み、用意された白いシャツと、紺色の半ズボンに着替えた。
 「お似合いですわ。」
 着替えの終わった克也を見て、静香はほぅっと息を呑んだ。日本人にない白い肌と、黄金色の髪。空の色を拾い集めたような青い瞳は西洋人形のように愛らしい。
 「今度は御髪を整えましょう。さぁ、座ってくださいな。」
 「ええっ、いらないよ。そんなの。女みたいだよ。」
 櫛を手にニコニコしている静香に悪いと思いつつも、髪を梳かす習慣の無かった克也は戸惑いを隠せない。
 「いいえ、もったいないですよ。こんなに綺麗な髪をお持ちなんですから、整えなければ罰が当たってしまいますよ。さぁ。」
 「でもっ…」
 それでも、抵抗しようとしたが、静香に強引に座らされると、さらさらした髪に櫛があてられる。
 「ほら、こんなにお綺麗で。うらやましいです。」
 絹糸のような手触りを残し、静香は櫛を胸元にしまった。
 「俺が、綺麗…?」
 克也の外見を褒めるものは両親しかいなかった。いつも、この外見のために諍いが耐えることは無く、道を歩けば人の目を引いていた。
 この髪が黒ければ、眼が黒ければと何度思ったか、数え切れないほどだ。
 なのに昨日会ったばかりの静香は好奇の目で見ることも無く、純粋に克也に好意を持ってくれていた。
 「ええ。とてもお綺麗です。もちろん男の子に言う言葉ではないかも知れないけれど、克也様は本当に綺麗ですよ。」
 「はずかしいよ。」
 頬をほんのりと染めて、克也は横を向く。静香の賛辞の言葉に、背中がむずむずしてくる気がする。
 「では、仕度も終わりましたから、朝食にしましょう。だんな様と、宗次郎様がお待ちになっていますよ。」
 「……は…い…」
 空腹感を多少は感じているが、祖父と叔父が待っていると聞かされ、表情が曇る。
 『これ』
 という言葉に、自分が祖父に歓迎されていないことを実感させられた。
 「大丈夫ですから。さ、参りましょう。」
 克也の気持を察してか、やさしく微笑むと、そっと肩に手を置いた。
 「だんな様は見た目は怖いところはあるかもしれませんが、逆らわなければ大丈夫ですよ。宗次郎さまもいらっしゃいますから、堅苦しくならないと思いますよ。」
 静香はそう言うが、むしろ宗次郎が気にかかる……とは今の克也が言えるはずもない。促されるままに、克也は二人の待つ、部屋へと向かうのだった。



