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「シャロンシャロン!」
自分の名をそう呼ばれて、ほんの少しだけシャロンは眉をひそめた。
ルキアは一日の最初はいつもこうやって、二回続けて名前を言う。
気に障る、まではいかない。
上手く説明はできないのだけれど、なんとなく、
彼女の中にある自分の存在は軽いのではないか、という気がしてしまうのだ。
いつかそれについて一言言わないと、とは思っている、けれど。
「ね、今から時間ある? ちょっとでいいんだけど」
春の──好きな季節の陽射しを受けた緑葉の色をした瞳を見てしまうと、
途端にそんな気持ちは季節を譲り渡した雪のように溶け去ってしまうシャロンだった。
「今日は何があるのかしら?」
実のところ、何かなければいけないという訳ではない。
ルキアと一緒にいれば、それだけで楽しかったから。
むしろ困るのは、彼女と一緒にいると時間を忘れ、別れるのが惜しくなってしまい、
勉強に支障が出てしまうことだった。
「ん? いいからさ、ちょっとこっち来て」
そしてルキアは、そんなシャロンの話を意識してか否か、いつも全く聞かない。
満面の笑みを浮かべてシャロンの腕を取ると、ほとんど駆け出す勢いでどこかへ引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと」
バランスを崩したシャロンは、強引に連れていくルキアに抗議する。
しかしその口許は、楽しげに綻んでいた。

人の気配の少なくなった場所まで来たルキアは、ようやくシャロンの手を離した。
シャロンが何か言うよりも先に、鞄から何かを出す。
「はい、シャロン」
差し出された小箱を、シャロンはきょとんとした表情で見た。
「これ……何ですの?」
「バレンタインデーだよ、知らないの?」
意外そうな表情をするルキアに、シャロンは頬が急に熱くなるのを自覚する。
自分は、ルキアや他の同級生、時にはアロエでさえ知っているようなことを知らないことがある、
とルキアと一緒にいる時間が増えてから思い知らされているシャロンだった。
しかしバレンタインデーなら、どうにかシャロンも知っている。
記憶を総動員して、シャロンはそれがどんな日なのかをルキアに確かめた。
「そ、それくらい知ってますわ。でもあれは、男性にあげる日のはずでは」
「えー、好きな人にあげる日なんだからいいじゃない。それともシャロン……いらない?」
ルキアは早くも小箱を乗せた掌を引っ込めかけて、シャロンは思わず狼狽してしまった。
「そ、そんなことは言ってませんわ」
「じゃ、はい。受けとってよ」
「あ、ありがとう……頂きますわ」
いよいよ頬が熱くなるのを感じながら、シャロンはチョコレートを受け取った。
とても直視はできないので部屋に戻ってから見ようと思い、
とりあえずしまおうとすると、ルキアがじっと見ている。
彼女が今すぐ食べて欲しがっているのだと気付いたのは、シャロンにしては上出来だった。
と言ってもここは、今は人の気配が無くてもいつ誰か通るかわからない。
「そ、それじゃ……いつもの場所に行きましょう」
「うん、いいよ」
小首を傾げて考えたシャロンは、最近二人のお気に入りの場所となっている、
運動場の木陰に行くことにした。
それがルキアの思惑通りだとは、知る由もなく。

