『ランペルティーザ』
  2007.12.04. 
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「あいつには近づくな」

どこかに視線を飛ばしながら、マンゴが言う。

「どうして?」
「ああー、やっぱり、そういうこと聞いちゃう?」
「当たり前じゃない! 理由もなく、納得できないよ」
「だから、お前に言おうかどうしようか迷ったんだよ。なあ、ランプ。俺の言う事をきかないのはお前の自由だ。だけど、これだけは約束してほしい」
「何よ」
「俺に、あんたに近づくなって言われたけどあんたどう思う、とは、アイツに聞いてくれるなよ」

アイツとは、長身で黄色い、雄猫のことだった。マンゴジェリーより背の高い猫なんて、本当に珍しい。それくらいが、彼に対するランペルティーザの印象のすべてだった。
ランペルティーザは、口元を尖らせる。

「あたし、そんなに信用ない?」
「そんなわけないけどさ」
「あんたをそんなに信用してないと、あんた思ってるわけ?」

 あんたの忠告を、あたしが無視して踏みにじると思っているのなら、それは誤解だ。あたしは、あんたがあたしよりずっと長く生きていて、ずっと手だれだと知っている。
 マンゴは、ようやく振り返って視線を定めた。ひょろりと鼻の長い顔が、あたしを見つめる。

「違う。ただ、お前は自由だから、お前が何をしようと俺には口出しする権利ないと思ってる」
「つもりもないくせに!」
「当たり前だろ。俺は、ただ俺の知ってることはお前に教えたいだけだって」
「ありがとう」

マンゴジェリーは、自分は信頼されていないかもしれないと心配しても、ランペルティーザの責任をランペルティーザ自身が負う事はかけらも疑わない。
厳しい寒さのなかで、ランペルティーザの頬が熱くなる。
長く生きてもいない、未熟な心を、温かいものが満たしていく。
そして、もうひとりの大切な猫の心配そうな声が頭の中で再生された。

――どうして、お前はそうなんだ。

生真面目な猫。群のボスで、みんなに尊敬されている。大好きだった。今もそうだ。それなのに、彼の一番傍にいると、胸の痛む事ばかりだった。
だから、こうして楽に息をつける今が信じられない。凍てつく冬にさえ、生きる事が、楽しいなんて。

「ねえ、マンゴ。あたし、思うの。あんたがそう言うなら、きっとあいつはあんたの言うとおり、危険なやつなのかもしれないって」
「危険かどうかは、わからない。
だけどあいつは、得体が知れない」
「そうかもしれない。でも、たとえどんなにあいつの本性が魔物のようだったとしても、猫でなかったとしても、あたしたちには関係ない。
マンゴ、あんたもよけいな心配しないで」

きっぱりと言うと、マンゴジェリーはふと片目を眇めた。
安心させるために、もう一度口を開く。

「だって、あいつがあたしたちに興味ないんだもん。だから、どんなにあいつがおかしかろーが、あたしたちには関係ないよ!」

それだけ言うと、握り締めていたローストビーフを顔いっぱいにほお張った。もう何も言えない。美味しい味が、口のなかを占めている。

「案外、そーかもな」

ふたりの仕事の成果を、独り占めしているあたしに、マンゴジェリーは近づいて肉塊の反対の端にかじりついた。
溢れた肉汁が、マンゴジェリーの口許とあたしの手首を伝っていく。慌ててあたしは、一滴たりとも無駄にしないよう、それらを舌で舐め取ったのだった。



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『オールデュトロノミー』
  2007.12.12 
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おだやかな気候の土地だけれど、小さなものにとってやはり冬は過酷だ。特に、陽が昇ろうとする一瞬前の時間は、月も星ぼしもいっさいの明かりが空から消え、冷えた空気が冴え渡る。

ふと、膝に温かさが触れた。

「黄色いの…」

その猫は、額をこすりつけるようにして僕の右足に寄り添った。僕と彼の他には、動くものとてない古びた部屋で、彼は物思わしい顔をしてじっとそうしていた。それは珍しいことだった。彼は、いつも群から一定の距離を置くところがあって、僕に対しても例外ではなかった。親しい友はいたようだが……。僕は、彼に嫌われていると思っていたのに。

彼は、とても素直な目つきをして僕を見つめた。

黄色くてふわふわとした、生まれたてのひよこのような彼の耳を見下ろしながら、僕は彼の頭を撫でてやりたい衝動をひっそり抑えていた。おとなも子供も関係なく、慕ってくれる猫は可愛い。けれど、おとなにはおとななりの接し方をしなければ無礼だろう。
僕は長老なのだし、みんなの範にならなければ。と、たまには思う。

