12月23日




メリークリスマス

出張、おつかれさま。
交渉が無事すんでよかったな。
中国は寒かったか?
こっちも寒かったんだぜ。
あっ、マフラーと手袋ありがとう。
お陰で風邪を引かなくてすんだみたいだよ。
ちゃんとクリーニングして返すから。

今日な……海馬にプレゼントがあるんだ。
プレゼントなんて、全然がらじゃねぇんだけどよ……
いっつも、お前からは貰ってばっかだから……
たまには、良いかなって……な。

すっげぇ、海馬にぴったりの奴なんだぜ?
もう、お前のイメージそのまんまって感じだよ。
誕生日には間に合わなかったんだけど、今日でもいいだろ?
誕生日とクリスマスを兼ねて悪いんだけどさ、貰ってくれるか?
安物でつまらない物かもしれないけど、気持ちだけはいっぱいに詰まってるぜ。


うわぁ!似合ってるよ。
すごく、良い感じだよ。
さすが俺。
この石がさ……名前は知らないけど、お前の目の色と同じで綺麗だろ。
俺、一目でこれが気に入ってさ、頑張って金貯めたんだ。
バイトを一つ増やしてさ………


あっ…………?


どうした?


うれしくないのか?
なんでそんなに寂しそうな顔してるんだ?
やっぱり、迷惑だった?



あれっ???



海馬の腕から時計がすり抜けて、床に落ちていく。

ゆっくりと、スローモーションのように時計は落ちて、
地面にあたると、小さな光の粒になって砕けていった。


!!!!


あぁっ……時計が……



………………………

  ………………………

………………………



ちがう

俺は時計を買えなかった………

手に入れられなかった………………


ごめん  かいば


ああ  だから  そんなに   かなしそうな  かお  してんだ


ごめん


ごめん



****************





   必要最低限の物さえない殺風景な6畳の和室の真ん中に、愛しくてやまない恋人が眠っている。口元は少し切れていて、茶色く変化した血がこびりついている。
 青白く顔色は悪く、呼吸も荒く浅い。
 眠っていても咳が止まらないようで、時折思い出したように咳き込んでいる。
 なのに、頬だけは紅くなっていて、熱の高さを伺わせるには十分だ。
 
「城之内」

 眠りを妨げないように金色の髪をなで、そっと汗ばむ額に触れると、予想以上の体温に海馬は深いため息をついた。

 ばかものが。無理はするなと、あれほど言ったではないか。
 いや、こいつに、忠告は無意味だったな。

 城之内の無計画なやせ我慢は今に始まった事ではない。
 自分のことよりも大切なモノを優先してしまう。時には自分の命ですら、投げ捨ててしまうのだ。
 大切な妹の為に。友の為に。仲間の為に……
 一見、崇高で正義感に溢れる行為に見えるかもしれない。でも、海馬から見れば、自己犠牲の愚かな自己満足、自己表現でしかなかった。
 自分の身を痛めつけて、危険に曝すことでしか、自分の存在理由を見つけることが出来ない、成長出来ない幼さと、ぎりぎりの危うさを内包している城之内。
 だからといって、この男を己の中に保護することは出来ない。
 父親をしかるべき施設にいれ、借金を返済し、遠くに住んでいる母親と妹を呼び戻せば、城之内は幸せになれるのだろうか?
 それとも、自分の保護下に入れ生活や行動を共にするのが最善なのか?
 海馬は同じと事を何度も自問自答する。
 しかし、いくつの選択肢を仮定しても、出てくる答えは同じだ。

 城之内が城之内であるためには、自分自身の手で道を開かなければならない。
 苦しみも憎しみも痛みも虚しさも
 喜びも楽しさも安らぎも
 負の感情も
 城之内自身が昇華して行かなければならない。

