次の朝、城之内がいつものように海馬邸に出勤すると、モクバ付きの秘書と体格の良い黒服の男が職員専用口で待ちかまえていた。
「来い。」
「へっ?」
両脇を黒服の男に抱えられた城之内は、屋敷内を引きずられるように連れて行かれた。
ちょうどモクバの部屋通じる階段に差し掛かったとき、ポケットの中の携帯が鳴り出す。
「……。」
液晶画面を確認すると予想通りモクバの名前が表示されていて、城之内は通話ボタンを押した。
「…城之内……ぃ…」
携帯の向こうから聞こえてくるモクバの声は今にも泣き出してしまいそうになっている。
「モクバ。」
「たすけて…」
「分かった。待ってろ。」
城之内は携帯を切らずに、階段を登っていった。
モクバの部屋の前では、昨日と同じ光景が繰り広げられている。
頭が痛いから学校は行かないと言い張るモクバと、部屋から出てこないモクバに苛立つ海馬。
その隣に控える初老の執事に合鍵を持ってくるように指示を出している。
「今日こそは許さん。引きずってでも学校に登校するんだ。早く合鍵を持って来い!!」
夕べの城之内とのことがあるからか、海馬の声が荒い。
城之内はモクバが助けてと言った意味を正確に理解した。
荒れる海馬におろおろする使用人は、こちらに歩いてくる城之内に気が付いたようでさっと脇にどく。昨日の食堂での一件は既に使用人たちの間での一番の話題になっていたのだろう、これからの成り行きに皆密かに興味津々のようだ。
海馬も城之内に気づき、ゆっくりと向きを変え、きつく城之内を睨んだ。
そんな海馬の視線に城之内は怯まなかった。海馬の横を足取りを変えることなく通り過ぎ扉の前に立つと、繋がったままの携帯を耳に当てた。
「モクバの部屋の前にいるぜ。ここを開けてくれるか?」
モクバを押さえつけようとする威圧的な海馬とは違う、落ち着いた穏やかな城之内の声。
「………大丈夫。心配すんな。」
海馬がいることを怖がっているモクバが扉を開けるのを城之内は根気よく待った。
「……大丈夫だぜ。」
閉じられた扉の先にいるモクバを安心させるように、城之内は携帯に話しかけている。
使用人はおろか海馬でさえ城之内の声に耳を傾け、固唾を呑んで事の成り行きを見守っている。
最後に城之内は大きく頷いて携帯を閉じると同時に鍵が外れ、扉が内側から少し開いていった。
「モクバッ!!」
海馬がその隙間からモクバを引っ張り出そうとするのを城之内は片手で静止する。そして、ゆっくりと海馬のほうへ向き直ると扉を背にした。
「っ!!貴様!!そこをどけっ!!」
「どかない。」
思い通りにいかない城之内に海馬の血圧が上がっていく。
「モクバは頭が痛いんだ。今日は学校に行けないぞ。」
「そんなもの、仮病に決まっているではないか。もし、仮に本当に頭が痛いのならば医者を呼ぶ。」
「医者や薬じゃ、モクバは治らないぜ。」
「分かっている。だから、仮病と言っているではないか…っ!!貴様と話している時間は無い。モクバっ!!今日こそ、学校に行くんだ!!」
城之内の先にはモクバが隠れている。海馬は扉の向こうのモクバに向かって声をかける。
普段の海馬ならば使用人の城之内を動かすなど、声一つでも力ずくでも容易いもののはずだった。しかし、海馬はその両方とも実行することが出来ない。
城之内の琥珀が海馬を動けなくさせていた。
頭に血が上っている海馬とは対照的に城之内は落ち着き払っていて、ただそこに立っているだけなのに、この屋敷にいる誰も彼を動かすことは出来ないだろう。
「モクバを無理に学校に行かせても状況を悪くするだけだ。」
「部外者に関係ないことだ。」
「部外者だから分かることもあるんだ。それにモクバは仮病なんかじゃないんだぜ?本当に頭が痛いんだ。」
「ならば医者を呼ぶ。」
同じことの繰り返しと、話のかみ合わないことに、城之内はふっと息を吐くと、
「たく、わかんねぇヤツだな。モクバの頭痛は薬じゃ治んない。」
「知ったふうな口を利くな。ならば、どうすれば治るのだ!!言ってみろ!!」
海馬はたかが使用人のペースに巻き込まれていった。いつもの海馬ならば冷静に状況を判断し、対処していくのだがモクバのことになると話は別のようで、両手を硬く握り締めている拳には青く血管が浮かんでいた。
「今日は学校を休んで良い。の、一言で良いんだ。」
「……っく!!」
海馬もモクバの体調不良の理由を頭の片隅では理解している。しかし、海馬家の人間に甘えは許されないのだ。自分に厳しいようにモクバにも厳しく接してきた。
