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 普段は好ましい静けさも、こんなときは不安をかきたてる要素になる。
アイゼルは妙に重く感じる身体をベッドに沈めながら、
外からの物音もひとつとしてしないアカデミーに対して、
小言未満のつぶやきをシーツに押しあてた唇から漏らしていた。
 アイゼルが風邪を引いて三日目。
咳はそれほどではないものの、熱が少し高く、
こんな状態では授業もおぼつかないし、他の生徒にうつしてしまっては大変だ。
大事を取って部屋にこもっていることにしたのはいいけれど、
誰も様子を見にさえ来ようとしないことに、
少しわがままな苛立ちを覚えてもいるアイゼルだった。
 起きては眠り、寝ては目覚める繰りかえしにもいいかげん飽きてきた。
身体は気持ち悪いし、お腹も空いているのだけれど、
起きあがる気にまではなれないのは、まだ体調が良くない証拠なのだろう。
 起きて何か少しでも口に入れるか、もう少し眠るか、
せめぎあう肉体の欲求にも苛立ち、面倒くさくなって目を閉じたとき。
小さな扉を叩く音が、熱い耳朶をいささかの不快さを伴って撫でた。
ようやく現れた訪問者だったけれど、やはりアイゼルは歓迎する気にはなれなかった。
風邪だということは教師に伝えてあるから出なくても大過はないだろう。
ただ、その教師が訪れたのだとすると出ないわけにもいかない。
 仕方なくアイゼルが身体を起こそうとすると、それよりも先に扉が開いた。
ノックはしたとはいえ返事を待たずに開ける非礼を詫びるように、
少しだけ開いた扉から、アイゼルの見知った顔がひょこっと出てくる。
その顔を見たアイゼルは、安堵と同時に気が抜けて、ベッドに深く沈んでしまった。
「だいじょうぶ? アイゼル」
 さらに図々しくも中に入ってきた少女に、布団をかぶりなおしたアイゼルは、
少女の顔を直視しないで応じた。
「別にどうってことないわよ、ただの風邪なんだから」
 思ったよりもとげとげしかった自分の声に、熱い耳朶がさらに熱くなる。
こんなつもりではないのに、この少女と話すときはなぜかこうなってしまうのだ。
「それならいいんだけど、一応お薬持ってきたよ」
 冷たくあしらわれた少女は気にした風もなく小さな袋をアイゼルに見せた。
手際よく周りを片づけ、勧めもしないのにベッドの横に座ってしまった少女に、
アイゼルは仕方なく身体を起こした。
「いいわよそんな、大げさなのよ、エリーは」
 エリーと呼ばれた少女は邪気のない笑顔を浮かべる。
それがまたいなされた気がしてアイゼルは面白くなかったが、
突っかかる前にエリーは立ちあがり、水を汲みに部屋を出て行ってしまった。
 ふう、と息をついたアイゼルは、急いでブラシを手に取り、できる範囲で髪をなおした。
 エリーは身だしなみに無頓着な少女だけれど、
だからといってだらしのない格好を彼女に見せたくはない。
アイゼルはまだ、エリーとそこまでの仲ではないと考えているのだ
――エリーの方がどう思っているかはともかく。
 そもそも上位の成績で合格したアイゼルと、
補欠でかろうじて入学したエリーとではまったく釣り合わない。
アイゼルはそう思っていたのだが、補欠入学で寮にも入れず一人暮らしをする生徒が
居ると聞いて、興味本位で顔を見に行ったのが良くなかったのか、
以来エリーはまるでアイゼルを友人とみなして親しげに声をかけてくるようになった。
本来なら出会うことさえなかったような田舎の娘を、
アイゼルは時に露骨に追い払ったりもしたのだが、
どういうわけか特にきれいな顔立ちでもなく、
髪の手入れさえ構わずにおくような少女はアイゼルにつきまとって離れない。
しまいにアイゼルの方が根負けし、仕方なく話をするようになった、という次第だった。
 満足にはほど遠いけれど、なんとか髪を整えたところで
水を汲んだエリーが戻ってきた。
さりげなくブラシを隠したアイゼルは、お見舞いに来るなら先に言いなさいよ、
などと無理なことを思いつつ彼女を見る。
病気のせいもあって、それはあまり良くない表情だったのだが、
エリーはやはり気づかないままだった。
「あたしが錬金術士を目指すきっかけって話したよね?」
「死にそうになってたところを錬金術士が助けてしまった、って話でしょ」
「う、うん、なんだかひどい言い方だけど。
だからね、いつかあたしも病気で困ってる人を助けてあげたいなって、
ずっと思ってたんだ」
 他の誰でもない、唯一彼女が見舞いに来た理由をアイゼルは知った。
一応納得はしても、私が心配っていうわけじゃなかったのね、と思い、
それをつい口にしてしまう。
「で、都合良く病人が見つかった、と」
「そんな、都合良くだなんて思ってないよ。本当に心配なんだから」
「まあいいわ。薬はもらっておくから、今日はもういいでしょ?
