私は猫である。 名前はない。 なぜかと問われれば、答えは簡単だ。 私は野良猫だから。 私は先祖代々、この界隈をテリトリーとして生きてきた。 父も、そのまた父も、そのまた父も。 ずっと、この一帯のボス猫として生きてきた。 周りの猫たちは、私のことを『ボス』『王』と呼んでいた。 しかし、それはもうとうの昔のことだ。 今は私の子供が新しい『ボス』として、君臨している。 だから、もう、私には名前はない。 日長、一日中、テリトリーの団地の間に挟まった公園で寝て過ごしている。 長く伸びた芝の上、壊れたブランコの上、その日の気分に合わせ陽を浴びて眠っていた。 最近のお気に入りの場所は錆びた滑り台の上だ。 さて、私のことは置いておいて話を変えよう。 私は一日中この団地にいる。 もっと言えば、私の父、そのまた父の、そのまた……ここがただの原っぱで何もない頃からの住人だ。 だから、私は何でも知っている。 父やそのまた父から、この団地が出来るときのことや、この団地の人間模様を聞いて育ってきたからだ。 そして、今はこうして一日中団地が見渡せる場所に陣取っているのだから、何でもお見通しだ。 1号棟3階の左の部屋の若奥さんは2号棟の鈴木さんと不倫中だし、 2号棟4階の右の部屋の中学生になった男の子は反抗期だ。 ご飯時になれば家々から食べ物のいい匂いがしてくるし、 夫婦喧嘩の声も、テレビの音も、内緒で飼っている子猫の鳴き声も、 団地で起きていることは、手に取るように判っていた。 私は鼻と耳がいいんだ。 そんな中、私が生きてきた年数と同じだけ年を重ねた少年の話をしよう。 少年の名前は、「じょうのうちかつや、おにいちゃん、くそがき、ぼんこつ」と言うらしい。 人間とは不思議な生き物で、名前が増えていくようだ。 私には長くて呼びきれないので、君と呼んでいたんだよ。 私がこの世に生まれた時と同じくして、生まれた少年。 私は人間よりも早く年を取る。だから、君のことはよく知っているよ。 君がよちよちと歩き出してこの公園で遊ぶようになる頃には、私は立派な大人の猫になっていた。 君に可愛い妹が生まれた頃には、私は「ボス」になっていた。 君はよく、私にオカズを分けてくれていた。 部屋で動物を飼ってはいけない、キマリだからと、君は私をよく撫でてくれていたね。 君はいつも元気一杯で、楽しそうで、幸せに笑っていたね。 私は君が好きだった。 君の太陽のような笑顔が大好きだった。 でも、その笑顔が、 妹を守るための微笑みにかわり、 いつしか、君は笑わなくなった。 そして、気が付けば、君は一人、滑り台の下で、ブランコで、唇を噛み締め、声を押し殺して泣くようになっていた。 私はそのたびに、心が痛くなっていたんだ。 私は君の泣き顔を見るのが嫌で、君の側で鳴いていたのを覚えているかい。 君の家から、美味しそうな食事の匂いがしなくなって、代わりに酒の匂いが漂ってくるようになった。 やさしそうな父親の声が怒号と罵声に変わり、何かが割れる音と鈍い音が聞こえてきた時は、私も泣いたんだ。 その頃には、もう、君は泣くことさえしなくなっていたね。 泣かなくなった君は、公園に足を踏み入れることをしなくなっていた。 髪を染め、タバコのにおいを染み付かせた君を、私はいつも玄関の階段で待っていたんだ。 お帰り。 って、言ってたんだよ。 君の耳のは「にゃー」としか聞こえなくても。 険しい表情の君も、私が足に擦り寄ったときは微笑んでくれたね。 私を抱き上げて、身体を撫でてくれたこともあったね。 私はうれしかったよ。 君の暖かい腕と昔の面影を残す笑みに、私は、大丈夫だと確信していたんだ。 きっと、君にも幸せな時間がやってくるはずだってね。 そして、私の予言にも似た、予想は当たったんだ。 君が新しい制服を着るようになったころ、君からタバコのにおいがしなくなっていった。 耐えなかった喧嘩の傷が無くなったころ、君は新しい友達と遊ぶことが増えていった。 真新しい学生服が少し、着慣れて太ももの後ろや袖口がテカリだしたころ、君のことを大切にしてくれる青い目人が現れた。 その人のおかげで、心の棘が抜けていったね。 去年のクリスマスの後、君の家は激変していったんだ。 酒とギャンブルに溺れた父親が、黒い服を着たイカツイ男たちに連れて行かれた。 年末には君の部屋から、青い目の男の呆れた声と君のけんか腰の声が聞こえてきて、長い時間、漫才のようなやり取りがあった後、君の家から、大量のゴミが運び出されていったんだ。 トラックの荷台に満載される、ゴミの山にさすがの私も唖然として、次に君の真っ赤になった恥ずかしそうな表情に、笑いを堪えることが出来なかった。 君の家から、腐った食べ物と酒の匂いがしなくなり、変わりにご飯の炊ける匂いがしてきた時は私もうれしくて仕方なかったよ。 君の家から聞こえてくる、青い目の人とケンカのような漫才のようなやり取りも面白かったよ。時々、それとは違う声が聞こえてきたときは、散歩に出かけたけどね。 耳が良過ぎるのもいかがなものだ。 そして、今はもう秋だ。 公園に植えられた、木々は赤く色づき、イチョウは実を付けている。 この葉っぱが落ちる頃には、街にも冬がやってくる。 今度の冬は寒いだろうか。 白く冷たい雪は降るだろうか。 私ももう年だ。 