「モクバが登校するのには、まだ時間が必要だ。お前にも分かっているだろ?」
その結果、モクバは学校に行くのを拒み、部屋から出なくなってしまった。今では海馬と言葉を交わすこともない。
海馬は唇を噛むと、扉の向こうのモクバを探した。
兄の後を追いかけていたモクバの笑顔が遠く懐かしく脳裏をかすめる。
「……体調が悪いのならば仕方が無い。今日は休んでいい。学校にもそう連絡しておこう。」
折れたのは海馬だった。
「だが、明日は今日のようには行かないぞ。明日こそは登校してもらう。」
海馬は城之内と扉の向こうのモクバに告げる。
「明日は土曜日で学校は休みだぜ?」
「!!!!!!っ!!」
肩をすくめる城之内に海馬の顔が真っ赤に染まった。
「まぁ、土曜日のほうが学校には行きやすいとは思うけど、それって登校にはならないよな。」
城之内の軽口に執事や使用人は息を飲んだ。
「っ!とにかく、同じことはもう許さん!!」
唇を噛み、唾が飛ぶことも気が付かないくらい海馬は恥ずかしさに動揺すると、
「城之内、貴様には責任を持って今日一日、モクバに付いていろ。そして、夕食は必ず俺と取るようにモクバに言い聞かせておけ。命令だ。」
海馬はそういうと、踵を返し会社に向かう。
今日の海馬は一日、機嫌がすこぶる悪く本社の人間に当り散らしたとか、仕事がほとんど進まなかったのだが、城之内には関係ないことだった。
海馬の気配が屋敷から消え、執事や使用人の緊張が解けた。
「じゃ、俺は社長のご命令通りにしますが、よろしいですか?」
顔の皺を深くしている執事に、城之内は厭味な仕草で頭を大げさにさげる。
「瀬人さまのご命令ですから、仕方がないでしょう。モクバさまのことは頼みましたよ。ただし、余計なことはしないこと。言わないこと。あくまでも貴方は使用人なのですから、領分をわきまえておくように。」
「わかりました。」
*****
執事や使用人がモクバの部屋の前からいなくなるのを見計らい、城之内はモクバの部屋に入っていった。
「城之内っ!!!!!」
携帯から、扉の隙間から見ていたモクバは満面の笑みで城之内に飛びついた。
「ありがとう。城之内がいなかったら…俺今頃、どうなってたのかわからないよ…」
「大げさだよ。何とかなるもんなんだぜ。」
城之内のシャツに顔をうずめて離れないモクバの黒髪を撫でる。
「腹、減ってないのか?朝飯はまだだろ?」
「うん……でも、あんまり空いてないんだ…。」
不規則な生活をしてきたのか、モクバの生活リズムはかなり崩れているようだ。城之内はモクバに分からないよう苦笑すると、引かれたままの分厚いカーテンを開け、窓を全て開放する。
夜が一気に朝に変わり、薄暗かった部屋に太陽の日差しが差し込んだ。モクバは太陽の明るさに目を細くする。
「こっちに来いよ。お日様を浴びたら腹も減ってくるぜ。」
ベランダに先に出た城之内は大きく伸びをして、モクバを手招きする。
「へへっ!」
薄茶色の髪が太陽に照らされてキラキラと光っていて眩しい、それ以上にモクバを呼ぶ城之内の笑顔が眩しくて、モクバは光の溢れるほうへ駆け出していった。
*****
春の空気を胸一杯に吸い込んだモクバのお腹が、ぐう。と鳴って遅い朝食となった。
広いテーブルにはモクバの好きなメニューが次々と運ばれてきた。もちろん城之内の前には挽きたてのコーヒーが香ばしい湯気を立ち上らせている。
一日の憂いが無くなったモクバはにこにこ顔だ。その上、兄公認で一日城之内を独占できることになって、モクバは何をしようかと、考えを巡らせている。
「さてと、ニイ様の了解も得たことだし、今日はどうしようか?」
城之内はコーヒーに砂糖を入れた。
「勉強するの?」
本来なら、学校で勉強をしているのだからと、もし、城之内もこれまでの家庭教師と同じようなことを言ったらどうしようとモクバは不安になった。
「したいか?」
スプーンでコーヒーをかき回す手を止めて、モクバにいたずらっ子のように笑いかける。
やはり、城之内は城之内なんだと、モクバはうれしくなって首を振った。
「モクバのしたいことを言ってみれば良いぜ。俺に出来ることなら付き合うから。」
城之内には我侭を言ってもいいのかもしれない……
隣に座っていいる城之内の存在が暖かい。
「あのね……おれっ…。」
モクバはやりたいことを告げた。
*****
ガシャン。
切符を改札機に通して駅を出ると目的地まではあと少しだ。
