最悪の男5




 翌日、城之内は海馬邸の会議室で机に向かっていた。
 もともと、防音仕様の部屋になっているために、内側の声も漏れない変わりに、外からの音も遮断されている。余分な音のしない空間に響くのは鉛筆が机を叩く小気味良い音だけだ。


 朝の引継ぎ後、会議室に行くように指示された城之内が部屋に入ると、海馬が待っていた。
 昨日のことを言われるのかと、城之内は心の中で舌を出していたら、全く予想外のことを海馬は言い出した。


 城之内に模試を渡すと、ここで、やれと言ってきたのだ。
 城之内が疑問を口にする間も与えずに、海馬は時間を計りだした。相変わらず強引な雇い主に苦笑すると、問題を解き始める。


 城之内が解いている問題が、遊戯の言っていた「海馬が片手間に受けた模試」だと知る由もない。
 海馬は城之内がカンニングをしないか、目を離さなかった。


 


 無事、時間内に終わった答えを海馬は添削した。答えを受け取ったときは余裕の笑みを浮かべていたが、採点が進むにつれ、真剣な眼差しに変わっていった。そして、震えるペン先で最後の問題に丸を書き入れると、信じられないという表情で城之内を見つめる。

 城之内の模試の結果は驚くほど良かった。多少のケアレスミスはあったけれど、その成績は全国でもトップの範囲に入るだろう。
 海馬の見ている限り、城之内は不正行為はしなかったはずだ。何もない会議室に予告も無しに呼びつけて、いきなり模試を受けさせた。
 模試の対策や予習の欠かさない学生とは違い、城之内にはかなりのハンディがあったはずだ。しかし、結果は海馬の手の中にある通り。


「貴様、何故、ドミノに来なかったのだ。」

 
 ドミノ学園には優秀な生徒を優遇していく奨励制度がある。頭脳に秀でているもの、スポーツに優秀な人間には授業料を免除したり、補助金を出す制度があった。
 仮にもし、この模試の結果がまぐれで無いとすれば、城之内の成績は十分に補助を受ける資格がある。

「俺が進路をどう決めようが、俺の勝手だろ?」
「これだけの成績があれば、特待生になって奨学金を貰うことも、授業料の免除だって出来たはずだ………妹のことか…」
 海馬の整えられた指先がテーブルを神経質そうにこつこつと叩いた。
「ははっ……従業員の素行調査は済んでるってことですか。」
 この物騒なご時世、普通の会社でさえ雇う人間の調査は欠かせない。犯罪歴から家族関係まで程度には差があるが、どの会社もトラブルには巻き込まれたくないものだ。
「妹のことは関係ない……と、言いたいところだけど、残念ながら正解だよ。入院費がかかるから、俺だけ優雅に学生生活を送るわけにはいかないのさ。」
 城之内は背もたれに体を預けた。
「で…よ。いきなり、テストなんてしなきゃならないんだ?入社試験にはちょっと遅すぎるだろ?」
「モクバが、貴様を家庭教師にするように頼んできたのだ。」
 海馬の指が止まる。
「はぁ?」
 城之内は椅子から滑り落ちそうになる。
「今朝、ようやく部屋から出てきたと思ったら、挨拶もそこそこに、開口一番で貴様を家庭教師にしろ。だ。そしたら、勉強をする。とな付け加えた。」
 海馬はテーブルに肘を付き城之内を見つめる。蒼い視線で城之内を見定めようとしているようだ。
「それで、試験ですか。ご苦労なこった。」
「あたりまえだ。どこの馬の骨ともわからん奴にモクバを預けられるか。」

 海馬は目の前にいる城之内の力量を計りかねていた。
 仕事ぶりは真面目なようだが、口は悪いし、何よりも海馬に対する態度がなっていない。しかし、何ヶ月も部屋に閉じこもっていたモクバをあっさりと部屋から連れ出し、人見知りの激しいモクバの心を掴んだことは紛れもない事実だ。

 そして、いたずらに模試を受けさせてみれば予想を大きく超えた点数をたたき出してきた。

 特に之と言った取り柄のなさそうな、平凡きわまりない人間にどうしてモクバはなついてしまったのか………海馬の眉間に深い皺が寄る。




「で、どうすんだよ。」
 海馬の刺すような視線に動じることもなく城之内は結果を聞く。
 城之内にとって細かいところは問題ではない。
 仕事内容が変わるかどうかだった。

「……合格だ。貴様を信用した訳ではないが、今までの勤務評価とモクバを部屋から出したことと、今の試験の結果からは、否という理由はないようだ。」
「で、俺はどうすればいい?」
「勤務時間は変わらない。ただし、10時から4時までをモクバと過ごすように。勉強の進め方には口を挟まないが、必ず……」