 「失礼いたします。克也さまをお連れいたしました。」
 廊下と隔てる、襖で正座をした静香は中にいる主人に克也の到着を告げる。
 「入りなさい。」
 一呼吸を置いて、ざっという小さな音をたてて、襖を開いた。香ばしい朝食の臭いが克也にも届く。
 「克也さま。」
 静香は小声で克也の背中を押す。
 うん。と小さく頷いた克也は和室に足を踏み入れる。夕べと同じように床の間を背に、祖父が腰を降ろし、向かいに宗次郎がいる。その隣が克也の席のようで、お膳が並べられていた。
 克也は足音を立てないように歩いて、宗次郎の隣に正座をする。
 「遅いではないか、明日からは10分早く用意しなさい。」
 「はい。」
 厳格な祖父は時間にも厳しいのだろうか、克也は手をぎゅっと握り締め、小さな声で返事をする。
 「まあまあ、父さん。克也くんが怖がっているじゃないですか。せっかくの食事も冷めてしまうから、早く食べましょう。ね、克也くんもお腹が空いたでしょう。」
 「えっ?」
 夕べのことなどまるで無かったように、にこやかに克也を見る宗次郎。途中から記憶がなくなっている克也のほうが、戸惑ってしまった。
 「ほらね、いただきます。」
 少々、大げさなしぐさで手を合わせる、宗次郎。克也もつられて箸をとった。
 「…………。」
 克也の目の前には見たことのない、さまざまな種類の食べ物が並べられている。茶碗には真っ白なご飯。味噌汁に、焼き魚、付け合せには青菜の胡麻和えなど、一度には食べきれないほどの量だ。
 どうして、ここにはこんなに食べ物があるの?
 純粋に克也は思う。
 父が健在だったときは、まだしも、母と二人での生活では3度の食事を確保するだけでも、大変だった。
 何故?なぜ?お母さんはご飯を食べられなかった……
 この、半分でもあればお母さんは病気にならなかったのに…
 おかあさん…
 克也の頬に涙が伝う。
 裕福や、貧しいとの価値観は幼い克也には出来ていないが、必要なところに物資がいきわたっていない理不尽さが克也の心を締め付けた。
 「克也くん…っ…」
 流れ出した涙は止まらず、後から後からあふれ出す。
 堪えきれず、嗚咽をあげて泣き出した克也。
 宗次郎は茶碗を置くと、克也の背中をなでる。
 「……おっ…かあさ…ん…」
 「克也くん…」
 「食事中だ。泣くやつがあるか。」
 祖父の声が、ぴしゃりと空気をさえぎった。
 「っ!」
 不機嫌そうな低い声に克也の背がぴりっと伸びる。
 「お前は男だろう?しっかりとしないか。泣くのであれば、食べなくてよろしい。静香これの食事をさげなさい。」
 厳しい視線が克也に向けられた。
 「………だんな様…」
 静香はお茶を注ごうと持っていた急須を取り落としてしまいそうになる。
 主人と克也の関係は分からないが、明らかなつらい仕打ちに静香は言葉が繋げない。俯き小さくなっている克也を見ることしかできない。
 「……だんな様」
 「聞こえなかったのか?下げなさい。」
 主人の言葉に異を唱えることは、使用人の静香の立場ではありえない。仕方なく克也の分の食事を片付ける。
 
 祖父と宗次郎は何事も無いように朝食に箸をつけていく。克也は泣くことを堪えて、俯いたままだ。この場から立つこともできず、二人が食べ終えるまで、身動き一つしないでいた。
   
