『タンブルブルータス』
  2007.11.26. 
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少しも、共鳴するところがあるとは思えない。

自分は群を愛し、また世界を愛している。
あいつは、何もかもを憎んでいる。少なくとも、俺にはそう見えた。

けれど、いつからだろう。爪をむき出し、全身で威嚇する自分のことを、彼の瞳が見つめていた。

いくど視線を合わせたか。もう数えることはできない。

「簡単なんだ、こちら側へ来る事は」

答えてはいけない。
魔物は、言葉でも獲物を絡めとるという。名前ひとつで、呪いをかけるという。答えてはいけない。

「そして、こちら側へきても、何も変わらない」

彼は、倦んだような微笑を頬へ貼り付けた。
こういうところだ。彼が、世界を愛していないと感じさせるのは。

「こちら側へきたら、ジェリクルを失うとでも思っているのか? そんなことはない。僕も、紛れもなくジェリクルだよ。ジェリクルそのものだ。あの舞踏会で、月に選ばれてなんの不思議もない。
僕は、何匹も仲間を殺しているのにねえ」

答えてはいけない。

「僕のもとへおいで。とても楽しいよ」

本当に楽しそうに、彼は声を弾ませる。けれど、彼の瞳はいつも飢えた光を湛えている。吸血鬼のようだった。あるいは麻薬中毒者のようだ。
動脈へ打ち込んだ麻薬の利いた、ほんの数分間だけ、渇きを忘れられる。

そんなのはごめんだ。

「去れ、魔物よ」
「君には、僕がそう見える?
光栄だけど、買いかぶりだよ。僕はただの猫だ。ただのジェリクル…だ、よ?」

ただの、生身の相手であるのなら。
タンブルブルータスは、歯を食いしばった。
いままで、誰の前でも膝を折った事などなかった。たとえ相手がランパスキャットだったとしても。それなのに、この赤毛の猫の前にいると、まるで底なし沼を素手で叩いている気になる。

叩き込んだはずの拳が、疲労となって跳ね返ってくる。そして奔流のように、その10倍もの痛みが身体を襲った。なんの手加減も、躊躇もない暴力。こんな怒りと憎しみに触れたことはかつてなく、また、それに抗うほどどの猫も、誰かを憎しみぬいたことはない。

「君には、君にだけは分るはずだ。安穏と暮らす猫たちとは違う。君はいつでも、こちらと君たちの今いる場所とのボーダーラインを見据えていて、そして明らかに自分の立つ位置を知っている。
そんな猫は、君の他にいない」
「買いかぶりだ」
「あの哀れで惨めな娼婦猫を、いっそひきさいてやりたいと思ったことは?」

魔物は言葉で、獲物の心臓を握りつぶす。抗って、タンブルブルータスは歯を食いしばった。

「去れ、けだもの! 憐れな生き物め!」
「君もけだものだ。しかも手負いの。
ねえ、なぜ。なぜ僕を拒む? 僕の配下に加わるといい。君は彼らより、僕に近い」
「去れ…」

言葉から、力が抜けて行く。底なし沼が、今や喉元まで自分を飲み込んだ。

「思うままに生きさせてあげよう。息をさせてあげる。
その境界線の向こうにいたのでは、君は苦しいんだろう。君の妹も、こちらに連れてくるといい。彼女は君のものだ」

光が、底なし沼の奥底までを貫いた。

「残念。彼女は、俺の姉だ」

もはや右足は役に立たない。けれど泥をつかむための手足は、あと3つあった。動ける。
さあ、反撃しよう。
あの金の目を狙え。急所をさがしてそこをにぎりつぶせ。あんな命など消えてもかまうものか。光よ。
闇をまつたく焼き滅ぼせ。

「やはり君は、僕に近い」

マキャヴィティはすんでのところでこの手を逃れた。あと少しで、捻り潰してやれたのに。

「あやうい境界線を、軽々と越えようとする。君は僕の傍にくるべきだよ」
「境界線など、100万回でも越えられる」
「へえ?」

にやついたマキャヴィティは、危機を察知したのか、小ざかしく一歩下がった。彼の息を吹きかけられずにすんで、せいせいする。

「そんなものはないも同然だからだ。いくらだって行き来する。俺はそんなもののために罪の意識を感じたことはない」
「では、なぜ?」

こんな相手に言うつもりはない。
今年生まれた仔猫よりも、ともすれば小柄な彼女のことを。誰よりも早く走り、身軽で、怖がりで、甘えたがりで、芯の弱い彼女のことを。
娼婦猫にさえ、彼女は同情する。そして、何もしない。子供たちのように手を伸ばしてみることもしない。ただ怖そうにため息をつくだけ。自分が彼女へ同情していることにさえ、ひと知れず怖がっている。
彼女の恐れるすべてをこの世界から取り除きたい。
マキャヴィティでさえものの数ではない。自分さえ消える。

