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金色の豊かな髪は男を覆い尽くし、離れなかった。
優美な曲線が幾度かうねるたび、少しずつ身体が密着していく。
遂に男と全きひとつになった女は、男の首筋に紅を這わせた。
にじり寄る恍惚に、男が震える。
やがてその震えは女の身体を揺るがすまでになり、豊満な乳房や尻の肉を官能的に揺らした。
女は全身で男を抑えつける。
「う……ぁ……ッ」
漏れる嗚咽。
苦悶と恍惚が半々に溶けたそれは、愛の唄にしてはやや異質なものだった。
なぜならそれは、女ではなく男が発していたからだ。
組み敷かれた女に、男が喜悦を口ずさむ。
そういった愛の形がないわけではない。
男女の数だけ愛はあり、それに口を差し挟む者は、古今東西において野暮と嘲笑される。
だからこの、まだ成年には達していないであろう男と、彼と一回りほどは歳が違いそうな女の睦事にも、
他者がとやかく言う権利などはないのかもしれない。
しかし、異質だった。
二人の交わりは、ベッドや恍惚とした表情や嬌声が揃っていても、
やはり隠しきれない異質さを根源的に抱えていた。
それが愛を交歓する崇高な絡みあいではないと、もしもこの一切の光が射しこまない部屋の
光景を目にし、運良く生き残ることができた者がいたとしたら、きっとそう語ったに違いない。
それは、生の営み――強き者が、弱き者を喰らっているようだった、と。
男の首筋から女が顔を離す。
紅く濡れた唇。
そしてその端には、少し異なる色の紅が付いていた。
口紅よりも鮮やかな色の紅は、女の細い顎を伝う。
拭い取ることもせず、秀麗な眉目に赫い筋を残したままの女の顔は、
情事を終えた後とは思えないほど凄惨なものだった。
タイトスカートの裾が捲れて太腿が露になってしまうのも構わず、
大胆に足を広げ跨っている女は、蒼氷色の瞳に憎しみすら宿して男を睨みつけた。
「ようやく……手にいれたわ。『黄龍の器』」
薄暗い部屋に、突如として光が投げかけられる。
やや遅れて乾いた轟音が、季節はずれの雷を告げた。
白と黒とに塗りかえられた部屋に浮かびあがったのは、獣にも似た鋭い牙と金色の光……ふたつの人ならざる者だった。
考えてみれば、最初からおかしかった。
転校の手続きをするために、まだ春休み中の学校に行き、書類を提出したのはよい。
しかしその後、担任に決まったという金髪の教師、マリア・アルカードと名乗った女性の、
渡さなくてはいけない書類を持ってくるのを忘れてしまったから家に一緒に来て欲しい、
学校から家は大して離れておらず、手間は取らせないから、という話はどう考えても怪しかった。
だが初対面の、しかも担任となる予定の教師が悪意を持ち、罠を仕掛けているなどと疑うのは、
精神を病んだ人間でもなければできない芸当だろう。
だから訝りつつもマリアの家に向かった龍麻の行動を、軽率だったと責めるのは酷なのかもしれない。
実際、途中までは何事もなかったのだ。
今まで嗅いだこともない豊潤な香りの紅茶を飲みながら、学園についての心得を聞いていたあたりまでは、
場所が教師の家であることを除けば、ごく普通の教師と生徒の会話だったのだ。
マリアの話しぶりはまだ授業を聴いたことのない龍麻にも、
安定した人格と知性を信じさせる穏やかなもので、その圧倒的な美貌にもほだされ、
龍麻はごく自然にこの年上の女性に憧憬めいた信頼を抱きつつあった。
それが一変したのは、二杯目の紅茶に口をつけた頃だ。
急に意識が遠くなり、周りが霞む。
紅茶に何かが混ぜられていたのだ、と考える暇さえ与えられず、
龍麻はテーブルに伏し、強制的にもたらされた眠りに落ちていった。
昏倒した龍麻が次に意識を取り戻したのはベッドの上だった。
首筋に鋭い痛みを覚え、瞼を開ける。
視線上には見知らぬ天井があり、そして身体の上には今日知ったばかりの女性がのしかかっていた。
状況を全く把握できない龍麻は、おそらくそれを説明できるであろう人物に答えを求めた。
「マリア……先生……?」
信じられない、といった声で囁く、怯えをはっきりと浮かべている龍麻を見下ろすマリアの瞳は、
教師のものではなかった。
女のものでも、人のものですらない、闇に住まう者の眼。
永久(の怒りと哀しみを封じこめた氷を宿した瞳で、
マリアは男でも、教え子でもない存在を見下ろしていた。
彼女の唇は、二種類の紅に塗れている。
ひとつは、口紅の紅。
そしてもうひとつは、血の紅。
二つの紅に濡れた唇を、マリアはゆっくりと動かした。
