最悪の男 3


発作の納まった城之内は洗面台の冷たい水で顔を洗う。ハンカチで顔を拭い時計を見ると、休憩時間が終わろうとしていた。
「まいったな…っ…」
 城之内は頭を掻いた。
「モクバのやつ、怒ってるだろうな…」
 とりあえず、謝っておこうと、城之内はモクバの部屋のある2階に向かった。


 
 モクバの部屋の前に、朝、海馬から叱責を受けていた秘書が立っている。城之内の姿を見止めると、城之内に近づいてきた。
「モクバ様からの命令だ。午後はモクバ様と過ごすように。」
 明らかに城之内を見下す憮然とした態度と声に、城之内は鼻を鳴らす。
「なるほどね…ご命令ね…。」
 たぶん、発作が起こらなくても同じことになったに違いない。
「城之内の仕事は他の者でカバーする。城之内は細心の注意を持ってモクバ様の側にいるように。」
「わかりました…ついでに、部屋から出るように説得しろってか?」
 モクバが明日も部屋から出なければ、この秘書の首さえどうなるか分からない。城之内は態よく白羽の矢を向けられたのと同じだ。
「きさまっ!」
 図星だったのだろう、秘書はユデダコのように真っ赤になった。
「冗談ですよ。とにかくモクバ様の命令だからな。」
 この秘書はあまりからかわないほうが良いなと、舌を出して、城之内は扉の前に置いてあるお菓子とジュースの乗ったワゴンを押す。
 
「深入りはするな。」
 扉を叩く直前、秘書は城之内にしか聞こえないよな小さな声で、しかし、凄みのある低音で言う。
「ご忠告アリガトウゴザイマス。」

 城之内自身が海馬に取り入ろうとしている一人に映るのかもしれない。
 秘書の痛い視線に肩をすくめると、扉を叩く。



*****



「全部出来てるぞ。」
「マジ?やったぁ!!」

 城之内がドリルの最後の答えに赤ペンでマルをつけると、モクバは両手を叩いた。
「やれば出来るじゃんか。っていうより、モクバは出来るんだぜ。」
「へへへ…違うよ。城之内の教え方が上手いんだぜ。」
 モクバはテーブルの上に置いていたクッキーを引き寄せて、一つ口に入れた。
「んな、ことないさ。これがモクバの実力なのさ。」
「本当?」
「当たり前だろ。俺は何もしてない。」
 ページの右上に大きく「100」の数字を書きいれた。

 モクバはクッキーを噛み砕きながら、100の赤い数字をじっと見つめている。
 学校のテストではないけれど、今まで分からなかった問題が解けたことにモクバはうれしいのか、にこにこと満面の笑みを浮かべている。
 ほんの小さなことだけど、今まで部屋に閉じこもっていたモクバから見れば大きな変化に違いない。城之内はジュースを一口飲んで喉を潤すと、
「さてと、勉強はここまでだ。」
 ドリルを閉じて背伸びをした。
「えっ?もう終わりなの?」
 と、モクバは言ったが時計を見れば既に始めてから2時間ほど経過している。
「そうだ。勉強はメリハリが大事なんだぜ。やりすぎても嫌になるんだからさ。」
 城之内は立ち上がると、窓際に行き窓を全開にした。春の暖かい風が庭に咲いている花の香りを運んできて、淀んだ空気を押し流していった。


「勉強の次は掃除だ。たまには人任せにしないで、自分でやってみようぜ。」
 白いシャツを肘までまくる城之内の薄茶色の髪が風に吹かれている。
「うんっ!!やるぜっ!!」
 城之内の柔らかな言葉につられてモクバも椅子から飛び降りて手を叩く。



 それから、城之内とモクバは部屋の掃除に精を出した。
 散らかったままの本や雑誌を本棚に戻し、何ヶ月も変えなかったシーツを洗いたてのものに変え、汚れて部屋の隅に脱ぎ捨てられていた服を纏め、部屋の隅からすみまで掃除機をあてる。
 春の暖かな風に、少し動くと二人とも汗をかいていた。
 気が付けば夕食の時間が近づいていて、城之内の勤務時間も終わろうとしていた。

