そう呼ばれたこともあった。
「美しいベラ」「綺麗なグリザベラ」。
輝く瞳、ハート型の唇。
ハスキーで甘い声。
何より、その長い毛並み。
細く、長く、美しい。淡くけぶり、ふわふわとまるで雲のよう。
足首までを覆う、その下は、鞭のようにしなやかな若い体。
私は娼婦だった。
嵐の中を、げたげた笑う声が追いかけてくる。
グリザベラは走った。
かつてないほど走った。
風が吹き付けて彼女を遮る。どうせなら背を押してくれればいいのに。
暴風に攫われた「何か」が飛んでくる。避けられず彼女は立ちすくんだ。
偶然、それは彼女の目の前を彼女にぶつからずに、通りすぎた。
もういちど走り出す。一度立ち止まった足は、焦燥についていけず片方の足を蹴り、グリザベラは倒れた。
転んで、このまま死ぬかと思った。犯罪王に追いつかれる前に、痛みで死ぬ。体中の骨が折れて、ばらばらに粉々に離れてしまってその怪我で死ぬ。そう思った。
「んバァ!!」
げたげたげたげた笑い声が、たがの外れたマキャヴィティの声が、額に突き刺さる。
ああ、追いつかれた。
「いやぁぁぁあああ!!!!」
「なぜ逃げる?おかげで追いかけてしまったじゃないか」
転がるグリザベラの背後から、さかさまに彼女を覗き込んでいるのはマキャヴィティだった。犬殺し、猫殺しのマキャヴィティ。
「嫌、嫌、嫌!!嫌あああああああ」
「うるさい。黙れ」
地面に爪をたて、ありったけの最後の力で、上半身を引き摺る。足は麻痺して動かない。じりじり彼から逃げても、爪を割りながら進んだ距離を、マキャヴィティは一跨ぎで詰めてしまう。
「そんなに怖がらなくてもいい。僕は、そんなに非情ではない」
ぴた、とグリザベラは、無駄な足掻きをやめた。おそるおそる、その言葉の真偽を質すために、足元からマキャヴィティを見上げる。
彼は、仮面のしたでにっこり微笑んだ。
「持たざるものから奪うつもりはない。
僕がこの牙にかけるのは、幸せで幸せでたまらない、世の中が大好きって猫ばかりだよ」
「……」
「死にたいと思ってる女を殺してやるほど、僕は優しくない」
うんうんと、マキャヴィティは頷いている。グリザベラは頬をひきつらせた。今は皺の刻まれた、昔は完璧なカーブを描いた頬を、マキャヴィティの言葉に傷つけられて深く醜く歪ませた。
「…にたくない」
「へぇ。そうなのか?」
マキャヴィティは心底意外そうに彼女から離れた。近い距離で覗き込んでいた視線を、つまらなそうに外す。
さっさと逃げろと言わんばかりだった。いまにも手を振って追い払われそうだった。
「あんたと一緒にしないで」
「僕と?おまえが一緒?」
そよ風のような笑いが、冷たい白い仮面の下から吹き付けて、グリザベラの毛並みを逆立てた。
「どうして私が死にたがっていると思うの?!
孤独だから?みんなに嫌われてるから!
貴方はそういう時、死にたくなるんでしょうね。
ねぇ、マキャヴィティ!!犯罪王さん。間抜けな名前!!
貴方を好きな猫なんて一匹もいない。だから、私に同情してくれて、逃がしてくれようとするわけね。
おあいにくさま、私は生きていたい!!生き抜いて、そして!!」
もう一度愛されたい。
昔浴びたあの光。
あれをもう一度全身に浴びるまでは、けっして死なない。
もう、爪先に一筋でもいい。
同情でいい。
そのひとかけらの愛情に爪を穿ち、けっして離れない。
そう決めている。
私を憐れむ愚かな猫が現れるまで、その猫に触れられるまでは死にたくない!嫌!
死にたくない!!!!!!!!
