『カッサンドラ エピローグ』 2008.07.01
月とは何だろう。
私はこのごろよくそれを考える。
なぜ私たちは選ばれて、なぜ月を越えて天上へいくのか。
生まれたときから、当然のこととして血と名前に刻まれていたそのことを、私が疑問に思うのはなぜか。
「なぜ、そんなに恐い顔をしてるんだ?」
「なんだか、今年は貴方が月に選ばれそうな気がする…」
それは予感でなくて確信だった。
カッサンドラの予言に、彼女と同じ毛色を持ち、彼女とは少しだけ配置のずれた模様をしたきょうだい猫のタンブルブルータスは、目を丸くしてみせた。
切れ長の目が、それでもめいっぱい丸くなろうとする。
「月に選ばれるなんて、そんないいことをした心当たりはない」
「ううん、なんとなく…絶対そうな気がする!!」
カッサンドラは、タンブルブルータスの毛並みをぎゅっと握って唇をむっつりつぐんだ。
いつかタンブルブルータスが、都会には珍しいほど大きなカブトムシを捕まえてきたことがある。ムシはつやつやした体と、立派な角を持っていた。やっきになって世話するタンブルが、カッサンドラをほんのすこし邪険にしたとき、彼女は今と同じように悋気の虫の角でタンブルブルータスをちくちくつついた。
カッサンドラがムシをわざとひっくりかえして、たくさんある足がばたばたする様子を観察していると、さすがにタンブルは怒った。反論の余地がないほど筋道たてて怒るタンブルブルータスに、カッサンドラは背を向けてぷいっとねぐらを出て行った。彼女は、しなびた瓜を狩って戻ってきてタンブルの大事なペットと仲直りした。
長老に、カブトムシはほんの少しの間しか地上に出ることを許されないと聞いて、ふたりでムシを見つけたゴミ捨て場に彼を連れて行った。
三日一緒に暮らしたカブトムシが、隠し持っていた透明なつばさを広げて月の方へ飛び去ったとき、カッサンドラでさえ喪失感に胸がいたんだ。
もし、タンブルが月に行ってしまったら、それどころではない痛みが世界中を切り裂くだろう。
「なぜ、今年に限ってそんなことを言うんだ? 今まで、そんなこと言ったことなかったじゃないか」
タンブルブルータスは、微笑みをかみ殺しながらカッサンドラの毛並みに頬を摺り寄せる。確信を胸に秘めるカッサンドラは、暗褐色の毛並みをますます強く握り締める。タンブルブルータスは、彼女の恐れを計りかねていた。
『なぜ月に選ばれるのか』
彼女に聞いたひとが、たったひとりいた。
彼は、黄色い毛並みと茶色のぶちを持った猫だ。そういえば名前も知らない。
カッサンドラは、彼とほとんど口を利いたことがなかった。
『なぜ? なぜそんなことを言うの』
不思議なひとだ。
カッサンドラにとって、それは自明のことだったから。月に選ばれた、もっとも気高い猫が天上へ昇る。
もし、タンブルブルータスと離れなければいけないと、その可能性に気付かなかったら、きっとカッサンドラは生涯疑問に思うことなどなかっただろう。
「ああ、そうなの。貴方がそうだったのね」
月の光がカッサンドラを選んだとき、カッサンドラはすぐにそれがわかった。
「だから、私は貴方のことが恐かったんだ」
優しげな黄色い毛並みに月光を浴びて、犯罪王は群の中からカッサンドラを仰ぎ見ていた。選ばれたカッサンドラへの憧憬が、マキャヴィティの恐ろしい顔を頼りなくゆがめている。
まぶしそうに目を細める彼。タンブルブルータスは、逆にカッサンドラを直視することができず視線を足元に落としていた。
彼女を、オールデュトロノミー長老へ引き渡す前までは。
予言は不完全に成就し、月に選ばれたのはタンブルブルータスではなくカッサンドラだった。
幸福感に全身を満たされても、なおあまりある寂寥がカッサンドラの胸を貫く。半身と離されて空高く昇るカッサンドラには、見下ろす世界のすべてが悲しみに引き裂かれて見えた。
そして、その裂け目のなかにふいに真実が顔を覗かせる。
すべてのしがらみと先入観を捨て去れば、黄色い猫がマキャヴィティであったことは明白だった。
けれど、それはカッサンドラにとってささいなこと。
傷ついた顔をして、震えながらそれでもカッサンドラを月へ押し上げたタンブルブルータスに比べれば。
「タンブルブルータス、あなたも来年はわたしのところへ来るんだよ」
「カッサンドラ?
そうしたいが、でも…」
「わたしがジェリクルに選ばれるとしたら、理由はひとつしか思い浮かばない。貴方への気持ち。それだけが、わたしのジェリクルなの」
「カッサンドラ…」
「だから、必ず貴方も天上に呼ばれる。
わたしと貴方の気持ちは同じだから。
わたしが選ばれるのなら、貴方が選ばれないはずはないのよ」
世界が裂ける。
月が堕ちる。
「待っているわ」
どうして、そんなことがわかる?
未来のことがわかるはずもない。
確かなことなど一つもない!
明日もこのひとが私を覚えているという確証があるだろうか。
ジェリクルなんてどうでもいい。
どうしてこのひとと離れなければならないの。
なぜ選ばれなければならないの。そんなこと私は頼んでいない!
月が、冷ややかな光で真実を照らし出す。
「きっと、約束する。何があっても、俺は君を追うから!」
固く繋いだ指が解けていく。
彼の必死の声。それは月にまで届いた。
カッサンドラの見る世界。ほう、とため息をつくと息が白い雲になって街へ堕ちていった。
カッサンドラは遠くへ行きたいと思ったことがなかった。求めるものがすべて隣にあったから。
何を見ても、生まれたときからそばにある幸せにはかなわなくて、どこへ行きたいとも思えなかった。それが哀しかった。
月はもはや太陽よりもずっと大きい。
ぐんぐん近づいて、月光は冷たくはなかったことをカッサンドラに教えた。
月を越えなければいけなかった。
「待っているから」
幸せだったからこそ、私は月を越えて遠くへ行かなくてはならないのだろう。暖かな寝床を捨てて。
一番大切な相手から離れて。
すべての疑問が月の光に解けていくだろう。疑念に苛まれつつなお、月が慕わしかった理由も。マキャヴィティ。あれも、月を求める力の一つ。
月に選ばれるのは誇らしいことだけれど、選ばれる理由はひとそれぞれなのだということ。自分と、タンブルブルータスのように。
本当に求めあうなら、必ずまた会える。
それを確かめる為に、今離れるのだから。
「きっと、信じているから…!」
約束はあてにならない。
確証はない。
それでも信じる。
それもきっとジェリクルのかたち。