 真っ赤な夕日が部屋をオレンジ色に染めるころ、モクバの部屋は見違えるように綺麗になっていた。
「ははっは…見違えちゃったぜ。俺の部屋ってこんなだったかな。」
 額に浮かんだ汗を袖口で拭ったモクバは、変わった部屋をうれしそうに眺めた。
「自分で掃除したから、そう感じるんだ。たまには自分で掃除するのもいいだろう?」
 城之内は洗濯物を抱える。
 モクバは頷くと部屋のあちこちを触って回って自分で掃除したことを確かめているようしている。城之内もその子供らしい仕草に目を細めた。

 一通り部屋を見てまわったモクバは、城之内の側に戻ってくると、
「城之内…お願いがあるんだ…」
 城之内を見上げるモクバの瞳が揺れる。
「????」
「夕食を一緒に食べてほしいんだ。」



「………」
 今日のことは良いとしても、城之内はあくまでも海馬家に雇われている身だ。

「執事には俺がちゃんと言っとくぜ。だから、な、良いだろ?城之内?」
 城之内はモクバの頼みに困惑したが、不安で淋しそうな様子のモクバをほっとくことが出来なくて、共に夕食を食べることにした。
「わかったよ。じゃ、俺は着替えてくる。さすがにこの恰好はまずいからな。仕事の時間ももう終わるから、それならいいだろう?」
「ありがとう。城之内。」
 モクバは城之内に思わず抱きついた。




  *****




 私服に着替えた城之内はタイムカードを押すと、外で待っていたモクバと共に食堂に向かった。


 シャンデリアの下がる豪華な調度品の並ぶ、広い部屋には長いテーブルがあった。その一角に城之内とモクバは並んで座り、運ばれてくる豪華な夕食をお腹の中に納めていった。

 給仕する使用人の視線が痛かったが、モクバがとても楽しそうにおしゃべりをしてはしゃぐので、城之内は気にしないようにする。



 デザートがテーブルの上に並べられた時、扉が勢いよく開いた。

「モクバ…っ!」

 帰宅してすぐにモクバが部屋を出たことの報告を受けたのだろう、スーツ姿の海馬は何かを期待するような表情をしていたが、モクバの隣にいる城之内に気づくと一瞬で顔が変わった。
 もし、ここにいるのがモクバ一人ならば、海馬は2度目の夕食も食べただろうし、甘いデザートも口にするつもりだった。しかし、城之内の姿が目に入ったとたんに、兄の顔から、経営者の顔つきになった。


 そしてそれは、モクバも同様だ。

 
「に……いさ…ま…。」
 海馬の顔を見たモクバの様子が一変する。
 ついさっきまでははしゃいでいたのに、今は椅子に座ったまま固まって動けなくなってしまっている。フォークとナイフが皿をあたって小さな音をたてた。
 そんなモクバの元へ海馬がつかつかとやってきて、城之内とモクバを見下ろす位置にまでたどり着く。
「モクバ。ここで食事を取ることは良いことだ。だか、この男は何だ。」
「…………」
 使用人が雇い主の弟と食事を共にするという行為が、海馬のプライドを傷つけたのだろう。モクバは海馬の怒りに耐えきれず何も言えずに俯いてしまった。
「モクバ!質問に答えるんだ!」

ダンッ!

 真っ白なクロスの掛かったテーブルを海馬が叩くのと、モクバが身をすくめたのはほぼ同時だ。
「答えなさい。」
「…………」
 モクバは俯いたまま答えようとしない。ズボンを握る手が恐怖に震えている。

 モクバの態度にキレた海馬は、モクバを叩く為に振り上げられた。その気配を敏感に感じ取ったモクバがぎゅっと目を閉じて、叩かれた時の衝撃に身体を堅くした。



「やめとけ。」



 振り下ろされようとされた腕を掴んだ城之内。
「力ではモクバを変えれない。」
 海馬の腕を離さず、動じない琥珀が海馬の動きを制止させた。

「っ!…貴様っ!!」
 城之内の力が強くて、海馬は腕を引くことも、振り切る出来ない。その隙にモクバが椅子から飛び降りると、自室に向かって食堂を飛び出して行く。
「モクバ!!!!!!!話しは終わっていないぞ!!!!」
 城之内に止められて海馬はモクバの後を追うことが出来なかった。その怒りは全て城之内に向かう事になる。

