『アスパラガス』 2007.12.18
「そこで俺は、ひとりで30匹の猫を相手に大立ち回りを演じたってわけだ」
冬を欺くあたたかな日差しが、老いた猫の毛並みを照らす。水気の乏しいせいで毛先の固まった、彼の粗末な毛並みは、屈んだ拍子に深く割れこんだ。白っぽい下毛の挟間に、彼の灰色の肌が晒される。若かった頃その猫は、赤い蛇に巻きつかれたような縞模様を、全身に纏っていたのだろうか。今は、地の褐色と混じってあいまいなまだらに見える。
「俺がこうして、腕を持ち上げるとその隙をついて後から一匹が襲いかかってくる。俺は、それをひょいっと避けて、そいつの背中をけりとばして…」
くあ、と気の抜けた声を漏らしてから、マキャヴィティは慌てて大口を閉じた。
「ごめんなさい」
「そして目の前の敵をばったばったと切り倒し…」
けれど、彼は大あくびした黄色い猫をじろりと睨んだだけで、話を続けた。
「グロールタイガーはそれでもひるまずに戦った。回り中敵だらけだが、最後には敵の大将をひっぱりだしてそいつと一騎打ちだ! こいつが、グリドルボーンのアリアと並んで、二幕で最高の見せ場になる」
とうとうと流れる言の葉を止めて、物語が淀んでしまうのを恐れるような。マキャヴィティは、子供じみた目をしたアスパラガスに気付かれないようくすりと微笑みを漏らした。
黄色い身体を思う存分伸ばして、日向でくつろぐ。ガスの長い語りを聞く為に、ゆったりと楽な姿勢でマキャヴィティは横たわっていた。地面にわき腹と肘をつけ、半身だけを起こしながらガスの言葉に耳を傾ける。ガスは、話し始めるといつものように興奮して、立ち上がって激しい身振り手振りで当時のことを語ってくれた。
「グロールタイガーはそれまでの悪逆非道が嘘のように追い詰められて、船の舳先から海へむかってまっさかさまだ!」
マキャヴィティはぱちぱちと手を叩く。グロールタイガーのように目をらんらんと光らせたアスパラガスは、やはりじろりと黄色い猫を睨んだ。マキャヴィティは、肩をすくませて静かになる。
「ここにいたの…」
柔らかい声が、日差しのなかに居た二匹を海賊船から現実に引き戻す。
「今日は温かいわね。確かに、いつもの楽屋口よりここのほうが居心地がいいわ」
「なんだ、ジェリーロラム。俺の事を探していたのか?」
「いいえ。今日は公演がないから、あなたがいつものところにいなくても不思議じゃないし」
月のような毛並みと、誰より優しい微笑みを持ったジェリーロラムは、アスパラガスの背中に寄り添って彼の肩に両手を乗せる。ガスの目が細められたので、見ているだけのマキャヴィティにも、彼女の掌の温かさがじんわり想像できた。二世代ほども歳の違う二匹の猫を、目を丸くして見つめていたマキャヴィティは、急に足元がざわざわするのを感じて思わず立ち上がっていた。
「黄色いの、もう行くのか?」
「うん」
「今日はすまんかったな。また来いよ」
「すまないって? 何かあったの?」
「ああ、なんでもない」
すこし慌てた様子のガスの声が、マキャヴィティの胸をくすぐって落ち着かない気持にさせた。
あわただしくさようならを告げて、その場を後にする。
薄い青に晴れ渡った空から、静かに日差しが降り注ぐ。一羽の鳥が、空を横切っていった。薄い雲が、とても高い場所を流れている。
ジェリーロラムは、ガスの毛並みに指を差し込んだ。
「日向にいたから? ガスの体、とてもあったかい」
「お前の手のほうが暖かいよ」
マナーの悪いニンゲンの車に、危うくひっかけられそうになったアスパラガスを、通りすがりの黄色い猫が助けた。それが真相だったけれども、ガスは自分を崇拝するジェリーロラムには、ありのままの事実を明かしたくなかった。男の意地がある。その上、彼女は心配性だ。
ジェリーロラムは、ガスの固まった毛並みを見つけて丁寧にほぐす。ガスが屈んでも、もう肌が冷たい空気に直接触れることはなくなった。温かい毛並みとジェリーロラムの手が、ガスをほかほか包み込む。彼女は、毎朝ガスの毛並みを整えるのが日課だった。ガスも、胸をガリガリかきむしるのは止めて、優しいジェリーロラムの頭を撫でてやった。
むつまじい二匹だった。けれど、恋猫同士ではなかった。
あれほど近づいて観察してみても、マキャヴィティには分らない。
「どうして、ガスは群れに混じっているのかな」
