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翌日、学校が終わった雛乃は再び龍麻の家を訪れた。
部活の用事だと姉や家族に嘘をつき、何の疑いもなく了承されたのが、正道を歩み、
脇道に逸れたこともない雛乃にとってすでに苦痛だった。
全ては姉のためだという拠り所がなければ、体調を崩してしまったかもしれない。
彼の家のドアの前まで来て、雛乃はインターホンを押すのをためらった。
神社の鳥居は神域と俗域を隔てるという意味があるが、
このドアの向こう側に行ってしまったら、もう戻れないような気がしたのだ。
それはおそらく、正しい認識だった。
姉を救うためとはいっても、肌を男に触れさせるのは、雛乃にとって別の世界の出来事だった。
身体を許すのは本当に愛する、生涯の伴侶となる男性にだけ、
という今時の女子高生にはほぼ死滅した貞操観念は、
女子校と実家が神社という相乗効果によって倍増し、
結果として雛乃を冒しがたい雰囲気の少女へと仕立てている。
だが、今日、雛乃は、好きでもない――少なくとも、心を通わせたわけではない男に、
生け贄として自らを捧げるのだ。
崇高な愛の行為を戯れとしか思っていない男に、
それが間違っていると証明するために肌を差しだすのは、
十七歳の少女にとって耐えがたい苦痛だった。
呼び鈴を押そうとしてためらい、再び押そうとしてもう一度ためらう。
本当に、他に姉を取り戻す手段はないのか、もっと考えてみるべきではないのか。
けれどもここまで来て帰ればそれだけ姉を救うのが遅れるし、
龍麻の機嫌を損ねれば次の機会など与えられないかもしれない。
せめて龍麻から忌まわしい提案をされた時に、毅然として断っておけば良かったかもしれないが、
過去に戻ってやり直すことが叶わぬ以上、この道を歩むしかなかった。
呼吸を整えた雛乃は、明確な意志を指に宿して呼び鈴を押す。
事前に来ることが伝えてあったからか、すぐにドアは開き、家の主が顔を出した。
「いらっしゃい、雛乃。時間通りだな」
「……こんにちは」
さわやかな、呼びつけた理由など微塵もうかがわせない笑顔で出迎える龍麻に、
雛乃は困惑する。
だが龍麻は気さくに雛乃を招き入れ、雛乃も、仕方なくとはいえども中に入った。
初めて入る男性の部屋は、予想以上に整っていた。
余計なものが見あたらないシンプルな部屋はきちんと掃除されていて、
埃やカビの臭いもなく、下手をすれば築年数の古い織部の家よりもきれいなほどだ。
「ん……日本茶はないんだけど、ジュースでいいか?」
「は、はい」
先に居間、といってもその他には台所と浴室くらいしかない家だが、
とにかく居間に通された雛乃は、所在なげに辺りを見渡しているところに
台所から声をかけられて驚いてしまった。
それでも他人の好意を無下にしてはいけないという躾が行き届いているので、
反射的に返事をする。
「ん? どうした、座らないのか」
「は、はい、すみません」
雛乃が座らなかったのは、どこに座ればよいかわからなかったからだ。
龍麻に指摘されてあわてて小さなテーブルの傍に腰を下ろした。
おそらくは一人用の四角い座卓に、向かい合って龍麻も座る。
いきなり襲いかかってくるようなことはないとしても、
万が一の際はこの小さなテーブルだけを防壁としなければならず、
雛乃は不安にならざるをえない。
するとそんな雛乃の心境を見抜いたのか、
龍麻は苦笑いしつつ両腕をついて上体を後ろに倒した。
「まあ、どうぞ」
「……いただきます」
正直なところ、何かを飲む気分ではなかった。
ここはいわば敵地であり、心安らぐことなどあってはならないのだ。