こんな季節には珍しく、外は温かかった。
風もなく、太陽が柔らかな光を投げかけている。
運動場の一角、外でありながら人目につかない木陰にルキアと共にやって来たシャロンは、
彼女と並んで腰を下ろした。
すぐ近くから注がれる、期待に満ちた視線に後押しされるように包みをほどく。
中から出てきたのは、大きさも形もバラバラの小さなチョコレートの粒だった。
「これ……あなたが?」
「うん」
心臓がひとつ、躍る。
ルキアの手作りチョコレートは時々食べる滑らかな光沢のあるものと違い、
少し色が濃すぎたけれども、シャロンはそれを、淡桃色の唇にためらいなく運んだ。
「……」
「どう?」
待ちきれない、というようにルキアが訊ねる。
シャロンはルキアを悲しませないために、どんな言葉を言えば良いのだろう、
と少しの甘味と多くの苦味が充満する口に平静を保たせて考えた。
しかし、陶器のような白く、滑らかな肌は、眉間にできた小さな皺でさえも目立たせてしまう。
それに目ざとく気付いたルキアの、大きな瞳が心配そうに曇った。
「美味しく……なかった?」
「そ、そんなことはありませんわ」
慌ててそう言ったシャロンは、無理にもう一粒食べようとする。
その手首が、急に掴まれた。
そのままルキアの口へと寄せられてしまった手には、
二本の指で摘まんでいるチョコレートがそのままある。
血色のよい、健康的な唇の間に、黒い小さな粒は吸いこまれるように入っていった。
「あ……っ」
指先が唇に触れる。
また躍った心臓は、そのまま軽やかなリズムを刻み始めた。
「ル、ルキ……ア……」
「うぇっ」
少し、行儀が悪い──けれども、指先に感じる温もりを手放したくなくて、シャロンは束の間ためらう。
すると、ルキアは自分で作ったチョコレートに思いきり顔をしかめた。
それがあまりにも大げさだったので、シャロンは驚いて手を引っ込めてしまった。
ルキアは舌を出して、顔をしかめる。
「苦いね、これ。おっかしいな、何か間違えちゃったのかな」
「もしかして……味見なさらなかったの?」
ばつが悪そうに笑ったルキアは、作るのに夢中ですっかり忘れていたと告白した。
「ごめんね、変なの食べさせちゃって。捨てちゃっていいよ、それ」
「そんなことしませんわ。せっかくルキアが作ってくれたんですもの」
強い口調で言ったシャロンは、それが本心であると示すために新たな粒を口に運んだ。
再び広がる苦味は、けれど最初よりは少なく、我慢できるものだった。
それよりもルキアが作ってくれたことの方が嬉しくて、シャロンは彼女に笑顔を向ける。
すると唇を薄く開いて、放心したように見つめていたルキアが、不意に抱きついてきた。
「シャロン、大好きっ!」
「……!!」
驚く暇さえなく、柔らかな唇が意識を支配する。
ルキアを受けとめたシャロンは、力を抜き、彼女の背中に腕を回した。
ルキアのキスは、普段の彼女からは想像もできないほどしっとりとした優しさに満ちていて、
シャロンの好きなところをゆっくりと、時間をかけてなぞってくれる。
シャロンは彼女が触れやすいようにと口を開け、招き入れた。
「ぅ……」
舌の間に挟まれたチョコが、二人の熱で溶けていく。
口の中に広がる、いつもよりもどろりとしている粘り気は、決して不快なものではない。
むしろ鼻から息を吸うと、チョコレートの匂いと、ルキアの香りが混ざったものが染み入ってきて、
シャロンはすっかり陶酔してしまっていた。
頬から耳朶へと滑るルキアの手が、髪を梳いてくれる。
そこから肩へと回された腕が、自分を支えるためのものだと知っているシャロンは、
安心して身体を彼女に委ねた。
横たえられたシャロンは、再び顔を近づけてきたルキアに囁く。
「不思議……ですわ」
「何が?」
「あんなに苦かったのに……今は、とても甘くて」
チョコレートと一緒に溶かされた想いをそのまま口にしただけなのに、ルキアはいきなり笑い出した。
笑いながら、頬に何度もキスを落とす。
「シャロンって、そういうこと真顔で言っちゃうんだ」
「な、なんですの。わたくしは何もおかしなことは」
くすぐったさと何故笑われたのかがわからずシャロンが唇を尖らせると、
ルキアはその尖らせた先にくちづけて言った。
「うん、そうだよね。それじゃさ、もう一個……食べてみない?」
「……ええ」
チョコレートを摘まんだルキアは、シャロンの唇に押し当ててから自分の口に入れる。
自分の言ったことが間違っていないと教えてやるために、シャロンは彼女の顔を引き寄せた。
舌を差しいれ、ルキアの舌に乗せられた塊を溶かすように絡める。
舌のいろいろなところにチョコレートが触れ、それをルキアの舌が隅々まで舐めていった。
「ん……」
チョコがすっかり溶けてしまっても、二人はキスを止めない。
舌についたチョコの味までなくなってしまってから、ようやくルキアが顔を離した。
「ほんとだ……甘いね」
「でしょう? わたくしは嘘はいいませんわ」
シャロンが心外だ、というように言ってみせると、ルキアは笑みを浮かべて言った。
「最初にチョコ食べた時嘘つこうとしたじゃない」
「あれは……だって、あなたの為を思って」
「……そうだよね、シャロン……好き。大好き」
ルキアがそう言わせるように仕向けたのだ、と気付いたのは、
甘い匂いがシャロンの鼻腔を満たした後だった。

ルキアが作ってきた十粒ほどのチョコレートは、いつのまにか全部食べてしまっていた。
彼女の口と、自分の口をハンカチで拭ってやったシャロンが身体を起こすと、
ルキアが残念そうに空箱を振った。
「あれ……もうなくなっちゃった。こんなことだったら、もっと作れば良かった」
「でしたら今度はわたくしが」
「作ってくれるの!?」
「と、当然でしょう。好きな人に……あげるのだから」
ルキアのあまりの喜びように驚いてしまったシャロンは、つい本心を漏らしてしまう。
けれど、ひとりでに紡ぎ出された言葉は、快い甘さをシャロンの胸中にもたらした。
ルキアのくれたチョコレートと同じか、あるいはそれよりももっと甘い気持ち。
それはルキアが抱きつくことで、身体からこぼれてしまいそうなくらいにあふれた。
頬を寄せ、ルキアの温もりにシャロンが浸っていると、耳許から彼女の声が聞こえてくる。
「問題。ホワイトデーのお返しは何をあげることになっているでしょう。
一、チョコレート。二、キャンデー。三、マシュマロ。四、クッキー」
思いがけないクイズに、シャロンは戸惑いつつも考える。
と言っても、この手の問題はシャロンが最も苦手とするものだ。
考えたところで答えは出てこないので、思いきって一つを選んだ。
「え……? さ、三番でしょう?」
「ぶー。正解は全部でした」
「そんな、ずるいですわ」
「駄目。間違いは間違いだもん」
ルキアはシャロンの手を取って立たせると、改めて手を握った。
温かくて柔らかい彼女の指が、するりと指の間に入りこんできて、シャロンの心臓はまた躍り出す。
「罰としてこのままシャロンの部屋に行きまーす」
「ちょ、ちょっと」
さっさと歩き出すルキアに引っ張られてシャロンはよろめいてしまい、彼女にもたれかかってしまった。
離れようとしたシャロンは、考え直してルキアに腕を絡めたまま歩き出す。
「さ、行きますわよ」
「う、うん」
目をぱちくりさせて驚いているルキアに、シャロンは吹き出しそうになるのをこらえながら、
遠くて近い自室へと歩きはじめた。



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