網膜に緋色を感じた。
強く強く。それは鮮烈な美しさをもって瞳を焼く。
「――――」
眩しさに目を細めつつも、どこかそれが心地よい。
視線を移動させる。
薄暗い室内。ぼんやりと霞んでいる。
遠くから、耳に馴染んだ旋律が聞こえる。
「……ってば――」
目をきつく閉じて、開く。
涙腺が刺激され、塩味の液体が分泌された。
先の陽光が瞳孔の内側に残留して、まだ微かにぼやけている。
ふと、不思議な感覚にとらわれた。
この何とも言えぬ現実感のなさは、どういうことか。
人の五感、肉体の感覚がどの程度信頼に値するのだろうか。
感覚のリアルな夢というものも存在する。現状はどちらかと言えばそちらに近い。
実在の証明は殊の外困難であるとは過去に流し読みした哲学書か何かの言葉だ。
――ガラじゃない……。
心の声が言い聞かせる。
そうした難儀な思考は向いていない自覚があったし、どこか根暗な印象があって嫌いだった。
しかし、脳が――視覚が、神経が、そこに世界を認識し……、構築する。
それに関しては疑問の余地はなく、異論もない。
故に、現状の真偽を問うこともまた不可能――――
「マキくんってば!」
「――ん?」
少年――葦原牧人は我に返る。
気付けば、少しの間ぼんやりとしていた。
目の前にいる四人のうち、いくつかの視線が彼に向けられている。
その中で、先程声を発したのは、本棚の前にいる少女――藤宮薫だ。
決まっている……、この呼称は彼女以外使わない。
「薫……、どした――?」
意識の先鋭化に努めながら、牧人は慌てず返答する。
そんな少年の態度に少女は微笑して、言葉を連ねた。
「棗くんが、呼んでるよ」
「え?」
突如発された他者の名前の認識に多少時間がかかる。
視線を再度移動させると、ベッドの上に少年がふんぞり返っていた。
――ああ、そうか……。
場所は牧人の部屋。ここにいるのは彼を含めて五人。
いつも通り。
よくある放課後の風景―――
――ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ……!!
突如響いた、奇怪な雑音に牧人の脳は一気に覚醒する。
「おい牧人、コイツすげえ音するなあ」
にやけた表情で棗耕平は言う。
――ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃぎゃ……!
再度、不快な雑音。
「お、こうか? それとも、こうか?」
「…………」
楽しげな彼の手元から、その音は発している。
牧人には耳馴染んだ歪んだ音色――エレキギターだ。
「よっ……と! お、これってイケてるな」
本来なら牧人の私物であるそれを、耕平はコードも押さえずピッキングを繰り返していた。
それだけの単純な操作なのに爆音が響く。
そして時折、それとは比較にならない美麗な旋律が聴覚に分け入って来る。
――何かおかしい。
視線をさまよわせて、原因はすぐに見つかった。
「ふんふん♪ ふんふんふ〜ん♪」
耕平の足元、ベッドの脇に座った少女――芥川なつめが鼻歌を唄っていた。
グループで一番賑やかな少女は、棒状のチョコレート菓子を口に咥えて雑誌を読みふけっている。
頭部には重々しいヘッドホン(ちなみにこれも牧人の私物)が装着されていた。
先程から時々聞こえていた旋律は、ここから漏れ出したものだった。
それなりに高性能な製品だ。余程のボリュームでなければ音漏れなど起こり得ない。
「おい牧人、あのぎゅわーってヤツ、どうやるんだ?」
「ふんふふ〜ん♪ ふんふ〜ん♪」
「…………」
入り乱れる数多の音。その混沌具合に、牧人は思わず閉口する。
「…………」
だというのに、窓辺に佇む少年――武田明彦は静かに本を読んでいた。
周囲の雑音を気にした様子もない。
前方でやかましく騒音を鳴らす二名に対しても、穏やかに微笑むだけだ。
「うるせぇ……」
しかし牧人は短気だった。
いきり立つ。
「耕平! 勝手にギター触んなよ!」
「あぁん? いいじゃねえか別に、減るもんじゃないし」
牧人の一喝にも耕平はまるで動じない。慣れているのだ。
苛立たしげに音の発生源――ギターアンプを見た。
「な……!」
コントロールノブが全て10になっていた。いわゆるフルテンである。
――こいつ……、なんて適当なセッティングを……!
