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<<変生 ─前編─ 5へ
再び龍麻達が新宿に戻ってきたのは、もう辺りがすっかり暗くなってからだった。
「あぁ、やっと都会に戻って来たぜ。どうも田舎は調子が狂っていけねェ」
「そうかな、京一なんてマンモスとでも戦ってる方が似合ってそうだけど」
「俺は原始人じゃねェッ!」
相変わらずな京一と小蒔のやり取りに笑いながら葵が時計を見ると、針は六時を指していた。
「今日は不動巡りは無理ね」
「そうだな……ま、明日からにすっか。新宿からだと一番近いのは、どこだ美里」
「えっと……豊島区の目白不動かしら」
「よし、んじゃ明日学校終わったらそこから行ってみようぜ」
三日連続で行動を共にすることになるが、それがすっかり自然になっていたから、
特に京一の意見に反対も出なかった。
あっさりと予定も決まり、帰路に就く直前、醍醐がおもむろに龍麻に訊ねる。
「ところで緋勇。先生はどこかお前のことを気にしているようだったが、
思い当たる節はあるのか」
「いや……さっぱり」
「でも、なんか初対面とは思えない感じだったよね」
そう言う小蒔に向かって、龍麻はまさにその通り、と頷いた。
そう感じていたのは自分だけだと思っていたのだが、どうやら皆同じ感想を抱いていたようだ。
と言ってやはり龍山と以前に会った覚えはなく、彼との接点は全く見出せなかった。
次第に気になって考え込む龍麻に、醍醐がとりなすように言う。
「先生は易者だからな、お前の顔に何か特別な相でも観たのかもしれん」
それならそれで説明してくれても良さそうなのに、と龍麻がおどけて答えると、四人は笑って頷いた。
笑いながら何気なく自分の腕時計を見た小蒔が、顔色を変える。
「あ、いっけない、もうこんな時間だ。
ごめん、ボク、これから弓道部のみんなと昨日の打ち上げなんだ」
「遅くまで付き合わせて悪かったな」
「ううん、おじいちゃん面白いヒトだったし。それじゃね」
手を振って去っていく小柄な姿は、たちまち闇に紛れて見えなくなってしまった。
葵も別れを告げ、後には男三人が残ると、それを待っていたかのように京一が口を開いた。
「しかし厄介だな」
「何がだ」
京一は訊ねた醍醐ではなく、今は龍麻が持っている袋を見ながら言った。
「この珠だよ。じじいの話だと、珠は五つあるんだろ? てことは、あと三人はいるんだろ」
京一の言葉に、龍麻は水角と風角が現れた時のことを思い出していた。
確かに彼らは、自分達を鬼道五人(衆が一人と名乗ったのだ。
京一の言う通り少なくともあと三人、そして恐らく、彼らを束ねる首魁がいるに違いなく、
鬼道衆との闘いはまだ半分を終えたに過ぎないのだ。
向こうも仲間を二人斃(され、本腰を入れて襲ってくるに違いない。
厳しい表情で龍麻が決意を新たにすると、醍醐と京一もそれぞれ頷く。
これからの闘いの激しさを予感しつつ帰路についた三人だったが、
鬼道衆は彼らの想像を超える早さで次の手を打ってきていたのだった。
龍麻達と別れ、醍醐は急ぐでもなく家への路を歩いていた。
男の一八歳ともなれば、多少は遅く帰ってもとやかく言われることはない。
龍山に聞いた話を反芻(しながら歩いていた醍醐は、さりげなく歩幅を変えた。
巨体の割に足音が小さくなったことに、注意深い人間なら気付いたかもしれない。
しかし彼の足音に続く、もうひとつの足音の持ち主は注意深くはないらしく、
いつのまにか自分の方が醍醐よりも大きな音を立ててしまっていることに気付いてもいなかった。
失笑を抑えながら醍醐は人通りのない通りへと進路を変え、
追跡者が出て来やすいよう舞台を整えてやってから足を止めた。
「話があるなら出てきたらどうだ」
「チッ」
醍醐の呼びかけに観念したのか、物陰から一人の男が姿を現す。