「あなたは『黄龍の器』と呼ばれる存在なのよ。
そしてその血はわたし達闇に生きる者にとっても、この上なく貴重なの」
龍麻の顔から、その横にある自分が穿った二つの孔へと視線を移したマリアは、
いたわるように龍麻の前髪を分けた。
理解と怯え。
二つの黒瞳に浮かんだ、二つの彼の運命(に、マリアは小さく頷いた。
「あなた自身に恨みがあるわけでは……いえ、違うわね。
あなたも人間……私にとって滅ぼすべき存在」
瞳に浮かべた憐憫(を消したマリアは、再び男の身体に跨る。
程よく鍛えられた筋肉質の肉体は、女性の関心を充分に惹くものであったが、
マリアはそんなものに興味を抱かない。
彼女が欲したのは彼の身体の内側にある血と、そこに含まれる氣と呼ばれる、
生ける者全てに存在する生命のエネルギーだった。
「せ、んせ……ッ」
龍麻は名ではなく、二人を繋ぐ唯一の関係で助けを求める。
それが気に入らず、マリアはさっきよりも深く首筋に牙を突きたてた。
穿たれた二つの穴から、一条の血が滴る。
細く、静かに肌を伝う赤い液体は、しかしベッドを汚すことはなく、
それよりも赤い舌によって掬いとられた。
「あぁ……う、うぁ……」
淫靡に肌を這う生紅い器官に、龍麻が悲鳴を漏らす。
闇に生きる存在にとって快い糧となる悲鳴に、マリアは龍麻の体内へと埋めた己を、より深くへと沈めた。
当てられた下の歯が皮膚に跡を残し、血の色と同じ口紅が妖艶な徴を刻んだ。
既に自由を奪われている龍麻だが、身体の内側へと入ってくる牙によって身体が跳ねる。
「う……あっ……」
悲鳴に混じる、恍惚。
吸血鬼に血を吸われる代償として得る、ささやかな快楽を贄が感じていることを確かめたマリアは、
更に吸血を続けた。
温かく、ぬらりとした触感を持つ血は、すでにそれ自体が極上の糧だ。
そしてマリアが今啜っている血は、その中に黄龍の氣という、
並の人間とは比べ物にならない性質を内包している。
血が一滴流れこむたびに、身体に活力が湧いてくるのをマリアは感じていた。
燃えあがるような、性的な興奮にも近い感覚。
この幾百年感じていなかった情動をマリアは抱き、欲求の赴くままに血を啜った。
鮮血は汲めど尽きぬ泉のようにあふれ、牙を濡らす。
吸うほどに燃えあがる身体の昂ぶりに、身を任せかけていたマリアは、か細い声で我に返った。
「俺の血を……黄龍の力とやらを手に入れてどうするんですか」
血と氣を吸われ、更に精までも搾られた龍麻は、息も絶え絶えだった。
それでも声にはわずかになじるような気配が込められており、それがマリアの心弦に触れる。
絶対的な力を手に入れたはずの彼女は、首を傾けるのさえ精一杯の龍麻の首を掴み、捻った。
「どうするか、ですって!? 決まっているでしょう、私の両親を、同胞を……
全てを奪った人間達に復讐をするのよ」
龍麻の瞳から力が失われ始め、慌ててマリアは手を離す。
ようやく手中にした器を、つまらない激情などでいきなり壊してしまう訳にはいかなかった。
最後の刻――マリアの野望が成就するその瞬間ならともかく、
龍麻にはそれまで文字通りの糧となってもらわなければならないのだ。
龍麻の呼吸が浅く、激しく、定まらないものになる。
マリアの背筋を冷たい汗が流れたが、どうやら黄龍の器は回復力も人とはかけ離れているらしく、
すぐに通常の呼吸に戻った。
胸を撫でおろしたマリアは、今日はこれ以上龍麻を刺激しないことにして、
彼を休ませるために部屋を出ようとした。
その背中に、低い位置からの声が投げかけられる。
「俺は……どうなるんですか」
かすれてはいても落ちついた龍麻の声に、一瞬の沈黙を置いて、マリアは包み隠さず予定を告げた。
「この東京(に集まっている氣はほぼ一年後……来年の初めにピークを迎えるわ。
その時あなたは、新たな世界の贄となる」
「……そうですか」
龍麻があまり恐慌に陥った様子を見せないのが、マリアには意外だった。
泣き叫ばれてもうっとうしかったが、こうも冷静に死を受け入れるとは思っていなかったのだ。
まだ十八歳──人間の年齢ならば、未来に希望しかないはずの彼が、
老人よりも諦観を抱いている理由をマリアは知りたく思った。
ただ、それも一時のことで、表情を消したマリアは再び龍麻に近づき、
餌となった男の顎をそっと撫でて告げた。
「それまではあなたを殺しはしない。
殺してしまうと面倒になるし、あなたの氣には価値がある。
残り少ない人生、悔いを残さないようになさい」
完全な傀儡にしてしまうことも、マリアにならもちろん可能だ。
