NOVICE-sideA
00
着信音を鳴らし続ける電話を取る。
液晶に表示される名前を確認し、通話を開始――、
『ちっすー、先輩』
「おう、二週間ぶりか?」
『最近は新年度で、貸切予約が多くてですねー』
「んで、自然とお前みたいなヒマそうなヤツラが駆り出される、と」
『失敬な! ヒマなんかじゃないっすよ! サブマネのあたしは基本的に忙しいんす!』
「ふーん、すごいなー」
『うっわ……、必死な妹を軽くあしらうお兄ちゃんの態度ですねそれは』
「おいおい、どんな態度だよそりゃあ?」
『そういや先輩。前言ってた同僚の女の子のトモダチから、いくつか言付かってるっすよ。飲み会とかイベントのお誘いが。今度こっち来た時に声かけて〜って』
「しつこいなあ……、アレだけ適当にあしらわれてまた来るか普通?」
『相変わらずたらしですね、先輩』
「だまらっしゃい。てか、たらし歴ゼロなのに、なんだって昔からたらし呼ばわりされてるんだオレ?」
『まー、どうせ行きたくないって言うんだろうからあたしから断っときました。“先輩はずっと電車の椅子に座ってたせいでイボ痔になったので来れない”って』
「待てやコラ。名前だけじゃなくてやることまで汚いかてめえ」
『先輩こそ、まだそうやってあたしの名前をネタにするー!』
「……驚異の肉体を有するオレサマは、長時間通学電車に揺られた程度で痔にはならない」
『痔って理由は適当に考えたんすよ』
「そこで敢えてそんな病気を持ち出す辺りが作為的過ぎる。お前、最近だんだん明彦みたいになってきてるぞ」
『暗にハラグーロって言われてますね明彦先輩』
「だってそうだろ?」
『そうっすけど』
「ほらみろ」
『まー。そんなことより、イボ痔でも誘ってくれるような人との素敵な出会いが先輩にもあるといいっすね』
「うるせえ。痔じゃない」
『えはは……』
気心の知れた会話。
自然と話題が引き出され、盛り上がり、落ち着く。
電話越しで相手の顔が見えずとも、互いの距離が途轍もなく離れていても、すぐ傍に互いを感じている。
『あ、そういやっすね……』
「ん?」
話題が途切れたところで、おもむろに切り出す。
『今日は言おうと思ってたことがあって――』
「そうなのか。どした?」
『……えー、まー』
一瞬、言葉を選ぶタイミングを挟んで、
『――実はあたし、もうすぐ結婚するんすよ』
何の前置きも無くいきなりそう告げられた。
そういうところは、本当に相変わらずだと彼は思った。
01
「…………」
メールの送信が完了したという画面を最後に見て、葦原牧人は携帯電話を閉じた。
この所、牧人はほぼ毎日この時間にメールを打っている。
メールの相手は、芥川なつめ。
高校時代、二人は仲の良い友人同士だった。
彼女は、牧人が大学生になって少しした辺りから突然メールをよこすようになった。
最初は驚いたが、何度か返信をしているうちにそれはすっかり習慣化し、いつしか毎日の楽しみの一つとなっていった。
それまで音沙汰なかった彼女が急にメールを送ってきた意図は未だに不明だったが、牧人にとってそれは大きな救いだったのだ。
耕平や薫と異なり、なつめとはあまり明確な断絶を経ていないことも理由のひとつではないかと牧人は考えていた。
二人は互いに社会人。仕事の都合がつかず、高校卒業以来顔は合わせていない。
液晶の中で綴られるメールが不思議な距離を繋いでいた。
――芥川は、今日も元気そうだな。
安心した。
あのようなことがあっても、なつめからのメールは前向きなものばかりだった。
彼女には変わらず賑やか過ぎる程でいて欲しかった。
そんな彼女を、牧人は煩わしく感じながらも心強く思っていたのだから。
「………………」
今更そのようなことを思うなど都合の良い事だとはわかっていた。