長い毛並みはやっかいだった。
少しでも手入れを怠ると、すぐに固まって解きほぐすことができなくなる。
若い頃から、グリザベラは他の猫よりずっと足が遅かった。
何かの呪いのようだった。
長いうつくしい毛足に足を取られて、彼女はよく転んだ。
彼女の身体は弱い。
ラムタムタガーも、彼女と同じ懊悩を抱えている。
他の猫のように動かせない自分の体。目を尖らせて苛立つ彼を、遠くから見守ることがよくあった。自分と同じだと、すぐにわかった。
虚弱体質とでもいうのか。普通の猫より力が弱く、生きて行く上で必要な能力に欠ける。走ることも跳ぶことも。
長い美しい毛並み。それと引き換えに、すべての能力から見放されていた。彼女たちが生き残るのは、とても難しいことだった。
グリザベラは、一日二回、ほんの一口、二口、上質な肉を口にする。
それ以上は身体が受け付けなかった。
そしてこのリズムを崩せば、てきめんに体力を殺がれる。
少量を、どうしても一日きっかり、二回づつ。
腐りかけでもいいから食べる。狩りに成功したら、その場で大量の食事をとって、なんとか命を繋ぐ。それも野生の猫には必要なことだった。グリザベラにはできなかった。
彼女が、毎日二回、欠かさず狩りを成功させられるわけもなく…
だから、糧と引き換えに身体を与えた。
気の向いたときだけ楽しむ情事を、物とひきかえにする彼女に、群は穏やかな拒絶を示した。
「僕が、お前と同じ?僕が、お前の境遇に同情してる?」
グリザベラはこの暴言が、彼の怒りを買ったものだと身構えた。マキャヴィティの怒りが、自分を焼き尽くすに違いないと、がくがく顎を震わせながら悔いた。たとえ心底そう思っていても、こんな相手に真実のことを言ってやるべきじゃなかった。
「可哀そうだね、グリザベラ」
案に相違し、彼は静かにうつむいた。長い優雅な指を額にあてて、悲しみを表す。小さく首を振った。
「僕は君の仲間にはなれないよ。僕はね、群に好かれてるんだ」
「嘘よ……」
「嘘じゃない。素顔の僕を、愛してる猫がいる。
今日も、そいつと一緒に眠る。毎日抱き合って眠ってる。一時でも、僕を手放せないらしい…
可愛がられているよ」
彼は額に押し当てていた指を外して、グリザベラを見下ろした。細い顎、鼻梁。大きくも小さくもない目。整っているけれど、なんの面白みもない顔。
燃えるような赤毛以外は、誰の目もひかない地味な猫。
マキャヴィティは、白い仮面を掌にころりと載せて、彼女へ微笑みかけた。
過去のグリザベラとは比較にならない凡庸な顔だちをしていた。仮面をつけていたほうが、よっぽど印象的だった。けれど、つやめいた毛並み、張り詰めた体。今のグリザベラより、ずっと若い。
「僕のこと、とっ…ても可愛がってくれるんだ。
大好きみたい、僕のこと。
嫌だな、会いたくなっちゃったじゃないか。
今すぐ会いたい」
マキャヴィティは子供じみた、上ずった声をあげた。
獲物を狙うように身を低くすると、一直線に走り出す。足取りに迷いはなかった。
今頃、嵐の中突然消えた「黄色い猫」を探して、心配に胸をつぶされている猫がいる。
きっと「彼」は自分を探す。この嵐のなかを、危険を顧みずに。
意地っ張りな、あの可愛いかわいい雄猫は、今、心配のあまりはらわた煮えくり返っているに違いない。
一緒にいなかった後悔で、胸を裂かれているに違いない。
マキャヴィティにはその確信があった。
グリザベラには見栄をはって、毎日抱き合うと言ってしまったけれど、本当は指一本気軽に触れさせてくれない友達。
けれど、その行動が溢れるほどの誠実さでマキャヴィティを満たす。彼になら叱られてもいい。
早く会いたい。
マキャヴィティの頬は喜びに紅潮し、冷たい雨の中でも、身体は熱く激しく火照った。
吹き付ける雨に、グリザベラは視界を奪われた。
それでも彼の上に真実があることは分かった。
その陶然とした顔、上ずった声。抱かれた瞬間を回想するように、長い腕で自分をいとおしそうに抱く彼は、本当にマキャヴィティだったのか。
瞳のなかに飛び込んだ雨水を涙で拭い、もういちど目を開いたグリザベラの前に、もう彼はいなかった。
「私が、あいつがマキャヴィティだとみんなに言えば、どうなるか」
その後、何度も「彼」をグリザベラは目撃した。
「どうにもならないよ。
