朝霧の立ち上る早朝の湖岸に瀬人は佇む。 標高の高い木々に囲まれた湖は真夏とはいえ、少し肌寒いくらいだ。空はまだ蒼が濃く、星の瞬きもまだちらほらと探すことが出来た。 刻一刻と変化する空の色に合わせ澄み切った湖面は色を変え、神秘的な光景に瀬人は魅入られている。名前の無い小さな湖だけれども、ここには神が住んでいてもおかしくないと素直に思える神々しさがここにはあった。 蒼が青に変わり鳥がさえずり始めるまで、湖を眺めていた瀬人は脇に抱えていたスケッチブックをゆっくりと捲り始めた。 ページを捲るたびに広がる世界がそこにはあった。どの絵も1枚1枚丁寧に描かれ、風景画や野鳥や小動物が、生き生きと描かれ、今にも動きだしそうな躍動感が溢れていた。耳を澄ませば風の音や鼓動でさえ聞こえてきそうだった。 「あの子が描いたものなのだろうか…」 瀬人は長く息を吐いた。 大人から子供まで、この絵に心が動かされると断言しても良いくらい、ここに描かれている絵は凄かった。もはや才能という範疇に納まらない技量を見せ付けられ、瀬人の背中を冷たい汗が伝っていった。 祖父と叔父に抱かれて、あえやかに啼いていた金色の少年。 風と戯れながら、静かに絵を描いていた金色の少年。 そして、その少年が残していったスケッチブック。 全てが上手く繋がらなくて、瀬人はスケッチブックを閉じた。 「何者なのだ…あの子は…」 軽い眩暈を覚えた瀬人は目頭を摘む。 「違う…何者でも構わないのだ。この絵を描いたのが本当にあの子なのかが分かればいい。」 絵の神に愛されているのが誰なのが、それが知りたかった。 知りたいという欲求の影に隠れている、嫉妬心に瀬人は気づかないふりをしたまま。 金色の少年を待ち続ける。 ガサガサッ 不意に草を踏み分ける音がして、瀬人が音のしたほうへ視線を向けると、草の陰から待ち望んだ少年が姿を現した。 「あっ!」 「っ!!!」 誰もいないと思っていたのであろう克也は瀬人の姿に驚くと、身を翻し来た道へ戻ろうとした。 「待って!!」 瀬人は克也を呼び止める。名も無き湖に瀬人の声が静かに木霊する。 「探しものはこれだろ?」 瀬人がスケッチブックを胸に掲げると、克也の碧い瞳が大きく見開かれた。 「………。」 克也は少しの間考えを巡らせて、困ったように小さく頷くと、恐る恐る瀬人のほうへと近づいてきた。 「これは君のもの?」 まるで怯える子犬を手なずけるようなやんわりとした声色と微笑みで、瀬人はスケッチブックを差し出すと、 克也もじぃっと、瀬人をその深い青色で見つめ、やがて、納得したように、うん。と克頷いた。 「君が描いたの?」 瀬人の声が少し上ずってる。克也はきょとんと首をかしげると、うん。ともう一度頷いた。 「………上手だね。」 予想通りの答えに瀬人は乾く喉を唾で無理やり潤して、ようやく言葉を繋ぐ。絵の神に愛されている者を前にして、余りにも滑稽な褒め言葉しが出ない自分が情けなくなる。 「ありがとう。」 褒められた克也は今までの不安気な様子はどこへやら、うれしそうに顔を綻ばせ、スケッチブックを受け取った。 スケッチブックを胸に抱え、褒められたことを素直に喜ぶ姿は弟のモクバとなんら変わりは無い。 昨日は洋服を着ていたが、今は寝床を抜け出して来たのだろう浴衣に草履というなんとこ心もとない姿をしている。夜露に濡れた裾から伸びる細く白い足に瀬人の鼓動が早くなった。 「きみは…」 どこから来たのかと聞こうとしたとき、湖を囲む山の稜線から太陽が昇ってきた。 「あっ……。」 力強い熱と光を湛えた朝日が湖面を金色に輝かせ、瀬人と克也はその神々しい光景に言葉も忘れて魅入られてしまった。 「きれい。」 克也は一日の始まりの自然の鮮やかな変化を脳裏に焼き付けている。もし、ここに絵筆があればこの一瞬の感動を描きとめたに違いない。 克也は何かに引き寄せられるように、湖に近づいて行った。ぱしゃりと冷たい水が克也の足を濡らす。 「危ない。」 瀬人が克也を呼び止めると、 「ん?」 克也はゆっくりとこちらを向いた。 ………! その光景に瀬人は息をすることも忘れた。 金色に輝く光を背に受けて、克也が輝いている。 黄金色の髪は輝きを増し、日本人には無い白い肌がその色を鮮やかにする。産毛の一本一本まで陽光を反射して、まるで克也自身が光を発しているようだ。 