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東京に降った突発的な雨は、天気予報に無視された恨みを晴らすかのように勢いを強めていた。
街にあふれかえる人々の話し声やその他の雑多な音も、いっとき雨音の独奏に舞台を明け渡している。
その、背景を灰色に塗りたくられた舞台の一角、新宿中央公園の中を、
黒い鞄を頭に乗せて走る二つの人影があった。
大小二つの人影は、木々に覆われた公園を小さい方が先に立って走っていたが、
やがて中にある六角形の屋根の下へと滑りこんだ。

「ふぃー、結構濡れちゃったね」
短い髪の先端にまとわりついている水滴を飛ばしながら、小蒔は恨めしげに空を見やり、
朝の天気は全然そんな風じゃなかったのに、と愚痴をこぼした。
隣にいる龍麻も、水を吸って重く、そして生温かくなった学生服の不快さに似たような顔をしていた。
二人とも、万が一のために傘を鞄に忍ばせておくなどといった性格ではない。
朝降っていなければ持っていかない。
降ったら降った時考える。
友人達にいつも言われ、お互いでも言い合うその大雑把さは、二人を惹かれさせた由縁でもあった。
ただ実際に降られてみれば、やはり持ってこなかったことに腹を立て、
びしょ濡れになってしまった不満をぶつける。
「傘くらい持っといてよ」
お互いの性格は大体掴んでいるはずなのに、小蒔はぽたぽたと水滴を垂らしながら口を尖らせた。
それに対して、龍麻は口を開きかけて止める。
苛立ちは同じくらい持っていたが、言い合えばすぐに引っ込みがつかなくなるお互いを知っていたから、
ここは分別を見せようと思ったのだ。
わずかに身を動かしただけで何も言わない龍麻を、小蒔はつまらなそうに一度だけ見た。
口喧嘩になるのがわかっていても、こうもつまらない雨音ばかり聞かされて、
龍麻の声が聞きたくなっていたのだ。
だから挑発的な口調をわざと作ってみたのだが、龍麻は乗ってこず、
もうしばらく退屈な時間を過ごさなければならないようだった。
それにしても、何か言ったっていいのに──
滴る雨がうっとうしいのか、長い前髪を後ろに撫でつけようとしている龍麻からそっぽを向くと、
小蒔は急に不快さがこみ上げてきた。
天気も、濡れた服も、隣にいるヤツも──
せめてひとつでも不快感を減らそうと小蒔は思い、その中からもっとも簡単に実行できるものを選んだ。

よほど気持ち悪いのか、小蒔は制服の胸元をつまみ、軽く仰いでいる。
その光景を、目だけを動かして見た龍麻は、抑えがたい気持ちが立ちこめるのを感じた。
それ自体に心動かされたわけではない──龍麻が今日の雨のように急に気まぐれを起こしたのは、
空気がかき混ぜられたことで漂ってきた彼女のシャンプーの香りと、
仰いだおかげでよけいに肌に張りついてしまった制服が、
淡いピンク色のブラを透けさせていたからだった。
雨音は弱まる気配もなく、まだしばらくはこの場に居なければならないようだ。
龍麻は辺りを見渡し、人の気配がないのを確かめると素早く行動に移った。
「なあ小蒔」
呼びかけに、小蒔は無言で顔を上げた。
まだ残る不機嫌さが、口を開けるのを億劫にさせたのだ。
しかし次に起こった出来事を、すぐには理解できなかった。
つまらない灰色だった視界に、何かが飛びこんでくる。
それが龍麻の顔だと判ったのは、お互いがまとう湿気が首筋を撫でてからだった。
「……!」
キス、されてる──
別に龍麻とキスをするのは初めてではないのに、
肌に触れる龍麻の感触は、小蒔の頭を真っ白にしていた。
跳ねのけることも、しがみつくこともせず、小蒔は雨音と、キスの温もりだけを意識していた。

