許されたい。
何に?

月に。それともすべてに。

私が私のままで生きる事を、どうか貴方だけは許してください。


『カッサンドラ』




なぜそんな無茶をするのかと聞くと、彼はにやりと片頬をへこませた。
「余裕なんだけどな」

無茶ばかりするなと説教すると、視線をそらせて呟く。
「馬鹿にすんなよ」

今はもっと、巧妙に拗ねる。
「俺の限界はこんなもんじゃないぜ!」

年々早くなる逃げ足は、羽根でも生えてるかと思うほどだった。頭に。
思いやられながらマンカストラップは、指を振って仲間に合図を送った。泥棒猫を包囲する。



「芸がないんだよ」
赤い猫は毒づく。彼が少年だったころから、変わらない。マンカストラップの叱り文句は、マンゴジェリーになにも残さない。捕まえられて頭を押さえつけられたとき、マンゴジェリーはぎらぎらした目を年上の猫に向けた。




マンゴジェリーは、いつものように窮地に立っていた。

「どうすんのよー」

マンゴジェリーのわき腹に、頭を擦り付けるようにして様子を見ていたランペルティーザが、追っ手の気配を感じてひげの先を震わせる。小柄な彼女を背後に隠してやりながら、マンゴジェリーはひょいと首をすくめた。

「どうにかなんだろ」
「もう、マンゴってばそればっかり」

ランペルティーザは、唇を文句とへらず口で尖らせながら、身を低くしている。いつでも走り出せる。マンゴジェリーは細い長いしっぽの先で、こっそり猫たちの死角を合図した。相棒の、目じりの釣りあがった大きな瞳が、逃げ道を見通してきらりと光る。

「いくぞ」




「タガー」

金色の猫は、振り返らない。
マンカストラップは、黙って彼の隣に座り込んだ。

「せめぇ」
「そうか」

むっとするほど暑かった。

「……」
「…おい、タガー」
「なんだよ」
「…俺、落ち込んでるんだ」
「そうかよ」

 マンカストラップは、はぁーっと、深々ため息を吐き出した。

「なあ、タガー。ちょっと相談に乗ってくれるか…」
「…」

季節は夏だった。そしてその日は、後から思い出すと一年で一番暑い日だった。
密着する二匹の毛並みの下を、だらだらと汗が流れ落ちる。

「お前、そう言えば俺が逃げると思ってんだろ?」
「…………」

タガーの見つけた場所では、ごく短い部分だが水道管がむき出しになっている。身体の小造りでない二匹は、コンクリートで覆われた丸い管の上に、尻をはみ出しながら寄り添って座っていた。密着しなければどちらかが転がり落ちる。
狭い路地裏は両隣の建物のおかげで日陰を作り、水道管のなかには冷たい水が満たされている。おそらく、屋根の外では街中でも一番涼しい場所だろう。一匹でいたならば。

二匹の雄猫は、顎から汗をぽたぽた滴らせながら、日暮れまでその場所を動かなかった。




跳ね馬の看板を掲げる宿屋が、港の奥まった場所にある。伝説の駿馬をちなんで名づけた宿屋だが、寝床に藁を使いもしないし、馬臭くもなかった。看板だけを見て、馬小屋に泊まるのかと眉をひそめた縞猫をふりかえり、赤毛猫はにっこり笑ったものだった。無言の笑顔に説得されて、縞猫は扉を押した。そのとたん、薪が爆ぜる音とともに暖かい光がなだれ込む。海風にさらされ疲れた身体へと、染み入るようだった。
二匹が腰を落ち着けた宿は、赤猫の推薦だけあって、居心地がいい。

食事は煮込み料理が上手かった。とろけるような肉が、鍋のなかでぐつぐつ煮えていた。表面に油が浮いて、きらきら光っている。黄金のシチューを、白い湯気ごと盛り分ける。その周りに、新鮮な果実や野菜が、皿から零れんばかりに供される。船乗りにはなにより嬉しかった。

「こちらへどうぞ」

縞猫は片足を引いていた。不自由な身体を慮ったのだろう。宿屋の主は、入り口から少し離れた場所にある、テーブルの椅子を引いた。誰かが行き来するたびに、席を立たずにすむように。

「ありがとう」

客たちの身なりはけして良くない。
礼を言って微笑んだ縞の猫は、みごとな銀の毛並みを持っていた。けれど、筋力で柔らかく膨らんだ身体を、ボロ布で包んでいた。擦り切れた短衣と、重そうな履物はちぐはぐな色をしている。
それは、みすぼらしいほど痩せた赤毛猫も同じことだった。