 「克也。顔をあげなさい。」
 食事を終えた祖父がようやく口を開く。
 「は…いっ。」
 びくっと身体をすくませて、はじかれたように祖父を見る克也。
 「お前の父と母の名前は?」
 何故、こんなことを聞くのだろうか、克也は首をかしげながらも、父と母の名を口にした。
 「………そうか。」
 祖父は何か想いがあるのだろうか、眉間にしわを寄せ、お茶をすすった。
 「あのっ……おかあさんは…どこにいますか?」
 どうしても気になって仕方のなかったこと。克也は勇気を出して質問してみる。
 一見表情は変わらないように見えたが、ピクリと祖父の眉がうごくのを克也は見逃さなかった。
 「母は、海馬家で手厚く葬った。勘当したとはいえ、海馬の人間だからな。」
 「おかあさんの所へ、行きたい。」
 もう、やさしい笑顔は見れないけれど、温かな腕で抱きとめてはもらえないけれど、母の側にいきたい。母の側にいたい。
 「今はだめだ。」
 「……っ。」
 予想はしていたけれど……克也はぎゅっと手を握り締める。
 「それよりも、自分のことは気にならないのか?」
 「俺?」
 母の死を受け入れなければならない現実と、劇的に変わった環境に自分のことを考える余裕は克也にはなかった。
 「のん気な子だ。誰に似たのか。一度しか言わないからよく聞きなさい。今日からお前は城之内家の養子に入る。お前の名は城之内克也となる。」
 「じょうのうち……?」
 城之内…聞いたことのない名前だった。
 「分からないのも、無理ないよ。私から説明しようね。
 分からないといったふうの克也に、祖父に代わって宗次郎が説明をする。
 『城之内』とは私の母…つまり、克也君のおばあさまにあたる人の実家の姓なんだよ。
 城之内家は男の子に恵まれなくてね、快くキミを養子に迎えてくれるそうだ。」
 おばあさまの実家。お母さんのお母さん……一晩過ぎて、次々と耳にする聞きなれない言葉に城之内の頭は混乱している。
 「ゆっくりと、理解すればいいよ。まず、君の名前が城之内克也になったことを覚えておけばいいさ。」
 「はい……。」
 わからないことだらけだが、克也は頷いた。
 「俺は、城之内の家に行くの?」
 克也が城之内となのる以上、海馬の家にいる必要は無いだろうと、克也は考える。
 両親がいなくなった今、どこに行っても同じなのだから。
 「ははっ、心配ないよ。君はここにいていいんだよ。これからはここが君の家になるんだ。」
 「えっ…?」
 「別に驚くことじゃない。君には血の繋がったおじいさまがいるんだ。一人きりになったしまった克也くんを引き取るのが筋だろう?」
 「でもっ…」
 孫を引き取ることはいいとして、何故、克也を城之内家の籍にいれるのか? 
 大人の都合によって、その所在を変えられていく克也。
 不安だけが、克也の中に募っていった。
 「わしは出かける。宗次郎後はたのむ。克也は宗次郎の言うことをよく聞くのだぞ。分かったな。」
 宗次郎と克也の会話に飽きたのか興味がないのか、祖父は立ち上がった。
 「静香、車を回すように伝えてきなさい。」
 静香は一礼し、部屋を後にする。祖父も程なく自室へと戻っていった。
 祖父と宗次郎がなにやら目配せをしているが、俯く克也が気づくはずもない。
 ぱしり。と、音をたてて閉まる襖。
 「ふぅっ…」
 祖父がいなくなったことで、張り詰めた空気が少し緩んようだ。克也は大きく息を吐く。
 「おじい様は、怖い?」
 克也の考えを見抜いているのだろう、からかうような調子で聞いてきた。
 「えっ…いえ…その…少し…」
 どう答えればいいのか、考えがまとまらない。しどろもどろに言葉を捜す。
 「君は素直だね。」
 「えっ?」
 克也の脳裏に焼きついている夕べのこと。身体を流す範疇に収まらない行為。祖父は祖父で緊張するがそれとは違う意味で克也の体に力がはいっている。
 SEXの知識などないが、なんとなく後ろめたさを感じて、宗次郎にも心を開くことが出来ない。
 「さてと、おじいさまは町へ出かけてしまうし、今日はどう過ごそうか?海馬のことはおいおい説明してあげようね。」
 夕べのことなど、何事でもないことなのか。それとも、何事もなかったように振る舞い、克也の反応を楽しんでいるのだろうか?
 「そうだ。克也くんにモデルになってもらおうかなぁ。」
 「……モデ…ル……?」
 思わず、俯いていた克也の顔があがった。正面に宗次郎をとらえた。
 「こう見えても、僕は少々絵をたしなむんだ。克也くんはかわいいから是非モデルになってもらいたいなあっておもってね。」
 絵……と聞いて、克也の表情が緩む。
 「おじさんは絵を描くの?」
 「そうだよ。趣味の範囲だけどね。」
 謙遜していうが、宗次郎には揺ぎ無い自信がある。東京では小さいながらも個展を開いたり、展覧会に出展するほどの腕前だった。『海馬』の名を差し引いてもそれなりの評価を受けていた。

 この人も絵が好きなんだ。
 絵が好きな人に悪い人はいないよな。

 母と兄妹というだけのことはあり、宗次郎の面差しにどこか母親が重なっている。
 克也の先程までの不安を押し流した、絵を描くという一言。
 「はい。」
 克也はにっこりと笑うと頷いた。





 「じゃあ、この椅子に座って。」
 宗次郎のアトリエに場所を移し、克也は用意された椅子に腰をおろす。
 和室の一つを改築したそこは畳ではなく、板張りの床になっている。中には張られたばかりのキャンバスや、石膏像、描きかけの絵がところせましと置かれている。見たことのない専門的な道具や、絵の具の香りに克也はうっとりとしている。
 一定の距離をとった、宗次郎もスケッチブックを手に椅子に腰掛けた。
 「今日はデッサンだけだから、緊張しなくていいよ。」
 「はい。」
 所詮は子供。もともと、長い時間大人しくしていることは苦手としてることなのだが、克也の視線は宗次郎の手の動きに集中している。
 宗次郎の滑らかに動く手、鉛筆が紙を擦る音。被写体である克也を眺める視線。
 克也はまるで自分が絵を描いているように錯覚してしまった。
 