小蒔の唇は冷たく、硬かった。
それを暖めるように、龍麻はただ唇を押し当てていた。
小蒔は驚いているのか、棒立ちになったままだ。
後の反動を考えると、これはまずいかもしれない──が、やめるつもりはさらさらなかった。
少しずつ戻ってくる、いつもの唇の感触が待ち遠しい。
しかもそれが自分が与えたのだとくれば、喜びは格別だった。
両肩に手を置き、腰をかがめ、龍麻は彫像と化したように動かない。
動いてしまえば、せっかく止まった時が再び針を進めはじめてしまうと怖れるかのように。
それでも、好きな女(ひと)とこうしていると、身体の裡から満ちる想いが勝手に抱き締めようとしてしまう。
鼓動を乱す情動を抑えようとして失敗した龍麻はわずかに身じろぎし──時を動かしてしまった。

下唇にかすかな空気の流れを感じ、小蒔は我に返った。
肌を撫でる水滴も、直前まで走っていたせいで蒸発してうっとうしくまとわりついている水分も、
そうされている間は気にもならなかったのに、顔のほんの一部に吐息を感じたとたん、
それらが一度に襲いかかってきて、まばたきしてピントを合わせた小蒔は、
思わず龍麻を突き飛ばしていた。
さっそく顔に抗議を浮かべる龍麻に向かって、
喋れば、温もりが逃げちゃう──寸前、そんなことを思いながら、とりあえず怒った。
「何すんのさ急にッ」
「もよおした」
「……」
目の前の男の馬鹿さ加減については良く解っているつもりだった小蒔も、
真顔でそう告げられては絶句するしかなかった。
一度深呼吸をして態勢を整え、反撃の台詞を撃ち出そうとする。
「あのさ、もよおすのは勝手だけどさ、ボクを巻きこむのは止め……っ」
今度は、抱きすくめられた。
濡れた衣服が押しつけられて不快さが走る。
けれどそれよりも感じたのは、龍麻の腕の中にいる気持ち良さだった。
「離してよッ」
それでも言いなりになってしまうのはなんとなく嫌で、暴れてみせる。
「小蒔」
「なんだよ」
身体にまとわりついた水分も暴れることで不快さを強めていたが、
その不快さも蒸発してしまうような小さな声が、
強い雨音には何故かかき消されずにはっきりと頭の中に響いてきた。
「愛してる」
「……!!」
嘘だ、少なくとも今は適当に言ってるだけだ、
もよおしたなんて言った直後にそんなコト言われたって信じられるワケがない。
小蒔は龍麻の、どこからか伝わってくる心臓の音を遠くに聞きながら、
そういう大事なコトを平気で軽々しく使う龍麻の口を引っぱたこうとした。
しかし、頭ではわかっていても、心が言うことを聞かなくなってしまう。
聞こえる鼓動は早く、激しさを増していたが、それが龍麻のものなのか、
それとも自分のものか、小蒔は判らなくなっていた。
また、キスしようとしてる。
幾つも駆け巡っている色々なものを押しのけて、龍麻がそうしようとしていると警告が頭に響いた。
その警告を、小蒔は一旦説き伏せる。
けど、ちょっとでも笑ったら足思いっきり踏んずけてやるからッ。
龍麻の唇が触れるまでの間、小蒔は目を開けてそう心に決めていた。
顔が近づいてくる。
今までキスをする時、こんなに意識して龍麻の顔を見ていたことはもちろんない。
だから頭が傾(かし)ぎ、最後まで強い黒であることを止めなかった瞳が瞼に覆われるまで
まばたきもせずに観察していた小蒔は、唇が触れるまでキスをするのだということを忘れてしまっていた。
訪れる、心臓を上から叩かれたような衝撃。
きっとそれは、初めてのキスよりも強かった。
足は、動かなかった。
まだ悲鳴をあげている心臓から広がる淡い波のようなものが、
指先にまで伝わっていくのを、頭のどこかがはっきりと捉えている。
その一方では、龍麻の唇がほんとうに少しずつ触れる場所を変えているのを、
別の場所からカメラで見ているかのように感じ取っていた。
あったかい──
弱いキスをゆっくりと、何度も繰り返す龍麻に、小蒔は少しだけ体重を預けた。

