風の強い日だった。

「こんな日は匂いが残らないから、難しい」
「なんで?
楽に近づけるんじゃないか?」
「風下に行けば、俺たちの匂いなんて誤魔化せる。
でも、どこに獲物が潜んでるか分からないんじゃ、どうしようもない」

ギルバートは空腹の予感に暗い顔だった。
腹を減らすのが、ギルバートは何より嫌いだった。どの猫もそうだ。

「ジェニエニドッツのねぐらへ行けば、ネズミだろうがなんだろうがいっぱいいるけどね」

ギルバートは、ぎょっと目を見張った。

「冗談! 冗談だって…」
「……絶対にだめだからな」
「だから、冗談だって」

彼が、その場しのぎの嘘をついているのがギルバートにはわかった。
あの声は本気だった。ギルバートの同意を待つ沈黙が数秒、後に続いた。

黄色い大きな猫は、仲間の大切にしてるものを牙にかけて平気らしい。わだかまりがギルバートの胸をふさぐ。

「そんなに腹が空いているのか」
「え、違うよ。昨日食べたばかりじゃないか」
「それじゃあ、どうしてそんな事を言うんだ」
「冗談だって言ってるだろ」

ギルバートの目をまっすぐ見下ろす黄色い猫は、名前を持っていなかった。
本心を呟くときはギルバートを見なかったくせに、じっと絡む視線は氷水のように澄んで、底知れない深さを見せる。

おどおどした仕草、遠慮がちな声、仲間の前では、めったに自分から話しかけない。大きな体に似合わず、気弱な猫だと誰もが思っている。
見た目どおりのやつではないらしい。

何がきっかけでそう思ったのか。ギルバートは忘れてしまったが、こうしてふしぶしに思い出される。そのたびにギルバートは白けた。

「…今日もぜったい俺が何か捕ってやるから」
「うん! 食事するのが一番好きだよ」

舌なめずりして、黄色い猫は目を細めた。
子供っぽい高い声と喋り方が、ギルバートを諦めさせる。

しかたがない。こういうヤツなんだ。




ギルバートは、獲物をさがして地面をかぎまわった。生き物の痕跡を追う。黄色い猫は、ふらふらとそこここに足を向けて、花の匂いを嗅いだり、草を噛んだりしていた。

「わあ、雲が早いねぇ」

土に鼻をつけ、這い蹲るギルバートにとって、それは全く関係ない話だった。けれどその明るい澄んだ声に、ギルバートは気を取られて視線を上げた。

明るい空が、目に沁みる。
大きな雲が、薄い影をつくりながら通り過ぎて行く。

太陽を隠して、それ自体が光る銀色の空が、動いて行く。
ギルバートはふいに、空が止まって足元が動き、どこかへ運ばれるように感じた。

「すごいな」
「ね!すごいね!」

くったくのない笑い方。ギルバートもつられて、目元をほころばせた。彼に腹を立て続けるのは難しい。

「名前のない猫、よけろ!!」

黄色い猫の上に、真っ黒い影が陰影を描いた。
突然の怒声に驚き、びくりと立ちすくむ彼を、ギルバートは飛びついて押し倒した。

地面を深く抉りながら、剥がれた鉄の看板が転がって行く。
ギルバートの足の間に、その角がつけた深い孔が穿たれている。固い石にさえ白い傷がついているのを見て、彼は戦慄した。

猫のやわらかい身体など、ひとたまりもない。
むしろ、突き刺さって地面に縫いとめられる。そうしたら誰も助けられない。

「大丈夫か?」
怯えているだろう彼に、ギルバートは安心させるため、なるべく優しい声を出そうと努力した。喉にからまって、なかなか上手くいかなかった。

ギルバートの身体も、小刻みに震えていた。
あの影の下へ滑り込む恐怖。死の影へ、自分から踏み込むようで、背徳さえ感じた。
黄色い猫は、切れ長の目を丸く見張っている。

「もう一度言って」
「大丈夫か」
「違うよ。もう一度呼んでほしいんだ」

ギルバートは、あ、と声を出した。

「それ、僕のことだろう?ね、もう一度呼んで」
 
『名前のない猫』が、ギルバートの両頬を包み込んで、気まずさに逸らそうとする視線を自分の上に留めた。

「呼んでくれよ」
「ごめんな」
 
ギルバートは素直に詫びる。
名前は特別なものだ。

勝手につけたり、消したりしていいものではない。
あだ名さえ、よほど近しい関係でなければ呼び合うことはない。

彼が本当の自分を思い出すまで。
それを見守るのが、ギルバートの分というものだった。それを超えては、彼を侮辱することになる。

「呼んでくれよ。僕のことだろう?」
「そんなつもりじゃない」
「どういうつもりなんだよ?!」

黄色い猫の爪が、ギルバートの頬をちくちく刺した。

「呼べってば!
僕は知りたい。君がつけた勝手な名前を、教えてくれよ…」
「名前の…ない、猫」

すまなさでいっぱいになりながら、ギルバートは非難を受け入れるため、黄色い猫を見下ろした。すぐ近くにある顔が、泣き出しそうにゆがんでギルバートを見上げる。細い顎と細い鼻筋が、いっそう彼を儚く見せた。