この冬を越える自信は、正直いってない。 空の上の神様。 もう少しだけ、私に時間を下さい。 年老いた老猫の小さなお願いです。 もう少しだけ、太陽のような君の笑顔を見ていたい。 もう少しだけ、君の行く末を見守って生きたいんだ。 「よお、ねこ。元気か? 飯でも食うか?」 おっと、いけない。 眠っていたようだ。 最近はこうして、意識の途切れることが増えてしまった。 「よく、寝てるな。ねこ。」 んん? 誰かが私を呼んでおる。 私は重い瞼をゆっくりと開いた。 「おっ、やっと起きたぜ。」 公園のいつもの場所で眠っていた、黒猫を城之内は抱き上げた。 「あったかいや。ひなたで寝てたからだな。」 やさしく黒猫を腕に抱き、城之内は側のベンチへと移動した。膝の上に猫を乗せるとポケットの中から、キャットフードを取り出した。 「へへっ、喜べよ。今日は奮発して、缶詰だぜ。ちゃんと老猫ようを買ってきたからな。」 にゃー と、黒猫はしわがれた声で鳴いた。 「城之内、その、ねこ。という呼び名はなんだ。」 城之内の隣に座った海馬が、不思議な名前に眉を顰める。 「あぁ、こいつ、ねこ。ってんだ。猫だから、ねこ。 この団地はペット禁止だったからさ、 だから、ねこ。 ねこって呼んだら、誰もペットなんて思わないだろ。」 ごろごろと喉を鳴らす、猫の頭を撫でてやりながら城之内は鼻をならした。 「こいつな。俺が小さいころからずっと、ここにいるんだぜ。 昔からの友達なんだ。」 城之内はそう言うと、目を細めた。 「俺が辛かったときも、淋しかったときも、ずっと変わらずに、ここにいて、俺の側に居てくれたんだ。 まぁ、単なる、えさが欲しいだけだったかも、知れないんだけどよ。 俺の家族っていうか、兄弟、見たいなもんかな。」 城之内はそう言うと、缶詰を開け中身を掌に食べやすいように乗せると、黒猫の口元へと運ぶ。 黒猫はもう一度、にゃーと鳴き、めし、を食べていく。 「そうか、では、俺も、その ねこ とやらに、挨拶を言わねばならんな。」 「なんで?」 鸚鵡返しに聞き返す城之内。 「城之内の家族なのだろう?お前の家族は、俺の家族でもある。違うか?」 意味ありげに、笑うと、海馬もまた、缶詰を油に汚れるのも構わずに、掌に乗せた。 「さてと、俺の手から食べてるものか……な。」 一人赤くなっている、城之内の手にはもう めし はない。海馬は城之内と同じやり方で、黒猫に めし をあげようと試みる。 黒猫は首をかしげ、しばらく考えたような仕草をしたあと、ぺろりと、海馬の指を舐めて、 めし を食べだした。 「どうやら、認められたらしい。 よろしくな。 ねこ 。」 舌のざらついた感触に不思議と心地良いものを感じながら、二人は黒猫に めし を上げていった。 秋の澄み切った風が公園に流れていく。 「さてと、次は、ラーメン食いに行くぞ!!」 水のみようの水道で手を洗った城之内は、海馬の腕を引っ張る。 「今からか?」 気が付けば、陽は大きく傾きだしている。 オレンジ色に染まり始めた団地。 「おう、今日は俺のおごりだ。何でも、好きなのを注文していいぜ。」 城之内はポケットから財布を取り出した。 「ほう、これはまた、太っ腹なものだな。」 「あたりまえだぜっ!!今日は海馬の誕生日だもんな。俺からのプレゼントだ。心して食えよ!!」 黒の使い古した財布を海馬に、どどんと突き出して、まかせなさいと、言う。 そんな、城之内の笑顔に海馬は口元を弛めると、 「では、気兼ねなく、高いものを注文するとするか。」 と、金色の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。 海馬と城之内の笑い声と、足音が団地から遠ざかっていった。 ありがとう。 君。 めし は美味しかったよ。 わたしは、「ねこ」という名前だったんだね。 私は君の側にいれて幸せだ。 君が幸せならば、私もまた、幸せだ。 もう、私は君の側に居ることは出来ないけれど、 君はもう、一人じゃない。 大切な人がいるからね。 正直に言うと、青い目の人には少し嫉妬してしまった。 私には出来なかった、君の笑顔を引き戻していったのだから。 青い目の人。 じょうのうち かつや を、よろしくたのむ。 私の好きな太陽のような笑顔が、再び翳ってしまわないように 側に居てあげてください。 泣かせたら、化けて出るからね。 ああ、 もうすぐ、 私の時間も終わるようだ。 君の笑顔を思いながら、最期の寝場所を探そう。 君の知らない所にね。 大丈夫、私は、ここの「ボス」だったんだ。 君の知らない所を沢山知っているんだよ。 出来るならば、 君の記憶に一片も残らないように、 静かに去ろう。 君には光に包まれた未来があるのだから。 さて、もう少しだけ、お日様の陽を浴びて眠るとしよう。 君の夢でも見ながらね。 幸せに。 ばいばい。 《終わり。》 「聖夜に冷たい雨が降る」の二人の一年後として読んでいただければ、うれしいです。 どこが、社長の誕生日なんだ!!という、苦情は受け付けません。これがきふじんの精一杯の愛情でございます……社長、なんだか、うれしそうでしょ? きっと、二人で食べたラーメンはおいしかったと思います。 フライングですが、更新出来なかったので、あげちゃいます。 |