 宗次郎はごくりと唾を飲み込む。
 絹糸のような金色の髪、キラキラと潤んだようにこちらを見つめる青い瞳。産毛でさえ髪と同じ色の白い肌は自ら光を発しているようだ。そして、日本人とは決定的に違う、長い手足。
 いわゆるお稚児を何人も買ってきた宗次郎だが、克也のような子はいなかった。
 人形のような外見に素直で健康な意思をもった克也。
 昨夜の風呂場でのなめらかな手触りを思い出して、宗次郎の下半身に妖しい熱がこもっていく。
 途中で止めてもったいなかったな…
 まあ、いいか。今夜から可愛がってあげるからね。
 宗次郎は不自然に膨らんだ部分を隠すために、足を組みかえる。

 どのくらい時間が経過したのか、ぐう〜っと朝食を食べ損ねた克也の腹が鳴る。
 「ああ、ごめんごめん。克也くんは朝ごはん食べれなかったんだよね。ついつい夢中になってしまったよ。なにか用意させようね。」
 「……すみません。」
 顔を真っ赤にさせた克也は謝った。
 「謝らなくていいんだよ。むしろ、気が付かなかった僕のほうが悪いさ。」
 そう言うと、お茶の用意をするために、宗次郎は部屋を出ていく。普段から作業に集中するために、使用人にはアトリエに近づかないように指示していた。
 宗次郎の足音が次第に遠ざかる。
 「ふぅっ。」
 この屋敷にきてようやく一人になれた、克也は大きく深呼吸をする。すぐに宗次郎が戻ってくるだろうが、一気に緊張がとけた。
 「すごいなぁ。アトリエかぁ。初めて見る…あれっ?これはなんだろう。」
 環境の変化に借りてきた猫のように大人しくしていた克也だが、見たことのない道具に瞳が輝いた。
 「触ったら、怒られるよな。」
 と言いながらも、好奇心を抑えることの出来る年ではない。几帳面に整理された棚にある、筆を手にしてみる。
 「へぇ、これで描いたらどんなのが描けるのかなぁ。」
 右手には絵筆を持ち、左手にはパレットを持つ真似をした。目の前には真っ白なキャンバスが現れて、克也の頭には色とりどりの世界が広がり始めている。
 無意識に克也の手が動いていた。
 「はい。お茶が入ったよ。」
 おぼんを手に宗次郎がアトリエに戻ってくる。
 「うわっ。」
 背後からの声に驚いた克也は手にしていた筆を落としてしまった。
 「ご…っ、ごめんなさいっ!」
 慌てて拾いあげる。
 「いいよ。気にしないで。こっちにおいで、おやつにしよう。」
 宗次郎はテーブルにおぼんを置くと、椅子に座った克也に飲み物を手渡す。
 「熱いから気をつけてね。」
 克也はティーカップのに注がれたものを不思議そうに見る。
 「これは…?」
 「紅茶だよ。克也くんは初めてかな?お砂糖が入ってるから、飲めると思うよ。」
 宗次郎も隣に腰掛けて紅茶を口にした。
 克也も真似て、紅茶を一口、口に含んだ。
   「…おいしい。」
 口の中に広がる甘い液体。空っぽの胃が再び、ぐう。と鳴った。
 「クッキーだよ。食べてみるかい?」
 「ありがとう。」
 差し出される皿にはいろいろな形のお菓子が乗っている。克也は一つ摘むと、口の中に放り込んだ。
 「おいしいっ!」
 食べたことのない、甘さに克也は夢中になる。
 「まだたくさんあるから、気にせずに食べていいよ。」
 紅茶を片手に宗次郎はにっこりと微笑んだ。
 「はーい。」
 絵と甘いお菓子にすっかり克也の心がほぐれ、夕べのことも気にならなくなっていた。
 