「貴様っ!!!自分が何をしているのか、理解しているんだろうなっ!!!」
「ああ。」
 海馬の怒りの蒼に城之内は動じることも、臆することも無く、冷静に答える。
「ならば、この手を離すがいい。」
「モクバを追わないなら、離してやるよ。」
「きさまっ!!!使用人の分際で、分かった風な口を聞くな!!!」
 冷静な城之内に対して、海馬のボルテージは高まるばかりで、側で控えている者達が息を飲む。しかし、とばっちりはごめんなので、誰も口を挟もうとはしない。
 広い空間に張りつめた空気がぴいんと張りつめていった。

 海馬と城之内はにらみ合ったまま、動かない。交錯する琥珀と蒼。

「今のお前じゃ、モクバに声は届かないぜ?お前も十分わかってるんじゃないのか?」
「くっ……!!!」
 海馬の蒼が揺れた。雇ったばかりの使用人の言葉に海馬は動揺する。
「今のお前じゃ、弟の声は聞こえない。」
 澄んだ琥珀が、海馬の心を見透かしていた。
 
 揺れる心も、
 憤りも、
 自分に対するふがいなさも。

「くそっ!!」
 海馬は城之内の手を振り切り、モクバの座っていた席にどかっと腰を下ろす。
 腕を組み、眉間に皺を寄せて、ぎりりと歯ぎしりをする。

 モクバの後を追わないと無言で示すと、城之内はリュックを背負う。
「じゃな。俺は帰るわ。勤務時間は過ぎてるしよ。」
 苦悩する海馬を背に城之内は食堂の扉を閉めた。

「さてと、モクバに挨拶だけしとくか。」

 その時、扉の向こうでたくさんの食器の割れる音が聞こえてきた。
 海馬がテーブルの上の物をなぎ払ったのだろう。

「… ったくよ…。片づけるの大変なの、わかってんのかよ。」
 小さく毒づくと、城之内は真っ赤な絨毯を踏みしめた。



*****



「モクバ…いるのか?」
 城之内は重い扉をノックする。

「………城之内……?」
 扉の向こうから、モクバの伺うような声が聞こえてくる。
「大丈夫俺一人さ。」
 海馬がいないことを告げると、カチャッと鍵が外れた音がして扉が開く。
「わりいな。俺が甘えちゃったばっかりに、モクバが怒られてしまったな。」
 城之内は身を屈め、モクバと同じ視線の高さになった。
「ううん……城之内が悪いんじゃないよ。俺が我が儘言ったせいだから……」
 大きな瞳に涙をいっぱいに溜めているモクバ。
「あんま、自分を責めんな……モクバは悪いことなんか、一つもしてないからな。」
 頬に流れた分の涙を指先で拭い、漆黒の髪をなでる。
「………城之内ぃ……」
 
 城之内はリュックの中からノートを取り出すとページを一枚千切り、そこに数字とアルファベットを記入していく。
「今日はもう帰るけど、これ、俺の携帯番号だから、何時でも電話してこいよ。」
 今日は帰らないで。と、言いだしそうなモクバより先に、城之内は自分の携帯番号を渡すと、もう一度、モクバの頭を撫でる。

「明日も無理しなくて良いんだぞ。腹痛でも、頭痛でも、熱でもなんでもやっちゃえ。」
「うん。」
 城之内の言葉に、モクバは大きく頷いた。
「携帯、教えてくれてありがとう。本当にいつでも電話していい?」
「いいぜ。男に2言はないゼ。お休み。モクバ。」
「気を付けて帰ってね。」

 モクバは手を振って、城之内を見送った。
 本当は城之内に帰って欲しく無かったけれど、仕方の無いことだと諦めて、再び部屋に鍵を掛けた。






 モクバと夕食を取ったために、定時の送迎バスを乗り損ねた城之内は、歩いて家路に付くことになってしまった。
 心許ない街頭の下を歩きながら、城之内は海馬兄弟の事を考える。


 広い部屋の広いベッドで眠るモクバが、何故か、病室で眠ったままの静香と重なった。
 静香もモクバの寂しい思いをしているに違いない。


 豪華な屋敷に住んで、
 お金に困らなくて、
 健康な身体を持っているのに、

 海馬とモクバが可哀想に思えてならなかった。








 背景はこちらでお借りしました。

 拍手連載の続きです。
 海馬さん怖いですね〜〜
 はて、モクバをいくつにしようかと考えつつ、あんまり関係なさそうなので、見たままの年齢でやってます。
 この続きは拍手に置いています。また、こちらがたまれば、ここに移動させてきます〜〜。