そうやって綺麗事を抱くことで、自身の身勝手な行動が引き起こした出来事の責任を軽くしようとしているだけなのかもしれない、と。
――いつか、他のやつらとも仲直りできたら……。
だが、彼は今でもそう望んでやまないのだった。
自分勝手でも無様でも、それが本当に大切であることに気付いたからだ。
……最も、実現は難しいかもしれない。
高校を卒業してから、三年の歳月が経った。
今となっては、各々の環境も大きく変遷していることだろう。
……牧人自身も、そうであるように。
彼等は今、どのような人の中で、どのような日常を送っているのだろう。
「…………」
自分がそこにいないことが、今でも心に疼痛を残すのだった。
「みんな……元気かな……」
思考につられるように、気付けばそんなことを呟いていた。
開かれた窓から吹くそよ風に意識を戻す。
「……さて、と」
心に纏わりつくものを振り切るように、携帯電話を置いた。
そして、スタンドに立てかけられたギターを手に取る。
朝の時間は短い。有効に使わなければならない。
連れ添う友を気遣うように、何度か優しく弦を弾く。
状態に問題がないことを確認してから、牧人は居住まいを正した。
そして、演奏開始――――
室内に掠れた音が響き渡った。
住宅事情の関係から、アンプには接続しない。
未接続のエレキギター特有の、金属的な音が物寂しくかき鳴らされる。
一定のリズムで和音が紡がれ、移り変わる。
展開のある曲だ。似て非なるフレーズが様々に入れ替わる。
ソロパート。指板にて軽やかに踊る指はピアニストのようでもある。
一連の奏法はよどみなく、慣れが感じられた。
「…………」
その中で浮かべる表情は無心とも呼べそうな空虚なものだ。
這いずって進むような情熱は感じられない。
ただ、親しんだ空間における安堵のようなもので満ちている。
――あぁ……。
弦を弾き、音を作る。
この瞬間は彼にとって幸福だった。
複雑で多忙な日々の中、数少ない安らぎの時。
……彼の生活にこうして音楽が戻ってきてからしばらく経つ。
そんな中、この頃ギターを弾くのが楽しくて仕方ない。
飽きるほど弾いた曲でもいい。未経験の曲に挑戦するのもいい。旋律を自分で創作するのもたまにはいい。
内容は問わず、許される限り音と触れていたかった。
――なんで、こんな落ち着くんだろう……?
考える。
中学、高校……何度かの休止はありつつも牧人はギターを弾き続けてきた。
しかしその中で、最近ほど穏やかな気持ちでピックを握れた時があっただろうか。
――余裕、出来てきたのかな……俺にも。
生活は平凡で、相応に困難だ。
平日は毎日が忙しく、休日も体を休めることばかりで、どこかに出かける元気もない。
一見して余裕などまるでないようである。
――けど……。
そうしたある種抑圧とも言えそうな日々だからこそ、開放がもたらす快楽も絶大なものになると言えるだろうか。
芸術とは、磨り減っていく命の欠片から生まれ出ずるもの、という話を彼は以前聞いたことがあった。
……生きるために必死な今になって、初めて見えてくるものがあったのかもしれない。
命の削れ散る音と、その大切さを心の深層が受け止めている。
耳を澄ます。
――……前より音がよく聞けてる。
この瞬間も紡がれる自分の音が、脳内で精密に分解される。
長所、短所、改善点、新発見。
そうした要素が様々に思い浮かんでは、演奏を最初からやり直したい衝動に駆られる。
しかしそこではぐっと堪え、次回の演奏への課題――楽しみとする。
途中、ぺんっ、と情けない音がした。
運指がやや遅かったのだろう。和音の一部が消されてしまっていた。
「…………」
怠けていた時期も長い。このように上手くいかないことも多々ある。
だが、そうした失敗もつまずきも、すべて心地よい。
最早良し悪しなどというレベルではなく、単純にいつまでも続けていたいと思わせるのだ。
――ぴぴぴぴぴぴ!
