『ジェミマ』 2008.4.08
若干801を匂わせるところがあります。ご注意ください。
淡く黄色い毛並みに指を通すと、そこはふわんと柔らかかった。
ジェミマは目を丸くする。
「あなたって、まるで飼われ猫みたいな綺麗な毛皮をしてる」
「知らなかったんだね。俺は飼われているんだよ」
「そうなの?!
ごめんなさい」
「いいよ」
彼は、気さくに頷いた。
ジェミマはほっとして、また彼にもたれる。
この黄色い猫には、ひとに心開かせる何かがある。あのお高いヴィクトリアですら、彼に微笑みかけるではないか。
首筋から逞しい胸、堅い腹にかけて広がる彼の白銀色の毛並みは、水に溶けるように金色へと繋がっていく。彼の背中は優しい金色。爪先も。
ジェミマが頭を預けるのは、白く密な彼の胸。とても温かい。
ゴミ捨て場の古タイヤの上で、二匹は陽の光をあびながらゆったりと折り重なっていた。
ジェミマだって、容易く誰かに甘えたりはしない。この黄色い雄猫のように、ジェミマよりずっと大きくて、長く生きていて、そんな相手の庇護の手をいつだって拒んできた。それなのに、なぜ目の前の黄色い猫から自分は逃げださないのだろう。
今日も黄色い大きな猫は、ジェミマにすれ違いざまに擦り寄って、次の瞬間には遠く離れた。触れ合った時だけ感じる暖かさ。名残を惜しんで、彼を引き止めたのはジェミマのほうだった。
「あなたは、私と同じ宿無しなのだと思ってた」
彼は誰とでも話す。
誰にでも微笑む。雄猫も雌猫も区別しない。
特別なひとなど誰ひとりいないように。
私もそう。自由というのは、そういうことじゃないかしら。
「俺が? 俺は、あったかい部屋で一日中毛づくろいするのが仕事なんだよ。君たちみたいな野性猫から見たら、とても不甲斐ないだろうね。
狩りをせず、ニンゲンに媚を売るんだから」
「そんなことない。あなたは何者にも囚われないでしょう」
「そうかな。ありがとう、ジェミマ」
彼は、静かに微笑んでいる。子供のわがままを聞き入れてやるおとなの顔をしていた。あまりの慈悲深さに、ついジェミマの心も緩む。
「飼われ猫だというなら、あなたはきっと長く生きるでしょうね。私より前に生まれて、ひょっとしたら私よりもずうっと長くこの町に暮らすかもしれない。
私が見られない風景を、きっとあなたは見届けるんだ」
それは不思議なことだった。今ここにいる自分が、いつかは消えてしまうこと。
ジェミマとは関係なく、彼とこの世界とは、変容しながらきっと存在し続けるということ。
「ジェミマ。そんなに不安がらないで」
「私? 違う。怖がっているんじゃない。羨ましがっているわけでもないし。ただ、本当に不思議だと思って」
「そうかな。俺にこんなになつく君なんて、誰かがみたらびっくりする。君は、そんなひとじゃないだろう」
「誰がなんと思おうとどうでもいいわ。私は今そうしたい気分なんだ。まだ寒いんだもの」
ジェミマは、それだけ言うとその大きな黄色い猫のお腹にもぐりこむように頭を擦り付けた。右の前脚をすこし上げて、彼はジェミマの身体を深く受け入れた。
温かくて、ジェミマはますます彼を信頼する。
それは、一日限りの信頼だった。
明日には忘れる。
猫は名前以外は何も所有しない。だって大切なものを、しまいこむ場所がない。
信頼も愛も悲しみも、ジェミマの両手にはあまる。
いつ消えてしまうかもしれない、自分には。
「大丈夫。君も、君の大切な人も、ずっとここにいるよ」
相変わらず優しい声だった。大きな体にふさわしくゆったりとしていて、かすかな微笑みにもにつかわしい甘い高い声。
「どういう意味」
ジェミマはぴくんと両耳を震わせる。
「どこにも行かない。消えたりしない。ずっと君のそばにいる。君から離れない」
「どういう、意味?」
「不安にならないでいいと」
「心を読むようなまねはやめてよ。あなたは誰のことを言っているの。あなたに何を約束できるの。難しいこと言わないで」
「君には、とても大切なひとがいるんだ」
「いない。私は宿無し猫だから、大切なものなんて何にも持っていないんだから」
「俺は君より大きいよ。君よりずっと長く生きている。君は飼われたことがなく、俺はそうではない。同じところは一つもないね。
にもかかわらず、君は俺のことを自分と似ていると思ったんだろう。だったら、君に特別な猫のいないはずがないんだ」
何も聞きたくない。ジェミマはその名前も知らない猫の、身体にますます耳を押し付ける。温かい身体の中に確かに脈打つ血の音以外は、何も知りたくない。
「大切なひとを喪う予感を、もう感じなくていい。いくらでも約束してあげる。俺はずっと君のそばにいるよ。彼も、君が死ぬまでずっと生きている」
