『ランパスキャット』 2007.11.29
内容にマキャ×ヴィクを含みます
その猫と初めて会ったときのことを、だれも覚えていなかった。
猫の持つルールや枠組みは、単純で薄い。猫たちはそれを、普段は覚えていられない。猫は限りなく自由だった。
あるきっかけで、隠れていたルールが暗黙の了解のなかから立ち上がり、すべての雄猫を駆り立てるときがくる。それは、たとえば見たことのない雄猫が、自分の領域の土を踏んだとき。
けれど、その猫は舞踏会の広場に、一息に大柄な姿を現した。
街の雄猫たちが守る、どの道も踏まずに、ぽっかりとそこへ生み出されたばかりのように、黄色い毛並みの猫はいた。
だから、どの雄猫も彼を深く印象づけることはなかった。ランパスキャットでさえそうだった。
「よう」
雌猫たちの誘惑の香りも、まだ彼女らのなかに封じ込められている、春にはほど遠い季節に、ランパスキャットは初めて長身の彼に語りかけた。
彼は、黙って唇を笑みの形にした。
愛想笑いでさえ、嫌味にならないような、ひかえめな顔つきだった。
「女たちを見てたのか」
聞きようによっては、揶揄に取れるランパスキャットの問いかけに、その雄猫は軽く頷くだけだった。自然に、ランパスキャットは彼は口が利けないのだろうと思った。本当に当然のようにそう思った。
「俺もだ。雌猫たちを見てた」
ランパスキャットは、くしゃりと頬を持ち上げて顔いっぱいで笑って見せた。そうすると、大抵の猫はランパスキャットへの警戒心を解く。その雄猫はどうだっただろう。反応を確認するでもなく、彼女たちへ熱い視線を送った。
腹や腰にふっくらと丸みを帯びた、女らしい体型のジェリーロラムは、手足が長くて優雅である。カッサンドラは、濃く引かれた黒いアイラインとはふつりあいに、無防備な甘い目つきをしている。抱き込めるほど小柄な身体とあいまって、あやうい。
あるいは、折ってやったらどうなるだろうと想像させられるほど高いプライドの、露になったディミータの神経質そうな細い顔。雌猫たちは美しい。
とりわけボンバルリーナの美貌は、今更言うまでもなかった。
誘惑の香りを放っていなくても、彼女たちは魅力的だった。
黄色い猫は、ランパスキャットの言葉を聞いて思わず、といったふうに雌猫たちを振り返った。ランパスキャットは、雄猫の動きにつられて彼を見やった。
彼は、美しい彼女たちを見据えて、狙う目つきをしたまま笑っていた。盛りの雄猫特有の顔を、彼もするのかとランパスキャットは意外に思った。雌猫たちの中から、ただ一匹を見据えている大柄な猫の、しっかりした手足はいかにも芯が通って強そうで、ランパスキャットは彼に好感を抱いた。
黄色い猫の視線の先に、ジェリーロラムでもボンバルリーナでもなく、雌というには幼すぎる真白の少女がいたことを気付いていたけれど、それでも黄色い猫に対しての好意はゆらがなかった。
まぶしそうに少女を見つめる彼は、危険な男には見えなかった。
「ヴィクトリアだ」
彼は、ランパスキャットが教えた名前を、身体に刻みつけるように、唇で発音をなぞった。ヴィクトリア、と。
そして、彼女から長く視線を外さなかった。
このころには、ランパスキャットはすでにジェミマに出会っていて、彼女を自分の庇護する猫に勝手に決めていた。
彼は、口が利けるのだと知ったとき、あるいは、誰も彼の名前を知らないのだと気付いたとき、あるいは、ヴィクトリア以外に向けるふとした視線の、異様な冷たさに気付いたとき。
何より、話せないのだと思っていた彼の、口調の奇妙な甘ったるさにおぞ気をふるった時から、ランパスキャットは彼を危険な男だと断じた。
「ランパス!」
彼は、嬉しそうに挨拶した。
季節が春に差し掛かるころには、ランパスキャットは彼の本性に気付いていた。だから、いっそうの笑顔で彼に応えた。
「よう、久しぶりだな」
「本当に。変わったことはなかった? 集会で、会わなかったけど」
「俺はいただろうと思う。お前が、他のことに夢中だったんだろう」
「そうかな。大して楽しいことはなかった気がするけど」
奇妙に固い腕が、ランパスキャットの肩に回された。
「今日、ここで会えてよかったよ。これから、暇だろう?」
「…何の用だ? つきあうかどうかは、内容によるな」
「内容? 特に予定はない。君ともっと遊びたいだけだから」
「それじゃあ、だめだ」
ランパスキャットは、気安く乗った黄色い毛並みの腕を、自分の上から降ろさせた。
