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一九九九年一月一日、午前一時。
マリア・アルカードと緋勇龍麻は、新宿区にあるマリアの住居に戻ってきた。
上野寛永寺から帰ってくる途中、一言も話さなかった二人の顔には、
落胆と消沈、高揚と興奮が混ざりきらないままに浮かんでいる。
妙齢の外国人美女と若輩の日本人青年がしっかりと手を握りあわせて歩く姿は、
新年のムードに包まれた通行人の好奇をそそらずにおかなかったが、
二人の表情に隠された意味を知る者は、一人としていなかった。
「まさか、ここに戻ってくるとは思わなかったわ」
鍵を取りだしながらマリアが言った。
数時間前に出発するときは、どのような未来を迎えるとしても、
ここには戻ってくることはないと思っていたのだ。
それが蓋を開けてみれば何年も、何十年もかけて練った計画は水泡と帰し、
おめおめと帰ってきている。
左手にある力強い感触がなければ、絶対にこの扉を開けることはなかっただろう。
「……」
龍麻は無言だった。
もともと饒舌ではないが、日付が変わる前後から、
石像が歩いているかのように無口と無表情を貫いている。
だが、内心ではマリアに同感だった。
今ここにいるという最終的な結果には不満をもっていないものの、
そこに至るまで二転三転した己の考えを顧みると、
顔から火が出る程度ではとうてい足りないくらいだった。
二人はそれぞれの目的と願望を果たすことができなかった。
人間に復讐するという宿願も、他者を殺す前に自死したいという希望も
叶えられることはなかった。
生命を賭けて、死とひき替えにでも達成する、などと意気ごんでいたのに、
望みの欠片すら掴むことはできなかったのだ。
では二人が絶望、あるいは悲嘆に暮れていたのかというと、
それも正解とはいえなかった。
確かに双方ともに消沈はしていた。
たとえ願いが万人を納得させるようなものでなくても、
当人達はこの上なく真剣であったし、それが達成できなかったとあっては、
虚脱しないのが不思議なくらいだ。
だが、虚無の底へと落ちてしまうには、互いの手は温かく、あるいは柔らかすぎた。
哀しみに浸りたい心を挫く、いまいましい感触だと思いながらも、
それに支えてもらわなければ歩くこともできないと知っていた。
だから、二人は手を離さなかった――ずっと、ずっと。
灯りをつけぬまま、マリアは龍麻の手を引いて寝室へと入った。
かりそめとはいうもののそれなりに気に入ってもいた、
巨大なベッドがほとんどを占める部屋は、
リビングだのキッチンだのは最初から使う気がなく、
事実新たな同居人が現れるまでは全く使われることもなかったので、
実質的なマリアの拠点だった。
とはいえ、愛着を持つまでには至らなかったはずなのだが、
こうやって帰ってきてみると妙な感慨を覚えるマリアだ。
ここまで来て、彼の手を握ったままであることに気づいたマリアは、
手を離すより先にもろともにベッドに倒れこんだ。
「……!」
唐突な行動に龍麻が驚いているのが伝わってきて、含み笑いを漏らす。
そのまま服が乱れるのもいとわず、彼の身体を探し求め、
欲望のままに肢体を絡めた。
「マリア先生……!?」
揉みくちゃにされながら、龍麻は困惑を隠せなかった。
彼女と一緒に暮らしておよそ九ヶ月、激昂したのは何度か知っているが、
こんな風に激情を表に出したのは初めて見た。
髪の深くに指を入れられ、股の間に足を巻きつけられて息もできない。
そのままマリアは上になり、下になり、龍麻は選択権も与えられぬまま
彼女の狂奔につきあわされて、ベッドが巨大でなければ
二人とも転げおちていたに違いなかった。
最初の嵐がようやく過ぎたとき、どれくらいの時間が過ぎていたのか
龍麻には見当もつかない。
暗い部屋で時間を知るすべはなかったし、