醍醐と同じ学生服を着崩した、いかにも素行の悪そうな男だった。
「下手糞(な尾行だな。何故俺を尾け──ん? お前、確か佐久間と一緒にいた」
「おめぇ、あんまり佐久間さんを甘く見んじゃねェぞ。
あの人は変わったんだ。もうてめェなんか目じゃねェんだよッ!!」
小物の恫喝など恐れる醍醐でもない。
ただ、居なくなってもう一週間になる佐久間の居場所をこの男が知っているのなら、聞きたいと思った。
しかし、それがいかに甘い考えであったかを、すぐに醍醐は凍てつくほどの後悔と共に思い知らされた。
「まぁいいさ。俺はあの人にこれを渡すように言われただけさ。ほらよ、受け取んな」
男が放り投げたものを、醍醐は受け取る。
くすんだ赤の、古ぼけたお守り。
「これは──ッ!!」
小蒔が持っているはずのこれを、どうしてこの男が──
認めたくない現実が、呼吸を奪う。
視界が暗転し、醍醐はもう少しでよろめいてしまうところだった。
佐久間、小蒔──酸素を求めて喘ぐ脳が、二人の顔を交互に照らし出す。
結びつけてはならない想像を、振り払うことが出来なかった。
醍醐は目の前に男がいることも忘れ、細胞のひとつまで蒼ざめさせて立ち尽くす。
とうに機能を停止した聴覚に、男の声が虚ろに響いた。
「真神(の体育館裏で佐久間さんが待ってるぜ。
ヘヘヘッ、早く行かねェと知らねェぜ、もう遅いかもなぁ」
「糞(ッ……佐久間……ッ」
下卑た笑いを浮かべる男を殴り飛ばしたいのを堪え、醍醐は走り出した。
佐久間と、宿命が待ち構えている場所へ。
自分の足の遅さを痛烈に嘆きつつも、なんとか真神学園に着いた醍醐は、体育館の裏へと急ぐ。
体育館裏などに灯りはなく、更に今夜は月も出ていない為に、辺りはほぼ真っ暗だった。
佐久間も小蒔も見当たらず、醍醐は不安に急かされるまま、
呼吸を整えることすら忘れて佐久間の名を呼んだ。
「佐久間、どこだッ、佐久間ッ!!」
しばらくして、闇の中からのそりと佐久間が姿を現す。
その気配は、すぐに判るほど以前とは異なっていたが、冷静さを欠いている醍醐には気付けなかった。
「待ってたぜ、醍醐」
「佐久間……桜井はどこだッ」
「けッ、格好つけんじゃねェよ。久しぶりに会ったんだ、ゆっくり話でもしようじゃねェか」
佐久間のふざけた言動になど、つき合う気はない。
だが、小蒔の姿が見えない段階で軽率な真似は出来なかった。
拳を握り締めはしたものの、それ以上動こうとはしない醍醐に、佐久間はうっすらと口の端を歪めた。
「ええ、醍醐? 俺はもう手前ェの手下じゃねェんだよ。
いつまでも一番だと思ってんじゃねェぞ」
「俺は、そんなことは──」
「うるせェッ!! 前から手前ェのその善人面が気に入らなかったんだよ。
そうやって俺を嘲笑(いやがってよ」
突然激発した佐久間は、感情の抑制が出来ていなかった。
以前からその傾向はあったが、今の佐久間は、明らかに精神のバランスを欠いていた。
「結局手前ェも他の連中と同じだったのさ。信じた俺が馬鹿だったぜ」
「佐久間、俺は──」
「俺が、手前ェの影でどんな思いをしていたか、手前ェは知りもしねェだろうよ。
俺はもう真神(にも部にも戻れねェ」
自分が追いこんでしまったのかも知れない──佐久間の自分勝手な言を聞いて、
小蒔を攫(った男に深い怒りを抱きつつ、なお醍醐はそんな風に考えていた。
それこそが彼を追い詰めていったのだとは、醍醐には決して解らなかっただろう。
自分は荒れ、そして立ち直った。
だから佐久間も、きっと立ち直ってくれる──それがある種の傲慢であることに、
心根は優しい好漢である醍醐は、絶対に気付けなかったのだ。
醍醐がもっと絶対的な立場から佐久間に接すれば、あるいは効を奏したかもしれない。
しかし醍醐は、佐久間を同格として扱おうとした。
それは卑屈な劣等感を持つ人間にとっては、逆に見下されているとしか感じられないとは、