しかし龍麻の持つ豊潤な氣は、彼が人間であればこそ宿るもので、
それにはこうして自由を奪い、
生命力を絶やさぬようにしながら日々生成される氣を吸うのが最も効率が良いのだった。
龍麻はこれから、ただマリアに氣を供給するだけの存在になる。
それをマリアは憐れむ気はない。
人間達が彼女と彼女の眷属にしたことを思えば、彼(に同情する理由など一片もなかった。
深く長い、ため息にも似た呼気を吐いた龍麻が再び訊ねる。
「でも、学校があります。俺が行かなくなったら、怪しむ人間も出てくるでしょう」
「私が真神に教師として入ったのは、あなたを手に入れる為よ。
それが達成された今、教師を続ける理由もない。明日から行かなくたって構わないのよ」
龍麻の理屈を一蹴したマリアだったが、彼の言に一理があることを認めてもいた。
できることならば大地に流れる大いなる万物の力、龍脈が最も活性化し、
氣がこの地に満ちる一年後までは騒ぎにしたくはない。
龍麻は東京に一人暮しをするということであり、その点はマリアにとって都合が良いが、
彼が真神に転校するという事実は既に書類として完成しており、
長い間姿を見せなければいつか怪しまれることだろう。
「学校へは私の家から通いなさい」
太陽の光のような、鮮やかな金髪を物憂げに揺らして、しばし考えた末にマリアは言った。
彼を手放すことは──血の供給源として──絶対にできない。
そして彼を監視するためにも、常に手許に置いておくのが最善の選択であると、
現代に生きる吸血鬼は判断したのだ。
「でも私のことを誰かに喋ったらその人間を殺す。助けを求めてももちろん殺す。
そしてあなたのことが何らかの形で発覚したら、すぐに私は目的を実行に移すわ」
それは決して、単なる脅しではなかった。
龍麻を学校に通わせるのも、便宜上のことであり、最も極端に言えば、
龍麻が死にさえしなければ、手足の腱を切り、自由を奪って飼うという形でも良いのだ。
マリアが彼に人生最後の一年間を過ごさせるのは、決して慈悲からなどではない。
ただ単に、彼女が待つべき期間がそれだけの長さであるというだけのことだった。
「……わかりました」
龍麻の返事はやはり簡潔な、諦めの粒子を濃くまとったものだった。
彼が絶望にも似た諦観を宿している理由をマリアは知りたく思ったが、
今日のところは訊かないでおこうと考え直し、頭を振って寝室を出た。
全ては今から始まるのだ。
人間達に奪われたものはもう返ってはこない。
しかし、あらゆる生命に等しく与えられたこの大地を我が物顔に支配してきた者達に、
自分達が味わわされた恐怖を返し、闇の眷属が生きる場所を取り戻すことはできる。
存在を知って幾百年、ようやく手に入れた『黄龍の器』を用いることで。
数世紀に渡る、絶望と恐怖の刻を閲(してきた闇の住人は、
さほど長くはない後に訪れる至福の刻を思い、くすんだ金色の髪をゆらめかせた。
薄暗い部屋を、彼女の足下から伸びる闇が覆う。
それはやがて、世界を覆い尽くす闇だった。
マリアが出ていった後も、龍麻は起きあがらなかった。
マリアが吸った血は相当な量らしく、身体がひどくだるかった。
どの道、彼女の剣幕からすると逃げ出すのは得策でないだろう。
龍麻は瞼を閉じ、担任であり、吸血鬼であったマリアとの会話を反芻した。
この身体は『黄龍の器』という特殊な資質を持っており、
万物の生命の源である『氣』と呼ばれるエネルギーを操ることができる。
氣は植物や蚤(のような極小の動物、果ては地球自体にも宿っており、
特に地球の氣のことは『龍脈』と呼ばれる。
黄龍の器はこの龍脈をも制御する能力を秘めており、この莫大なエネルギーを手中に収めるのは、
世界を支配するのと同義なのだという。
マリアの目的は世界の支配ではないようではあるが──そこまで考えて龍麻は、
今は部屋から出ていった人ならざるものの鮮やかな姿を思い浮かべた。
日出のごく一瞬だけ世界を照らす陽光のような金色の髪、
獣さえ立ち入らぬ峻厳な山に降る雪よりも白い肌。
そして何よりも印象的な、瞬間ごとに異なる色彩を見せる蒼の瞳。
決して溶けることのないであろう蒼氷の瞳に、彼女の意思を龍麻は見た。
永き刻を経て凝縮された膨大な感情。
自分ひとりに向けられた、人類全てに対する憎悪は、理屈で覆せるものではなかった。
伏したまま目を閉じた龍麻は、長く、深い息を吐いた。
誰にも聞かれることのない呼気は、虚無の闇へと沈降していった。
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