 絶対的な地位と権力を持っていても城之内のために出来ることは少ないのだと、己の無力さに海馬は腹が立った。
 

「……め…」  城之内の唇が動いた。

 ごめん  かいば

 荒い息の下、か細い声でつむがれる言葉を海馬は追うと、確かにそういっている。

「…ごめん…な…」
 閉じた目元にじんわりと涙を浮べている城之内。
 一体どんな夢を見ているのか、夢のなかでさえ謝らないといけないほど城之内は追い詰められているのだろうか…。
「城之内…」
「…………       …????」
 想いを込めてその名前を呼ぶと、海馬の気配を感じたのか城之内が目を覚ます。閉じられていた瞼が振るえたあとゆっくりと開いていく。
「            」
 ぼんやりとした視界が次第にはっきりとして、海馬を映し出しても城之内の纏まらない思考は海馬を捕らえられずにいる。
 会いたくて仕方がなかった人がそこにいた。日に焼けてささくれた古い畳の上に座っている。
 夢が続いているのだろうか。まだ夢は覚めていないのかもしれない。その証拠に海馬は悲しそうな、淋しそうな顔をしている。
 ごめんな…買えなかったんだ…
「ごめん…」
 声を出すと一緒に咳も出る。背を丸め布団を引き上げた。でも、視線は海馬から外せない。まだ、夢の中にいると混乱している城之内は海馬が消えてしまうかと思い、怖くて目が離せない。
 熱が高いと涙腺も緩んでしまうのだろう、大きな薄い色の瞳は潤み、涙が一筋流れて髪に染込んでいった。
「ばかものが。」
 城之内の言葉をどう受け取ったのか、海馬は流れた涙の筋を拭う。
「????????????」
 手入れの行き届いた綺麗な指がひんやりとして心地いい。
 心地いいけれど、妙に実態感があるのは何故だろう。
「か  い  ば  ?」
 回転の遅くなった城之内にもようやく、夢ではなく現実なのだと理解し始めた。
「え?え?え?え?な?なんで??ここにいるんだ??お前まだ向こうにいるんじゃ??」 
 城之内は驚きのあまりに咳をすることも忘れてしまっている。たしか帰国は24日だといっていたはずだ。今日はまだ……
「昨日は電話に出なかっただろう?前の日から様子がおかしかったから、気になって予定を早めた。最終に乗ってきたんだ。そしたらどうだ案の定ではないかっ。何故黙っていたんだ。しかも、平気と嘘までついて。」
 昨日遊戯から電話を受けるまで、城之内の異変に気が付かなかった自分への苛立ちと、遊戯に対する嫉妬が海馬の中で混ざり合い、思わず城之内に対する言葉がきつくなってしまった。
「熱は高いし、目を覚ます気配はないし、どれだけ心配したか…」
「……ごめん…ごほっ…」
 昨日の電話に出るべきだったんだ。心配されるだろうけど大丈夫と言い続ければ海馬は予定を変えずにいたのかも知れない。結局、海馬の邪魔をしてしまったんだと、城之内は申し訳ない気持で一杯になる。
「ごめんな。俺……おれ…大丈夫だからさ。ちょっと咳が出るだけだから。」
 城之内は熱で重だるい身体を起こす。何度も咳き込みそなったが我慢した。何日も掃除をした記憶の無い畳の上に海馬が腰を下ろしている。
 海馬の服が汚れてしまうよ。 
 歪んだ視界でも分かるくらい部屋が汚れていて、座布団がどこにあるかを思い出そうとしたが、何年も使っていないのでやめた。代わりに羽織っているジャンバーを脱いだ。
「服が汚れる…から…汚いけど…これを座布団変わりにつかって………ごほっこんこんっ…」
 咳が止まらない。海馬にジャンパーを渡そうとしたまま身体を丸めて咳をする。我慢していた分、止まらなくなってしまっていた。
「城之内…いらぬ心配をするな。」
 熱に喉をやられてしまったのか、城之内の声がかすれていた。ジャンパーを握り締めて苦しそうに上下する背中をさすることしか出来ない。
「ごめっ…ん…海馬…」
 波が収まるのを待って、城之内は時計を見た。針はようやく日付を跨いだぐらいだ。海馬が最終で帰って来たのは間違いない。
 海馬は城之内が脱いだジャンパーを着せなおした。
「かいば…?」
「行くぞ。歩けるか?」
  「行くって、どこに?」
 城之内の瞳に怯えが走る。海馬の行こうとしているところは容易に想像がつく。
「決まっているだろう?館だ。その様子だと病院へは行っていないだろ?」
 座ったまま動こうとしない城之内の不安げな顔を覗き込んだ。
「平気だよ…寝てれば…ごほっ…治るから…」
「駄目だ。第一こんな環境のもとでは治るのもの治らん。行くぞっ。」
 幸いなことに父親は留守にしていた。しかし、時間が時間だ。いつ帰ってくるかも分からない。病人の城之内を抱えて、父親と諍いになるのは海馬でさえ避けたいところだ。
「…こんな環境って、一応俺の部屋なんですけど…ごほごほ…俺のことはいいから……」
「外気温と同じ部屋がか。普段の貴様なら平気だろうが、今は許さんぞ。力づくでも館につれてゆく。」 
 脇に手を添えて、抱え上げようとすると、諦めたように城之内は海馬邸に行きたくない理由を口にした。