お前の言う事を、だれが信じる…いや、僕以外のだれが聞く?」
マキャヴィティは嘲る調子もなく、ため息まじりに呟いた。
誰も見ていない、ニ匹きりの場所で。
虚勢に励まされ真実を問うたグリザベラへの、それが答えだった。
春の訪れる公園には、黄色い花々が咲き乱れ、日差しが花弁を金色に輝かせていた。
春につづく夏を思い出させる、強すぎる正午の日差しに、虚弱なグリザベラは眩暈を起こす。
明るい陽のもとで見る、素顔の彼は、赤毛ではなかった。黄色い温かそうな毛並みをしていた。ますますもって平凡。
そうと知って見ていれば、どうして誰も気付かないのか。仮面の下から覗く口許は、紛れもなく「彼」だった。
同じ声。わずかに高低を調節しているだけで…
けれど、印象ががらりと変わる。
気弱そうに、いつもにこにこと微笑んでいる。
誰かの後ろに隠れるしぐさ。長身の、線の細さばかりが目立つ。
グリザベラが望んでも望んでもかなわない輪の中に、彼は自然に溶け込んでいた。白い牙を光らせて笑う。
けれど、近づけば近づくほど、気付かれないですむわけがない。
グリザベラが告げ口しようとするまいと、彼の正体が知れるのは時間の問題だった。
マキャヴィティは歪んだ饒舌さを持っている。
黄色い猫が、彼と同じ声を持っていることに、いずれは誰かが気付くだろう。だからなのか、あの目立たない黄色い猫は、めったに口を開かなかった。
けれど今は、グリザベラでさえ素顔の彼の、甘えるような高い丸い声を耳にする。
彼の隣にいる友達が、彼の言葉を引き出し、彼にひっきりなしに語らせる。
それは、破滅の始まりだった。
いつか彼は破滅する。
グリザベラの予感は確信だった。
彼自慢のお友達ゆえに彼は自滅する。
さびしい。
彼に親近感を抱いているのは、グリザベラのほうだったかもしれない。
野良猫のグリザベラが、餌と引き換えに身体を売る娼婦となったのは、与えるものを他に持っていなかったからだった。
無条件のほどこしを受けるよりはいいだろうと思った。
代わりにあげられるものがあるのだから、幸せだと思った。
一度だけ、ひとりでやっていけるか試したことがあった。
ごみを漁る。体質に合わなくて、死ぬ目にあった。
お腹の中が痺れて、喉が痙攣する。動けなくなって数日間、何も食べなかっただけで、毛並みはかさばり、床に擦れて絡まった。身体が引き連れる。皮膚ごとでも、縺れた毛並みを切り離さなければ、身動き取れない。数箇所、喰い千切らなければどうしようもないところまで悪化すると、自分の「美しくなさ」にグリザベラは戦慄した。
美しさだけが、彼女の生命を約束するのに。
おそろしくて、それ以上自分を試すことができなかった。
しにたくない。涙が頬を伝う。恐ろしい。しにたくない。
この身体は違う。
グリザベラは慟哭した。
この身体は、この長く美しい毛並みは、生きて行くのに「向いていない」。
むしろ、かえって邪魔だった。
では、何の為に?
まるで愛玩されるため、不自然に身体を作り変えられたようだった。作為を感じる。何の為に、こんな身体に。一体誰の為に。
ひとりでは生きていけなかった。しにたくない。
しにたくない。さびしい。死ぬのはさびしい。
どうしてひとりで生きていけないのか。それができたらさびしくないのに。
寂しい。
しんで、なかったことになるのがさびしい。世界から私だけがいなくなる。悲しい。
死にたくない。
暗闇の中、自分を抱いて、孤独を癒そうとグリザベラはもがいた。頬を伝う涙の温かさだけが、彼女を励ました。
あの時、もっと自分を信じればよかったのか。
死ぬかもしれないと思っても、それでも努力すべきだったか。
そうかもしれない。
でも、そうしなかった。
それが結果だった。彼女はもういちど誰かに頼った。
「おい」
「ギル!」
笑顔を輝かせて、マキャヴィティは立ち上がった。
彼の友達はグリザベラに視線を止めた。一瞬だった。その何十倍もの時間をかけて、走り寄るマキャヴィティの、素顔を見つめる。
「何話してた?」
「別に、何にも」
「そうか」
じぃっと、食い入る視線がマキャヴィティを照射する。
黄色い猫は困った顔で俯いた。
「本当に何にも。彼女は何か言ってたけど、僕には話すことなんてないから」
「……」
「心配しないで。大丈夫。
同情なんてしてないよ」