数分後。
突然甲高い電子音が響き渡り、演奏は中断された。
音の主は机の上の目覚まし時計。設定されたタイマーは出勤時間を告げるもの。
この報せをもって、ギターを弾く時間は終了となる。
「時間か……」
名残惜しそうにギターを置いて、急いで目覚ましを止めた。
壁の薄い安アパート。隣人も大家も、騒音には神経質だ。
時間は七時半。出勤時間が近い。
一度家を出て職場に着けば、その時点で彼は社会に生きる人間のひとりだ。
下手な甘えや手抜きは許されず、生きるためには自分の足で立ち上がり、向かっていかねばならない。
地味な外出用の服に着替え、洗面所へ。身だしなみを確認する。
出かける前に顔を洗い、髭を剃る。
鏡の脇に置かれたボトルを取って、少量を手のひらに垂らした。
それを両手で伸ばしながら後頭部――跳ね上がった後ろ髪につけ、手グシで全体になじませる。
整髪料だ。しかしただの寝癖直しである。
彼が昔よく使っていたような、髪を立てたり固めたりするためのものではない。
「なおったかな」
今つけた部分を軽く叩き、問題ないことを確認する。
最後にネクタイを締め、出かける準備は完了した。
かつては洒落たデザインのものを好んだ。
髪型も、服装も、個性を主張するものであろうとした。
だが、今では華やかさなどまるでない。
安物のスーツと革靴に、整えられた髪型は洒落っ気に欠け、最低限の身だしなみでしかない。
ただひたすらに機能的で、道行く人々と何ら変わらぬ無個性な自身の姿。
洗面所から出た。
腕時計を見る。まだ数分の猶予。
テーブルの上に置かれたラッキーストライクの箱を手に取った。
窓を開け、身を乗り出す。爽やかな春風を顔に感じた。
「……キレイなもんだな」
ふやけたような言葉が漏れた。
視線の先には、向かいの公園に咲いた満開の桜。
雲のように枝を覆う花が風に吹かれ、ひらひら舞い散る。
「……っと」
それを見ながら、手にした紙箱を指で叩く。
破かれた上部から煙草が一本飛び出した。
口に咥え、先端に着火。堰を切ったように煙が流れ始めた。
「ふぅ……」
気怠げに一服。
煙を吸い込む――というよりは、咥えながら自然に流れ込む煙を待つような、なんともやる気のない喫煙だった。
大学生の頃、友人に勧められて吸い始めた煙草だったが、どうも当初からそこまで愛煙の感が湧かない。
大して旨いとも思えないのだが、特にやめる理由もないためそのまま吸い続けている。
――タバコって、案外カッコ悪いもんだよな……。
吸いつつ思った。自分にはあまり似合っていないと。
中学生の頃などは、ニヒルでアウトローなアイテムとして多少なりとも憧れがあったのだ。
「昔……か」
煙を燻らせながら呟いた。
こうして窓辺に立ち、空や公園の木々を見ていると思い出されるのだ。
――――輝かしかった、彼の高校時代を……。
「………………」
数分間そうして回想に浸ってから、ベランダに置かれた灰皿に煙草を投げ入れた。
窓を閉め、室内に振り返る。
家を出る前のこの一服を最後に、穏やかな朝が終わる。
腕時計を見ると、ちょうど出勤時間だった。
「よし、いくか」
歩き出した。
玄関に置かれた鞄を手に、ドアを開ける。
無骨な鍵を差込み回すと、錠の落ちる硬質な音。
こうして自宅の施錠をすることが、社会人としてのスイッチになる。
切り替わる。
――ここからが、今の俺の日常――――
葦原牧人、社会人。一人暮らし。
今日も風が吹いている。
それは春先の穏やかな朝のことだった。
02
…………。
記録としても記憶としても、当時の出来事は残されている。
ふと何気なく追想すれば、牧人の現状に至る経緯を理解することはできた。
遠い昔のことに思えた。
だが、隔たりはほんの数年に過ぎない。
……過ぎ去ってしまえばあっという間だったのだ。
しかし体験していた当時には永遠にも等しく感じられた。
本当に、終わりが見えない日々だった――――
「葦原、職員室に来い」
高校時代も終わりに近いその日。
牧人は担任に声をかけられた。
年末。所謂受験期も後半に差し掛かりつつある。
「……なんか、あるんですか?」
そのまま職員室までついて来た牧人は、椅子を勧められ腰掛ける。
「あるんですか……って、進路希望の面談だよ」
「……面談?」
「またすっぽかすつもりだったのか? これで三度目だぞ」
「あぁ……それって今日でしたっけ」
「しっかりしてくれよ……、今日ここで決めたことが進路指導室に提出する正式な書類になるんだぞ?」
「はぁ……」
気のない返事。呆れ顔を返された。
元よりこの手の面談をする意義を牧人は感じていなかったが、少し前の両親との会話で益々その念が強められていた。
――今更、俺自身の希望もないだろうに……。