マキャヴィティには、アスパラガスとグリザベラの違いが分らない。彼らは似ている。どちらも老いていて、醜い。今を嫌って、過去ばかり見つめている。なぜ彼は許され、彼女は赦されないのか。
今度、赤毛の『マキャヴィティ』になってから、彼に直接問いただしてみようか。「なぜ、そんなにも醜いお前が、恥ずかしげもなく群に混じっていられるのか」と。庇っても隠し切れないほど、高いプライドを胸に秘めたアスパラガスは、その時どんな答えを吐いてくれるのか。
それとも、ジェリーロラムに聞けばいいのだろうか。
やさしげな声と顔立ち、すんなり伸びた手足の美しい彼女。月光のようなあの雌猫。彼女に聞いたら、優しく答えてくれるのだろうか。
なぜ許される猫と、許されない猫がいるのか。
ガスとグリザベラ。よく似た彼らの、たった一つ違うところ。
それはジェリーロラムを持っているか、いないか。たったそれだけのように、マキャヴィティには思われた。
『ジェリーロラム』 2007.12.29
その猫を見たとき、なんとなく親近感を抱いた。
「弟みたいな感じ、っていうのかなぁ」
大抵の野生猫は、子供のころにきょうだいとの悲しい別れを経験している。あの時、別れてしまった彼らが、もし生きていたら、彼のようだったろうか。
月の色の下に、灰の縞が地紋を描く自分よりも、彼はずっと淡い。そして、ほんの少しだけ濃い茶の混じった毛並みをしていた。記憶の中の母猫とも重なり合う彼の色は、ジェリーロラムにしくりと胸の痛む感傷を抱かせた。
「なぜ、グリザベラは憎まれているんだろう」
よりによって、彼がそう、口走った。ジェリーロラムは戦慄する。
「なぜ、ですって?」
唇がひくひく震える。
忌むべき名前を聞いて、耳が痛みを訴える。そう、ひょっとしたら、あの犯罪王よりも。
グリザベラ。
彼女を憎まない猫が、まだいたなんて。
ものすごい勢いで、血が全身を駆け廻る。醜く引き攣る顔を、見られたくなくて、ジェリーロラムは表情を引き締めた。しっぽが、勝手に体に巻きつく。
「なんてこと言うの。考えるまでもないでしょう。だって、グリザベラは娼婦だったのよ」
「だから? 娼婦が悪いというのなら、彼女は若いころから憎まれていたはずだろう。でも、彼女は若い頃、……むしろ愛されていたんじゃないか」
若い頃の彼女。魅力的な、白のグリザベラ。美しいベラ。
彼女を愛さないものはいなかった。
「いいえ。すべての猫が彼女を愛していたわけじゃない。少なくとも私は、ずっと昔から彼女を憎んでた」
「どうして」
「どうして…?」
大きな雄猫の、奇妙に澄んだ眼差しがまっすぐジェリーロラムの心を覗き込む。
彼の瞳に自分の像が映っているのを見つめながら、大きく映し出されたその像が、奇妙に顔をゆがめている事にジェリーロラムも気付いた。目の前の雄猫との、猫一匹分も挟めないほどの近さに、ジェリーロラムは今更視線を逸らして長いしっぽで彼の眼前をさっと払って見せた。
彼はびっくりして、ぎゅっと強くまばたきする。
ジェリーロラムは、どきどきと脈打つ胸を張って、なるべく傲慢に言う。
「彼女が、とても悪い猫だからよ」
「悪いって……そんなの、嫌いになる理由になるのかなぁ」
「あら、なるわよ。自分が嫌なことをされたら、相手を嫌いにならない?」
「わからない。親切をされても、嫌いなら奴なら嫌いなままだし、それに俺は悪い事なんて、誰にもされたことないから」
「では、自分の好きな猫を傷つける猫がいたら、その猫をどう思う」
「…ああ、それは」
「あなた、彼女に同情してるのね」
遠い目をして顔をしかめていた彼は、首を振ってジェリーロラムを見下ろす。きょとんとしているせいで、彼の透明な茶色の瞳はいつもより丸く、大きく見えた。
「まいったな。そんなふうに見える? 同情なんて、誤解だよ。
前にも、似たようなこと言われたことある。俺は、そんなつもりないのに。ただちょっと気になっただけなんだ」
「そうよね。ごめんなさい。
彼女に同情なんて、するはずないわよね」
「もちろんだよ。だって、彼女は綺麗じゃないじゃないか」
「ええ、そうね」
「それだけだって、彼女を嫌う理由には十分だよ」
「そうね」
「ただ…」
「ただ?」