「俺はお前ん家には行かない……モクバになんて説明するんだ…?」
「………」
 熱に潤んでいつもより大きく見える琥珀の瞳で海馬を正面から見据えた。
 秘密にしてきた二人だけの関係。
 海馬は気にするなと言うけれど、カイバコーポレーションのいや海馬のことを考えれば、公になど出来るはずもなく、遊戯たちはおろか、モクバにさえ秘密にしてきたのだった。
 いや、弟だからこそ言えないのかもしれない。
「こんな夜中に風邪っぴきの同級生が家にくるなんて非常識じゃないか?ありえない。しかも本当なら海馬は出張中なんだぜ?」 
「モクバに言い訳する必要などない。モクバには口を挟ません。」
「それじゃなお更行かないよ。駄目なんだ。モクバを蚊帳の外に置いたら駄目だ。お前の弟だろ?」
 城之内は静かに首を横に振ると、悲しそうな笑顔をつくった。
「モクバはお前のことを慕っている。思いの強さは他の兄弟以上なんだ。もし兄貴が大好きな兄貴が他人に捕られたと分かってみろ、ショックだと思うぜ。しかも相手は…俺なんだ…綺麗なお姉さんじゃない。」
「俺は構わないぞ。なんなら今から改めてモクバに紹介しよう。俺の特別な人だと。」
 同姓ということに負い目を感じている城之内は海馬の言葉にぎょっとする。海馬ならば今からでも容易く実行してしまうだろう光景を想像して、立ち上がろうとした海馬の腕を引っ張る。
「モクバはまだ小学生なんだ。まだ、海馬が…兄が必要なんだ。血の繋がった一番近くてあったかいものを求めてるときなんだぜ。」 
 城之内は無意識に自分を重ねている。家族の穏やかで安心出来た時間を持てなかった子供の頃、部屋の隅で膝を抱えて声を殺して泣いていたこと。両親を覚えていないモクバは海馬がただ一つの家族だ。
 妹をつれて家を出てゆく母親の後姿に、海馬が重なった。
 『いい子にしててね。必ず迎えにくるから…』
 母親の手が震えていたのを覚えている。幼いながらも城之内は母親が家を出た本当の理由を知っていた。夫の酒癖の悪さと借金も理由の一つだが、本当は他に好きな男が出来たのだった。暴力や借金は態の良い言い訳でしかなくて、もし、妹が目を患っていなければ置いて行ったに違いない。
 悩んだ末の母親の行動だと、悪いのは父親のせいだと自分に言い聞かせたけれど、親に捨てられたという事実は城之内の存在価値を根本から奪い去ってしまっていた。
 いらない子供、必要とされなかった子供。縋るものもなく孤独と絶望に苛まれた日々。
 モクバに同じ思いをさせたくはない。
「おれは……俺は…海馬のことが好きだから、モクバのこともちゃんとしたいんだ。海馬が大切にしてるくらい、俺もモクバのことを大切にしたい。」
 そして、城之内は考える。
 もし、俺が女性ならば…いつかは同じ屋根の下に暮らすかもしれない家族として、モクバは受け入れてくれるのだろうか…
 立場の違いすぎる、道なき恋をしてしまったことに後悔はない。海馬の側にいることで城之内の冷たく乾いた心は癒されていた。もう大丈夫だ。海馬の顔が見れたから。声が聞けたから。一人でも大丈夫。
「な、今夜はもうモクバのところへ帰ってくれないか。俺は大丈夫だから…平気だから…さ…風邪移しちまうっ…」
 違う。本当は一緒にいたい。側にいて欲しい。寒くて暗い部屋に一人で眠るのは淋しくて辛い。
 でも欲張ったらいけないと、海馬の時間を奪ってはいけないと城之内は自分を押し込める。海馬のことを好きになった時点で分かりきっていたことなんだと、城之内は淋しそうに俯いた。海馬の顔を見てしまうと涙がこぼれてしまいそうだったから。
「……城之内の言いたいことは分かった。だが、お前をここに置いていくわけには行かない。」
  海馬は布団に入ろうとする城之内を抱き起こした。
「ちょっ、ちょっと待て。俺は行かないぜっ。」
「館でなければいいだろう?」
「はぁ?」
「安心しろ病院でもないぞ。」
 このまま城之内にあわせていると夜が明けてしまうと、いつもの強引さで城之内を部屋から連れ出した。
「待てって。行かないっていってんだろっ」
 腕のなかで顔を真っ赤にさせて暴れる、いじっぱりな恋人に海馬は言い聞かせる。
「俺のことを考えてくれるのならば、大人しく付いて来るんだ。俺がお前をこんなところに放置できるわけないだろう。病気の時ぐらい俺を頼ってくれ。それとも俺は頼りにならないのか?」
 ううん。そんなことないよ。と、城之内は首を振る。
 どうして、いつも、海馬の手をわずらわせてしまうことばかりしてしまうのだろうと、風邪一つ治せない自分に、自己嫌悪に陥ってしまいそうだった。
 海馬に頼ってはいけないと分かっているのに、自分では何も出来なくて。
「……ごめんな…海馬……」
「分かればいい。行こうか。」
 なにか言いたげな口元にマフラーを巻きなおし、靴を履かせると着ていたコートを城之内の肩にかける。
 海馬の体温が城之内を包み込む。
 重そうにふら付いている身体を支えて階段を下りていった。
「歩けるか?」
 心配そうにしている海馬に笑って頷く。
 