心臓は時間などもはや意味がないとでもいうように、狂った速さで鳴りつづけていた。
「今さら抱くのが嫌だなんて言わせないわよ」
耳のすぐ下から声がする。
今、自分とマリアはどんな状態になっているのか、龍麻には把握できなかった。
暗い中でもみくちゃになったせいで、感覚が喪失している。
とにかく、変なところを触らないようにしなければと手を動かした拍子に、
ひどく柔らかな何かを掴んだ。
「ずいぶん積極的ね。……よほど溜まっていたのかしら?」
マリアの声と手の位置、それに掌が憶えた柔らかさから、
おおよそ何を触ってしまったか理解し、慌てて手を放す。
それが正しい行動だったのか測っていると、マリアが喉の奥で笑った。
「この数百年、復讐だけを支えにして生きてきて、今日……
全てを失くしてしまったわ。残ったのはアナタだけ」
逃れた手を彼女が追ってくる。
けれども追跡の速度は遅く、まるでさらに逃げるのを待っているようだった。
浅く呼吸をした龍麻は、手首にたどり着いた彼女の爪を、
確かな決意を秘めて握りしめた。
マリアの手は力比べを挑むかのように、強く応える。
しかし、発せられた声は、鼓動に邪魔されて聞こえないくらい弱々しかった。
「でもワタシには、まだわからない……アナタと共に生きるべきなのかどうか」
闇に、蒼が浮かびあがる。
永い刻を経て決して溶けることも砕けることもなくなった、深い蒼。
凍てついた蒼が放つ輝きは、今、光を浴びてとまどい、揺れていた。
「だから、アナタが本当にワタシを必要とするのなら、
ワタシに信じさせて……アナタが必要なのだと」
龍麻はやみくもにマリアに覆い被さった。
そうする以外に自分の意志を伝える方法がなかった。
彼女が掴んだ手をふりほどき、両方の手で彼女の身体を、折れるくらいに抱いた。
いつまでも、いつまでも。
たとえ無限の寿命を持つ彼女との間に刻の隔たりがあるとしても、
生命が尽きるまでは、この手を離さない。
闇の中に薄く輝く蒼い瞳に、龍麻は誓った。
実際には数分にも満たない、けれども当事者には無限であった時間が過ぎた。
先に身動きしたのはマリアの方だった。
龍麻の渾身の力は、並の人間を優に上回るマリアの膂力をもってしても
ふりほどくことは難しく、かろうじて手を動かせたにすぎない。
指先を龍麻の髪の中に入れ、マリアは頬を寄せた。
「せん……せい……」
機微を知らない男に、表情には出さず幻滅する。
だが、この、男というよりも少年には他に教えなければならないことが
たくさんあるはずで、今回は後回しにした方が良さそうだった。
その手始めとしてマリアは、彼の身体に触れながら、巧みに位置を変える。
おそらく龍麻には全く自覚のないまま、彼の下に潜りこむことに成功した。
セックスの際は男が主導権を握るべきだ、などとマリアは考えていないが、
するよりもされたいという気分の時はあるのだ。
上になってようやく支配欲に目覚めたのか、龍麻がくちづけを求める。
興奮し、焦っている彼の接吻はお世辞にも上手とはいえなかったが、
やはり形式というものは必要で、それは男と女である限り、
黄龍の器だろうと吸血鬼だろうと変わりなかった。
次に何をすればよいか戸惑っている龍麻に、キスを教えてやりながら、
マリアは含み笑いを漏らす。
「考えてみれば、ワタシが下になるのは初めてね」
この程度の揶揄でも龍麻は真摯に顔を赤らめた。
この人間が純朴を超えて禁欲的であるのは知っているが、
こうも期待通りの反応を示されると、吸血鬼としてではなく、
年上の女としてからかいたくなってしまうのだ。
動きを止めてしまった龍麻の、目を凝視しながらマリアは
ビスチェのファスナーを下ろす。
小さな金属の音に惹きつけられて眼球を動かしかけ、
見られていることを思いだして必死に誘惑にあらがう男に、
微笑を浮かべながら彼の腕を掴んだ。