何故こんな時にあんなことを言ってしまったのか、自分でも解らなかった。
友達の延長線上として始まった付き合いだから、
そんな台詞などもう言う機会も必要もないと思っていたのだ。
女は、言われないとわからない──何かの本にそう書いてあったのを覚えてはいたが、
風呂に顔を半分沈めながらでもないと、素面では到底言えるものではなかった。
身体が冷えたから、雨がうるさいから、ピンクのブラなんてしているから。
暖まった分結びつきを強めた唇を、柔らかくついばみながら龍麻は理由を並べ立てる。
しかしどれも自分を納得させるだけの説得力は持っておらず、結局、
初めに浮かんだ最も認めたくない理由に落ちつくしかなさそうだった。
そりゃ、そうだけど──
渋々その意見を受け入れた龍麻は、さっきの台詞が、
せめて彼女に聞こえていないようにと願うしかなかった。

最初のキスと違ったのは、終えた後も龍麻が離れようとしなかったことだった。
腰に回された腕を剥がす気にまではなれず、小蒔は近くから龍麻を見上げる。
龍麻は笑っていたが、もう咎める気にはなれなかった。
アレはキスをするまでのことだから、と自分で作ったルールを自分で変えて、
小蒔は額が見えている、多分友達もまだ見たことのない龍麻の顔を見つめていた。
「こんなトコで……学校の子とか通ったらどうすんのさ」
「通んねぇって」
自信たっぷりに言い切る龍麻に、思わず納得させられてしまう。
全部を押しつけてもまだ残りがある龍麻の大きな身体は、たとえ濡れていたとしても心地が良く、
それも今一つ小蒔が強気に出られない理由のうちだった。
いっそしがみついちゃったら楽かもね、とちょっぴり考えていると、
指先が顎を辿り、いつのまにか顔が近づいていた。
「も、もういいでしょ」
「最後」
強引な三度目のキスは、体温以上の熱を帯びていた。
二回我慢したんだから、というように積極的に舌が伸び、閉じた唇の合わせ目をなぞってくる。
「んっ……」
一瞬だけ迷う素振りをみせて、小蒔は唇を閉じ合わせていた力を、
濡れて重くなっている夏服を掴む両手に移した。
掌に、服が吸っていた水分が滲む。
夏と秋の境い目の生ぬるい雨は、口の中に潜りこんでくる舌と同じ温かさだった。
「あ……」
濡れた服。
奇妙な感触の肌。
頭をぼぅっとさせる水蒸気。
それから、ぬらぬらと動く舌。
全然違うのに、全部同じ、ひとつのものに感じられる。
身をかがめる龍麻の、わき腹から背中を通って頭を掴んだ小蒔は、濡れている多めの髪を握った。
濡れた髪はあまり気持ちの良いものではないけれど、そうしているのが小蒔は好きだった。
龍麻は舌の動きを若干緩めた替わりに、背中を抱いた手をもぞもぞと動かしてくる。
無秩序に思えた動きは、背中を横に、そこにある隆起をなぞっていた。
ブラ、触ってる──
普段ならもちろん思いっきり、京一にするよりも力一杯平手打ちするところだけど、
今は許してやることにした小蒔は、その代わり龍麻にしがみついた。
下着を触っていることを知られ、慌てふためいた龍麻は、顔を離そうとする。
今更遅いって──
頬の内側で笑った小蒔は、両腕で龍麻の頭を抑え、龍麻が観念するまで唇を押し付けた。