「食事がお済でしたら、お部屋に案内いたします」

安宿にはもったいない態度と待遇で、二匹は宿の二階に誘導された。一階部分はすべて食堂と厨房が占めていたので、主人は銀の縞猫の足元に気遣いながら、彼らを小さい部屋に案内した。

頑丈に詰まった木目の壁と、広めの寝台。寝床に落ち着くと、客の猫はみすぼらしい衣を脱いで、詰めていた息を吐き出しす。

声を出さずに、赤毛猫が笑った。

「こら、笑うな」

ふにゃりと目元を下げた赤毛の猫は、口許を引き結ぼうとした。そして、無理だというように口をあけて白い牙を見せる。

「しかたがないだろう…なんだか、こういうあつかいは不慣れだ」

船の上で、必要最小限のものだけに囲まれて、飲み水さえきりつめながらすごす数ヶ月。それを思えば、今の待遇は破格だった。
裸の胸を乾いたシーツに乗せながら、縞猫は腹ばいで寝転んだ。目を閉じた傍から、粗末な布が擦れる音を聞きつける。
おそらく、赤毛猫も海風にべとついた衣を脱いでいるのだろう。
銀の猫は、彼の体のうちでもっとも銀色をした瞼を下ろして、深く息を吐いた。

照り返しも相まって、甲板の上は焼けるようだった。裸ですごすのが猫の恒だけれど、それでどの猫も海の上では衣を纏う。
けれど、陸に上がったからには窮屈な結び目を解いて、風に毛並みをさらす。今頃は、どの船乗りたちもそうしていることだろう。港で別れた乗組員たちも、それぞれの気に入った場所で、裸の眠りを楽しんでいるはずだった。
黄色い猫は、異様に顔が広いのでどこに行っても知り合いがいる。
黒い猫は、ミステリアスでどうにも行方が知れない。どの港町でもそうだ。
金色の猫は、とても女性を愛しているので彼女たちが集まる場所へ行ったのだろう。
ケツの毛までむしられるがいいと、銀の縞猫は思ってほくそえむ。

突然の波風にも、雨にも心配はいらない。なんの気がかりもない夜のはずだった。

深夜すぎに目覚めた猫は、相変わらず居心地のいい寝床の上で、けれど確かに緊張している自分の体を意識した。

「なんだ…?」

胸騒ぎというには、体中を流れる冷や汗があまりに即物的すぎる。予感というより、もっと確かな不安を感じて身体の筋肉がかってにぴくりと痙攣する。走り出す合図をまって身体を撓めているとき、こうなる。なぜ、それが今なのか。縞の猫は不思議に思ってゆっくり身を起こした。

赤毛猫はもうすっかり目覚めていた。窓際に隠れるようにして、外を窺う。

「海のようすが、おかしい…?」

銀の猫が言うと、赤い猫は唇に立てた指を添えた。赤猫の警戒の様子に、銀の猫も感応する。潮風のにおいは変わらない。けれど、海が明るい。

「グロールタイガー…」

いくつもの小船が陸にむかってこぎ寄せる。金の鎧が、ぎらりと月光を弾く。

「俺たちがいない隙を突いて、襲われたと、そう見て間違いないな」

マンカストラップが低く唸る。
マンゴジェリーが口を閉ざしているぶん、彼はいつもより能弁だった。思考の整理に留まらず、つい、口に出して悪態をつく。

「あの、女…!」

言ってもせん無いことだった。もう、彼女の美しい顔を見る機会は二度とないだろう。彼女を探し出し、復讐するほど彼らの結束は堅くなかった。
ただ、船を焼かれた悔しさは、家をなくした悲憤に似ている。