それでも礼を言ってグラスを受けとり、林檎のジュースに口をつけると、
いくらか気持ちが落ちついた。
これで談笑して帰れるのならば、どれほど嬉しいことか。
「電車は混んでなかった?」
「はい」
他愛のないことながらも、会話が途切れないよう龍麻はあれこれと話しかけてきた。
だが、雛乃は姉と較べればおとなしく、初めて二人きりで異性と過ごすこともあって、
単調な返事に終始してしまう。
「雪乃と話はした?」
さらに二言三言話したが、雛乃は覚えておらず、
唐突に射こまれた矢が、それまでの記憶を貫き通した。
「い……いえ、話はしましたが、その」
今日のことやここに来るきっかけとなった出来事については全く触れていない。
龍麻にも言わないよう約束を交わしているが、
もしや反故にしたのではないかと雛乃は無言で男を見た。
「そうか……思いきって話してくれてれば、話が早く済むと思ったんだけどな」
「……どういうことでしょうか」
「雪乃は全部知って俺に抱かれてるってことさ」
頬が熱くなるのを雛乃は自覚した。
やはり龍麻は信用できない。
姉をたぶらかして平然としている、悪魔のような男なのだ。
「誤解して欲しくないんだけど、俺は雛乃のためを思って言ってるんだ。
雪乃が嫌々抱かれてるわけじゃないって納得してくれれば雛乃はこんなことをする必要はない。
雛乃が俺としたいっていうならもちろん歓迎だけど、
嫌がってる女の子とするのは俺も本意じゃないからな」
本気で案じているような龍麻の口調が、かえって雛乃を怒らせた。
一人子供扱いされ、蚊帳の外に置かれているような気がしたのだ。
「姉様がどのような考えをなさっていようと、わたくしは緋勇様に憤りを感じております。
できれば姉様の傍から離れていただきたいという考えに変わりはありません。
そのために……そのために、わたくしの身体を触るというのなら、
どうぞお好きになさってください。
ですが、わたくしは絶対に節を曲げるようなことはいたしません」
一気に言い放った雛乃は、屹と龍麻を睨みつけた。
龍麻は長広舌に驚いたようだったが、すぐに左手を顎に当て、
余裕を感じさせる表情で射こまれた眼光を受けとめた。
「そういうことなら、俺も遠慮なくやらせてもらうよ。
さっそくはじめようと思うけど、どうする? シャワーは浴びるか?」
龍麻の口調に威圧や嘲りはない。
にもかかわらず、雛乃の強気はたちまち霧消し、代わりに動揺が暗灰色のもやとなって立ちこめた。
身体を、清める――それはつまり、その先に続く未来を受けいれたことを意味するのだ。
「は……はい」
声が震えるのを、雛乃は隠せなかった。
声だけではない、身体もひどく寒気がした。
怯えは極限まで高まり、姉のためでなければ一も二もなく逃げ出していただろう
だが、これ以上の動揺は龍麻をつけこませるだけだ。
雛乃は克己心を総動員して立ちあがった。
「シャワーの使い方はわかる?」
「は、はい、大丈夫です」
本当は数えるほどしか使ったことがなく、心許ない。
けれども弱みを見せるのが嫌で、雛乃は嘘をついた。
浴室へと入って扉を閉める。
たった数歩、距離で言えば三メートルほどを移動した雛乃は、
一時的にせよ龍麻と隔離された途端、床にへたりこんでしまった。
感情がいちどきにあふれだし、顔を覆った手を熱い滴が濡らす。
声を上げてはいけないと思うほど、涙は止まらなくなった。
五分ほども泣き続けた頃、扉の向こうから龍麻の声がした。
「……雛乃?」
おそらくシャワーの音が聞こえてこないので不審に思ったのだろう。
雛乃は泣き腫らした顔を上げ、立ちあがると服を脱ぎ始めた。