******

 

 外で待っていた車に揺られて、付いたところはマンションの一室だった。
 豪華絢爛ではなく、洗練された空間を漂わせる建物の最上階の部屋に海馬の部屋があった。

「ここは…?」
 はじめて来る場所に城之内は戸惑う。
「俺のプライベートマンションだ。煮詰まったとき一人になりたい時に使っている。」
 海馬はスリッパを並べると、城之内に入るように手招きとする。
 海馬邸がヨーロッパのイメージとするならば、この部屋は雑誌に出てくるモデルルームになってもおかしくない作りになっている。使い勝手とデザインを熟慮された家具が視界を妨げないように配置されて居心地のいい空間を作り出している。
「………入ってもいいのか。」
 城之内は玄関から動けずにいた。海馬の場所に足を踏み入れていいのか、ぼうっとする頭で考えてしまっている。
「ばか者が。駄目ならば連れて来るわけない。」
 海馬はすうっとため息を一つつくと城之内を抱き上げる。
 城之内は海馬のモノに触れるのをいつも怖がっていた。時間、もの、場所……まるで触れたもの全てが穢れて、壊れてしまうと思い込んでいるようで、遠慮ばかりしている。冗談や悪態はいくらでも口から出てくるが、肝心のことは心の奥に閉じ込めていた。つらいことも悲しいことも押し込めて、精一杯の笑顔を作る城之内に胸が締め付けられた。
 頑なな城之内の心が解けるのはいつになるのだろう。
「うわっ……ちょっ…」
 手足をジタバタさせ抵抗するも、海馬には敵うわけも無く寝室へと問答無用で運ばれていった。
 城之内をベッドに下ろすと、クローゼットからパジャマと下着を取り出す。
「とりあえずだが、これに着替えるんだ。後で新しいのを用意しておこう。下着は新しいやつだから、気にせずに使うといい。」
「えっ。いいよ。汚しちゃ悪いから…っ!」
 遠慮している城之内の言葉に耳を貸すことなく、手際よく来ている服を脱がしていく。
「ちょっと待てっ!自分で出来るからっ…」
 熱のせいだけではなく、顔を真っ赤にした城之内は海馬の手を掴む。
「……安心しろ、病人を襲うほど欲求不満ではないぞ。」
 にやりと意味ありげに、耳元で囁くと更に城之内の頬は赤く染まる。
「…っばかっ…!なに言ってんだ。子供じゃねぇんだ。着替えくらい出来るっ……」
「では、着替えろ。」
 着替え一つさえ大変なことだと、心の中で苦笑いをしながら海馬は飲み物を用意するために部屋を出る。父親の暴力の跡が残っている状態で海馬の前での着替えは辛いだろうし、その場にいれば城之内を押し倒してしまいそうだったから。