 俺の感じかたが悪かったんだよな。おじさんはきっといい人なんだよ。
 だって、おかあさんの弟なんだから。
 
 皿にあったお菓子のほとんどが克也のお腹に納まるのを見計らって、宗次郎が口を開いた。
 「アトリエに興味があるのかな?」
 「えっ?」
 さっきのことを言っているのだろう。
 「勝手に触ってごめんなさい。」
 怒られると、頭を下げる。
 「ははは。謝らなくていいよ。熱心に見ていたようだからさ。」
 「……絵が……」
 絵が好きだからと、素直に言葉にできず口ごもってしまう。本当は自分も描きたいと言いたいのだが、我がままを言うわけにもいかず、もごもごと口を動かした。
 「絵を描きたいのか…な。」
 もじもじと指を絡める、克也の心境を察した宗次郎は側に掛けていたカバンの中から、真新しいスケッチブックと鉛筆を取り出し、克也にわたす。
 「……おれに?」
 スケッチブックを手にした克也は驚いて顔を上げた。
 「モデルになってもらったお礼さ。使っていいよ。」
 「うわぁっ。ありがとうございます。」
 目を輝かせて、真っ白いスケッチブックを早速開く。
 「描いてもいいですか?」
 「いいよ。」
 宗次郎の返事を聞くのもそこそこに、克也は被写体を探して辺りを見回していた。すでに自分の世界に入り込んでいる様子だ。
 何を書こう。
 克也はアトリエを見渡した。久しぶりの紙と鉛筆を手に克也の心は躍っている。
 チチチ…
 開け放たれた窓の向こうに広がる庭に、花をつけた一本の梅の木が見えた。その蜜を吸いにきた一羽の小鳥。
 「かわいい。」
 小鳥に気づかれないように、そっと足音を忍ばせて、窓際に近づいた。小鳥の小気味いい蜜をついばむしぐさに克也の意識が集中する。いつ、そこから飛び立つかもしれない小鳥を記憶するために克也は瞬きも忘れる。
 
 この子も絵が好きなんだ。
 そういえば、剛三郎の子供も絵を描いてたよな。

 宗次郎は真剣な顔で窓の外の景色に集中している、克也の横顔を眺めている。
 おもちゃを与えるように、克也にスケッチブックと鉛筆を渡した宗次郎。
 手なづけ、懐柔しようと克也に渡したもの。それが、宗次郎のプライドを砕くものだとは思いもよらなかった。
 「何か描けたのかな?」
 宗次郎は背後から近づくと、そっと手元を覗き込む。
 「!!!!!!!!!!!」
 宗次郎の目が驚きに見開かれた。驚くのも無理はなく、そこには想像も出来ない世界が広がっていたからだ。
 「……この子は!!」
 宗次郎は信じられない思いで、克也を絵を見比べた。
 白い紙に浮かび上がる、梅の枝と蜜をついばむ一羽の小鳥。  
 今にも飛び立ってしまいそうな、生き生きとした小鳥。
 年相応の稚拙な絵が描かれていると確信していただけに、受けた衝撃は大きい。
 克也は絵の世界に集中していて、宗次郎が側に来たことにも気が付いていないのか夢中に鉛筆を走らせている。

 まだ、技術は幼いところがあるが、克也の描く絵は宗次郎の自尊心を粉々に打ち砕く。
 宗次郎は何十年も絵を描き続け、ようやく今の地位を築きあげた。なのに、目の前にいる子供は自分を飛び越えて、遥か高みに到着しているではないか。
 才能の範囲ではない、神の領域。
 宗次郎だけではない、絵を志す者たち全てが欲してやまない、神に愛された人間がそこにいる。
 まざまざと見せ付けられる、器量と格の違い。
 宗次郎の目に嫉妬と羨望の色が混じり、握った拳が震える。
 (何故、この子なのだっ!神はなぜこの子を選んだのだ。)

 チチチ・・・
 小鳥は空へと飛び立つ。神に近い場所へ。

 「出来たっ。」
 無邪気に笑う克也とは反対に宗次郎の心にどす黒い感情が渦巻いている。
 「上手だね。」
 やっと言えた言葉はかすれていた。
 「ありがとうございます。」
 スケッチブックを胸に抱え、克也は頭を下げる。
 絵の神に愛された子供。
 与えられた才の大きさに気づかず、
 絵を愛し、絵を描くことを愛し。
 だから、神は克也を愛したのだろうか。

 神に愛された、穢れのないこの子を汚してしまいたい。
 地の底に沈めて、神の目から遠ざけてしまいたい。
 しかし、自ら光を放つこの子は神に容易く見つかってしまうだろう。
 