劣等感を持たない人間には理解出来ないことだったのだ。
「そんな目で俺を見るなッ!!」
佐久間の眼に異様な光が宿る。
決して満たされない渇望の輝き。
決して追いつけない嫉妬の輝き。
それらをはじめとするいくつもの負の情念が、佐久間の濁った眼を危険な彩りに飾り立てていた。
「俺は『力』を手に入れたんだ……あいつら(から、手前ェを越える『力』を手に入れたんだよ」
醍醐から目を離さず、佐久間はじりじりと横に動く。
影になっていて見えない場所から佐久間が無造作に掴んだのは、一人の少女だった。
引きずり出されて力無く倒れた少女は、佐久間に再び髪を掴まれて無理やり起こされる。
それは紛れもなく、桜井小蒔だった。
しかし三十分ほど前に別れたばかりの面影はどこにもない。
生気に満ちた瞳は腫れた瞼(によって閉ざされ、
小さな身体にあり余るほどだった活力も今の彼女には微塵も感じられず、
手足は操り人形のようにだらりと垂れ下がっている。
そして制服は無惨に破れ、肌のほとんどが露になってしまっていた。
それだけでも怒りが沸騰するマグマとなって、
醍醐の身体を内側から灼き尽くさんばかりだというのに、
小柄な少女の華奢な全身にはむごたらしい痣が何ヶ所も出来ていた。
「佐久間……貴様、桜井に……」
握り締めていたままのお守りが、手の内で潰れる。
肝心な時に彼女を護ってくれない神など、必要無かった。
「醍醐、手前ェ、この女(に惚れてんだってなぁ」
人として最低の部類に属する下卑た笑いを浮かべた佐久間は、
ナイフを取り出し、小蒔の頬に当てる。
一瞬醍醐の心が恐怖に冷えたが、佐久間はそこまではするつもりではないようだった。
しかし、次に彼が行ったことは、あるいは醍醐の想像よりも酷(いものだった。
「この女、俺のことを叩きやがってよ」
佐久間は手にしたナイフで制服を縦に切り裂いた。
小蒔の肌にこそ傷はつかなかったものの、上半身は下着のみになってしまう。
更に佐久間はその下着にまでナイフを走らせ、自らの欲望のままに女を裸にした。
小蒔はよほど酷く暴行を受けたのか、いつもの気丈さは無く、
全く佐久間のなすがままにされてしまっている。
もしかしたら気を失ってしまっているのかも知れなかった。
「へへへ、気分がいいなァ、醍醐よォ」
勝ち誇った佐久間は小蒔の胸を掴む。
佐久間の好みはこんなものではなく、もっと肉感的な乳房であったのだが、
男の目の前で惚れた女を嬲(るというどす黒い快感は、
性的な欲望すら上回るものだった。
満たされつつある欲望に打ち震えながら、佐久間は手にしたナイフを醍醐に投じた。
暗闇の中、佐久間の投げたナイフは正確に醍醐の腕に刺さる。
人を刺し、傷つける為にのみ作られた凶々しい刃は深々と肉を抉り、
たちまち多量の血が噴き出したが、醍醐は全く痛みを感じていなかった。
ただ目の前の小蒔と、小蒔をこんな目に遭わせた佐久間への怒り、
そして自分自身の不甲斐なさへの憤怒だけが今の醍醐を支配していた。
「まずは手前ェを殺って、それから蓬莱寺と緋勇だ。美里は俺のモンだ……誰にも渡しゃしねぇ」
瞳を狂気に染め上げた佐久間は、小蒔を突き飛ばした。
顔から倒れた小蒔は、そのまま微動だにしない。
無惨に伏した少女の姿が、醍醐の網膜から消えた。
自身の狂気によって陶酔している佐久間は、醍醐の変調にも気付かずまくしたてる。
「ヘッ、手前ェをブッ倒して、この女(を目の前で犯ってやるぜ!」
「佐久間……貴様ァァッッ!!」
心臓が、爆ぜる。
その鼓動は、巨大な醍醐の身体でさえ動かすに余りあった。
まるで、より大きな生命を動かすかのように。
抑えきれないほどの氣を、抑えようともせずに解き放つ。
全身に張り巡らされた血管、その全てが異様なまでに脈動し、指先のひとつひとつにまで熱が篭った。