この瞬間にも入ってこられたら、という危惧はあったものの、
そこまで卑劣でもないのか、あるいはもう籠に鳥を閉じこめたと思っているのか、
防壁というには心許ない扉が開かれることはなかった。
温かな湯は、雛乃の皮膚には浸透しても、心までは温めてくれなかった。
シャワーに身体を打たせながら、いくらか落ち着きを取り戻した雛乃は、
改めて自分が愚かしい勝負を挑んでしまったと後悔した。
姉を救うためとはいえ、男の手がこれからこの身体を這い回ることを思うと、
恐怖はどれだけ汲みだしても尽きることがない。
機械的に身体を、それでも念入りに洗いながら、ふと雛乃の脳裏をあの日の光景がよぎった。
姉は――聞いたことのない声を発していた。
それはつまり、自分たちが龍麻と知り合って半年も経っていないのに、
龍麻は姉を変えてしまったということになる。
そんな男に、太刀打ちできるのだろうか。
姉と同じように、はしたなくも神域で男女の営みを行うように、自分もなってしまうのだろうか。
恐ろしくなった雛乃は両腕をかき抱いた。
また泣きそうになってシャワーの温度を上げる。
思考を奪ってくれる熱さを、雛乃はずっとまとっていたいと願った。
もちろん、それは叶わぬ願いだった。
浴室から出た雛乃は、三十分以上も経っていたことに驚いた。
ずいぶんと泣いてしまった目も赤いままだったが、龍麻は何も言わなかった。
だが、龍麻がいくら気遣いを見せたとしても、
これから彼にされることを考えれば印象が良くなるはずもない。
雛乃は彼女らしくもない固い表情を顔に貼りつけたまま、ぎこちなく座った。
「それじゃ、はじめようか」
「……はい」
こういったことの経験を全く持たない雛乃は、龍麻が何をするのか見当もつかず、
緊張と恐怖で固唾を呑む。
その唾が喉を落ちると同時に、龍麻が動いた。
軽やかに、音を立てずに寄ってきた龍麻は、あっという間に雛乃の横に来て、
なれなれしく腰に腕を回す。
充分に予期していたはずなのに、素早い行動に翻弄され、
雛乃はあっというまに龍麻に抱きすくめられてしまった。
異性に、というよりも姉以外の他人にこれほど近づかれたこと自体が初めてで、
少なからず動揺する。
さらに当然のように顔を寄せる龍麻に、ようやく雛乃は抵抗した。
「ま、待ってください、くちづけは……!」
「嫌?」
怒るのではないかと思った龍麻は、意外にもあっさりと顔を引いた。
瞳の奥まで覗けてしまう位置にある異性の顔に、雛乃の心臓が早鐘を打つ。
肩から腰へ、斜めに回された腕は力強く、体重を預けてもびくともしない。
ただし同時に離れることもできず、雛乃は、男の腕の中にとどまるしかなかった。
「まだ、キスをしたことはないんだろ? 無理やりしても嫌われるだけだからな」
「ありがとう……ございます……」
返答に気恥ずかしさを覚えつつ、安堵する雛乃だったが、それは早計だった。
龍麻は顔は離したものの、代わりに顎に添えた手から指を伸ばし、
下唇を撫ではじめたのだ。
「あ、の……」
「キスはしない。でも、触るくらいはいいだろう?」
指であってもくらい、とは思えないが、続けて断れば今度こそ機嫌を損ねかねない。
雛乃は返事をしないことで消極的であると言外に伝えてみるも、
龍麻は気づかないのか、あるいは意図的か、本格的に唇に触れてきた。
「……」
唇というのがこれほど鋭敏な場所なのだと雛乃は改めて知らされた。
龍麻はごく軽く触れてくるだけなのに、
背中の中心あたりにまでくすぐったさが広がっていく。
腹の下へと落ちていくそのくすぐったさを危険に感じ、
雛乃は止めさせようとするが、龍麻に凝視されると動けなくなってしまった。
いささかの揺るぎもない、深い黒曜の瞳。