ふっくらとした桜色の唇はやさしく曲線を描き、空の色を映すような碧い瞳が瀬人の心をわしづかみにした。 神に愛された美しい少年。 その愛らしい姿はフレスコ画で見た天使のようだ。 ……いや、神が人間の形を取れば、このような姿になるのかもしれない。 瀬人は克也に魅入られたまま、そこに縫い付けられたように足を動かすことが出来なかった。 ****** どのくらいそうしていたのだろうか、気が付けば克也の姿はそこにはない。 ただ、克也が何処かに行こうとする時、瀬人は咄嗟に名を聞くのを忘れない。 「克也。」 金色の少年は頬を赤くして名前を告げた。 「俺は瀬人。」 克也は頷いて微笑むと片手を振った。 「また、会おう。ここで。俺はいつでも待っているから。」 もと来た道を帰る後姿に、瀬人は声をかけた。 いつ、果たされるのか保障のない約束を。 「克也というのか…不思議な子だ…」 腕時計を見ると朝食の時間が過ぎていて、瀬人はモクバのことを思い出した。きっと拗ねているに違いない。 午前中で機嫌が直ればいいけれど… しばらくは弟から解放されないだろうと、想像しながら瀬人もまた、屋敷へと戻っていく。 名も無き湖は何事もなかったように波の音を響かせる。 何事も無かったかのように……… ****** びっくりした。 まだ、胸がドキドキしてる。 克也はスケッチブックを抱え、慣れた獣道を駆け足で屋敷を目指している。 人目に付かないように森を抜けるのも慣れたもので、ひょいっと裏の木戸をくぐり蔵へと戻っていった。 やっぱり、あの人が瀬人なんだ… カッコ良かったな。 克也は一人っ子だったので、兄がいればあんな感じなのかもしれない。 どこか、やさしげな面差しが父親に重なり、克也の鼻の奥がじんと熱くなる。 また、会おう。って言っていたけど、本当かなあ。 別れるときの約束の言葉が耳に残っていた。 ***** それから、二人は名も無き湖で会うようになっていった。 海馬家の跡取りの瀬人と、厄介者扱いされている克也は天と地ほど立場の差があるが、『絵』という共有できるものによって、二人の絆は硬く結ばれていく。 時間を重ねるごとに二人は打ち解けて、克也もまた、本来の姿を取り戻していった。 日本人離れした外見と、その類稀なる才能もあいまって儚げな子供というのが瀬人の克也に対するイメージだったが、それは間違いだとすぐに考えを改めることになる。 一日中、村の中を遊びまわったことを楽しそうに話す時や、蔵で読んだ本や美術品の感想を述べる克也はやはり、どこにでもいる年相応の子供だ。 二人はここにいるときは絵を描くことが多かったが、湖畔の木に登ったり、魚を捕まえようとしたり、水遊びをしたりもしたりした。 表情が百面相のようにころころと変わり、湖面に反射する陽光のような生き生きとした克也に瀬人の目も細まる。 沢山のことを話すうちにすっかり打ち解けた克也は、ポツリポツリと両親のことを口にするようになった。 最近まで両親以外の血のつながりのある人を知らなかった克也はいまいち実感が無いようだが、理解できていることを瀬人に話していく。ただ、祖父と叔父との関係だけは知られてはいけない秘密だ。 身寄りのない克也は、瀬人の祖母側の城之内家に籍を置くことになった。その代わりに克也は海馬家に身を置く。 世間体を第一に考える封建的な海馬家で、アメリカと日本人の混血の克也の存在はあってはならない醜聞だった。大人達の身勝手なエゴと、偏見と差別的な社会情勢の中で、克也の人生が翻弄されていた。 瀬人は克也と血の繋がったいとこだと知り改めて驚くのと同時に、いたたまれない気持ちで一杯になる。 髪の色肌の色が違うというだけで、同じ人間ということには変わりはない。 たったそれだけの違いで、克也が差別されなければならないのか、瀬人には理解しがたいものだった。 両親と死に別れた寂しさと、自分の複雑な身の置き場に、健気に耐え懸命に理解しようとしている克也に、瀬人は次第に惹かれていくのだった。 短いですが、連載再会と言うことで多めにみてください。 とりあえず番外編とは繋がってますよ〜 このお話は夏までには終了させたいです(熱望) あと、傷跡も再会させたいよ〜〜〜〜 やりたいことが一杯です。でも、眠いのでここで撃沈です… |