恐らく耕平は適当に全部10にしただけだろうが、このギターの特色をまるで汲んでいない。
音作りには妙なこだわりを持つ牧人はそれだけで沸騰寸前だった。
「やめろ耕平! ギターを置け!」
ずかずか近寄った。
とりあえずボリュームを下げる。うるさくてかなわない。
「あっ! 下げんなよ、デカい音の方が楽しいだろうが!」
上げる。
「お前のクソみたいな演奏をそのデカい音で聞かされる身にもなれ!」
下げる。
「……相変らずヒステリーなヤツだな。何かいいことでもあったのか?」
「うるせぇよ! ……ああっ、ギターのボリュームも両方10にしてやがる!?」
「これのことか? とりあえず最大にしてみたぜ」
「馬鹿、それじゃ意味ねぇんだよ! ああもう、お前はギター触るなっ!」
――ぎゃいぎゃい!
「ギターで返事すんな!」
「うはは、おもしれえな」
笑いながら、一瞬の隙を突いて再度ボリュームを最大に。
「ほれ」
――ぎゅどぅるるるるる!!
耕平の勢い任せのストロークによる、エフェクターにより歪曲され、アンプによりひたすら増幅された轟音は、最早人の耳には不快以外の何物でもない。
とりわけ、アンプのすぐ隣にいた牧人は完全な不意打ちだ。
耳をつんざく重低音に脳が震動する思いだった。
「あ、思ったよりすげぇ音したな……、耳痛いぜー」
「っ……てめぇ!」
胸倉を掴んだ。
そのままもみあいになる。
最中、また隣から音楽が聞こえてくる。
「うるさいっすよ先輩たち。ヘンな雑音出さないでください!」
ヘッドホンを外した芥川なつめが憤慨していた。
スピーカー部分からは、今も絶えず音楽が流れている。
「てか、マッキー先輩ってこんなのも聞くんすね」
「あぁ? なにが……だよっ!?」
答える牧人は耕平と戦闘中だ。
「いやこれですよ、ジミヘン」
「ジミヘンが……どうしたっ! やめろ耕平、シャツ引っ張んな!」
「いや、先輩てハードロックばっかり聞いてるイメージあったんで。フツーのロックも聞くんですね」
「くっ……別にっ、特定ジャンルだけなんてだせぇだろ……!」
「出た、牧人理論。別にいいだろ偏ってたって。何をそんな気にしてるんだ?」
組み合う耕平の口調は涼やかだ。
事実、腕っ節は彼の方が牧人の数段上を行く。
「うっせ! ……このっ、離せよ耕平!」
「……お前から絡んできたんだろーが」
「くそっ、こいつ……!」
その後、数十秒ほどいざこざは続いた。
……葦原牧人、沈静化。
ギターは持ち主の手によって撤収された。
「ちっ、このドケチ野郎」
「うるせぇよ」
ベッドに並んで座る牧人と耕平。
やや疲弊した具合の二人を、後輩の少女は楽しげに眺めている。
「先輩がたって、仲良しっすよねー」
「馬鹿か。俺と耕平のどこが仲良しだ」
「またまたー、すぐそうやってネガティブに捉えようとするー」
肩を回してくる耕平。
「触んな! うざい!」
「またまた、ホントは嬉しいくせに!」
「男に引っ付かれて嬉しいわけあるか!」
「きっとマッキー先輩のことが好きなんすよ」
「ホモかお前!? 寄るなぁ!」
牧人はじたばたした。
「本気で嫌がってるよこの人……」
「ったく、貞操観念ばかり強いヤツめ。ってか、ゴミ子も妙な方向に持ってくな」
「ノーモアゴミ子でよろしくっす、ソーセキ先輩」
ソーセキ先輩=棗耕平
ゴミ子=芥川なつめ
その奇妙なあだ名の由来は各々の苗字から察していただきたい。
「てか、お二人がベタベタしてると、そういう展開が予想されるんすよ」
「棗×葦原」
「や・め・ろ!!」
耕平の顔面が牧人の掌によって力任せに遠ざけられた。
潰れた偶蹄類のような顔のままげらげら笑って、耕平は牧人から身を離す。
「まあ、何事も楽しく考えるのはあたしの美点っすから」
「その点に関しちゃ、オレも評価してやろう」
「わーい、明彦先輩、褒められたっす」
「よかったね」
窓辺で読書中だった明彦は突然の振りにも無難に応じた。