誰かの眼差しをこれほどの至近距離で受けたのは姉以外になく、
たやすく雛乃は捕らわれる。
この眼の持ち主は姉をたぶらかす悪い人間であるはずなのに、
まばたきさえ許さないような真摯な眼光に、雛乃は屈服してしまいそうになるのだ。
いけない、と首を振ろうとしても、龍麻の指は封をしたように口唇に貼りつき、
動きを封じられてしまう雛乃だった。
そうしているうちに指先は微妙に動きを変える。
表面をなぞるだけだったのが、唇の合わせ目を開こうとしてくるのだ。
それはさすがに嫌で、雛乃は唇を引き結んだ。
龍麻に諦める気配はない。
雛乃の抵抗が唇をかみしめるだけと知って、開くまで待ち続ける方策に変えたようだ。
もちろん、ただ待つだけではない。
唇に指腹を沿わせて全く強引さのない柔らかさで、
だが呼吸のために口を開くのも許さない粘着質な動きで、
一度なぞるごとに少しずつ動きを変えながら撫でつづける。
普段なら口から息を吸ったりはしない雛乃も、軽い興奮状態にあるためか、
身体がより多くの酸素を欲している。
鼻の穴を広げて、などとは女性として耐えられないので、
身体に我慢を強いるしかないが、それにも限界というものがあった。
長い時間――実際には、一分にも満たなかった――が過ぎ、息苦しさが頭の先にまで達する。
それでも、雛乃はまだ耐えるつもりだったが、肉体の方が反旗を翻した。
押さえつけていた唇が開く。
緩んでしまった顎を、雛乃は急いで閉じたが、この瞬間を待ちかまえ、
獰猛な蛇のように侵入してきた指は、あっという間に唇の内側へと潜りこんでしまった。
「……っ……!」
口の中に入ってきた異物に、えづきそうになる。
おぞましさに雛乃は気を失う寸前だった。
閉じている瞼から涙があふれ、こらえる術もなく流れていく。
精神的にはほとんど陵辱された雛乃だったが、
予想に反して龍麻はそれ以上口の中に指を挿れてはこなかった。
何故、と思ったところで、歯に何かが当たっているのに気づく。
顎の力を緩めると、龍麻が抜いた指にくっきりと歯形がついていた。
「あ……あの……」
謝るべきか否か、雛乃は迷う。
だが龍麻は怒りもせず笑ってみせた。
「雛乃でも噛むんだな」
それはずいぶん失礼な物言いだったけれども、龍麻がしげしげと歯形を眺め、
指輪でも嵌めたかのように透かしてみたことで動転してしまった雛乃にそこまで気づく余裕はない。
ただひたすらにうつむいていると、急に何かを思いだしたかのように龍麻が囁いた。
「そういえばあの日、どこから見てたんだ? 結構気配探ってたんだけどな」
「そ、それは、あの……う、後ろから、です」
「後ろ?」
雛乃が致命的な失策を犯してしまったと気づくまで、時間は必要なかった。
「もしかして、両方見てたのか?」
「――!」
あくまでも悪いのは見られるような場所で性行為に及んだ龍麻であっても、
覗きという後ろめたさがある雛乃は、言い当てられて罪悪感を覚えてしまう。
「そうか、両方か」
楽しげな龍麻の口調が、雛乃の羞恥を限界まで高める。
言い分はあるにしても、最初に目撃したときに注意しなかった点は落ち度に違いない。
まして、二人の行為を見て火照りを覚えてしまったなど、
姉にすら言えない秘密を作ってしまったのだ。
「家の方は誰かに見つかるんじゃないかな、とは思ってたけど」
龍麻の台詞には幾つもの恐ろしい意味が含まれていた。
まず、龍麻は最初から織部家の家人――それも、おそらくは雛乃一人に見せつけることを狙って
家の中であのような行為に及んだのだ。
あの日雛乃が見つけなければ、別の日に見つけるまで行為を繰り返したに違いない。
