『タントミール』
  2008.01.26. 
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彼女はとても優雅だった。
いつ見ても、毛並みは艶やかで満ち足りた顔をしている。白い息を吐きながらジェリクルヤードに現れた彼女の身体から、強烈な違和感を伴って立ち上る匂いがあったとしても、ギルバートや多くの猫にとって、それは彼女の魅力を損なうものではなかったらしい。

「ああ、気になる?」
そう言って、タントミールはチョコレート色の自分の毛並みを撫でた。
「ごめんなさい。ニンゲンの匂いは、苦手な人もいるわよね」

彼女は腕を伸ばし、肩先へ小さな顔を寄せた。睫が伏せられ、青い月が隠れるように白いまぶたが瞳を隠す。彼女は匂いを消そうと、しなやかな指先までちろりと出した舌先で丁寧に辿っていく。

「そうだね」

雌猫のしぐさを眺めながら、黄色い猫はぴくぴく耳を動かして、声の届くほど近くに猫の気配がないことを確認した。そして、尋ねた。

「どんな感じ? 人間に飼われるって」
「そうね…」

飼われ猫。黄色い猫のぶしつけな問いかけを、タントミールは少しもとがめず、優しく答える。

「ちがう種類の生き物と暮らすのって、とても面白いわ」
「人間に抱かれるのってどんな感じ?」
「そう。こんなに強くあの人の匂いがついたんじゃ、誤魔化せないか。私、人に抱かれるのはけっこう嫌いじゃないの。人ってとても大きいでしょう。私を抱いたままあの人が歩くと、すごく高い場所からゆらゆら揺れる景色を眺めていられる。これは面白いわよう。歩いていないのに、景色が動くんだもの。居心地は、あんまりよくもないんだけどね」
「食べ物を、いつも与えられるというのは楽だろうね」
「そうね。その代わり、それがいつまでも続くとは思ってないわ。たぶん、マンカストラップもそうでしょう。今日は彼らのほうが狩りに成功して、獲物を分けてくれたけれど、私はいつでも自分でそうする用意がある」

そうして、失敗して飢える覚悟がある、ということだろう。黄色い猫はもうひとつだけ、意地悪な質問を投げた。

「人間とギルバート、君にとってはどちらが大事?」

これには、タントミールは瞠目した。

長い沈黙は、彼女の中では両者が、比べ物になるくらい大きな存在であるということを黄色い猫へ教えていた。輝かしいジェリクルの仲間であるギルバートと、人間などを同列視するタントミールの内心を知ったら、群の仲間はどうするだろう。黄色い猫が思うには、少なくともディミータはますます彼女を嫌うに違いない。ディミータは、飼われた過去を持っていても自分と人間との間に明確な一線を引いていたというし。

「私は、他の猫に言わない秘密があるの」
「それは、どういうこと」
「このジェリクルの世界と同じくらいに、とても大切な世界を持っているということ。あの人と一緒にいるとね、私、自分が猫でないように思うときがあるのよ。あの人と同じ種類の生き物になった気がする。月に守護されたジェリクルではなくて…もっと別の」
「人間のほうが、ギルバートよりも魅力的? たかが、餌を恵んでくれるというくらいのことで」
「いいえ。ちがう。捨てられないのはあの人がくれる食べ物ではなくて、あの人自身よ。私はね、あの人がもし狩りに失敗つづきで、お腹を減らすことがあったとしたら、私が獲物を狩ってきてあの人にあげようといつも思っているの。あの人を捨てられない。ギルバートと同じくらい、あの人が好き」
「それは、ものすごい裏切りだね」
「そうね。あなたでなければ、私も話さないわ」

真面目ぶって頷く彼女の、秘密を持つという瞳はとても澄んでいて、とまどう隙もなくまっすぐに黄色い猫を見つめる。耐え切れないほどだった。

「きっと、ギルバートには理解できないよ」
「話さないもの。悩ませたくないから」

苦しませたくないからの間違いではないかと、マキャヴィティは目を眇める。彼女のすらりとした立ち姿は、冬にはいっそう頼りなく薄く見える。そういえば、以前彼女を傷つけたことがあった。マキャヴィティはふとそれを思い出して、彼女の小さな頭を撫でた。

「秘密を守るくらいの度胸はあると言うんだね」
「そうよ。あなたは、本当に不思議なひと。私なんかのことを知って、どうするの?」
「知りたかったんだ。君のように生きるのは、どんな感じだろうと思って」
「ご満足なさった?」
「ああ、とても」