「モクバの様子を報告しろ。」
『モクバの様子を報告しろ。』


 にやっと城之内は笑う。
 海馬の言いそうなことはお見通しのようだ。

 
 こんな凡骨のどこがいいのか?
 海馬はモクバの考えが分からないと、部屋を後にした。




*****




 城之内が家庭教師になると知ったモクバは飛び上がらんばかりに喜んだ。
 海馬が目の前にいるのも構わずに、城之内に飛びつく。城之内も仕方ないな。とモクバのしたいようにさせている。



 その日から、城之内はモクバの家庭教師となり屋敷の仕事のほかにモクバに勉強を教えるようになった。
 他の使用人の中にはやっかむ者もいるが、朝の恒例だったモクバと海馬のやり取りが無くなり、変わりにモクバの笑顔が増えて、どことなく海馬の理不尽な怒りが向くことが無くなったとあれば、文句を言うものもいなくなっていった。


 夕食は相変わらず一人で取ることが多いが、朝食は海馬とモクバが揃ってとるようになり、ぎこちなかった会話が、自然なものになるころ、ようやく海馬邸に昔の穏やかな空気が戻ってきた。


 



 ただ、一人を除いては…………



*******



 
 6畳ほどの白い部屋。
 ほとんどつくことのない、小さなテレビにうっすらと埃がたまっている。
 部屋の大部分を占める白いベッドには、あの事故から一度も目を覚ますことのない妹が眠っていた。

 ころころとはじけるような静香の面影はもう無くて、ベッドに横たわる妹はやせ衰えてしまっていた。看護婦が腕の血管に針を刺すところが無くなってしまったからと、静香の唯一の栄養補給の点滴は青白い胸元に繋がっている。

「………。」

 城之内は椅子を引き寄せて腰を下ろすと、細く骨と皮になってしまった手を握り締めた。



 ごめん……
 俺が悪いんだ。俺があの時…おかしくなっていなければ、もう少し先にいたら、
 静香も母さんも、こんなめに会わなくてすんだんだ…よな…
 あの時轢かれてのが俺だったら良かったんだ。

 静香…
 お兄ちゃんの命の全部をやるから、目を覚ましてくれ。
 俺の全てをやるから、母さんと戻ってきてくれ…


 なんども繰り返した言葉。
 なんども繰り返した願い。
 決して叶うことのない、聞いてもらえることのない現実に、城之内の肩が震える。



 カチャッ。
 と、小さな音をたてて病室のドアが開き、城之内が振り返ると仕事帰りの父親が弁当を下げていた。

「とうさん…お帰り。」
 さっと涙を袖口で拭き、強ばった笑顔を父親に作った。
「………。」
 父親は無言だ。
 城之内の存在を認識しないようにしていて、城之内には視線を合わせない。なのに、息子に憎悪の感情を抑えることはしなかった。

 一言も声を発さないまま、城之内を見下ろす位置に立つ。
 父親の憎しみから逃れようと、城之内は部屋の隅に置いていたリュックの中から、銀行の名前の入った茶封筒を取り出した。
「……これ、今月分。」

 今日、出たばかりの給料だ。
 父親は毎月、入院費の請求書を家のテーブルの上に置いておく。その請求金額の半分を城之内が負担するのが、父と決めた約束だった。
 静香の状態しだいで若干変動があるものの、ほぼ一月の給料の大半が消えていってしまう。城之内の手元には僅かしか残らない。

 父親はやはり、無言のまま茶封筒を受け取ると城之内を見ることは無かった。


「じゃ、俺、もう、帰るから。」
 決して振り向かない父親を背に城之内は病室を後にした。


 もし城之内が城之内でなければ、父はこんなに城之内を憎まなかっただろう。
 血が繋がっているからこその憎悪が際限なく城之内の胸を貫いていった。




*****




 夜間での勉強を終えた城之内が家にたどりついたころには、時計が日付を越えていた。
 帰ってきたばかりなのだろう、父親の靴もまだ温もりを残している。
 閉じられた和室を極力見ないように、城之内は自分の部屋に入ると敷きっぱなしの布団に寝転んだ。

 見慣れた天井を見上げて目を閉じると、一日の疲れがどっと城之内の身体に襲い掛かってくる。
 もう腕を上げることさえ億劫だ。
 

 バイト入れないと駄目だよな…


 城之内は通帳の残高を思い出す。
 毎月高くなっていく入院費に頭が痛くなってしまいそうだ。今月は乗り切れそうだが来月は分からない。生活費を切り詰めるのにも限度があった。


 ………なんか良いのがあれ…ばいいな…


 睡魔が城之内を眠りの中に引きずり込んでいった。




*****



 数時間の僅かな休息を取った城之内は新聞配達をしている。
 バイクの荷台に積み込まれた沢山の新聞を一軒一軒のポストに入れていく。

 慣れた手つきてバイクを操る城之内を見ている人物がいる。スモークガラスに遮られて中に乗っているのが誰だかをこちらから見ることは出来ないが、城之内の姿が角を曲がり、エンジン音が聞こえなくなるまで、車はその場所を動かなかった。













 うれしいくて涙が出るほどの、ソフトが使えるようになり、飛び上がりそうなきふじんです。

背景はこちらでお借りしました。