「いいじゃないか。たまにはつきあえよ。
雌猫たちと一緒でもいいな。心当たりはない?」
「お前な、そっちから誘ったんだから、そっちで用意しろ」
「僕はあまり知り合いがいないんだ。知ってるだろう? その点、君は顔が広いから」
嫌味のない顔が、喉を鳴らしそうに目を細めながら、ランパスキャットの鼻先にずいとせまった。親しげに肩に載せた手を、ついさっき叩き落されたことにさえ、気付いていないような振る舞いだった。その猫は、警戒心のなさを装う。けれど、それは偽りだった。
偽りだと、ランパスキャットに知らしめるように彼も振舞う。
「…!」
びくりと、黄色い小さな耳が痙攣したと思うと、長身の猫がすばやくランパスキャットの前から身を引いた。
振り返らなくてもわかる。
後からやってくるのが、誰なのか。
思った通り、若い猫の硬質な声が路地に響いた。
「ランパス」
「ギルバート…」
黄色い猫は、ギルバートが姿を見せる前から急にむっつりと黙り込んだ。笑顔を、無表情の後ろに隠す。
「ギル……なんか用?」
「いや、俺は」
「用がないなら、狩りをしようよ。ここじゃだめだから、ギルのなわばりに行こう。だって、ここはランパスの場所だから、あんまり長居しちゃだめだよ」
「なんだよ。わかってる」
ギルバートが、ぷうと頬をふくらませる。ランパスの目の前で、黄色いのに注意されたことが気に喰わないのだろう。
けれど、黄色い猫がランパスをずっと睨んでいることに気付いて、彼はすぐ息を吐いた。
「わかったわかった。行こう。邪魔したな、ランパス」
「いい。またな、黄色いのとギル」
「……行こうよ、ギル」
「おい!」
「わかってるよ! ……さ、よ、う、な、ら!」
ギルバートは、不服そうにランパスへ挨拶した黄色い猫を、可笑しそうに見ている。黒い鋭い瞳は、明らかに嬉しさと優越感を浮かべていた。
騙されている。
他愛もなく、赤子の手を捻るように。
こんな場面を前にして、どうしてあの黄色い猫に好意を抱けるだろう。どうして、彼が悪気のない相手だと思えるだろう。
ギルバートに、あの黄色い猫が自分といがみあうふりをするのは、彼が見ている前だけだと教えたら、彼はどんな顔をするだろうか。
ふたりきりのときにあの黄色い猫がする、媚びたような甘えたしぐさを、彼はギルバートだけでなく、他のすべての猫にしているのだと教えたら、きっとギルバートは信じない。
「どうして、あいつなんだろうな」
ヴィクトリアを見つめる彼は、危険な男には見えなかった。
けれど、遠くから憧れる彼女に、黄色い猫は固く閉じた口を割ることはしなかった。それが出来たのは、今騙されているギルバートだった。
ギルバートと出会って、彼は初めて言葉を多くした。明るく弾ける彼の笑い声を聞いて、初めて、ランパスキャットは彼が危険な男だと気付いた。
『マンカストラップ』 2007.12.07
黒々と影を落すほど茂った草の陰に、黄色い猫が両手を揃えて身を伏せていた。彼を隠す緑は、夏の暑さに成長を促されのびのびと葉を伸ばしている。黄色い猫は、彼にしては驚くほど辛抱強く、じっと待っていた。獲物がやってくるのを。
やがて、彼の目前でぴしゃんと水音が撥ねる。数の少ない瞬きを、ゆっくり繰り返していた黄色い猫の身体が、全身に力をみなぎらせた。ほっそりした体の内側で彼を支える筋肉が、気配もさせずに腕から背中にかけて流れるようにしなる。静かに蹲っていた猫が前足にぐっと力を込め、走り出す直前の姿勢になっても、彼は身を隠していた緑色をカサとも言わせなかった。
草の根元から、1ヤードも離れていない水面に、浮かんだカエルがぺたぺたと濡れた足で地面を踏む。身体を乾かそうとしてか、丸い目の上下からまぶたがせり上がり、眠そうな目を覆ったとき、疾風が柔らかい背中をたたきつけた。
獲物を地面に押し付けると、猫は一息に牙を差し込んだ。もう、カエルは動かない。
余裕のないやりかたに、はたで見ていただけのマンカストラップはこっそり苦笑を漏らした。急いでそれをかみ殺す。
「やったな」
彼の邪魔をしてはいけない。
狩りに備える彼の側で、匂いを立てないよう極力詰めていた息を吐き出し、マンカストラップは賞賛の言葉を贈った。