「何か怖いのかい?」

何気なく聞いてみたが、彼は胸を付かれたように身体を震わせた。彼の大きな手が、僕の膝にのってそこも暖かかった。

「もうすぐ……来るから」
「何が?」
「今度の集会は、いつもの集会とは違う。年に一度の、…」
「ああ、ジェリクルムーンのことか」

彼は、いっそう恐れるように身を縮めた。膝に触れていた熱がその分遠ざかり、代わりに冷たさが僕の全身を覆う。長い年月を耐えた、辛抱強い僕の身体も、寒さにぶるりと震えを走らせる。

「マキャヴィティがやってくるかもしれないことが、怖いのかね」

その猫は、今度はぴょこんと耳だけを振るった。見開いた琥珀色の目には、灰色をした僕の姿と、そんなことは考えてもみなかったという彼の驚きが映し出されていた。

「俺が恐れるのは、あれだ。俺には、なぜ皆があれを恐れないのかわからない」

あれと言って、彼は月のない空についと指をさし向けた。

「あれ? まさか…」
「月」

僕は、驚いてしまってしばらく口が聞けなかった。彼は、再度言葉を重ねる。
「天上も」

「ああ、それは、辛いね」
「怒らないのか?」
「どうして。みんなが当然だと思っているものを、自分だけ恐れているなんて、どれほど怖いことだろう」
「あんたは、とても寛大だ」
「どういたしまして」

彼は、ますます僕から離れた。

「俺には、わからない。なぜジェリクルに選ばれるのか。選ばれたらどこへ行くのか。どうして、選ばれるのか」
「その答えは、わしもしらんのじゃよ」

僕も、それをとても知りたいと思っていた。

「あんたが、その猫を選ぶのに?」
「わしが選ぶというのは、正確ではない。わしが選ぶ前に、その猫は月や仲間たちから、すでに選ばれているのだから」
「選び間違えたことは?」

僕は、思わず苦笑してしまった。なんということを言うのか! そう聞かれたことが、初めてだとは言わない。けれど本当に、猫には珍しいほど物を考えるタイプだ、彼は。

「さあ。間違っていたとして、それを教えてくれるものはあるかな? どんな猫が、それをわしに教えてくれる?」
「あんたが間違ったせいで、あっちでは大騒ぎかもしれない。間違って選ばれたものが、立ち往生してるかも」
「それは、気の毒だねぇ」

天上世界の待合室で、受付のお姉さんに「○○さまー、お待たせいたしました。お調べいたしました所、貴方の年齢や外見に該当する猫が、天上への移住を許されたというデータは現在のところこちらには上がっておりませんが?」とかつっけんどんに言われているところを想像し、想像上の○○に僕はとても同情した。昨日、神父さまが見ておられたテレビジョンの中そのままの光景を思い描き、僕はにっこり笑ってしまった。

「ずいぶん、ひとごとなんだな…」
「だって、ひとごとじゃろ? わしは知らないもーん。間違っていたら間違っていたで、そっちでなんとかするじゃろうて」

居座るもよし、帰ってくるもよし。
ジェリクルなのだから、どこででもやっていけるだろう。

「ジェリクルって、何なんだろう。オールデュトロノミー。俺は、どうしたら選ばれることができますか」
「君は、月を恐れているのではなかったのかい」
「選ばれないことを、恐れてる」
「ああ、……僕は、また勘違いしていたようだ。すまないね、論点のずれた話につきあわせて。
それで、なんで君はそんなにかたくなに、自分は絶対に選ばれないと思いこんでいるのかな」

これは、きちんと彼の話の核心をついたようだった。

「俺は……選ばれないはずだから」
「それは今は誰にもわからない。なぜ君はそう思うんだ?
もし君が、立派な猫しかジェリクルでないと不安に思っているなら、それは違うとはっきり言えるよ。わしはジェリクルキャッツだけれど、嫉妬もするし怒りもする、ただの猫だ」
「普通の、ね…」