 「今日はこれでいいから、屋敷の中を静香にでも案内してもらいなさい。」
 宗次郎は部屋を片付ける振りをして、克也をアトリエから追い出した。
 嫉妬に彩られた醜い自分の姿を見られたくは無かった。
 「はい。」
 克也は襖を静かに締め、与えられた自室へと戻っていく。そこで、克也は時間が過ぎるのも忘れて、絵を描き続けた。



 結局、祖父は夜になっても帰宅せず、アトリエに篭った宗次郎はでてこずじまいで、夕食は克也一人でとることになった。
 広い和室にぽつんと一人で夕食に箸をつける克也。
 「おじいさま、いそがしいのかなぁ。」
 側には静香が給仕のために控えている。
 一人で食べる食事は味目なく、寂しさを感じないわけではないが、あの二人との食事となると話は別だ。張り詰めた空気の中での食事なんて、考えるだけでも食欲が無くなってしまいそうだった。
 「まあ、いっか。」
 一人で納得すると、成長期に差し掛かった克也は出された物全てを綺麗に平らげる。
 「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです。」
 食器を下げる静香に克也は感謝を伝えた。
 「そうですか、では、料理長にお伝えしますね。朝から仕込みに余念がなかったですから。きっと喜びますよ。」
 「ふうん。」
 「なんでも、克也さまに食べていただくのだからと、言ってましたよ。」
 「おれに…?」
 大人の考えていることは、分からないと克也は首をかしげるが、宗次郎が命令したのだろうと考えることにした。
 「お風呂の準備は出来ていますから、いつでも申しつけくださいね。」
 「はい…。」
 風呂と聞いて、克也の鼓動が跳ね上がった。今まで忘れていたのに宗次郎との事が頭の中をよぎる。
 体を這う手の感触が甦ってくる。背筋に寒いものが走り、ぶるっと体を震わせる。

 どうしても、入らなくちゃならないかなぁ。

 「俺、眠くなったから…お風呂は遠慮してもいいですか?」
 疲れたことを口実に、入浴を避けようとしてみるが、
 「あら、だめですよ。すぐに着替えを用意いたしますから、克也さまはこのまま湯殿へ行ってくださいな。」
 半ば静香に引きずられて、脱衣所に追いやられる。
 「手ぬぐいはここにありますから、十分に疲れを取ってくださいね。では私は着替えを持って参りますね。」
 克也を押し込むと、静香は浴室を後にする。

 ぽつんと残された克也。
   扉の向こうからは、湯が溢れる音が聞こえる。
 「あ〜ぁ。まいったなぁ。」
 夕べは一人になりたかったのに、今は……この場所で一人になるのは嫌だった。宗次郎の視線を感じてしまうような錯覚に捕らわれる。
 「よしっ、おじさんが来る前に入ってしまおうっ。」
 一気に洋服を脱ぐと、湯船に飛び込んだ。
 ざばんっと派手に湯が飛び散る。
 「十数えたら出ちゃえ。」
 鼻を摘んで、湯の中にもぐる。
 
 いーち。にー。さんー。よーん………
 ……きゅうー。じゅう。

 「ぷはっ。」
 湯の中から顔を出した克也の視界に入ってきたのは……
 
 「……おじ…さん…?」
 一番会いたくない人物だった。







 おお、後編1になりました。相変わらず先を読むのがへたくそなきふじんです。
城之内が城之内でないような・・・・別人??いえ、城之内のはずです。いや、城之内だ。
後編2でKATUYAは終わります。番外のつもりだったのですがこんなに長くなるとは・・・・とほほ・・・この次はまたまたエロが・・・・はぁ。と、名もなき湖も出てきたりします。瀬人は少しでるかなぁ・・・
で、なんと、ここだけの話し「祈り〜」にカットが入ります。ほほほっ。見たらびびりますよ。だめもとでお願いしたら、描いてもらえることになりまして。首を長くしてまってます。

エロで思い出しましたが、最近言われるのが、海馬といちゃいちゃさせてとのこと。海馬とのらぶらぶは本当に照れるんです。チューを考えるだけで赤面ものです。いつかはしっぽりとした海城にしたいなぁ・・・・
と、と、後編2が終われば祈りも本編に戻ります。まだ、全体像が見えてこないでしょうが、この話はドミノ高校の面子が勢ぞろいのはずです。ですよねっ??Nさま。
では、後編2をお楽しみに・・・・