植野光一君の思い出

小学校のとき、同じ書道塾に通うメンバーの中に植野光一がいた。植野光一は私より一つ年上だった。光一は勉強もスポーツもできるいわゆる優等生タイプで、年中短すぎるぐらいの半ズボンをはいていた。生地はジーンズで冬はコールテンのときもあった。そして、夏でも膝下までのハイソックスをはいていた。
光一のうちのしつけは厳しいことで有名だった。光一の父母はことあるごとに、光一と二つ年下の秦也のお尻をピシリ、ピシリと打ち据えるのだそうだ。植野家では、子どものお尻叩きに「むち」が使われるとのことだ。
50cmの竹物差し、皮のベルト、はたきの柄…植野家では子どものお尻を叩く目的で使われる棒や紐はすべて「むち」と呼ばれた。
光一と深也がむちに怯えて始終びくびくしているかというとそうではなく、二人とも明るくのびのびとしていて、男の子からも女の子からも好かれていた。光一たちの両親は自分達の感情で子どもにむちを振るうことは決してなく、二人が罰を受けるときには、二人とも納得ずくであった。はじめに決められた数のお仕置きのむちを加えたあとは、両親とも決してだらだらと兄弟を叱らなかったし、子どもの方でも、短い半ズボンの裾から素肌に残る赤い筋が見えることもあったが、
「昨日、兄弟喧嘩して、お父さんに皮のベルトで20回も打たれちゃったんだ。」
と、あっけらかんとして昨夜のお仕置きを隠すこともなかった。

光一が六年生の時のことだ。先生にお使いを言い付けられて、六年生の教室の前を通った。光一のいる教室は廊下の空気まで緊張していた。教室の中からは、「…ピシーリ…ピシーリ…」というむちの音と、「…15…16…」と、むちの数を数える先生の声が聞こえた。廊下側の窓からちらりと中をのぞくと、光一が教卓の上に両手をつき、お尻を突き出す格好で先生からお尻をむちで打たれていた。六年生の頃になるとスポーツの得意な光一の身長はぐんと伸び、もともと短めだった半ズボンはさらに小さく見えてきた。光一のくりっとしたお尻は、大袈裟にいうと半ズボンの裾から3分の1ぐらいはみ出していた。今、先生からよくしなる細い竹のむちで打ち据えられているその素肌の部分には鮮やかな赤い筋が何本も走っていた。
ぼくは見てはいけないものを見てしまったような気がして、足早に光一の教室の前を離れた。「…ピシーリ…ピシーリ…」という痛そうなむちの音と、「…25…26…」という先生のむちの数を数える声を背中に聞いた。
「光ちゃんは何でお仕置きのむちを受けているんだろう。光ちゃんは一体いくつお尻を打たれるんだろう。」
ぼくはとても心配になった。