 スポーツドリンクと暖かいお茶両方を手に寝室にもどると、城之内の着替えが済んでいた。
 どちらがいいと聞くと冷たいのと言われて冷えたグラスを手渡した。
「ありがとな。」
 腫れている喉につめたい刺激が心地よく、グラスはすぐに空になった。
「うまい…」
 久しぶりに感じる甘いものに城之内の表情が緩む。腫れた口元が痛々しいが海馬はあえて聞かない。聞かなくても何が原因が分かっている。
 空のグラスを受け取ると、変わりに体温計を渡す。大げさななんだからと、あからさまに嫌な顔をする城之内。
「測ったって、熱、下がらないぜ。計るだけ無駄だよ。」
「つべこべ言わずに計れ。」
 城之内なりの屁理屈に、海馬のこめかみがぴくりと動く。
「……は…ぃ…」
 ここは大人しくしたほうがいいと、城之内は体温計を脇に挟んだ。やがてピピピ…と電子音がして 表示された体温を確認した海馬の眉間に皺がよる。
「問答無用だな。」
 城之内にも分かるように大きなため息をつき、海馬はリビングに控えている医者を呼んだ。
 

*******


「夜中に呼び出して、すまなかった。」
 海馬は靴を履く医者を見送っている。
「謝らないで下さい瀬人さま。私は海馬家の主治医として当然のことをしただけですよ。少し驚きましたが…」
 靴べらを元の位置に戻すと主治医はコートのボタンを掛けた。
「先ほども説明したように風邪ですから、暖かくして寝ればすぐに良くなりますよ。熱は高いほうが早く良くなるし…咳は少し残るかもしれませんが大丈夫ですよ。」
 人の良さそうな笑みでそう告げる。領分をわきまえている主治医はそれ以上は何も言わない。
「注射をしましたから無理に薬は飲まなくても大丈夫です。」
「そうか……」
 診察と注射を嫌がった城之内を思い出して主治医は思い出し笑いをしてしまった。ただの風邪とはいえ熱は高くてしんどいにも関わらず、どこにこんな力が残っているのか。小さな子供が全身で抵抗するのと変わらない城之内とそれを抑える保護者のような海馬。小児科のような現場に、ふだんの主人とは全く違う顔に主治医の顔がほころんだ。
「では、私はこれで失礼いたします。なにかありましたらいつでもお呼びください。」
 そう言うと主治医は部屋を後にした。
 

 寝室に再び戻ると城之内が寝息を立てている、先ほどの診察で疲れたのだろう。海馬はそっとドアを後ろ手に閉めるとかちゃりと小さな音がした。
「……ん…」
 熱が高いために城之内の眠りは浅く、小さな音と海馬の気配で目が覚めてしまったようだ。
「……かいば…」
 だるそうに視線だけ海馬に向ける。
「すまん。起こしてしまったな。」
   ベッドの端に腰を下ろすと、体温を確かめるように城之内の額に触れた。いつもよりもひんやりと感じる海馬の掌。大きくて硬さがあるのに慈しむような柔らかさが、母親に重なった。
「ごめんな…」
「気にするな。誰だって風邪くらいひくぞ。」
「…ごめっ…ごほっ…こほん…」
 風邪とはいえ咳き込む姿は辛そうだ。海馬はサイドテーブルに置かれている薬の入った白い袋から、何種類かの薬を取り出した。
「咳止めだ。飲むと楽になる。」
 薬を飲むように促すと、城之内は布団を頭まで引き上げる。
「わりっ…ごほっ…おれ…薬が駄目なんだ…飲めないんだ…」
 布団の中からくもぐった声がする。
「飲めないだと?我侭を言うんじゃない。」
 布団を下げ、城之内の顔を覗き込んだ。
「吐いちゃうんだ…おれ…薬を飲むと…吐いてしまって…」
「……………。」
 無言の海馬に絶えられず、城之内は横を向く。薬が側にあると思うだけで吐き気がした。
 子供のころから薬を受け付けない体質らしくて、薬を飲むと吐いていた。だから病院に行くのも無駄なんだと城之内は付け足す。
「わかった…無理しなくていいぞ。」
「ごめ…ん。」
「今日のお前は謝ってばかりだな。」
「だって、海馬の……仕事の…邪魔しちゃったし…それに…医者だって…」
 城之内は消え入りそうな小さな声だ。
「悪いと思うのならば早く風邪を治せ。寝て身体を休めればすぐに良くなる。」
 掛け布団をかけ直すと、金色の髪を撫でそっと紅く染まる頬に触れた。
「ん…」
 ただの風邪でも人は弱気になる。日常的に愛情に飢えている城之内ならばなおさらだ。
 海馬の懐に包まれて張り詰めていた気が緩んだ城之内の瞼が重くなっていった。