「ギル……」
「ごめんな」

ギルバートの鍛えた両腕でさえ、自分を支えきるのが難しいほどの重さだった。『名前のない猫』は、ギルバートに抱きついて離れなかった。

顔を真赤にするまで耐えたギルバートは、肘を精一杯踏ん張った。

「嬉しいよ。名前をつけてくれたってことは、僕はずっとここにいていいんだろ?やっと安心できる」
「居ていいって、俺は言っただろ?嘘はつかない」
「わかってるけど、でも、……名前をつけてくれるのは特別だよ。
嬉しいんだ」

黄色い猫の鼻が首筋に埋められて、彼が呟くたび鎖骨が唇の動きを感じた。

ギルバートの胸は痛んだ。
あたりまえの猫にしたら最大の侮辱を、この黄色い猫だけは、至上の喜びとして受け入れる。憐れでたまらない。

なんでもしてやりたい。

「他にも呼ばれるじゃないか。黄色い猫とか」
「それはただの見た目だろう?
ギルのそれとは違う。特別だよ」

ギルバートの目を覗き込む『名前のない猫』は、瞳が潤んで頼りなかった。

「ごめんな。どうせつけるなら、もっといい名前をやればよかった」

あまりに寂しすぎる。
『名前のない猫』なんて、どうしてそんなふうに彼を呼んでしまったのか。
かわいそうに。

「いいよ。僕には、君のつけてくれた名前だけで充分だから、嬉しいよ。
お願いだから、憐れむのはよしてくれないか」

ギルバートは音を立てて舌打ちした。二重の非礼だった。
本当に申し訳ない。

「すまない。すまなかった」
「ありがとう。これだけ受け取ってくれればいい」
「ああ。もう気にしないから」
「そうしてくれるか?そうだったら、僕も素直に嬉しいよ」

もう一度、名前のない猫の顔が伏せられる。睫が胸を擽って、ギルバートはふわふわ落ち着かなかった。

「わかったから、もういいだろ」
 
ますます腕に力がこもって、ギルバートを苦しめた。重みと、痛み。

「放せ…行儀が悪い」
「いやだ。もうちょっと」

ぷるぷるとギルバートは震えていた。肘が笑う。このままでは、彼を下敷きに無様につぶれなくてはいけない。散々鍛えているのに、いくらでかいとはいえ、弟分一匹支えられないようでは…
面目を保つのが難しくなって、ギルバートは彼を叱咤した。

「こら!やめろって言ってるだろ!」
「いやだぁ…」

情けない声を出して、胸に頭をこすりつけられる。陽だまりの匂いが黄色い毛並みから香り立った。

「こら、名前のない猫」

ぴた、と腕の中の猫の動きが止まる。付けたばかりの名前を呼んで、ギルバートは優しく聡した。

「約束だろ。許しなく誰かに触れるのはルール違反なんだよ」
「…わかった」

 するりと、首筋をなでるように腕が解けて行く。
 ギルバートは詰めていた息を吐き出した。つっぱりすぎて内側に反った肘が痛かった。

名前のない猫が離れると、ギルバートは自分も仰向けに寝転がった。腕はじんじん痺れている。今の状態では狩りは無理だ。

「なんだよ」
 
名前のない猫は、じっと横のギルバートを見つめていた。
頬に突き刺さる視線を感じながら、ギルバートは気持ちよく目をとじた。

誰かの特別になる甘さを、初めて彼に教えたのは『名前のない猫』だった。






「名前のない猫!」

呼ばれると彼は、何をしていても手を止めて振り向く。

「何?」

まっすぐ届く、彼の視線に悲しみを感じて、ギルバートはいつも胸を裂かれた。『名前のない猫』。

―――本当にいやじゃないのか。

何度呼んでも、彼は慣れない。
痛みを堪えるように、顔をゆがめる一瞬がある。
何度も苦痛をみせつけられて、ギルバートは耐えがたかった。

―――他に、僕をあらわす言葉があるのなら…
―――無理をする必要はない。
―――もしギルが嫌なら、また黄色いのとでも呼んでくれればいい。

「あっちへ移る。来いよ」
「どうして?」

黄色い名前のない猫は、小首をかしげた。彼の毛並みを、陽だまりがふちどって輪郭を淡く輝かせた。

「ああ…」
そういうことかと、名前のない猫は視線を眇めた。

視線の先には、老いた娼婦猫がよろよろと近づく姿があった。

「来い…」
「逃げるの?」

ギルバートは口角を下げて不快を表す。

「よけいなことすんな」
「別に、何にもしやしないよ」

自分のことか、それとも彼女のことか。
どちらのことを言ったのかギルバートにはわからなかった。

「同情するなって言っただろ」

子供たちは、みんな彼女に寄り添いたがる。
おとながそれを警戒するのは、当然のことだった。

グリザベラのせいで、何匹の猫が死んだことか。
直接手をくだしたわけでなくとも、彼女の度を過ぎた執着が哀れな猫を死に追いやった。これは間違いない。
命には、命をもって償うほかない。