甘い声が誘惑する。
ジェミマはその嘘つきにますます身体を擦り付けた。彼は、見たことのないほど優しそうな顔をしていた。
がさり。耳元に何かが擦れる。
遠い意識の向こうに、ジェミマはそれを聞いた。浮遊感が全身を包み込む。ゆらゆらと揺れている。柔らかい暗闇。ジェミマは、うっとりと身を任せて我知らず微笑む。耳も身体も、ぼうっとしていて気持ちいい。すぐ近くでまた、がさりと毛並みが鳴った。
固い腕に身体を抱えなおされて、ジェミマは初めて気付いた。
いつの間にか眠っていたんだ。
大きな猫は、ジェミマの肩と膝裏を支えて、横抱きにしているらしい。
彼の胸に接した頬が、とくんと脈打つ鼓動を感じる。熱いふかふかした毛並みが、ジェミマの顔をくすぐる。頼もしい腕の中で、ジェミマはくるんと小さくなった。
彼が運びやすいよう、ジェミマは指先つま先まで丸めてしまう。彼が歩くごとに全身を揺らされながら、静かな鼓動は続く。とくん。とくん。
彼が、重そうに膝で伸び上がり、胸に抱えるジェミマの位置を直すと、眠るジェミマの耳元で彼の黄色い毛並みが音を立てる。がさり。
鼓動と、彼が一歩踏み出すたびに伝わるここちよい振動。もしも波に浮かぶことができたなら、こんなふうだろうか。魚は、海のなかでいつもこんなふうに波に揺らされているのだろうか。
月の浮かぶ夜の海。その下には、ジェミマが見た事もないような大きな魚がきっとたくさんいるのだろう。
甘い味をした赤い魚も、そこにいるはず。顎のつきだした美味しいお魚。
ジェミマの意識は深海の深さまで沈んでいく。すう、と吸い込んだ寝息が、その合図だった。
侵入者の気配を感じて、ランパスキャットは音も立てずに走り出した。アスファルトとむき出しのコンクリートが、空にまで灰色を映すランパスキャットのテリトリーに、場違いな小麦畑色をした毛並みはぽつんと立っていた。彼は、曲がり角に背中を預けてランパスキャットを待っていた。
背の高い雄猫の前に立ちふさがってから、ランパスキャットは動揺に瞳を揺らした。鋭く走らせた視線の先に、無防備に眠っている少女猫を見つけたからだ。いつも張り詰めた彼女が、黄色い猫の腕の中で安心しきって微笑を浮かべている。ランパスキャットはいぶかしげに黄色い猫ではなく、彼に抱かれている彼女の顔を覗き込んだ。ジェミマは、喉元に緩く握った両手を重ねて、すやすやと眠りつづける。
黄色い猫は、彼女を揺するようにして抱えなおした。
「彼女を送り届けにきた」
「お前、どんな魔法をつかったんだ」
マンカストラップでさえ、これほど素直な彼女の顔を、久しく見ていないだろう。
特にランパスキャットには、決して彼女は笑顔を見せない。いつも警戒に眉をそばだて、苦しげで切ない表情ばかりを作る。
「どうでもいい相手には、いくらでも自分をさらけ出せるんだよ」
「お前はどうでもいいと思われる天才だな」
「それが生きていく手段だったんだから、しかたない」
「俺にはできねえ。本当にそりゃあ才能だ」
愉快そうなランパスキャットは、まだ牙を仕舞っていない。親切な黄色い猫は、不快感を露にしてそんなランパスキャットを見つめた。それはわずかな時間で、印象の薄い整った顔は何事かを思いついてほくそえんだ。
「俺はね、ランパスキャット。もし彼がいなかったらきっとジェミマを自分の獲物に選んだと思うよ」
仮定の話しに、ランパスキャットはひくんと頬をひきつらせた。皮肉な微笑みにも取れただろう。ナイフのように鋭い細身の体から、見えそうなほど殺気が立ち昇る。爪の露出した手でマキャヴィティの肩を掴むと、黄色い猫はそれをジェミマを抱えなおすことでいなした。
「ここに腰をおちつけたいと思って、改めて群を見渡した時、ヴィクトリアを除いて最初に目についたのは彼とジェミマだった。それで、彼は雄だし、ジェミマは顔はこんなにかわいいだろう。気が強いのは欠点だけど、子供ならいくらでも転がせる。
本来なら、俺はジェミマに取り入って群に馴染むはずだった」
「で? どうしてそうしなかったんだ」
「一番は彼が俺を求めてくれたから。二番目の理由は、……俺にもよくわからなかったけれど、今日少しわかった気がする。
俺は賢いから、分のない賭けはしないんだ。無意識のうちに避ける」
わかるようなわからないことを言い捨てて、黄色い猫は帰っていった。
ぼうっと黄色い淡い毛並みから、鮮やかな白黒モノトーンの腕へ手渡されても、ジェミマはあいかわらず夢の中にいた。
ランパスキャットの肩に、頬をこすりつけて甘えながら、ジェミマは彼のねぐらまでゆらゆら運ばれた。