みっともない格好をあんまり見られたくないのよ」
 少し語調を強めたエリーに、動揺したのはアイゼルの方だった。
せっかく見舞いに来てくれたのに、なにも怒らせる必要などない。
幸いなことにエリーは怒りを持続させない性格らしく、
すぐにいつもの表情に戻った。
「あ、うん、でも」
「まだ何かあるの?」
「薬を飲む前に何かお腹に入れておいた方がいいかなと思って、
りんごを買ってきたんだ。今剥いてあげるね」
 エリーが怒っていないと知って安堵しつつも、
人の言うことを聞かない彼女にアイゼルの心はまた良くない方向に傾いてしまう。
天秤を水平に戻そうとアイゼルは小さく頭を振った。
その間にもエリーはさっさとりんごを剥きはじめている。
皮を剥いていく慣れた手つきにいくらかの劣等感を感じつつ、
すくなくとも善意であるのは間違いないのだから、
とアイゼルは状況を受けいれることにした。
 ところが。
「はい、あーん」
「……何よ」
「何って、食べるでしょ? りんご」
「そうじゃなくて、子供じゃないんだから自分で食べられるわよ、恥ずかしい」
「別に気にしなくてもいいのに」
「私が気にするのよ!」
 気色ばんで言ってみたが、エリーはフォークにりんごを突きさし、差しだしてくる。
引っこむ気配はみじんもなく、悪意のない図々しさに、
だから田舎者は嫌いなのよと心の中で毒づいてから、
仕方なくアイゼルはりんごを食べた。
 よく冷えている赤い果実は甘酸っぱさが引きたっていて、口の中に快く染みていく。
それほどの時間もかけず食べてしまったアイゼルが、それとなくエリーを見ると、
エリーは心得た表情で新たなりんごをフォークに刺した。
「どう? 友達のお見舞いに持って行くっていったらおいしい奴を選んでやるって、
おまけまでしてくれたんだよ」
「別に、悪くないわよ。こんなものじゃないかしら」
 本当は今まで食べた中でも、こんなに美味しいりんごは初めてだった。
けれどもおいしいというたった一言がどうしてもアイゼルにはいえない。
それくらい察しなさいよと思いつつアイゼルがエリーを見ると、
りんごを指でつまんで口に運んでいるところだった。
「……そう? おいしいと思うけどな」
「私に持ってきたものを、どうしてあなたが食べてるのよ」
「えへへ、おいしそうだったし。それに、一緒に食べた方が楽しいでしょ?」
 悪びれないエリーに、アイゼルは小さく鼻を鳴らした。
それは、気持ちを外に出さないための仕草だった。
 三つあったりんごはあっという間になくなっていた。
アイゼルははじめ、レディのたしなみとしてあまりがっつくのははしたないと
考えたのだが、エリーがそんなことを気にするとも思えず、また、
りんごは本当に美味しかったので、つい食べてしまったのだ。
「いっぱい食べたね」
「あなたの方が多く食べたけれど」
「そうだっけ?」
 エリーが宙を見上げて記憶をたどる素振りを見せたので、
アイゼルは話題を変える必要に駆られた。
「薬」
「え?」
「作ってきたんでしょう? 見せてみなさいよ」
 アイゼルが言うと、エリーは慌てて鞄から薬を取りだし、掌に乗せる。
仮にも錬金術士がそんな無造作に薬を扱うべきではないと、アイゼルは言わなかった。
それよりも前の段階で言葉を呑みこんでしまったからだ。
 緑と茶色の間の薄気味悪い色をした三粒の丸薬は、丸と呼ぶのもおこがましい
でこぼこの形をしていて、あまりにも薬というイメージからかけ離れていたからだ。
これを呑むなら、高熱で苦しんだ方がましかもしれないとアイゼルは思った。
「これ……本当に効くの? 余計悪化したりするんじゃないでしょうね?」
 長い沈黙の後に呟いた語句は、これでもかなり吟味したのだ。
「うーん……一応レシピ通りには調合したんだけど……」
「私で実験しようってわけね」
「う……どうしても嫌だったら、飲まなくてもいいけど……」
 あまり自信がないのか、エリーはしょげかえる。
あまりにも似合わない彼女の悄然とした表情に何かが弾け、
その掌からひったくるように薬を取ったアイゼルは、
有無を言わせず水と一緒に一気に飲み下した。
知りようもないはずの薬が胃に落ちていく感覚に、必死にしゃっくりをこらえる。
「アイゼル……?」
「もっとしっかりなさい。医者がそんな顔をしていたら、患者が不安になるでしょう」
「う、うん、そうだね」
 エリーは急にアイゼルが薬を飲んだことよりも、
励まされたことのほうに戸惑っているようだ。
なんとなく頬に熱を感じながら、アイゼルは空になったコップをテーブルに置く。
その音は、少し上品ではなかった。
「それで、どう? 効いた?」
「そんなに早く効果が出るわけないでしょ」
「あ、そっか、えへへ」
 調子を取り戻したらしいエリーに、アイゼルも普段通りにたしなめる。
それをどこか喜ぶようにエリーが笑い、それを収めたところでお見舞いは終わった。
「それじゃ、あたし帰るね。あしたは授業、出られるといいね。
あ、それと残りのりんご、置いていくから良かったら食べて」
 小さく手を振ったエリーが帰っていく。
閉まった後もしばらく扉の方を見つめていたアイゼルは、
やがてぽふん、とわざと音を立てて枕に頭を落とした。
「もう、ようやく静かになったわ」
 それはきっと、歓迎すべき静けさだったはずなのに、ずっと寂しくなった気がした。
そんなこと、あるわけがない。
あるとしたらきっと病気のせいだ。
アイゼルはそう考え、早く治してしまおうと布団をかぶった。
少し体力が戻ったからか、それとも薬の効果か、すぐに眠気が訪れる。
明日はきっと治っている予感がして、逆らわずに目を閉じたアイゼルは、
最後にまぶたの裏に浮かんだものを、呟くともなく呟いて眠りに落ちていった。
「……りんご、剥いてなかったら食べられないじゃない」



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