おかげで教室に戻るのが遅れ、先生からお尻に一つむちをもらった。その後は、光一のことが気になって授業に身が入らず、指名されてもぼけっとしていることがあって、まず社会の時間に前に出されてお尻を一回むち打たれた。次の算数の時間にも、同じ事で注意されたために先生が怒り、今度はズボンを脱ぐように命じられて、パンツの上からお尻をむちで3回打たれた。そして、その後、パンツのままで教室の後ろに立たされた。光一の真似でいつもハイソックスをはいていたので、ハイソックスに短いパンツはなんともエロティックな感じだった。
光一と違って、うちでそんなに厳しく育てられていないぼくは、いつもだったら教師からお仕置きのむちをもらうとだらしなく叫び声をあげてしまうのだが、この日は、歯を食いしばって声を立てずにむち打ちに耐える光一の姿を見たばかりであったので、これらのむちの対して一切声をあげなかった。いつもの様子とは違うので、先生も友達もちょっと不思議に思ったかもしれない。なぜかこの日は、むち打たれることによってあこがれの光一に少しでも近づけるようでうれしくさえあった。
やがて、光一がむち打たれていた理由が学校中のうわさとなって耳に入ってきた。病弱な友人をかばってむちを受けたのだという。
話とはこうだ。光一達の教室には、修学旅行のとき、クラスのみんなでお金を出し合って買った花瓶があった。それをある子どもが誤って落として割ってしまった。でもその子はとてもからだが弱く、罰のむちをくらったら、倒れてしまうかもしれない。その友人が真っ青になっているのでその時ちょうど教室に居合わせた光一が罪をかぶって罰を受けたというのだ。クラス全員の分ということで光一はむちで42回打たれることになっていた。でも、むちが30回を越えた所でその病弱な友人が耐えられなくなって、狂ったように泣きじゃくって前に出てきて、光一を打ち据える教師の腕にしがみついて止めたということだった。
それで事情が一切わかり、光一はクラスの英雄になってしまったということだ。このうわさが全校に広まったことで、光一は全校の英雄になってしまった。
当時は子どもがカメラを学校にもってきて写真を写す時代ではなかったので、遠足や運動会、修学旅行のスナップ写真で、光一が写っている写真を他のクラス、他の学年の子が争って買った。スマートな太ももがよく写っている写真、しゃがんで短いジーンズの半ズボンがお尻に食い込んでいるような写真、しゃがんでいて短い半ズボンの裾から、僅かにブリーフが見える写真などが人気があった。身代わり事件の2日後の遠足の写真では、博物館で展示物を見つめる、前かがみになって突き出された光一のお尻の半ズボンの裾から露出した部分に、かなりはっきりむちの跡が残っていた。
きりっとした顔つき、くりっとしたお尻、スマートな太腿…そんな光一にホモっけのある大人が魅了されることは十分に有りうることだった。

「検便事件」というのがあった。皆さんの思い出の中にある子ども時代の検便はどのような形式のものだったのだろうか?「実物」をマッチ箱だろうか?プラスチックの円形の容器だろうか?時代が下って、渦巻き印のついたビニールテープだろうか?私たちの小学校では、かなり特異な方法が採られていた。それは、ガラス棒をお尻に突っ込むという方法だ。これは、戦前戦中、予科練などで行われていた方法らしい。検便の日は1年生から順に検便が行われる教室に行く。下はズボンを脱いでパンツ1枚だ。自分の番がくると、パンツを降ろして医者にお尻を向け、両手で自分の足首をつかむ。まるで、お尻を打たれるときのようだ。
その時、ホモっけのある医者は光一に魅了された。年中剥き出しているので小麦色に日焼けした太腿、その小麦色の太腿とはコントラストをなす剥き卵のようにすべすべしたまっ白く、くりっとしたお尻、その太腿やお尻を際立たせるハイソックス…医者は光一にじっくり見る必要があるから、全校児童の検査が終わった後、一人で来るように指示した。
再び、やってきた光一に医者はパンツを脱ぐように行った。そして大きめの机の上に四つんばいになるように命じた。医者はガラス棒にワセリンを塗って滑りやすくした後、光一の肛門に入れたり出したりした。ガラス棒を引き抜いた後はそのにおいをかいだりした。それが何回も繰り返されるので、さすがに素直な光一も嫌がって身をよじったら、医者が怒って光一のお尻をピシャリとたたき、素直な態度が取れなかったのでお仕置きをすると言って、自分の膝の上にうつ伏せになるように命じた。医者は素直に、椅子に坐った自分の膝の上に乗った光一のくりっとしたお尻をさんざん撫ぜたり揉んだりした後、ピシリ、ピシリと平手で打ち始めた。いつもむちで打たれ慣れている光一にとってはそんなに痛くは感じなかったが、1回打たれるごとに医者がお尻の穴に指を突っ込むのには閉口した。10回ぐらい打たれた後、担任の先生が跳び込んできて医者を強い口調で問い詰め、医者は返答もしどろもどろで逃げるようにして帰っていった。何か様子がおかしいと感じた担任の先生が見に来たらしかった。
学校も表沙汰にはしなかったが、うわさはどこからともなく漏れて広がった。医者はどこかへ医院をたたんで引っ越していった。それ以来、光一はジーンズの長ズボンをはいてくるようになり、あの見事な太腿は体育の時間以外見ることはできなくなった