そして姉も、その可能性を充分に承知しながら龍麻に従った。
脅されてかどうかはともかくとして、自分同様躾を受けて育った姉が、
生家で夫婦の契りも交していない男に身体を許すなど、はじめは信じられなかった。
だが、あの時の姉に嫌がる素振りはなく、龍麻の股間に積極的にさえ顔を埋めていた。
共に生を受け、いつかは道が分かれるとしても、そのときはまだずっと先だと思っていた姉は、
緋勇龍麻という男に出会って堕落してしまっていたのだ。
不意に雛乃の目から涙が落ちた。
常とは逆に、涙を感知することによって感情が呼び起こされる。
空白の心に満たされた悲しみは、たちまち制御が効かないほどに大きくなった。
「お、おい……」
狼狽している龍麻のことなど念頭から消え、こみあげる激情のままに涙をあふれさせる。
やがて龍麻が肩を抱き、頭を撫でても、それらを遮る余力もなく、
全ての感情を汲みだしてしまうまで、雛乃はひたすらに泣き続けた。
豪雨が小雨に変わるまでに要した時間を、雛乃は知らない。
激情が収まり、自身の泣き声が聞こえるようになったとき、
雛乃の周りは暗闇に包まれていたからだ。
「落ちついたか?」
頭上から呼びかける声に、顔を上げようとして雛乃は、自分の居場所を思いだす。
そこは自分が居てはならない場所のはずで、慌てて離れようとした。
「ああ、いいよ、もう少し泣いてても」
「い、いえ……大丈夫です」
だが、腕の力は弱まらない。
仕方なく、雛乃は龍麻の気が済むまで、彼の腕の中に留まることにした。
落ちついてみると、雛乃にとって初めてである男の腕の中は、形容しがたい感覚に満ちていた。
安らぎ、温かく、逞しく、恐ろしい。
それらが全部混ざった感覚を、四方から感じる。
それほど嫌ではない――もしかしたら、心地良いかもしれない。
そう思った雛乃は自分の心のうつろいに驚いた。
気を許してはいけない、と自己を叱咤する雛乃に、龍麻の声は危険な優しさで忍びこんでくる。
「これでも反省してるんだ……泣かせちまうなんて」
「でも、これは」
泣きはらした顔を見られたくなくて顔を伏せる雛乃に、
龍麻は意外なほど譲歩した。
「どんな理由があっても泣かせるのは、な」
「……姉様を、泣かせたことはないのですか」
「ないよ。少なくとも、怖がらせたり嫌がらせたりでは」
彼の言葉が真実かどうか、確かめる術は雛乃にはない。
ただ、龍麻と一緒に居る時の姉の表情にはいつも通りの快活さも確かにあって、
暴力や恐怖で支配していないというのはたぶん本当だろう。
だからといって龍麻に心許せるはずもなく、雛乃はまず、
彼の腕の中という奇妙な状況から逃れようとした。
「もう、大丈夫ですから……ご迷惑を、おかけしました」
もう一度、今度は若干意志を強めて言うと、龍麻はあっさり腕を解いた。
予想外に簡単に逃れ出た雛乃は、涙で酷い顔をしているのも忘れ、龍麻を直視してしまう。
すると、龍麻の方から目をそむけ、ティッシュの箱を手渡した。
「いや……悪かったよ。今日はもう終わりにするから」
「……ですが……」
もちろん雛乃はもっと龍麻と居たかったわけではない。
だが、家に来てからまだ一時間と経ってはおらず、自分の都合で中断させてしまったのは、
約束に違えるのではないかと生真面目な少女は思ったのだ。
「いいから。それと、送っていくよ」
「そこまでお世話にはなれません。一人で帰れますから」
「もう暗くなりかけてるし、そういうわけにはいかないだろ。そこは信用してくれていいよ」
正直に言えば、その可能性を考えていなかったわけではない。
人を疑うことの少ない雛乃ではあるが、そもそもこうして龍麻の家にいるいきさつを