 すうすう

 海馬の手を握りしめて城之内は眠りについていった。
 



******



 

 どのくらい眠ったのだろうか、米の炊き上がる独特の香りに空腹感を思い出した城之内は目を覚ました。
「あれっ…?ここ…どこだっけ…?」
 見慣れない部屋に城之内は首を傾げる。暖かで柔らかい布団に少し大きめの肌触りのいいのパジャマ。曖昧な記憶を呼び覚ましていくと、数時間前のことを思い出す。
 そうだっ!!かいばっ…!
 ベッドから飛び起き、寝室を出て海馬の姿を探す。
 扉を開けると海馬のいる場所はすぐに分かった。キッチンで料理の用意をしているのか人の気配がしたからだ。
「かいば…」
 恐る恐るキッチンを覗くと、海馬が料理をしていた。土鍋ではおかゆを作っているのだろう良い匂いがする。海馬はフライパンで何かを炒めているようだ。
「目が覚めたのか。起きれたか。気分はどうだ?」
 料理をする手を止めると、城之内のほうへやってくる。
「寝たら少し楽になったよ…で、なにやってんだ?」
「見てわかるだろ。朝食を作っているんだ。」
「海馬が…?」
 城之内は正直驚いた。海馬が料理をするなんて想像もしたことがなかったから。
「失礼なやつだな。こう見えても簡単なものなら作れるぞ。」
 城之内の額で熱を測ると、少し下がった体温にほっとした。でも、まだ熱い。
「意外だよ。全然見えない。」
「食欲はあるか?ちょうど出来上がったところだ。少しでも腹にいれたほうがいいぞ。」
 海馬が羽織っていた上着を城之内の肩にかけたとき、ぐう、と腹の鳴る音が聞こえてきた。
「食欲はありそうだな。」
 顔を真っ赤にした城之内をテーブルに着かせて、出来上がった料理を運ぶ。
「消化のいいものを作ったんだが、食べれるか?」
 土鍋からおかゆを取り分けて、ほぐした梅干をのせる。その他薄味にした味噌汁と青菜の御浸しが城之内の前に並べられた。
 コンビニのおにぎりや、菓子パンなど適当にしか食事をしていない城之内は箸を持ったまま固まってしまっている。
「どうした?」
「んっ…あっ、ごめっ…ちょっとびっくりして…これ、海馬が作ったのか?」
「他に誰がいるというのだ。」
「そうだよな…ははは…いただきます。」
 味噌汁を一口啜り、おかゆを口に運んだ。すきっ腹に染み込んでゆく温かなもの。
「おいし…」
 インスタントや弁当では味わえない、人の手が作り出した料理がずうっと昔の記憶の引き出しを開いていった。
『おかあさん』
 風邪を引いてしんどくて不安な心を解すように、やさしい微笑で大丈夫よ、すぐに良くなるからね。と、ふうふうと冷ました白いおかゆを口に入れてくれた母。薬が飲めなくても、医者に行かなくても母が側にいてくれるだけで、風邪はふっとんでいっていた。
「…………っ…」
 つーっと、涙が溢れてくる。
「あれっ…」
 ぬぐっても拭っても、熱のせいで馬鹿になった涙腺から涙が流れ出して止まらない。
「うっ…ぇ…」
 今まで堪えていた感情が堰を切ったように溢れてくる。泣き声を上げまいとすればその声は嗚咽となって海馬の胸を痛いくらい締め付けた。
「城之内…我慢しなくていい。」
 城之内を腕の中に収めると、海馬は何も言わずに泣き止むまで抱きしめていた。