「はやくっ!!!!」
「そんなに慌てなくても、水族館は逃げないぞ。」
腕を引っ張るモクバにあわせて早足になる城之内。
水族館に行きたい。
ボディーガードを付けずに、車ではなく電車に乗って水族館に行きたいと、モクバは望んだのだ。
執事はもしものことがあってはいけないからと猛反対したが、城之内がモクバの視界に入らないよう、警護すればいいと説得させられ、渋々了承した。
物心ついた頃から自由に行動したことのなかったモクバは、電車に乗ることもこうして街を歩くことも新鮮でならなかった。
すれ違う人ですら珍しいのか、あたりをきょろきょろと見回している。
「ちゃんと、前を向いて歩かないと転ぶぜ。」
余りに危なっかしいので城之内がさりげなく手を引いている。
「分かってるって。」
と言う、モクバは明後日のほうを見ていた。
ドミノ町から数駅先にある水族館に到着した二人は、青い世界を思う存分、堪能した。
小さな色とりどりの熱帯魚から巨大な水槽を泳ぐ数々の魚たち。水槽のガラスの向こうからこちらを観察しているようなアシカやラッコに手を振って、モクバは答えている。
イルカのショーでは撥ねる水しぶきにはしゃいで、イルカの数々の芸に手を叩いて歓声を送った。
気が付けばもう屋敷に帰らないといけない時間になっていた。
オレンジ色の太陽を背にして、モクバは帰りたくないと呟いたのを、城之内は聞き逃さない。
「また、来よう。」
繋いだ手をぎゅっと力を込めて、指きり変わりの約束をした。
「絶対だぜ。」
モクバも城之内の手を握り返した。
*****
ドミノ町に付く頃にはすっかりと日が暮れてしまっていた。
久しぶりに自分の部屋から出たモクバは相当疲れたのだろう、電車に揺られてそのまま寝入ってしまった。熟睡しているモクバを背負い改札を出た城之内は、タクシーを拾った。
駅から屋敷までモクバを背負って行く自信が無かった。
運転手に行き先を告げ、城之内はモクバを抱えて後部座席に乗り込んだ。背負っていたモクバを降ろして膝枕をして座席に身を預けた。
自然と城之内の手がモクバのさらさらとした黒髪をなでた。寝顔は笑っているように見えた。今日のことを夢に見ているのだろうか。
「……にいさ…まっ…」
城之内の手が止まった。
「………。」
海馬を呼ぶモクバに城之内は微笑むと、窓の外の灯りをぼんやりと眺めた。
タクシーは渋滞に巻き込まれることなく、海馬邸に到着する。
城之内は料金を払い、熟睡して起きる気配のないモクバをもう一度背負おうとしたとき、海馬が屋敷から出てきた。
「俺が連れて行く。」
城之内には少し重く感じたモクバを海馬は軽々と抱き上げた。
「大体のことは報告を受けている。今日はもう帰って良いぞ。なんならこのタクシーで帰るか?」
海馬最大の譲歩に城之内は肩をすくめて辞退した。
「私物があるから良いよ。それより、夕食をってのが出来なくて、悪かったな。」
海馬の腕に抱かれるモクバの寝顔を見た。
「かなり、はしゃいでいたから疲れたみたいなんだ。出来たらこのまま寝かせて欲しいんだけど…」
「分かっている。無理に起こすつもりはない。」
相変わらず何を考えているのか、表情からは読めないが、久々に触れた弟の体温と重さにどこと無く、声が柔らかい。
「モクバは大丈夫さ。そのうち学校にも行きだすさ。だから、もう少し待ってやれよ。」
「貴様に言われなくても、十分承知している。今日はご苦労だった。」
海馬はモクバを抱えて屋敷に戻り、城之内もまた帰宅する。
モクバをベッドに降ろした海馬は、城之内がそうしていたようにモクバの黒髪を撫でている。こうして、手の届く範囲にモクバがいるのはどれくらいぶりだろう。
規則的な寝息やまだまだ、幼さの残る寝顔に海馬の表情も穏やかになっている。
「ごめん…すまない…もくば…」
海馬はそっとモクバの頬を撫で額に唇を落として、照明を落とす。
部屋の扉が静かに締まり海馬の気配が消えると、モクバは目を開いた。
カーテンを引き忘れた部屋に月明かりが差し込んでいて、蒼く水の中のように染めている。
「にいさまっ…」
モクバの頬に涙が伝っていった。
はい。ようやく。こちらに移動しました。
楽しんでいただけているのでしょうか。
なかなか海城さんにならないので申し訳ないっ。
いつなるかはお楽しみに☆
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