境界線を越えるタブーより、彼女はずっと強固な楔だった。
悪を焼き尽くす光だった。

「君は、こちら側にまだ来ていないつもりなのかもしれない。
けれど、本当にそうだろうか」

目の前に立つ赤毛の闇が、なお誘惑する。

「魔物め。俺に指一本触れたら、お前の喉笛を喰いちぎってやる」
「境界を見据えて、それをいつでも越えられると言った君は、もう僕の眷属なのではないか? もはや僕のものなのではないの。
ねえ、タンブルブルータス……気付いたら、手に血がついていたことは?
記憶のない夜はない?
僕に操られていた自分を、君はいつ気付くことができるかなぁ」
「去れ!! 俺にお前のまやかしは効かない。
闇に去れ、マキャヴィティ!」

闇の魔物は負けず嫌いにも、哄笑を残して去っていった。逃げたのだ。自分の血まみれの手を見下ろして、タンブルブルータスはがくがく膝を震わせる。

「こんな格好じゃ、ねぐらに戻れないな」

濃厚な血が交じり合う。自分と、得体の知れない相手との赤が交わって、もう分かつことはできない。

タンブルブルータスの黒い瞳が、いつもよりくっきり闇を見通した。足りない。
体中が興奮と歓喜に震え出して止まらなかった。足りない。今、ここにあの娼婦猫がいなかった事は本当に幸いだった。タンブルブルータスにとって、そして、たぶんカッサンドラにとって。

暗褐色の毛並みを、血まみれにした姿は、確かに赤毛の犯罪王と似ていたかも知れない。

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『ディミータ』  2007.11.26.
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猫の中の猫。それが彼女への第一印象だった。

ディミータは、ばさりとしっぽを振り回して、雄猫を打った。鋭く斜めに視線を走らせて、雄猫を睨む。

「ごめん」

彼女は、声を立てずに唇をまくりあげて、白い牙を見せ付ける。なぜこんなにと思うほど、彼女は気が荒い。









彼女を見るのが好きだ。

彼女の美しくない顔、不器用な手足、何より、醜い心。それらを見つめるのが好きだった。

ディミータとは踊ったことがなかった。彼女は、受け入れる猫と拒絶する猫とを自分で決めて、きっぱりと態度で示す。怖くて、近寄ったことがなかった。ただ暖めあいたかっただけなのに、むやみに怒鳴られてはたまらない。

けれど、今、彼女は自分を拒絶しないだろう。確信があった。
だから、険の強い彼女の顔色を窺うこともなく、しなやかで指先の荒れた彼女の手をとり、踊りの輪に乱暴に叩き込んだ。

思ったとおり、彼女の軽い体は、つかみかかるように雄猫の腕の中へ収まった。なめらかな頬は、いつもほとんど無表情のままで、だからこそいっそう威嚇の激しさが際立つ。笑ったところを、見たことがない。けれど、ディミータは、若く美しく、別に醜くはなかった。

醜いのは、グリザベラだった。

この老いた雌猫が見ている前では、ディミータも気性の激しさを群の猫に向けようとしない。彼女の攻撃性は、ただひとすじに憐れな老女へと牙を向く。

現に、胸の接して触れるほど近くで踊っている彼女は、自分を通り越してもっと遠くを見つめていた。
見せ付けるためだけの踊り。

高揚感は、彼女を受け入れないと示すことのみに根拠する。ただ手足を振り回すだけの、喧嘩のように猛々しい…

けれど、それは楽しい踊りだった。

マキャヴィティは、彼女を見るのが好きだった。

グリザベラよりも、グリザベラを拒絶する猫たちの醜い姿を見つめるのが、とても好きだった。グリザベラの悲しみよりも、それを見すえるのが、好きだった。

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