右腕の血の流れを塞いでいた金属の塊を、身体組織が弾き飛ばす。
筋肉の力で無理やりナイフを抜いた為に、開いた傷口から血が一気に溢れだしたが、
それすらも醍醐は感じていなかった。
ただ高まる熱、そして狂おしい欲求に心を灼かれ、バランスを崩してよろめく。
方向を持たずに暴れまわった圧倒的なエネルギーが、醍醐の意思を無視して噴出したのだ。
「なッ……なんだ、手前ェ……こけおどしなんかしやがって」
ほとんど手元に返ってくるような勢いで抜かれたナイフに、
ようやく醍醐の異変に気付いた佐久間は、体勢の不利に気付いて急いで立ちあがろうとする。
その瞬間、佐久間の身体は不様に数歩ほど吹き飛ばされた。
「ひッ……な、なんだッ!?」
恐慌に駆られた佐久間は醍醐を見る。
醍醐は一歩も動いておらず、何が起こったのか佐久間には全く理解出来なかった。
醍醐は、己の氣の力だけで佐久間を弾き飛ばしたのだ。
春に得た『力』の使い方を、醍醐は完璧には程遠いながらも身に着けていた。
体内で氣を練り、拳や脚の延長線上に乗せるようにして放つ。
それでも思い通りに練った氣を操ることは難しく、龍麻のようには使うことが出来なかったのだが、
醍醐は今、指向性すら持たない氣で佐久間を打ち倒していた。
あまりにも膨大な氣が、膨らむ風船のように触れる者を押し退けたのだ。
尻餅をついた佐久間は、人質を取っていたという圧倒的有利も忘れて逃げようとした。
しかし、彼の中の本能が、もはや彼を助けることはなかった。
なまじ小蒔を襲い、欲望をわずかでも刺激してしまっていた為に、
鋭敏さを増していた本能は、死の恐怖に触れたことでかえって足枷となって佐久間の動きを封じたのだ。
「ちッ、近寄るなッ!! なぁ醍醐、ちょっとふざけただけじゃねェか、な?
ほら、この女も返してやるよ。まだ何にもしてねェんだからよ、水に流そうじゃねェか」
この期に及んで佐久間は惨めたらしく許しを乞うたが、もはや醍醐の耳にその声は届いていなかった。
頭の中から閃いた白光は、その更に奥、醍醐の深奥に向かって収束していく。
身体中に満ち溢れていた氣が、基底(から頭頂(のチャクラへと抜ける。
小さな袋に入っていくように点となったその光が、一気に反転した。
「な、なんだこいつ……化け物……?」
醍醐の身体は、今や乳白色に輝いていた。
信仰心など欠片ほども持たない佐久間でさえ、それが神聖なものだと理解出来る、
眩(いまでの光は、まるで醍醐の内側から生じているようであった。
自分は罰せられるのではないか、という原初的な畏(れに慄(く佐久間の頭に、声が響き渡る。
「変生せよ……」
恐怖に打ちのめされている佐久間の思考は、それを拒むだけの力を既に失っていた。
「堕ちるが良い、佐久間よ……変生せよ……」
逃れたい一心で、佐久間はその囁きに身を捧げる。
それが、佐久間の最期だった。
「がッ……ががぎぎぎいぃいいッッ!!」
穢されていく。
どれほど小蒔に非道な行いをしていても、佐久間は人間であった。
しかし、今佐久間があげている叫びは、人の発することの出来るものではなかった。
佐久間の身体がくすんだ輝きを発し始める。
それは奇しくも醍醐のそれと良く似たものであったが、佐久間から放たれる光は、
彼にふさわしい濁った灰色であった。
宿主を食らおうとするかのように、光は佐久間を包み込んでいく。
その光が闇に溶け、消え去った時、もう佐久間はどこにもいなかった。
一匹の醜い怪物。
かつて水岐涼という男がされたように、佐久間もまた、
鬼道衆の手によって怪物へと変生させられてしまったのだ。
疣(で埋め尽くされた皮膚、大きく裂けた口から垂れる舌、
幾重にも重なる脂肪がたるむ腹にはもう一つの口。
佐久間自身の歪んだ氣が鬼道衆の手によって増幅された結果生まれたのは、
欲望だけをその身に宿した異形だった。
「おご……ううぐぃ……ごる……」