たとえ猫の本能だとしても、必ず獲物を弄ばなければならないという法はない。そういえば、彼と一緒に暮らしているギルバートも、捕った獲物を苦しませるのを嫌っていた。狩りの興奮に黒い瞳がらんらんと輝いていようとも、彼は遊ばずにすぐに食べてしまう。そうして、それ以外のことで身体を動かして残酷な興奮を鎮めようとするのが常だった。
マンカストラップがそのように教えたわけではなく、子供のころからのことだから、それが彼の生まれつきの性分なんだろう。そして、ギルバートに狩りを教わっているというこの黄色い猫も、同じやり方をする。
それは、マンカストラップにとってくすぐったいような照れくさいような、妙に嬉しいことだった。
「マンカストラップ」
黄色い猫は、初めて気付いたように群のリーダー猫を呼んだ。精神的なリーダーはオールデュトロノミーだけれど、実質的に群をとりまとめて集会を仕切るのはマンカストラップだった。この、どこか落ちつかなげな黄色い猫は、いつでもマンカストラップへの礼節を忘れない。
声を掛けられればかならず振り向くし、物を聞かれれば答える。たとえ遊びたくてそわそわ足を動かしていても、マンカストラップの前から了解なしにいなくなることはしない。
ギルバートと暮らすようになってからだ。
「ひとりか? ギルバートはどうした?」
「ねぐらにいる。俺のこと待ってる」
「お前ひとりに、狩りをさせてか」
彼らしくない。
食べることは命をつなぐことだ。マンカストラップの知る彼は、黙って誰かに命を預けるようななまくらではない。この黄色い猫だけを狩りに出して、怠惰に寝床にもぐりこむような輩では…
「ギルは、どうした? そういえばこのごろ、姿を見かけないが」
不穏を感じ取るマンカストラップに、黄色い猫はこくりと頷いて見せた。
「具合が悪いんだ。だから、俺が獲物を持っていってやらないと」
「……そうか。気付かなかった。いつから?」
「いつだっけ。ずっとだよ。でも、心配しないで。俺がついてるから、すぐ元気になる。
今度の集会には、きっと出られるようになっていると思うよ」
「頼もしいな」
褒められたことが嬉しい子供のように、その黄色い猫もぱっと顔を輝かせた。
「ギルには親切にしてもらったから、今度は俺がギルを助けてあげるんだ!
ギルも、俺のこと頼りにしてくれるから」
「お前がいてくれるおかげで、俺も安心だ」
「マンカストラップ…」
「ギルは、きっとどんなに身体の調子が悪くても、俺には頼らないだろう」
ギルバートだけでなく、ランペルティーザも、おそらくジェミマも。
群のボスと持ち上げられてはいるが、子供たちにさえ、何もしてやれない。自分のいたらなさに、マンカストラップは忸怩たる思いがする。自省以上に、彼女らが本当に困ったとき、助けになれないことが辛かった。
もし、彼女たちが気付かないところで苦しんでいたら…
けれど、それは杞憂だった。
「ギルのことは、俺にまかせておいて。マンカストラップは、忙しいだろう。群のこととか、マキャヴィティのこととかで。ギルのことは、俺が全部面倒見るから」
マンカストラップは自嘲の笑みを、なんとかリーダーらしい表情に溶かし込んだ。
「ああ、そのとおりだ。頼む」
ギルバートにしてやれることはない。
けれど、彼にはこの黄色い猫がいる。ランペルティーザにはマンゴジェリーが。ジェミマには、ランパスキャットが。
助け手が、それぞれ用意されている。運命がそうしたかのようだった。
群のすべてを、平等に愛そうとするマンカストラップとは裏腹に、彼らの関係は取替えのきかない特別なものだった。彼らにとって、幼くても彼女らは特別な存在だった。マンカストラップは敗北を認めざるを得ない。
だから言った。
「ギルを、頼む」
黄色い猫は、頼られた嬉しさと誇りで胸をいっぱいに満たして、ますます微笑むだろう、とマンカストラップは思った。
薄い金の毛並みのなか、一番濃い金色、金色の濃いあまりに茶に凝って琥珀色をした彼の瞳が、ぐらりと動いてきつくマンカストラップを睨む。冷ややかな目だった。むくつけに敵対心を浴びせられ、マンカストラップは、本能的に身を引いた。
いつもふにゃふにゃと微笑んでいる彼が。
見慣れたはずの仲間が、得たいの知らない何かにふいにとって変わったようだった。黄色い猫は、微笑みの欠片もない顔でつまらなそうに言う。
「ギルのこと、マンカストラップは気にしないでいいよ」
「……黄色いの?」
「そう言ってるだろう。マンカストラップは、忙しいんだから、そんなちっぽけなことにまで関わらなくていいんだよ」
ちっぽけなこと?