含みのある彼の言い方だった。黄色い猫は、つまらなそうに遠くへ視線を投げる。僕は、ちょっと迷ったけれど、昔のことを語り始めた。

「わしの8番目の妻が、若い雄猫に恋をした時は、それは狂おしいほど嫉妬したもんじゃ」
「はぁ。でも、雌猫は基本的に自由なんじゃ…」
「それは他の猫の話だろう! わしの奥さんは、わしとめぐりあってからはみんなわし一筋だったんじゃ!! 8番目の妻が、初めて浮気したんじゃ!!」
これは本当の話なので、遠慮なく続けさせてもらう。
「わしはのぅ、とてもとても悩んだ。妻を愛しておるが、それゆえに嫉妬も抑えがたい。若造に愛する妻を奪われ、群に対する示しがつかんと思い、いっそのこと、すべてぶち壊してやろうかと自暴自棄にもなったんじゃ。
けれど、はたと自分の心を見つめなおしてみると、本当にしたいのはすべて壊すことではないと思ったのじゃ。心から妻を愛していたので、彼女の自由を認めなければと思い至った。それは幸いなことじゃった。嫉妬とは苦しいものだ。けれど、自身の問題なのだから、それと妻自身とを切り離して考えることができたのは幸いだった。
それで僕は、奥さんが、僕の側から去ったとしてもそれもしかたがないことだと覚悟を決められたんだ」
「はあ、そうですか」
「真面目に聞いてくれてるかい? まあ、いいか。それで僕は、いっさい彼女の行動に口出しするのをやめて、自分も好きにすることにした。素直な心に従って、彼女がもう一度僕を愛してくれるよう密かに願いながら、いつもどおり自然に暮らした。そうしたら、いつの間にか彼女は僕のところに帰ってきていた。何があったのかはわからない。ただ、確かなのは、それからずっと僕は彼女と一緒に暮らせたということだけだ」
「それとジェリクルと、どういう関係が?」
「選ばれるというのはそういうことなんだよ。特別な区切りがあるわけでもなく、資格が必要なわけでもない。ただ、自然とそうなることだ。
選ばれることも、選ばれないことも、だから恐れるには値しない。君は、月を恐れなくていい」
「わかりません、あんたが何を言ってるのか」
「ええーと、わしにも、よくわからなくなってきた。びしりと言ってやれなくてすまんのう。
でも、これだけは事実じゃ。君だって、今度の月に選ばれるかもしれない」
「……」
「絶対に選ばれないということは、絶対に選ばれることに等しくありえない」
「ありがとう、ございます」
「いいえ。どういたしまして。
わかってくれて、嬉しいよ」

彼は笑顔と裏腹に、出口へじりじりと後ずさりする。遠ざかりつつある彼のあったかさを、僕は惜しく思いながら手を振った。言葉というのは、すぐに心に届くものではない。

「あ、そうだ」
「ん? なんだね」

彼は、出口に足をかけている。若干大きな声で、僕に呼びかけた。

「マキャヴィティが、次の集会に現れるって本当?」

僕は、少しだけ戸惑ってしまった。

「いや、確証はないんじゃよー。でも、たぶん。覚悟はしておこうか」
「大変だなぁ。
マキャヴィティがどこにいるか、少しでも情報はない?」
「それが、さっぱり」

彼は立ち上がっている。クッションの上に座っていた僕は、膝の寒さを寂しく思いながら彼を見上げなければならなかった。柔らかい僕の寝床は、部屋と同じように古びていてくたくたで、そして柔らかい。
若猫である彼の毛並みも、密で柔らかそうだった。淡い金色をしているはずのそれは、闇の中では光を吸い込み、灰色がかって艶がない。彼は厳粛に口を開いた。

「誰か、マキャヴィティをかくまっているやつが群のなかにいるかもしれない」
「……」

僕は、膝をそろえて座りなおした。これまで以上のやっかいな議論を、覚悟しなくてはならない。

「そういうことは、わしは考えていない。マンカストラップもそうじゃ」
「どうして? あらゆる可能性を、想定しておくべきだ」
「いないかもしれないマキャヴィティを探して、群を全部疑ってかかることは避けたい。それは、マキャヴィティの犯す犯罪よりも群を悪くすることじゃ」
「本当に潔白なら、疑われても毛ほどにも感じないものじゃないかな。ああ、それとも賢いあんたには、疑うまでもなくもう、マキャヴィティの正体の見当がついている?」
「まるで、群にマキャヴィティが隠れているような言い方だ」
「ああ、言われてみれば。考えたこともなかったけど、そういう可能性も、あるかもしれない」
「わしは、そうは思わない」