ジェリーロラムは、長いしっぽを片手に乗せて、ゆっくりと撫でていた。彼女は面を伏せていたので、黄色い猫は気付かなかっただろう。言いよどんだ黄色い猫の声と同時に、雌猫は優雅な指の動きを止めた。ジェリーロラムは、とても険しい顔をしていた。
黄色い雄猫は、明るい声で遠慮がちに言う。
「ただ、年老いたというだけで……憎まれてしまうのかと思って」
ああ、とジェリーロラムは嘆息した。
かすかな吐息に、黄色い猫は気付かなかったらしい。
彼は、何にもわかっていない。
すみれ色の瞳。
猫にはありえないはずの色を、彼女は備えていた。今、彼女の瞳は、まるで生まれたときからそうだったように常に充血していて、高貴だった紫色は赤い網目の向こうへ紛れて単なる灰色に見える。
彼女に手を伸ばそうとした白い猫が、逞しい雄猫に弾き飛ばされたのは舞踏会の晩だった。
幼い白猫は、いつもとりすましている顔をゆがめて、仲間の元へ逃げ帰った。小さく身を竦ませるヴィクトリアの傍を、まるで見ていないようにシラバブが通り過ぎる。
分っているのか、いないのか。グリザベラに近づいたシラバブが、ジェニエニドッツに守られて彼女の前から退くまで、ジェリーロラムは密かに息を詰めていた。彼女の灰色の姿が消えるまで、息苦しさは続いた。
老いていて、かつての美しさをすべて失っているはずなのに。彼女は、今でもこうして誰かをひきつける。
幼い猫たちは、どうしても彼女から目をそらさない。ヴィクトリア、ランペルティーザ、生まれたばかりのシラバブ。
とりわけ彼女に囚われているのは、もうすぐ大人になるはずのジェミマだった。少女の身に宿った並外れた憎しみを、ジェリーロラムはあやういものに思う。
安全な群のなかにいて、グリザベラを威嚇するぶんには、いくらでもさせてあげよう。けれど、ジェミマがグリザベラと対峙するとき、必ず側にいてあげたいとジェリーロラムは思う。守ってあげたい。決して、彼女たちをふたりきりにしてはいけない。若いころのグリザベラを、見たこともない幼いジェミマが、まるで見てきたように彼女のかつての美貌を嘲る。ジェミマは、グリザベラに何かをされたこともないというのに。
それなのに、なぜジェミマはこれほどグリザベラを憎むのか。
ジェリーロラムは、虚勢に胸を張る。グリザベラへ鋭い視線を投げた。
老いていてさえ、これほど誰かの心動かす。グリザベラは恐ろしい猫だった。
その力がどこから来るのか、ジェリーロラムにはわからない。そしてだからこそ、ジェリーロラムは彼女を憎む。憎むというより、恐れる。
彼女を愛して、憎んで、どれほどの猫が暗闇に飲み込まれたことだろう。
黄色い毛並みが、ジェリーロラムの視界を横切ろうとした。
ジェリーロラムは、彼の前に腕を突き出して動きを制する。
ゴミ捨て場を何度も追い払われ、それでも懲りずにグリザベラは姿を現す。彼女の匂いが髭の先でも掠めようものなら、多くの猫は動きを止めて威嚇する。警戒する群れのなかで、仔猫たちは叱られた余韻に萎れていた。
本当は、生真面目に落ち込んでいたのはヴィクトリアだけだったかもしれない。けれどランペルティーザも、一応はおとなたちに紛れて身を隠した。
平坦でない地面を、よろよろとおぼつかない足取りで進みながら、彼女は群のまんなかに歩み出る。
長身の彼も、廃棄された電子レンジの上で、身を伏せて威嚇の姿勢をとっていた。顔にはグリザベラを嘲る色が見える。残酷に顔をゆがめる彼を、ジェリーロラムは冷めた目で振り返った。
――あなたには、彼女への同情を感じる。
彼は否定するだろう。けれど、断言する。黄色い猫ほど、彼女に惹きつけられている雄猫はいない。威嚇しても爪を立ててみても、彼ほど熱心に彼女を見つめている猫は、他にいない。
おとなのなかで、彼女に捕まる猫がいるとしたら、間違いなくそれは彼だ。
ああ、だから、弟に似ていると思ったのかもしれない。
彼は、どこかまるで仔猫のようなところがあるから。仔猫のように、まん丸く見開いた目で不思議そうに彼女を見つめている。
――決して、彼女には近づけさせない。
愛しい仔猫たちも、弟を思い出させる彼も。
そして、誰より大切なアスパラガスも。
守ってみせる。
ジェリーロラムは、仔猫の前にしなやかに躍り出た。手を差し伸べて仔猫へ歩み寄ろうとしたグリザベラが、たたらを踏んで立ち止まる。彼女の瞳は、やはりもうすみれ色には見えなかった。