「お前は優しいから」
マキャヴィティは切れ長の目を大きく見開いた。
生まれて初めて言われた言葉を、頭の中でどう処理していいかとまどう顔。
グリザベラには彼のことが、手に取るようにわかった。彼の友達は、彼のことをすこしも理解していないということも。
「ギル、本当に心配しないで。
彼女には近づかない。可哀そうだけど、僕にしてあげられることは何もないもの」
「…それが同情っていうんだ」
マキャヴィティは微笑んでいた。本当に優しそうに微笑んでいた。泣き出しそうな眉の形。
可哀そうに。
グリザベラも、彼のことをそう思った。
友達は、彼の名前を知らないのだ。
彼の友達は、グリザベラに冷たかった。
蔑むわけではない。
どの猫も、彼女を貶めて自己満足にひたるようなやつではなかった。
けれど、彼女が近づくと追い払い、触れようとすると叩き落す。
私を見て、と頼んだときだけ容赦ない言葉が返ってきて、彼女をあげつらった。
遠巻きに群を見つめる彼女を追いかけて、その顔に唾を吐きかけるようなことはなかった。そうであれば、下種と彼らを見下しかえすことも、グリザベラには出来た。群はどこまでも気高い。
彼の友達は、一番グリザベラに冷たかった。
彼女を見ようともしない。
彼女をみつけても、風に巻き上げられたゴミの動きに目を留めたときのように、なんだ、グリザベラかと、興味なく視線を外す。一番彼女に無関心な猫だった。同情どころか、威嚇さえない。
華やかな娼婦だったころには、こんな雄がいたとしても目に入らなかっただろう。
他にいくらでもあてはあったのだから。
皮肉にも、老いたグリザベラはほとんど食べずに生きていることができた。
若い頃の自分に言ってやりたかった。
食べなくても、死なないよと。
お腹が痛かろうが、気持ちが悪かろうが、体中の間接がみしみし痺れていようが、そのままの状態で生きていくことができる。
悪いものを食べて苦しもうと、それで死ぬ事はなかった。だからこそ、今彼女はここにいる。あの時、もうすこし辛抱して自分を信じていれば、こんなことには。
そう思って、グリザベラはそれを否定した。
美しさを保っていた若い頃は、どうしても生きていたかった。
二度目も、三度目も、恐怖に自分は負けるだろう。
生き延びれば年老いて、孤独を囲うことになると知っていても、きっと。
「さびしい」
思わず、口から零れた。
黄色い猫が、弾かれたように振りかえる。異様に光る目が、グリザベラを追って軌跡を描いた。
それを、友達の三毛猫が呼んで、やめさせる。
「来いよ」
「ギル、本当に…心配しないで。
彼女のことは聞いてる」
なぜか彼女は、猫たちに嫌われると同時に恐れられていた。
身構えていないとき、彼女のすがる視線に出くわすと、どの猫も恐怖に急かされて顔を背けた。彼の友達でさえそうだった。
なぜなのかわからない。
こんな年老いた元娼婦猫の、何を恐れることがあるというのだろう。
あまりの惨めさに、将来自分もそうなるのではと、目をそらしたくなるのだろうか。
ギルバートは黄色い猫を睨みつけた。
「覚悟もないのに、手をだすなよ」
「わかってるって。彼女に同情したら、朝夕付きまとわれるっていうんだろ。
そんなの僕だって無理だよ。
そんなことされたら、誰だってまいってしまう」
マキャヴィティは顎を引いて、遠慮がちに反論する。
背の高さを隠すように、首をすくめていた。
はぁ、と彼の友達は息を吐いた。
その赤毛の耳元に、マキャヴィティが何かを吹き込む。
何を言ったのか。
友達の、口元を引き締めた厳しい表情が緩んで、瞳が和む。
一瞬後には元にもどるからこそ、その瞬間の変化には目を見張るものがあった。
愛されているといったのは、伊達ではないらしい。
マキャヴィティと彼の友達は、仲良く連れだって去って行った。
止めようとも思わなかった。
温かい強い正午の日差しが、世界を包み込んでいた。
彼らを、グリザベラを、平等に照らし出す鮮烈な光。
けれど、猫が照らす愛情という光は、誰にでも平等ではない。
さびしい。
グリザベラは呟く。
誰かにもう一度愛されるまでは、決して死ねない。
その誰かを、グリザベラは爪先立ちする思いで待っていた。
痩せた頬を、金色の光が隈なく照らし出す。
グリザベラは木陰に隠れた。
『美しいベラ』