生まれたばかりの怪物は、自分の置かれた状況を理解出来ないようだったが、
やがて目の前に立っているもの(に気付く。
思考とすら呼べない鈍い考えが、それは敵だと教えた。
一度は警戒の素振りを見せた怪物は、敵がこちらに関心を払っていないようだと判断すると、
短い足をよたよたと動かして襲いかかった。
怪物が近づいてくるのも眼中になく、醍醐は最後の理性をも奪おうとする、
迸(る氣に必死で抗っていたが、空から落ちてきた一滴の雨粒が彼の頬を濡らした。
刹那。
怪物が敵だと判断したもの、醍醐の形はかろうじて留めているが別の存在へと成り果てたものは、
その巨躯から想像も出来ない疾さで動いた。
怪物が認識すら出来ない間に、懐に潜りこんで全体重を乗せた蹴りを見舞う。
「ぐぇぇ……っ」
汚らしい悲鳴を残し、怪物が吹き飛んだ。
バランスの悪い身体は倒れてしまうと起き上がることが難しいらしく、じたばたともがく。
一撃でほとんど決着は着いたようなものだったが、
醍醐は五メートルほども吹き飛ばした怪物のところまで一気に跳躍し、膝を叩きこんだ。
「おごぉおぉっっ!」
胃液を吐き散らした怪物は白目を向いて悶絶する。
醍醐であった獣はなおも攻撃の手を休めず、手刀を怪物の腹に突き立てた。
穿(った孔をねじり、拡げ、新たな孔を穿つ。
怪物の身体はたちまち孔だらけになり、血に塗れていった。
「がぁぁっ」
致命傷を受け、怪物の悲鳴は既に弱々しいものだった。
放っておいても何分もしない内に息絶えただろう。
しかし、醍醐であったものはそれすら許さず、一際振り上げた手刀を、
心臓が在る位置へと正確に貫き通した。
敵の生命が、手の中で消えていく。
それは、果てしないほどの快感だった。
放っておいてもすぐに散ってしまう灯火を、握りつぶす。
生命を思うがままに陵辱した獣は、その快感の咆哮を闇に轟かせた。
雨は、激しさを増していた。
身体を芯から冷やすような冷たい滴は、ぼろぼろにされたスカートを纏(っているに過ぎない小蒔にも、
人でありながら獣と化した醍醐にも、既に佐久間とも呼べない、醜い怪物の屍にも平等に降り注いでいた。
醍醐の咆哮によって意識を戻した小蒔は、二匹の獣の闘いの一部始終を見ていたが、
ひどく殴られたせいで、それは夢なのではないかと疑っていた。
あるいは、それは疑いではなく、願いだったのかも知れない。
しかし暴行を受けた傷に当たる雨粒は痛く、
醍醐の前に横たわっている怪物も残念ながら夢ではないようだった。
佐久間を、もうとうに佐久間とは呼べなくなっていたが、
佐久間であったものを己が手にかけた醍醐は、その業の重さに、ただ慄(えていた。
他に小蒔を護る手段はなく、佐久間が化け物に変生していたとしても、
仲間を、少なくとも自分は仲間と見ていた人間を殺した事実は変わらなかった。
「醍醐……クン……」
全身で哭(いている醍醐の許に、小蒔は自らの痛みも忘れて近寄ろうとする。
「寄るなッ!!」
およそ醍醐らしくない、鞭のような声に、小蒔は打たれたように立ち止まった。
それでも、痛む身体を懸命に操って、前に進もうとする。
しかし、足はどうしても動かなかった。
降りしきる雨は、醍醐の身体を朧(なものに変えていく。
立ちあがった醍醐は、制服のボタンを、外すのではなく引き千切り、
脱いだ上着を彼女に放ってやった。
受け取った小蒔が礼も言わず、ただ震えていると、
醍醐は魂を失くしてしまったかのような、虚(ろな足取りで去っていく。
「醍醐クン……待ってよ、どこ行くのッ!!」
小蒔は彼の後を追おうとしたが、広い醍醐の背中は、全てを拒絶していた。
制服を羽織るのも忘れ、小蒔は暗い夜の中立ち尽くす。
雨は、止む気配を見せなかった。
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