雨は、上がっていた。
いつからだろう──そんなことにも気付かないほど、夢中になっていたなんて。
甘く痺れる口の中をもごもごとさせながら、小蒔は晴れ間が射し始めた空を、目を細めて見上げた。
その手前には、いつもと違う髪形をした、真顔の龍麻がいる。
少なくとも雨の間は、本気だったのかな──
そんな風に思いながら小蒔が笑うと、龍麻も笑った。
笑うと濡れた服が肌を擦って気持ち悪かったが、それでも二人は笑った。
落ちた鞄を拾い上げ、小蒔のも拾ってやった龍麻は、
軽くなった空気が空に行ってしまわないうちに、漂う空気と同じくらいの軽さで言った。
「うち行こうぜ。服洗って乾かしてやるよ」
「い・や!」
白い歯を見せ、これ以上無いほどはっきり断る小蒔に、心外だというように肩をすくめる。
少し芝居がかった動作が、二人とも楽しかった。
「なんでだよ。風邪引くだろ」
「洗ってる間ボク何着ればいいのさ」
「一糸まとわぬ清らかな姿でいればいいじゃないか」
「ほらやっぱり。絶対そんな手には乗らないもんね」
舌を出してしかめ面をした小蒔に、龍麻は腕を組んで考えこんだ後、小気味良く掌を打ち合わせた。
「よしわかった。風呂上りにアイスつけてやる」
「……」
「それもお前の好きなチョコチップのやつ」
好みを覚えていて、買い置きしておいてくれたのはまあ嬉しいけれど、
それもこうやって餌にするためかと思うと素直には喜べない。
まだ靴を向ける方向を決めかねていた小蒔は、やがて口を、虹を逆さにしたような形にした。
「もうひとつつけてよ」
「なんだ? ストロベリーか?」
釣れた、と思いこんで龍麻の顔がにやける。
その顔に向かって、小蒔は食いついてやるふりをしてから一気に水面に引きずりこんだ。
「そうじゃなくてさ、キスの前に言ってくれた言葉、あるじゃない。アレもう一回言ってよ」
「なッ……! 聞こえてたのかよ」
それまで結局は食べ物に負けるのか、と笑いを噛み殺していた龍麻の狼狽は、
雨の後の泥水のように見苦しいものだった。
こみ上げる笑いを拳で抑えながら、小蒔は更に雨粒を何滴か閉じこめたような瞳で囁く。
「そしたらいいよ、ひーちゃん家行っても」
「……」
龍麻の頭の中で天秤が浮き沈みする。
均衡は全く際どいものであり、なかなか一方に振れようとはしなかったが、
大きく深呼吸をすると、息を吐き出した分が軽くなった。ような気がした。
耳を澄ませるためと、きっとそれだけではないために目を閉じる小蒔に静かに腕を回し、
鳥も虫も、人も街も、あらゆる音が雨後で途切れた一瞬に、龍麻は誓いの言葉を告げた。
「……」
目を閉じたままの小蒔の顔の下半分が、急速に緩んでいく。
瞬く間に顔全体にまでそれは広がり、小蒔が目を開けることで一層鮮やかに浮かび上がった。
雨上がりの、太陽。
小蒔の表情にそんな印象を抱いた龍麻は、頬の温度が急激に上がるのを自覚し、顔をそむけようとした。
しかしそれよりも小蒔の顔が近づいてくる方が早く、軽く唇が触れる。
すると何か、自分でも解らないものがこみあげてきて、龍麻は慌てて口を抑えた。
「何してんの」
「い、いや……」
あいまいにごまかして逃げようとしたが、小蒔はふっと別の角度から攻撃してきた。
「ねぇ、なんで急にあんなコト言ったのさ」
「お前が言えって言ったんだろうが」
「そうじゃなくて、最初。雨降ってた時」
免れた、と思っていた話題に引き戻されて、龍麻は用意していた嘘をつけなくなってしまっていた。
しどろもどろになりながら、もごもごと口を開く。
「なんか濡れてるお前を見たら……急にそんな気になって」
と言っても、それを説明するには彼女に対する想いを全部説明せねばならず、
また納得してもらえる自信もなかったので、ごく短くそれだけを言った。
小蒔はやはり意味が解らないようで、小難しい顔をして考えこんでいたが、不意に破顔した。
「ああ、なるほど。水も滴るいい女ってコトね。上手いね、ひーちゃん」
自分で言って自分で笑い出した小蒔は、よほどおかしいのか、お腹を抑え、本格的に笑い始めた。
そして小蒔が笑い出したせいで、龍麻はそれが真実なのだと告げずに済んだのだった。
「エヘヘッ、んじゃ行こうかッ」
散々笑って満足したのか、ご機嫌で歩き出す小蒔の後を、
龍麻も落ちてきた前髪をかき上げてついていく。
試合に勝って勝負に負けた感の拭えない龍麻だったが、
その顔が急に歩き出した小蒔と同じようなものになった。
背中の辺りに、くっきりと浮かび上がるピンク色のライン。
アレも洗ってやらないとな──
偽悪的にそんなことを考えていると、小蒔の明るい、しかし少しだけ水気を含んだ声が聞こえてくる。
「早く行こうよ、風邪引いちゃうよ」
頷いた龍麻は、ブラを直接見るために、小蒔の手を取って走りだした。



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