ギルバートのことか?
「あんたの大切な群れと、オールデュトロノミーのことだけ考えていればいい。ギルのことは俺がどうにでもする。だって、俺は……」
紙くずを丸めたように、黄色い猫の冷たい顔が崩れた。
「だって…俺が、ギルのこと……」
見知らぬ雄猫を見つけたように、身体を大きくたわませていたマンカストラップは、やっと肩の力を抜いた。
この黄色い猫は、いつでも微笑んでいた。いっそ無表情なほどに。
ギルバートと友達になって、それから彼は色々な表情を作るようになった。退屈している顔、つまらなそうな顔、嬉しいときの顔、面白いと笑い転げる声。
「俺は、手出ししない。安心しろ」
「マンカストラップ」
「だから、そんな泣きそうな顔をするな。お前の仕事を、取ったりしない」
「本当に? こっそり、ねぐらを覗きにきたりしない?!」
「……しないよ」
言われなければ、今日ギルバートの様子を見に行くつもりだったことを隠して、マンカストラップは約束する。
「本当にギルは俺がいれば大丈夫なんだよ!! 他のやつらにもそう言っといてくれないか」
「落ち着け……ギルのことを心配している猫がいたら、お前のことを話してやるから」
「本当に本当に、約束だよ」
「ああ。約束は守る」
また、くしゃりと黄色い猫の顔が崩れた。
今度は涙でなく、笑顔で。
マンカストラップは、力強く言ってやる。
「約束する。ギルバートを、宜しく頼む」
こくりと頷いた黄色い猫は、いつもの地に足のつかない歩き方で帰っていった。跳ねるような、楽しそうな足取り。
――なんて、頼りない……
骨がないように微笑む顔も、氷より冷たくマンカストラップを睨んだ顔も。
どちらも、同じことだ。
彼には、幼さを感じる。ギルバートがどうして彼を可愛がるか、よくわかる。彼は子供たちと同じようだ。助けてやらなくては、とギルバートは思ったに違いない。
けれど。
マンカストラップは腹の中が温かくなるのを感じる。
――けれど、庇護していたはずの子供たちに、逆に助けられることもある。
ギルバートが困ったときは、黄色い猫が彼の力になる。普段、助けてやろう、守ってやろうとばかり思っていた猫に、逆に助けられて、彼はどう思っただろう。きっと、まつわりついて世話を焼こうとする黄色い猫に、ギルバートは目を白黒させているに違いない。とまどって、でも彼のことだから、律儀にお礼を言うに違いない。
それは、ギルバートを少しだけ成長させることだろう。
空を見上げて、遠くに輝くまぶしい日差しに目を細める。清廉なマンカストラップは、ギルバートがどんな格好をして黄色い猫を待っているかは、知らないままでいた。
「ただいま」
銀と黒のリーダー猫マンカストラップが、黄色い猫と別れたのは、太陽が空に高い時分だった。それなのにギルバートと、彼に「名前のない猫」と呼ばれた猫の暮らすねぐらには、薄い闇がいつも降りていて晴れなかった。今、夜なのか、昼なのか。
そこから出られない猫には、幾晩が過ぎ、また朝が廻ったのかが分らない。
黄色い猫だけがそれを把握していた。
「……!」
ギルバートは喉をふさがれて、声を出す事ができなかった。けれど、苦しそうに必死で助けを求めた。
「ギルバートのために、ご飯をもってきてやったよ」
ギルバートの黒い瞳が、紡げない言葉の代わりに視線で訴えかける。大きな目の下で、涙の跡が乾いてかさかさに肌を荒らしていた。いつもは厳しく律せられた彼の顔が、苦しみのあまりに滴る涙と汗とで、だらしなくゆがんでいる。黄色い猫は、ギルバートを見下ろしながら無邪気な笑顔を輝かせてみせた。
「マンカストラップが、俺にお前のことをよろしく頼む、って」
黄色い毛並みの、大きな猫。彼の本当の名前を、まだ誰も知らない。