耕平となつめが揃っている時は、彼はだいたいいつも大人しい。
ただ黙々と、五人の空間を感じている。
「おいゴミ子、ジュース買ってこい」
「パシリも自重でよろしくっす、ソーセキ先輩」
「早くしろ、オレが低カロリー炭酸を好むということを忘れるな」
「聞いちゃいねえ。ねー、マッキー先輩、この関白亭主をどう思いますかー?」
「てゆうかお前、いい加減音止めろ。うるせぇよ」
「あ、すんませー」
妙な姿勢になりながらコンポの停止ボタンを押す。
ヘッドホンから聞こえていた音楽が止まり、室内はまた少し静かになった。
耕平が床に置かれたCDケースを拾う。
「地味ヘンドリックス? この前来た時かけてたのとは違うのか?」
「お前は……本当に音楽わかってないな。どう聞いたらジミヘンとマイケル・シェンカーを混同できるんだ」
自称する通り、牧人は幅広く音楽を鑑賞する。
読書で例えるなら濫読派といったところだろう。漁るように聴く。
「ギタリストの使ってるギターが同じ」
「この時のジミヘンはまだストラトだよ。てゆうか、それも俺が教えたから知ってるだけだろうが」
「当たり前だっつの、お前じゃあるまいしギターの音なんか聞いたってわからねー」
「ちっ、芸術を解さないのはいつだって無粋な人間だ」
言いつつ、少し優越感に浸る牧人。
「マッキー先輩って、音楽好きなのになんでバンドとか組まないんすか?」
「組もうとは思ったよ。けどウチの学校、軽音部ねぇじゃん」
「自分で作ればよかったじゃねえか?」
「え? それは……」
言葉に詰まる。
「でもまあ、マキにそんな行動力求めても仕方ねえか」
「そもそもマッキー先輩じゃ部員集まりそうにないですしね」
「お前らぁ……」
いつだってこうして弄られるのが牧人だ。
「きゃっ!」
そこで場の空気を一変させたのは、小さな悲鳴。
声の主は先程から本棚の前にいた藤宮薫。
「どしたんすか、カオル先輩?」
三人の注意が向き、なつめが声をかける。
「う、ううん……なんでも――」
対する薫は明らかな動揺。
好奇心旺盛な二人がその反応に食いついた。
「どした、なんか面白い本見つけたか?」
「あは、マッキー先輩の本棚拝見っ!」
ぞろぞろと寄っていく。
「あ、お前ら――!」
慌てて止めるが、既に遅い。
耕平となつめは、薫の抱えた数冊を検閲する。
小説、マンガ、学校の教科書……内容は様々だが、それらは全て牧人が机に放置していたものである。
散らかっている部屋を見ると見過ごせないのが藤宮薫だ。潔癖症とまでは言わないが、なんとなく気になってしまう。
――もーっ! 部屋こんなに散らかしてーっ!
初期の頃、大人しい彼女が珍しく声を荒げたのを牧人はよく記憶している。
そんな彼女は今日も牧人の本棚を整理していたのだ。
そして聞こえた突然の悲鳴。そこには愉快な臭いがつきまとう。
「おいおい、こりゃあ……」
「うはぁ、マッキー先輩……」
「………………」
薫が手にした薄っぺらな本。
耕平となつめはにやにや眺めている。薫は赤面して黙っている。
「巨乳派か」
「巨乳派ですね」
晒し上げられているのは成人向け雑誌だ。
本棚の合間にさりげなく隠していたそれを、薫が偶然発見してしまった。
「ま、マキくん……何、この本!」
「…………」
恥ずかしげに糾弾する薫だったが、牧人はベッドに寝転んで背を向けていた。
「あらー、マキくんったらシカトですかー!?」
「おいおーい、状況説明しようぜマキくーん!」
なつめと耕平が薫の口調を真似てからかう。
相応に下品な話が好きな二人だ。この展開には大喜びである。
「………………」
壁を見つめながら、牧人は再度沸点に達しそうだった。色々な意味で。
しかしここは冷静に対処せねばなるまい。
性癖を指摘されて激昂するなど、牧人的には最も格好悪い対応だ。
「薫、部屋の掃除なんかすんなって前から――」
従ってクールに流そうとする牧人だったが……、
