『シラバブ』
  2008.01.01 
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「シラバブ、だっけ」
「うん」

さあ、遊べ。というきらきらした瞳で見つめられ、足元をうろちょろまつわりつかれて、マキャヴィティは閉口する。ヘタをすると踏み潰しそうだった。

「ああ…あの、俺はどうしても行かなきゃいけないところが」
「そうなの?」
「ああ、お腹も減ったし…」
「ばいばい」

仔猫は急にマキャヴィティから離れると、草地の上にぺたんと座り込んだ。小さな爪で土を掘り返し、一人遊びを始める。

――どうしよう。

あまりに子供の諦めがよかったので、嘘をついて彼女を追い払おうとしたマキャヴィティはとまどう。罪悪感ではない。自分の行動のほうがよほど子供っぽかったという事実に、今更気付いたからだった。言う前に気付けば、こんな情けない気分にはならなかっただろうに。

「シラバブは、ご飯は? お腹いっぱいなの、か」
「ううん!」

シラバブは、頭からマキャヴィティの脛に飛びついてきた。




「あそこにてんとう虫がいるの、判る?」
「うん…」
「捕まえられる?」
「うん…」
「一直線に行ったらだめだ。何気なく近づくんだよ」
「うん」

シラバブは、黄色い猫の言葉どおりにゆっくりと歩く。つんと顎をそらして、目を細めて。あと三歩のところで、てんとう虫の鮮やかな色と水玉を乗せた鞘翅が浮き、その下から透明な後翅が伸びて虫が飛び立った。
目線の高さになったてんとう虫に、シラバブは飛び掛った。

「苦いっ!」

ぺっぺっと唾を吐き出しながら、シラバブは突き出した舌を毛並みで何度もぬぐう。

「あーあー…」
食べちゃだめって言うの、忘れてた……

マキャヴィティは、ここから一番近い水場はどこだったっけ、と無策に辺りを見渡した。シラバブの足元で、彼女に吐き出された小さな丸い虫は、もぞもぞと歩き出した。

「ぅわああああ――!」
「あ、泣いた」





ぐったりと熱い身体を抱いて、マキャヴィティは教会の扉を潜った。

「やあ、黄色いの」

暗闇に溶けるように蹲っていた長老猫が、長い毛並みをするりと揺らしながら立ち上がる。

「これ…」
「シラバブを、送ってくれたんだね。ありがとう」

抱いていた小さな身体を床に下ろそうとすると、マキャヴィティはぎゅっと毛並みを握られた。

「いっちゃ、嫌」
「ほお。どうする、黄色いの。行っちゃ嫌なんじゃと」
「……ごめん、シラバブ。また遊ぼうね」
「いや…」
「また来るから」
「泊まっていくかい」
「うん。泊まってく。ね?」
「シラバブ、手を放して」
マキャヴィティは、きつく握られたシラバブの指を撫でた。逆効果で、もっと強く毛並みをひっぱられる。

「泊まってく〜」

長老猫は面白がるばかりで、結局その日、黄色い猫が教会を出ることはなかった。

子猫に握り締められていた肩の毛並みはすっかり拠れて、掌の汗にしっとり湿っていた。肩を押さえながら、マキャヴィティはシラバブの顔を見つめる。しっかり閉じられたまぶたと逆に、大きく開いたままの口に手を翳すと、寝息がそこを暖めた。本格的に眠り込むまで、シラバブは黄色い猫を放さなかった。オールデュトロノミーやマンカストラップが、本当に忙しい時には彼女は聞き分けがいいという。シラバブは、本能的に黄色い猫がヒマであることを知っているのかもしれない。

あまり親切でない猫にさえ、無邪気になついてくる彼女は、マキャヴィティから見てもとても可愛らしかった。

彼女を失えば、群はさぞかし大きな打撃を受けただろう。

そうと知っていて、なぜ、彼らはあの子をマキャヴィティへ託すのか。そして、なぜ、自分は彼女を見逃すのか。疲れきったシラバブを抱いて、教会へ向かう間にも、うたうたと眠ってしまった仔猫の細い首筋を片手で支えながら、少しも考えられなかった。彼女を害そう、とは。

済んでしまったことだった。

今も手の中に預けられた、無防備な暖かい寝顔を見ないふりで、マキャヴィティは高い位置にある窓を見上げる。薄墨色の空が、新たな夜の始まりを猫につげていた。



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『バストファジョーンズ』
  2008.01.26. 
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「あんたは生きたい?」

バストファージョーンズは、へなへなと座り込んだ。身体が跳ね返るような上質のクッションか、高々と設けられた椅子の上にしか馴染まない高貴な身体に、コンクリートの冷たさがじわじわ這い登ってくる。

「答えて。あんたは、生きていたいの?」

彼の周りには誰もいない。
常日頃から、若い若くないにかかわらず多くの猫や人間たちをはべらすバストファージョーンズが、今は群から切り離されてたったひとりで姿の見えない問いかけと向き合わなければならなかった。

彼は、逃げる途中で落としてしまった彼のステッキがわりのスプーンを、恋しがるように胸の前に両手を握る。

「答えて」

あれは、犯罪王の声だ。

「答えないのか」

苛立ちをはらんだ声が、いずこからともなくバストファージョンズの頭上に落ちてくる。拡声器で増幅しすぎたように、それは割れて聴きとりづらかった。
あの犯罪王は、グリザベラが天上へ送られた日から、とんと姿を見せなかったのに、なぜ……

「答えたくないというのなら、それでもいい」
「あ、あ…」

窓ガラスをびりびり振動させながら、声が言う。もういいと。

つきはなす言葉に取り返しのつかないものを覚えて、黒猫はあわあわと取り乱す。けれど、犯罪王の問いかけを返す事はできなかった。
たとえ答えたとしても、それが彼の考える「正解」でなければ、スフィンクスの謎かけに失敗した人間の末路が待っていると、いままでのマキャヴィティの行状から察しがついたからだ。

「さようなら」
「…え?」

けれど、予想は外れた。虚勢を張る事もできず、戦うそぶりすら見せなかったバストファジョーンズの上から、何も奪わずに彼の気配が消えていく。

ふとまわりを見渡すと、そこは何の変哲もない場所だった。行き止まりでもなく、左右に長く道が続いている。脱力するバストファジョーンズの背後にあって、彼が背中を預けていたのは、夕餉のあたたかな湯気と匂いと光とを透かす小さなドアだった。彼の前方には、ずいぶん遠くに緑の生垣が。
バストファジョーンズが寄り添う小さな家は、内側でたかれた暖房によって、木目を見せる外壁まで暖かいようだった。

種族は違えど子供だと、はっきりわかるかん高い声が、黒いジェリクル猫の耳にも届く。

座り込む黒猫の両脇には、四足の獣だけが通れるほどの密かな道が、冬の夜の暗闇を抱きながら伸びていた。

「生きて、いたいよ」

それだけを呟くと、いつもの威厳を取り戻したバストファジョーンズは、しっかりと大地を踏みしめて彼の住処を目指す。前を向いて歩く彼は、人間たちにかしずかれているときには見せない顔をしていた。

「やっぱりそうなのか」

小さく呟かれた猫の声は、もう黒猫の耳には入らなかった。

「やっぱり、そう思っているのか?」

黄色い毛並みのマキャヴィティは、そう呟くと街灯を避けて闇の中へ身を引いた。バストファジョーンズは知らない。彼の住む高台の高級住宅地と、とても近い場所にあるねぐらへ向けて、マキャヴィティもまた帰っていったことを。



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