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「さて、と。そろそろ寝ようかな」
エリーは小さなあくびをすると、ひとつ伸びをして机を立った。
その時、小さく扉をノックする音がエリーの耳に入った。
(こんな時間に、誰だろう?)
エリーはそう思いながらも扉を開ける。
「はーい、開いてます」
そこにはエリーの意表を付く人物が立っていた。
「アイゼル! どうしたの、こんな時間に」
アイゼルは恥ずかしそうにうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げる。
「あの……なんだか、寝付けなくなっちゃって。
それで、あの、よかったら一緒に散歩でもしてくれないかな……って」
「さ、散歩?」
「い、嫌ならいいのよ。別に、あたしだってどうしても行きたい、って訳じゃないんだし、その……」
(こんな時間に来ておいて何も訳が無いわけないじゃない。アイゼルったら無理しちゃって)
こんなにしおらしいアイゼルを見るのは久しぶりだったエリーは笑い出しそうになったが、
すんでの所で噛み殺す。
「いいよ、いこう。あたしもちょっと眠れないなって思ってたんだ」
「本当?」
そう言いながらも、アイゼルの顔は来た時とは別人のように輝いていた。
「ちょっと待っててね」
エリーは着替えるかどうか迷ったが、アイゼルも寝間着だったし、
結局寝間着に一枚はおっただけで行くことにした。