野生猫にもまれなほど、タントミールは痩身だった。そのわりにふっくらした頬を緩めて、彼女は微笑む。華やかだった。

「そう。よかった。
……ありがとう。匂いに気付かないまま集会に出たら、またわずらわしいことになったかもしれないわ」

ひらりと走り出した雌猫の行く手には、珍しい雄の三毛猫がいた。



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『ジェニエニドッツ』
  2008.02.08 
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「そんなにどうしてどうしてばっかり聞いていたんじゃ、私もびっくりしてしまうよ」

ジェニエニドッツは、温色の毛並みよりもっと温かい声色を、ぽうんと高く弾ませて驚いて見せた。ぷっくり小柄な身体から、迫力満点の笑い声が溢れて部屋の隅まで揺らす。細いしっぽを翻し、ねずみの子供が一匹、軽やかに逃げていく。

コンロの火は落とされて間もない。料理の湯気が薄白く篭もって、台所はさまざまな匂いが入り混じっていた。おばさん猫の、赤味の混じった黄色い色の毛並みと同じように、とても暖かい。

「そんなに不思議がることはないじゃないか。あなたは、本当に生まれたばかりの仔猫みたいね」
「そんなことない。こいつは、仔猫なんかじゃない」

ギルバートは、自分がそう言われたような不満顔をして友達の頭をかきまぜた。黄色い猫は痛そうに目を瞑る。小ぶりだけれど、千切れた跡や傷のない、完璧な三角形をした黄色い猫の両耳が、ギルバートの手を逃れて下を向く。

淡い黄色のなかに、ぽかりと浮き上がる頭の天辺の茶色にギルバートの指を差し込んでみても、ふわふわやわらかい毛並みの下から出てくるのは同じ茶色だけだった。

「あら、ごめんね。でもね、ギルバート。ちょっと前のあんたもそうだったものよ。空はどうして光るの? 水が落ちてくるのはどうして。そして、いつのまにか水溜りが消えてしまうのもなぜ。『どうして俺は、ひとりで暮らしちゃいけないの?』
 そのたびに、マンカストラップはうんうんいいながら答えをひねり出してた」

おばさんと、おばさんの同居人が用意したあたたかい食事にありつきながら、ギルバートはもぞもぞしっぽを動かした。同じ皿に頭を寄せていた黄色い猫の、ふとした静かな視線を、彼はなぜかとても居心地悪く感じているらしかった。

「大昔の話でもないのに、こんなに立派になったあんたを前にしていると、とても遠い出来事に感じるわ」
「ギルにもそんなときがあったんだね」
「お前、食べないのか」

黄色い猫は、慌ててご馳走にかぶりつく。
湯気をたてているのは、真っ白く茹でられたささみだった。血のしたたりと香気は失せているけれど、ほお張ると口の中でほわんと温かいだろう。包丁の入っていないささみは大きくて長い。ので、あまり数がない。

行儀よく並べられたささみで、青い皿の絵柄は隠れていた。ふたりが一本ずつささみを胃袋に納めると、底に描かれていたのが花輪をつけた馬だったことがわかる。

黄色い猫はわき目を振らずに次の、最後のささみに取り掛かった。ぼやぼやしていると、二本目を味わう前にギルバートにごちそうを食べつくされてしまうと思ったのだろう。

食べるのが早いギルバートは、ゆっくり前足で顔をこすっている。ジェニエニドッツは、二匹の雄猫たちを子供を見守るようにして、見つめていた。

――どうして
――なぜ

ねえ、ジェニエニドッツ。
なぜ空の色は変わるの。
なぜ、あのひとに近づいてはいけないの。

子供に何かを問われるということは、どんなささいなことであれ、大人にとっては自分の生き方を問い直されるのと、同じことだ。

「黄色いの。あのね、あんまり私たちにどうして、って聞かないでくれるかな。それって、時にはとても難しいことなんだから」
「そう? だって、ジェニエニドッツやオールデュトロノミーやバストファジョーンズは、なんでも知ってるんじゃないの」
「そんなわけないよ。失礼な!
私たちが何でも知っていたら、少なくとも、グリザベラはもっと早く幸せになれたはずでしょう?」
「だって…」
「あんたが子供だったら、私も腹をすえてあんたの疑問に答えるよ。でも、あんたはもういいおとなじゃないか。私たちと同じ。だったら、私にばっかりむずかしいことを考えさせたらだめだね」
「……」
「ねえ、ギルバート。黄色いのはもうおとなだって、あんただって思うよね?」

ギルバートは、黄色い猫の口の端からささみを千切り取りながら、無言で頷いた。

「ああー、はいはい。おかわりがあるから!」

積み上げられた鍋や皿を、体当たりして崩されてはたまらない。それでなくても台所というのは刃物があったりごろごろ転がるジャガイモがあったり、雑多なのだ。
ジェニエニドッツは男の子たちの喧嘩に割って入って、彼らの鼻先にいい匂いのするご馳走をちらつかせてみせた。



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