「あ……ッ……!」
寝室に響いたのは、触られた方ではなく触った方の声だった。
触らせた方は声に出さず、純真な少年を悪戯っぽく眺めている。
東京という都市は世界でも有数の性に奔放な街だと聞いていたが、
ではどうやら、たかだか女の胸を触ったていどで、
世界の秘密を覗いたような驚きを示している雄は絶滅危惧種のようだ。
同じ絶滅危惧種どうし、似合いなのかもしれない。
マリアが小さく自嘲していると、乳房に置かれた龍麻の手が動いた。
さすがにここまでお膳立てされれば、というところだろうが、
それにしてもその触り方は赤ん坊が初めて母親の乳房に触れるよりももっと初々しく、
彼が全く未経験であるのだと如実に指し示していた。
感じるどころか笑ってしまいそうになり、
ごまかすためにマリアは、彼の頬に触れる。
若い肌には血が通い、紅潮していた。
にわかに湧いたもう一つの本能を、吸血鬼は抑制する。
今日この刻くらいは、首筋に牙を突きたてるのは控えるべきだろう。
時間はあるのだ――無限ではないにしても。
マリアの葛藤など知るよしもなく、龍麻は初めての女体に意識の全てを奪われていた。
片手で掴みきれないほどの乳房は、どうしてこんなにも柔らかいのか。
女性が皆そうなのか、それともマリアが人外の存在であるからなのか。
そこまで考えて龍麻は、己の頬を張り飛ばしたくなった。
マリアが人間であるかどうかなどは一切重要ではなく、
これから彼女と共に生きるにあたって、絶対に口にしてはならないことだ。
龍麻は改めて自己を戒めた。
「どうしたの? 真剣な顔をして。そんなにワタシの胸が気に入ったのかしら?」
マリアが夜目が利くということを忘れていた龍麻は慌てて手を離した。
「い、いえ、これは」
答えに詰まる龍麻を、蒼い瞳がじっと見つめる。
その輝きは初めて見たときの冷たさを有しているように思われ、
龍麻はうつむくほかなかった。
すると、いきなり抱きよせられる。
双つの乳房のちょうど真ん中に落ちた頭は、そのまま押さえつけられてしまった。
顔を包みこむ柔らかさに、全身が熱くなる。
「いいのよ……どこを触っても。胸でもそれ以外のところでも、好きなだけ」
耳に触れている肉果を通して聞こえてくる誘惑の調べに魅了されたかのように、
龍麻の手はひとりでに動きだした。
胸を、腹部を、大腿を、そして彼女の中心を。
それまでのためらいが嘘のように大胆に、荒々しいほどの仕草で、
マリアの肉体を隅々までまさぐった。
キスと同じく、龍麻の愛撫は女を悦ばせる作法にのっとっていたとは言いがたく、
時には痛いことすらあった。
それでも、マリアはすべてを受けいれた。
むしろ強い欲望こそが、この人間が本当に自分を求めているのだという証に思えた。
それは女が陥りがちな幻想なのかもしれないけれども、
この半年間ついに欲望をあらわにしなかった龍麻が、
軛を解かれたようにセックスをするのなら、それも面白いと思った。
幸い、龍麻の欲望が愛情と同一なのか、異なるのかを確かめる時間はたくさんある。
人間の一生程度の時間など、マリアにとっては午睡に等しいのだから。
マリアの、実は臆病さに起因する強がりなど知るよしもなく、
龍麻はマリアを求めた。
丘を登り、渓谷を下り、草原を走破し、一瞬ごとに変化する神秘の楽園を、
聖者のように歩き、盗賊のように荒らした。
そしてついに、マリアとひとつになる。
彼女自身に導かれて入っていった彼女の体内は、
龍麻のこれまでの自制を軽々と吹き飛ばす快感に満ちていた。
マリアが吸血鬼だろうと何だろうと、この気持ちよさをもたらすものを
手放したくないという原始的な欲求に肉体を衝き動かされ、
彼女を抱く意味すらも失念して本能に耽ってしまう。
だが、その報いなのか、幸福な時間は長くは続かなかった。
「……っ……!!」
ほとんど何もしていないうちに、唐突に破局が訪れる。