二人は無言のままなんとなく町外れの草原に来ていた。
なんとなく、といっても悩み事があるとよくお互いを連れてきてここで相談したりしていたので、
二人にとっては行き付けの場所だった。
草原に着くと、エリーは寝転がって星を見上げる。
エリーは星を見るのが好きだった。
何も考えずに星を見ていると、吸い込まれていくような感覚がするから。
そのままぼんやりと星空に目を向けていると、草が遠慮がちな音を立てる。
視線を地上に戻したエリーは、傍らにアイゼルが横たわっているのを見て驚きの声をあげた。
「どうしたのアイゼル? いつもあたしが誘っても髪が汚れるから、って絶対横にならないのに」
「そうね……なんとなく、今日はあなたと同じ星を見てみたくなったの」
アイゼルはそれきり黙ってしまった。
エリーもそれ以上話のきっかけが無く、再び黙って星空を見上げる。
どれくらい経ったのか、アイゼルがそっと声をかけた。
「エリー……起きてる?」
「うん……起きてるよ」
「ちょっと、話、してもいい?」
「うん」
「もうすぐ、卒業よね。……あなた、卒業したらどうするの?」
「うーん、まだ決めてないんだ。結局マルローネさんには会えなかったけど、
なんとか錬金術士です、って言えるくらいのことは勉強した気がするし、
マイスターランクに来ないか、ってイングリド先生にも声をかけてもらってるし……
まだ、わかんないや。アイゼルは?」
「あたしは……」
アイゼルは自分の気持ちを確認するようにゆっくりと言葉を選びながら紡いでいく。
それを伝えるためにここに呼んだのだけれど、口にするにはたくさんの勇気が必要だった。
「あたしは、卒業して、裁判官になる為に勉強しようと思うの」
「裁判官?」
聞き慣れない言葉にとまどうエリー。
「ええ。裁判官っていうのは、法を作って、争いごとを話し合いで解決する職業のことよ。
アカデミーで学んだ事はほとんど役に立たなくなっちゃうけど、でもやってみたいの」
「どうして、その……裁判官になろうって思ったの?」
問いかけながらも、
エリーはアイゼルが自分が知りさえしない職業を目指している事を知って衝撃を受けていた。
自分にはまだ未来が見出せないのに、同じ歳で既に遥か先を見つめている少女がいる。
更にエリーが気付かざるを得ない事実があった。
アカデミーを卒業したらアイゼルと離れ離れになってしまうのだ。
「さあ……あたしにもよく解ってないんだけど、
図書館で他の国の本に裁判官の事が書いてあって、
それを読んだときに、ザールブルグにはまだきちんとした法が無い……って思って、
だったらあたしがこの国最初の裁判官になればいい……って」
「でも……どうやってなるの?」
「さあ……あたしにも解らないわ。まだ誰もやった事が無いんですもの。
だから、他の国へ勉強しに行こうと思ってるの。法があって、裁判官がいる国へ」
「どこにあるの?」
矢継ぎ早に問いかけながら、エリーは急速に不安が高まって行くのを感じる。
「その本は遥か南の国の本だったわ。だから、まずそこに行こうと思うの」
「遥か南って……そんな適当な情報しかないの? どうやって行くのかも解らないのに」
なんとかアイゼルを引き留めようと、言葉の端を捕まえて揚げ足を取るが、
アイゼルは動じなかった。
「ロマージュさんがね、その国を知ってて、途中まで一緒に来てくれるって言ってくれてるの。
だから、大丈夫だと思う」
エリーは身を起こすとアイゼルの瞳を凝視する。
暗闇の中でも、星々の瞬きに負けないくらいの光がそこにはあった。
アイゼルの意思が固い事を悟ったエリーは説得を諦め、別の方向から攻める。
「だって、何年かかるかも解らないんだよ? そんな……そうだ、あたしも一緒に行ってあげるよ!
こう見えても、この5年間で結構強くなったんだから」
アイゼルは自分と一緒に居てくれようとするエリーの気持ちが嬉しかったが、
付いて来てもらうわけにはいかなかった。
「だめよ。これはあたしの人生。
あたしが選んだ道だから、何年かかっても後悔はしない。
だけど、あなたは違う。あなたにはあなたの選ぶ人生があるはず。
あなたを巻き込むわけには行かないわ」
「別に巻き込まれたなんて思わないよ! だって、もう逢えないかもしれないんだよ?
せっかく友達になれたのに、そんなのイヤだよ!
でも、あたしにはアイゼルの夢は止められない。だから、せめて一緒に……」
それ以上エリーは言葉を続ける事が出来ず、アイゼルの胸に顔を埋めて泣き出してしまった。
アイゼルはエリーの頭を撫でてやりながら、自分の頬にも熱い物が伝うのを感じる。
(こんなに……あたしの事を心配してくれる人が、居たんだ)
何日も考え抜いて決めたはずの決心がたった数滴の涙で鈍りそうになる。
(きっと、エリーを連れて行けば楽しい旅になるわ。
どんなに辛い事があっても、エリーと一緒なら乗り越えられる)
それは、アイゼルが想像していた以上に甘美な誘惑だった。
(エリーも自分から来たいって言ってるんだし、連れて行っちゃえばいいのよ)
(そうすれば、あたしもエリーとずっと居られる)
(本当にお互いを必要としているのはエリーではなくあたし)
(連れて行きなさい)
(連れて行きなさい)
(駄目! エリーの人生を奪う訳にはいかない! あの子には他に歩む道がある。
あたしとエリーは頼ったり、頼られたりする関係じゃいけないの。それはお互いの為にならない)
「ね……エリー」
あやすように呼びかけると、エリーは泣きじゃくっていた顔を上げる。
「あなたがあたしの事を心配してくれるのはすごく嬉しい。
……だけど、今のあなたは友達を失う事を恐れているだけ。大丈夫よ。
何年かかっても必ずあたしはここに戻ってくるし、あなたの事は絶対に忘れない。
だから……あなたは……あなたの人生を探しなさい」
アイゼルは母親が子に諭すように優しく語りかける。
エリーは黙って聞いていたが、アイゼルが話し終えると不安そうに問いかける。
「だって……アイゼルが戻ってきた時、あたしがここに居ないかも知れないんだよ?」
「大丈夫。その時はあたしの錬金術の力とワイマール家の総力を挙げてあなたを探し出すわ。
だから、心配しないで」
「うん……解った。まだどうするか決めた訳じゃないけど、真剣に考えてみるね」
どうやら納得してくれたらしいのでアイゼルは安心した。
エリーを不安にさせたまま旅立つのは嫌だったし、何も言わずに行くのはもっと嫌だった。
と、ふと心付いてエリーに話しかける。
「ね……そろそろ、どいてくれない?」
「えへへ、だーめ。あたしを置いていくんだから、今くらい我慢してよ」
エリーは真っ赤に腫らした目をこすりながら笑った。アイゼルもつられて笑い出す。
「もう、しょうがない子ね。今だけよ」
アイゼルはエリーの頭をそっと抱きかかえた。エリーは逆らわなかったが、小さな声でつぶやく。
「絶対……戻ってきてよ。何年かかっても、絶対。じゃないと承知しないんだから」
その一言に万感の思いが込められているのをアイゼルは感じとって、また涙があふれてくる。
「あなたこそ……結婚とかしちゃわないでよ」
「えへへ、どうしようかな、結婚か、悪くないね、それ」
「ま、あなたには無理でしょうけど」
「なによそれー。あたしにだって好きって言ってくれる人くらいいますー」
「はいはい、そういうことにしておきましょうか。そろそろ帰りましょ」
エリーは頷くと、身体を起こした。アイゼルもつられて起きあがったその時、
すばやくエリーがアイゼルに唇を触れさせた。一瞬の事に呆然とするアイゼル。
「これは約束。あたしとアイゼルの秘密の約束。だから、誰にも言っちゃ駄目だよ」
エリーは恥ずかしそうにそう言った。
「……って、あたし初めてだったのよ! 何てことするのよ!」
「いやだった?」
真顔で尋ねるエリー。その顔につられてつい白状してしまう。
「いや……じゃないわよ。本当は」
言いよどむアイゼルに悪戯っぽく問いかけるエリー。
「本当は、何?」
「本当は、嬉し、かった……。初めてのキスが、あなたで、嬉しかった」
「良かった! 本気で怒ったんじゃないかってちょっと怖かったんだ。
あたしもね、今になってどきどきしてきちゃった」
帰り道、エリーは考えていた。自分がどうしたいのかを。何をすればいいのかを。
その結論が出るのに、二年の歳月が必要だった。

数年後、ザールブルグに初めての法律が制定される。
その法は発案者の名前を取ってワイマール法と呼ばれる事になるが、
編纂者の中に、星と月をあしらった杖を持ち、
その笑顔で国中の誰からも愛された宮廷魔術師がいたことはあまり知られていない。



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