  「ごめん…」
 突然の感情の波が過ぎ、鼻を啜ると城之内は顔を上げた。
「もう平気だよ…変だよな…」
 城之内自身、どうして泣いてしまったのか分からないのだ。制御しきれなかった感情が恥ずかしくてたまらない。
「病気をすると人は気が弱くなるものだ。」
「そんなもん…?」
「ああ。泣き止んだのなら朝ごはんの続きにしよう。少し冷めてしまったようだ。」
「いいよ。十分おいしいから。」
 温めなおそうとする海馬を城之内は引き止めると、おかゆをレンゲですくった。ちょうど良い塩加減と梅干の酸味が口の中で混ざり合う。
「すっぱ…おいしい。」
 何度もおかゆを口に運んで、土鍋は瞬く間に空になっていく。食後にと剥いたりんごもぺろりとお腹に納まっていった。
「ごちそうさまでした。」
 用意されたものを食べきると、城之内は両手を合わせる。
「これだけ食欲があれば心配ないな。」
 城之内の食べっぷりに海馬も一安心する。
「へへっ。海馬のご飯美味しかったよ。すげえな。めちゃめちゃ見直したぜ。」
 料理などしたことの無い、する必要のない世界にいるとばかり思っていただけに、海馬のたしなむ以上の腕前に城之内は驚くばかりだ。
「褒め言葉は素直に受け取っておこうか。今日は一日しっかりと寝ていろ。」
「あっ、会社に行かなくてもいいのか。」
 食べることに夢中になり、時間を忘れていた城之内は時計を見た。
「今日は社には行かない。ここで仕事をすることにしている。」
 昨日、遊戯から厭味と皮肉のたっぷりと篭った電話を受け、海馬はスケジュールを調節していた。一日、城之内が良くなるまで一緒に過ごすつもりでいる。
「だめだ。会社に行けよ。みんな忙しく働いてるんだぜ。上に立つ人間が休んでどうすんだよ。」
 自分のことで海馬の会社に迷惑をかけるわけには行かない。
「誰も休むとは言っていないではないか。ここで仕事をするのだ。」
 海馬がここを離れられない理由がもう一つあった。予想より早く回復しそうな城之内から目を離すわけには行かない。この男は目を離したら最後、一目散に仕事先に駆けつけるに違いない。働きづめの身体に休息を与えたかったし、なりよりも一緒にいたかった。
「でもっ…」
 城之内が海馬を会社に行かせなければと、口を開いたとき、海馬の携帯が鳴り出す。それは案の定、秘書兼ボディガードの磯野からの緊急の呼び出しの内容だった。
 苦虫を噛み潰したような顔で電話を切る海馬に、
「俺なら心配ないからさ。行って来な。みんな海馬のこと待ってるんだ。」
「……仕方が無い…城之内、今日は寝ているんだぞ。向こうでの仕事が片付き次第もどってくるから、それまで、ここから一歩も出るんじゃない。絶対にだ。」
「約束する。今日は大人しくしてるさ。」
 城之内は頷く。
「絶対だぞ。風邪は治りぎわが大切なんだからな。」
 何度も何度も念を押し、城之内をベッドに寝かせると海馬は会社へと向かった。
 もちろん、昼ごはんの用意は忘れていない。
 寝室を出るとき城之内に軽いキスもしっかりとした。


 部屋から海馬の気配が消えると、城之内は布団の中にもぐりこんだ。そうすると海馬の匂いが城之内を包んだような気がするから。
 まだ、身体は熱くて、頭も痛いけれど、昨日のような不安感は無かった。海馬の作ってくれた心地いい居場所に、疲れの溜まっていた城之内の身体は休息をとるべく、眠りについた。

 今日は嫌な夢を見なくて済みそうだ。







城之内、情けなさ杉とは言わないでください・・・
忘年会で酔っ払ってます。撃沈しました・・・

  背景はこちらからお借りしました〜
NEO HIMEISM