こらえることもできずに彼女の体内に放った龍麻は、その意味に気づき、呆然とする。
それが終着点だということくらいは、さすがに知っていた。
けれども想像していたのとは全く違う、初めてであっても上手くいかなかったのだと
自覚できる終わりは、それまでの狂熱を一気に醒まし、マリアの上で龍麻は狼狽した。
力を失って情けなく抜け落ちた自身と同様うなだれ、
これで彼女の愛を得ることは叶わなくなったとまで落胆した。
「女の前でそんな顔をするものではないわ」
「……でも」
慰めにも心癒されることはなく、水底に深く隠れてしまった龍に、
マリアは呆れ、かつ可笑しく思った。
人知を超えた、世界を支配することも可能な力を有するというのに、
たかが一度女を満足させられなかったくらいでこうまで落ちこむとは。
数百年もの間孤独に生きてきたマリアが他者を受け入れる心境になったのは、
むしろこの時だったかもしれない。
心の内側から外へ出ようとする圧力めいたものを、マリアは確かに感じていた。
それは久しく忘れていた感情で、扱い方に慣れないまま口を動かしてしまう。
「心配することはないわ……時間はあるのだから、これから学んでいけばいいことよ」
「は、はい」
失言を悟ったマリアは、慌てて語を継いだ。
「……言っておくけれど、ワタシも生きた年月ほどにこういったことを
経験しているわけではないのよ」
さらなる失言であるのは明らかだった。
これもやはり久しぶりの感情である狼狽を、どう取り繕ったものかマリアは思案する。
すると表情をくらませていた龍麻が、たいそう真剣な顔をして言った。
「俺……いつかマリア先生を満足させられるよう、頑張りますから」
「……そうね、期待しているわ」
誤解を、あるいはそうでないかもしれないが、
とにかく龍麻を納得させるのは後日とすることにして、
女吸血鬼は、人間の男との初めての同衾を終えたのだった。
暗闇の中で、マリアを抱きしめる。
こういったことの作法をまるで知らない龍麻は、彼女の顔を覗うように見た。
男の力は最初と同様、少し強すぎた――事後のあとでは、特に。
しかしマリアは逆らわず、おそらくは原始的な欲望で女を閉じこめようとする腕に、
全身をゆだねた。
潮のように満ちては引くぬるい感情は、ずいぶん永い間味わっていなかったものだが、
記憶にあるよりも悪いものではなかった。
彼の体温をあまり意識しないようにしながら、マリアはふと思いたったことを告げる。
「アナタが卒業したら、私の故郷に行かない?」
「故郷……ルーマニアですか?」
「ええ」
それは本当にただの思いつきで言っただけだ。
しかし口にすると案外悪い考えではない気がしてきて、
マリアはしばらくの間故郷の記憶をたどった。
この家に戻ってくると思わなかった以上に、帰ることなどないと思っていた土地。
記憶の中のそこは、マリアに何も良い感情をもたらさない。
けれどもたったひとつ、あの場所を選ぶ理由はあった。
「あそこには何もない……私とあなたが暮らしていくにはぴったりの場所よ。
あそこで、二人で……二人だけで、ずっと暮らしましょう」
龍麻は即答した。
考えるまでもなかった。
「マリア先生が望むなら、俺は何処へでも」
本当に嬉しそうにうなずくマリアを見て、龍麻も笑った。
この女性と一緒なら、地獄でさえ楽園になるだろう。
寒くても暑くても、辛くても厳しくても、一人ではないのだから。
照らしだされたささやかな未来に、龍麻が思いを馳せていると、
マリアが静かに告げた。
「ところで、一つお願いがあるの」
「なんですか?」
低く抑えた口調に、龍麻は緊張した。
「先生はもう、家の中ではつけないで」
龍麻は赤面し、そして愛する女性の要請に応じた。
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