振り返ってみれば、彼に全幅の信頼を寄せるというのは難しいのだ。
だが結局、雛乃は龍麻に送ってもらうことになる。
この件に関して龍麻は強情だった。
「泣き顔の女の子を一人歩かせるなんて危険きわまりない」
という主張に気後れしている部分をしたたかに突かれ、雛乃は抗しえなかったのだ。
さっさと立ちあがる龍麻に釣られる格好で雛乃も立ちあがり、
ほとんどシャワーを浴びただけで龍麻の家を辞去することとなったのだった。
帰宅する学生とサラリーマンでごった返している電車の中は、
座るどころかただ立っているのも困難なほどだった。
二十三区内に住んでいるとはいえ、通勤ラッシュの経験がない雛乃は、
人いきれに立ちくらみを起こしかけてしまう。
「ほら、こっち」
そんな雛乃の手を引き、巧みに角へと連れて行った龍麻は、
人の間を縫って壁に手をつくと、雛乃の周りに小さな空間を作った。
鞄を強く握るしかできない雛乃に、指一本触れさせまいとするかのように立ちはだかる。
「あ……ありがとうございます」
「いいって、こんなの当然……痛てっ」
人好きのする笑顔が歪んだのは、かなり強くぶつかられたようだ。
だがすぐに笑顔に戻し、絶対に守り抜くのだと身体で意思表示する。
結局駅に着くまで雛乃が他人に触れたのは、大きく揺れたときに龍麻の胸にぶつかった
ただ一度だけだった。
降りる駅に着き、扉が開く。
この時も龍麻が巧みに外に連れ出してくれ、雛乃は何の苦労もなかった。
「ふう……思ったよりずっと混んでたな。大丈夫だったか?」
「は、はい」
答えた雛乃はいつの間にか手を握られていることに気づき、慌てて離した。
その動作はやや性急だったようで、龍麻は目をしばたたかせている。
彼との関係を考えれば当然であるはずなのに、悪いことをしてしまった気が雛乃はした。
「行こう」
「はい」
龍麻は気にした様子もなく、雛乃の前に立って改札口を出て行く。
彼の後ろ姿をなるべく見ないようにして、雛乃も後に続いた。
駅からの徒歩では龍麻が、彼自身や彼の仲間の話を落ちついた口調で語る。
心底楽しそうに話す龍麻につい引きこまれ、気がつけば家の近くまで来てしまっていたほどで、
ほんの一瞬とはいえ、別れるのが惜しいとさえ思った雛乃だった。
「どうもありがとうございました」
「ああ、それじゃ――また明日」
なんと応じて良いかわからず、小さく頭を下げて雛乃は踵を返した。
十歩ほど歩き、ある予感に囚われて後ろを向くと、立って見送っていた龍麻が小さく手を振った。
慌ててまた頭を下げた雛乃は、小走りで彼から見えなくなるところまで移動した。
鳥居の端をくぐったところで歩を緩める。
息を整えかけた雛乃の、ずいぶんと鼓動が激しくなっていた。
ほんの少し走っただけにしては、耳鳴りを感じるくらいに高鳴っている。
仕方なく雛乃は一旦立ち止まり、動悸が収まるまで待つことにした。
何気ない動作で雛乃は胸に右手を当てる。
それは彼に握られた方の手だった。
「……」
龍麻の手の感触が甦る。
大きくて、力強い。
おそらく龍麻は意識すらしていないだろうが、雛乃にとっては初めて握られた男性の手だ。
そして、初めて唇にも触られた。
人差し指を唇に当て、そっとなぞらせる。
無意識の動作に、雛乃はひどく驚いた。
あの時はあんなに嫌だったはずなのに。
噛んでしまった指は、痛くなかっただろうか。
跡が残ってしまったりしないだろうか。
明日、もう一度謝った方がいいかもしれない。
ぼんやりとそう考えながら、雛乃は家へと歩きはじめる。
動悸は、まだ少し残っていた。
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