だから、グリザベラが許されて群に混じる日は永遠にこない。

善悪の判断もつかない子供たちには、それがわからないのだろう。
年老いて今は無力だというだけで、彼女に同情している。

優しいこころを叱り飛ばすわけにもいかず、おとなたちは苦悩している。罪には罰が寄り添う。そんなことは、ギルバートにとって自明の理だった。

「馬鹿みたい。あんな猫をどうして警戒するのかな。
みっともないよ」

名前のない猫は冷笑する。
彼の本心がちらりと透けて、ギルバートを試すように煽った。

「ここに居てもいいでしょう。別に何もしやしないよ。ここはこんなに暖かくて気持ちいいのに、別のところへ行くなんて…」
「名前のない猫」

油を塗ったようにすべらかだった舌が、凍りつく。大柄な、細身の身体が一瞬動きをとめて、彼の黄色い毛並みだけが風にそよいだ。

 その寂しい名前を呼ばれると、彼は何をしていても呼んだギルバートを探す。
そして、何も言えなくなるらしい。

馬鹿にした作り笑いが消えて、素に近い無表情が表れる。

真剣をつきつけるような、ひやりと冷たい沈黙が、一瞬に凝縮される。
次の瞬間には、眩しそうな笑顔が花開いた。

胸が痛むのも当然だった。

「いいから、こっちへ来い。名前のない猫」

腰掛けていた石から飛び降りると、一生懸命彼はかけて来た。満足そうに微笑むギルバートを、全力疾走に紅潮する頬が見下ろしていた。
止まりきれずに、ぎゅっと抱きつく。

「馬鹿!やめろ!!」
「やだよ!!」
「やめろってば、そういうのは猫どうしじゃ無礼なんだって教えただろ」
「知らないよ」

 甘える顔がギルバートの瞳を覗き込んだ。

「手をつないでいい?」
「…いいかげんに離れろよ、黄色いの」

密着する体が強張った。
呼ばれたとおり、黄色い毛並みに包まれている手が、力なく垂れ下がる。しおれたように小さな耳が寝る。あれ、とギルバートは思った。

「あっちの茂みで遊ぼう。毛並みを染められる、面白い木の実があるから」
「うん…」
「名前のない猫?」

呼ばれて、彼ははっと顔を上げた。猫にとって名前は特別な存在だった。

「腹へってるか?」
「ううん、そんなには」
「じゃあ今日は、一日中遊ぼう」
「本当?!」

満面の笑顔が光る。
寂しそうな顔をしているより、そのほうがずっと良かった。

「お前が腹へった、って泣き言いわなきゃな」
「言わないよ!」

横に並んで、歩き出す。
名前のない猫は、グリザベラを一度だけ振り返った。




ギルバートは彼に狩りと、冬を越える智恵を授けようとした。同時に猫のルールと尊厳とを、黄色い毛並みのなかに叩き込もうと指導者として努めた。
彼もギルバートに多くを与えた。

胸の痛くなるようなせつなさ、哀憫。
甘え。甘さ。

いまだ発情期を迎えなかったギルバートに、最初の快楽を仕込んだのは彼だった。
そして、それ以上のものを与えた。

「お前は、マキャヴィティなのか?」

ギルバートが聞くと、漣ひとつ立たない無表情が応えた。

「そうだよ」































「俺を騙したのか」

「そう」
 
命には命を。
彼は許されざる者だった。

どうすればいいかギルバートには分かっていた。
罪には罰が寄り添う。

彼を裁きたくない。

生まれて初めて身の内に矛盾を感じて、ギルバートは目を血走らせた。

罪には、それと同量の罰が呼応する。

罰したくない。命をあがなうものは命でしかない。喪うのが嫌だった。
罰を与えなくてはいけなかった。

彼が一言でも言い訳をすれば、怒りのあまりにギルバートは彼を殺そうと襲い掛かったかもしれない。それとも、無理やり自分を納得させて、実際より軽い罪を彼に課したか。

裁きたくなかった。
罪は罰せられるべきだった。迷いなく正義を信じてきた。
罪を持つものは、罰せられて当然だった。

彼を匿いたい。大切な『名前のない猫』を。

矛盾が心を引き裂く。
自分が折れる代わりに、ギルバートはマキャヴィティを内側から引き裂いた。



『名前』
2007.10.20