「逃げるぞ。すぐにここにも、あいつらの手が伸びる。残党狩りにひっかかるのは、まっぴらだ」
「彼はいいのかい?」

ざらりとした、低音だった。
銀色の残像を残すほど素早く、マンカストラップが振り返る。赤毛猫は、いつものきょとんとした顔をしていた。銀の猫は聞いた。

「お前、しゃべれたのか?」

赤毛猫は表情を変えない。

「彼は、まだこのことに気づいていないかもしれない。彼の居るところくらい、想像がつくんだから、迎えにいこうか?」

掠れた声は、彼の痩身にとても似つかわしかった。マンカストラップは、驚きの余韻から立ち直るとあっさり切り捨てた。

「必要ない。俺たちが逃げるのが先決だ。分捕るもののない戦いなら、なるべくなら避けたいところじゃないか」
「二度と会えないかもしれないよ」

砦を攻めるなら、軍隊にも臆しない。けれど、獲物のように追い立てられるのはごめんだった。貧乏くじをひきたくない。

「かまわない」
「意外だ。君と彼は、とても仲が良かったのに」
「腐れ縁だ。乗り合わせる船が、多かっただけのことだ」

マンカストラップは、それより気になることがあった。

「お前は、いままでずっと喋れない猫なんだと思っていた」
「そう言った覚えはない…」
「パラドックスだな。
船にいたのは、みんなどこかしら欠けたやつらばかりだった。グロールタイガーでさえそうだ。その中で、お前だけが、五体満足だったということか」
「あんたの片足は、グロールタイガーが捕ったと聞いたけど、それは本当なのか?」

銀の猫は、びっくりしたように目を見開いた。
次の瞬間、にやりと口許をゆがめる。

「そいつは面白い噂だな」

否定も肯定もしない。きっとそんなところだろうと、赤毛猫は頷いた。

「彼らともここでお別れか」

赤毛の小さな頭が、窓の外を見下ろす。波打ち際に小船が着いた。もうすぐ、音を殺して猟犬が忍び寄る。猫の風上にも置けない。権力の下僕どもが押し寄せる。

「俺は、あいつの事が好きだったけどな」

ざらついた声が告げる。それが誰のことを言っているのか、マンカストラップにはわからなかった。
黒い猫か、黄色い猫か、あるいは金のやつか。

「どうせここで分かれても、いつかは会ってしまうだろう」

マンカストラップは、言ったとたん口の中が苦くなった気がした。予感というには、音になった言葉があまりに現実的だった。
赤毛の猫は、それを感じとれなかったらしい。不思議そうにマンカストラップを見上げる。

「海は広大だが、航路は線だ。いつか、行き会うときもくるだろう。
さあ、来い。これ以上の長居は命とりだ」
「俺も一緒に行くのか?」
「ふたりのほうが、囲まれたときいいだろうが。
俺の足が不安なら、置いていけ」
「まさか。君の腕を、たよりにしているよ」

柔らかく隆起した雄猫の腕をとんと叩いて、赤毛の猫は微笑む。彼自身の腕は、たよりないほど細い。けれどその長い腕が、よくしなって見かけより攻撃に優れているのをマンカストラップは知っていた。

船の上では、彼はいつも笑わなかった。

「お前、嬉しそうだな」

 銀の猫の追求に、赤い猫は答えない。血の色の毛並みを靡かせて、彼は走り出した。マンカストラップは、彼の後を追った。海賊たちは、夜の闇にまぎれてちりぢりに散っていった。




猫の身体の不思議。

春の気配をいち早く感じる。
冬の訪れに毛並みを逆立てる。

不思議。

帰り道を見失わない。
邪魔されて帰れないときもある。

二度と帰らない不思議。

二度と会えない不思議。

なぜ、いま私の目の前にはあんたがいるのか。

「…ぃ」

最後の一文字しか、名前を声に出来なかった。

「ん?どうかしたか、ランプ?」




「美しいベラ」

最後にそう呼んでくれたのは、子猫を亡くしたばかりのもと、母猫だった。

「綺麗ね、グリザベラ。
ごめんなさいね。
今日も、あなたにご飯を取ってきてあげられなかったわ」
「いいの、いいの。
お願い、死なないで」

「ごめんなさいね」

「置いて行かないで。
あなたの子猫のところへ、行ってしまわないで」

「ごめんなさいね」

「ごはんをくれなくてもいい。
しゃべらなくてもかまわない。
あったかいあなたが、傍にいてくれたら」

「ごめんね」

「どうして、いってしまうの?」

傍にいてと願いすぎたからだ。
狩りさえ許さず、ずっと放さなかったからだ。

ひとかけらの食べ物が手に入れば、
彼女は必ずグリザベラへそれを差し出した。
彼女が眠ることさえ止めて、しがみついた。寂しかったから。
自分を置いて眠ってしまうのが許せなかった。

「私のせいなのね」

もう、男たちは私をきれいとは言ってくれない。

貴女が最後の猫よ。

そして、貴女を喪ったその日から、
おだやかだった群からの拒絶は
苛烈な排斥へと姿を変えた。