「おょ、ソーセキ先輩、そこに挟まってるのもそうじゃないですか?」
なつめが新たにもう一冊を発見した。
「あ、ホントだ。……なんだよまたか」
「またジャンボーですね」
「牧人は●●●●が好きなのか。よし、今度俺が前に道で拾ったビデオやるよ」
耕平が巨乳に定評のあるそのAV女優の名前を口走った段階で、牧人はフローリングを蹴って跳んでいた。
……再度、数分に渡る戦闘が開始される。
……そして再度、沈静化。
二度の激戦を経た牧人と耕平はさすがに疲労困憊だった。
大の字になって二人して床に寝そべっている。
「くっそ……、しぶといヤツめ……!」
「…………っく!」
軽口を叩ける分、まだ耕平の方に余裕があった。
「やっぱ、仲良いっすよねー」
動物の死体を触るような様子で、なつめが倒れた二人を突付く。
その手を鬱陶しそうに振り払いつつ、牧人は二冊の成人向け雑誌が薫の手によって破棄されているのを目撃した。
「…………っ」
しかし、何も言わない。
ここで無様に抵抗するのは彼なりのルールに反する。
「はー……」
だからというわけではないが、なんとなくため息にも似た深呼吸。
諦念に似ていながら、どこか幸せそうな吐息だった。
――いつもこんな、だよなぁ……。
自室の天井を見上げながら、五人の空気を感じる。
二人がぐだぐだと寝そべって、それを残りの三人が何をするでもなく眺めている。
窓からは夕暮れの西日。
笑顔がこぼれそうなほどに無防備な彼等だった。
「マキくん、どうしたの?」
視界に黒髪の少女が入ってくる。
少し不安そうに自分を覗き込むその顔が、牧人は好きだった。
「? 何が……」
「だって、笑ってるよ?」
慈しむような笑顔を向けられ、慌てて頬に手をやる。
にやけていることに気付いた。
「い、いや、別に……」
そんな表情を見られるのが気恥ずかしく、牧人は目をそらす。
板張りの床に反射する西日が眩しかった。
自然と漏れた笑み。
それだけ、心地よい空間だったのだ。
無心であればいい、と思った。
薫のように、優しげに笑えばいい。
耕平のように、言いたいことを言えばいい。
この五人なら、それでもいい。
窓辺に立った明彦が、そっとカーテンを引いた。
室内に入り込んでいた強い陽光が失せる。
眩しそうにしている牧人や耕平を気遣うような所作だった。
武田明彦は進んで裏方に回る。そんな立場を好む。
「わははははは!」
耕平が突然哄笑した。
驚いて起き上がる。
見れば、なつめにくすぐられていた。
「お前ら……」
小学生のような戯れ合いに牧人は呆れてしまう。
そうして移した視線が、薫のそれと交錯した。
彼女は再び自然に微笑む。それは絶妙なタイミング。
「……!」
だから一瞬、胸が跳ねた。
何気ない瞬間の、華やぐ様な歓喜に飲まれそうになる。
それを悟られまいと牧人は唾を飲みこんだ。
「…………ちくしょ……」
耕平の哄笑に、その呟きはかき消される。
注視していた薫だけが、その言葉を汲んで笑んだ。
人前では割と口うるさい態度の多い薫だが、二人きりになると意外に包容力がある。
だから安心しそうになる。
「ハッハッハ……、チビガキめ、小癪な真似をしてくれたなァ……!」
「いやもー、体が勝手にー! いたた、いたいっすー!」
今度はなつめが関節を決められていた。
「マキ、お前もなつめ陵辱に参加しろ!」
「ぎゃわー! 掘らるるー!」
「……誰がするかよ」
苦笑する。
気心の知れた者同士、気楽なつきあい。
そうして常に共有されるこの場所――牧人の自室は、その象徴か。
「マキくん」
薫の呼び声。
再び涙腺が刺激される感覚に、牧人は目を閉じた。
そして、開く。
再び、塩味の液体が分泌された。
密かにそれを拭うも、湿った瞳から見る世界はまだ微かにぼやけている。
「――楽しいね」
しかし、その視覚は友人四人の姿を確かに捉え、
「はは……」
葦原牧人は、甘く震えた。
美しく楽しい、五人だけのこの空間に――――