彼は、意外そうな顔をした。もう一度、僕は言った。

「わしはそうは思わない。マキャヴィティが誰かはわからない。どこにいるか知らない。その上で、彼の来襲に備えておくのがわしらの務めじゃ」
「それでは、思考を手放しているように見えるな」
「そうかもしれない。けれど、仲間を疑うような辛い役目は、誰も負いたくないものだ。そんな責任なら、道に捨てたらいい。犬に食わせてやれ。
わしは群のために尽くすけれど、自分にできないことを無理矢理しようとも、ひとに強いようとも思わない」
「それが群を守るためでも?」
「わしにはできない。君には、できるかい」
「必要なら」
「しなくていい。そんなことは、しなくていいんだ」

彼は、そっと息を吐き出した。離れていた僕にもそれがわかったのは、彼が笑い声を一緒に吐いたからだ。

「あんたの、言うとおりかもしれないな」
「そうだよ。分ってくれて嬉しいよ」
「そろそろ帰ります。今日はありがとう…ございました」
「ああ。それと、黄色いの」
「はい?」
「無理に敬語を使ってくれなくていい。いつも、君が心で思っているようにこれからはしゃべってくれないか」

彼は、一瞬表情を失った。彼の自尊心を傷つけたことに気付いて、僕は今言ってしまった言葉を後悔した。

「そうします」

彼は、僕のことをにらみつけると、さよならも言わずに去って行った。

「なぜ、彼はあんなに辛そうなんだろう」

彼には、僕に踏み入られたくない領域がある。むやみに手出ししてはいけない。僕は自制するしかない。けれど、彼の苦しみが、一日も早く去ることをひそかに願った。

『選んで欲しい』

そう叫ぶ彼の心を、感じ取ってしまったことを、彼に知られる前に。そうでなければ、僕は彼に憎まれそうだった。




マキャヴィティは思った。

「やっぱり、俺だって選ばれるかもしれないんじゃないか」

マキャヴィティは笑った。

「馬鹿みたいだ。欲しいものを我慢しても何にもならない。そんなことをしなくても、俺は何も失わない」

マキャヴィティは走った。

足元から風が吹き上がる。地平線の向こうからやってくる圧倒的な熱量が、地の底できんと冷やされた空気を、ふつふつ沸き立たせる。もうすぐ、白い日が昇る。
黄色い猫は、いつの間にか立ち止まっていた。

――なぜ。

「俺は、何も失わない」

それなのに、なぜ。
決して月に選ばれないと、マキャヴィティだけが知らされるのか。

枯れたすすきの穂の中に、黄色い猫は立っていた。花穂をすべて散らした貧弱な茎が、揺れながら彼を取り囲む。目の前をまっすぐな枯れ草色が遮る。





また、別の夜の夜明け前。

すべての猫が歌い終えた。
足元まで灰色の、長い毛並みを枝垂れさせた長老猫を、多くの猫が取り囲んでいる。慈愛に満ちた瞳が、ひとりひとりの上に留まり、励ますように瞳のなかを覗き込む。そこに強い輝きを認めると、彼は満足げに目を細めた。

選ばれるただ一匹のジェリクルは誰か。

暗闇を引き裂く、明るい光が、もうすぐそこまで迫っている。毛並みひとすじ揺らさなかった静寂が、骨に染み入るような寒さと共に消えつつある。地底から漏れる風の予感が、さわさわと敏感な猫の毛並みを擽った。





――俺を選べ。

敬愛する長老をとりかこみ、今か今かとその瞬間を待つ猫たちのなかに混じって、マキャヴィティは声を出さず何度も心で呟いた。

「俺を選ばなければ、月を引き裂いてやる」

たとえ月に、手が届いたとしても。
唯一の猫に選ばれることだけは、決してない。

マキャヴィティは、微笑む猫たちに混じって自分も頬を笑みの形にゆがめた。、少しもマキャヴィティを警戒していない、かの長老猫の足元に近づく。

オールデュトロノミーを取り返されたのは、彼の計算を大きく外れた出来事だった。黒い猫の魔術は、とんでもない力をもっていてマキャヴィティの前に立ちはだかる。
けれど、他にもいくらでも方法はある。

――もう一度、血を…

マキャヴィティの平凡な黄色の毛並みは、たやすく群の中に埋没した。
マキャヴィティはますますうつむき、ますます笑みを深くする。瞬きする間も、長老から目を逸らしはしなかった。

俺を選ばないのなら、すべて叩き壊してやると、そう心に誓った。月に選ばれたいという、確かな願いを、胸から消すことだけはどうしてもできなかった。



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