「これ、ちょっと前に出してもらった進路希望調査票だ」
雑然とした机に置かれたファイルから、一枚のプリントを取り出す。
提出されたのが直前なのは、牧人が面談をサボり続けていたからだ。
「これだと、お前は進学希望で、第一志望が一州大学の経営学部になってるが……それでいいのか?」
「いいです」
進路希望調査票は生徒の希望した進路に対しての両親の同意が必要とされている。
生徒の進路を家族で相談して決定するための措置である。
だが実際は、牧人の志望校として書かれた大学名は両親の推薦によるものだ。
少し前に両親との対話した時に具体的な話が行われ、牧人は両親の提案に唯々諾々と従うだけだった。
「しかし、先月の模試の結果と照らし合わせると……ちょっと厳しいな」
ファイルの中から取り出した別の書類を眺めつつ渋い顔の担任。
「第二志望の里見大も……現段階じゃ微妙なところだと思う。志望校の変更か、浪人を覚悟する必要があるかもしれないぞ?」
「……そうですか」
このところ友人との復縁などに頭を悩ませていた牧人にとって、一月前の模擬試験など受けた記憶すら曖昧だった。
そのような上の空の状態での試験結果など推して知るべきなのだが、集中したところで芳しい結果が出せるとも思えなかった。
「――葦原」
やや強張った語調で名を呼ばれた。
「見た感じ、お前は三年の初めくらいまではそこそこの成績だったのに、その後から急激に落ちている。……何かあったのか?」
「…………」
おそらくは、薫や耕平と絶縁した頃の話だろう。
勉強を始め、何もかも身が入らなくなっていたのだ。
「いや、立ち入って聞くつもりはないんだが……、」
そこで担任はばつの悪そうな顔をする。
個々のプライバシーの侵害が多く取りざたされる昨今、教師の生徒への干渉は難しさを増すばかりである。
――まぁ……、どうせこの先生だってその程度の感覚で俺ら生徒と――、
「その、なんだ……現段階で大変なら、無理することもないと思うぞ?」
「え……?」
抱き始めていた失望の念が、その言葉で途切れた。
「教師の俺がこんなこと言うのもアレだけど、人生、受験だけが全てじゃない。一浪や二浪なんて世の中ザラにいるし……、焦ってダメになるくらいだったら、一年くらい足踏みしながら考えるのも悪くないと俺は思うんだけど?」
「………………」
牧人は、言葉が返せなかった。
「……そういや、その頃からずっと顔色も良くないよなお前。今日も気分が悪いなら終わりにするから、ちゃんと言うんだぞ?」
「いいですよ。別に……」
「そうか。本当にヤバかったらすぐに言っていいからな?」
担任は少し心配そうな顔をしつつ、棚から別のファイルを取り出す。
――この人って、結構……。
意識してこなかったが、思いのほか相手の心情を察せる人物なのかもしれない。
そして牧人のような直接的な交流の薄い生徒にも気を配り、ひっそりと様子を見てくれている。
年齢が割に近いということもあるのか、この時の牧人にはこの担任教師が両親などよりずっと頼れる存在に思われた。
……三年間も顔を見てきたが、牧人は今初めてそのようなことを思ったのだった。
「けどまあ、立場上そういうこと言うのはこれっきりな。実際に浪人するかどうかは、親御さんと相談して自分で決めるんだ」
「……わかりました」
その後、受験に関しての勉強や手続きなどのアドバイスなどを受け、面談は終了した。
「先生」
「ん、どうした?」
席を立とうとした時、牧人はなんとなく声をかけた。
――俺、何言おうとして……、
自身の行動に戸惑う。受験に興味の無い牧人には、改めて質問するべきことなどない。
「その……、ありがとうございました」
そして気付けば頭を下げていた。
思えば、真剣に会話をしたことなど久しぶりだった。
入試や受験勉強など、様々に立ちはだかる問題についてばかりの内容は楽しいものではなかった。だが、会話という行為自体は楽しかった。
他者と言葉を交わす行為が懐かしく、この担任が自分と同じ目線で真摯に向き合ってくれたことが嬉しかったのだ。
だから、礼を言いたくなった。
「ああ、また何かあったら遠慮なく相談に来いよ」
歳若く優秀な担任教師は、そう言って爽やかに笑んでいた。
それが牧人には頼もしかった。
職員室を出て、廊下の窓から中庭の植木が見えた。
こうして見ると、紅葉はとっくに散り、景色は冬の寂しいものに変わりつつあることに気付く。
もう年末だというのに、牧人はそんな当たり前の事象を認識した。
……受験生に四季はない、などと言われる。
季節の変遷などに現を抜かしている暇があるなら勉強しろということだろう。
実に味気ないと思っていた。同意したくはなかった。
しかし、その景色を見て牧人が感じたものも、季節感を思う心などではなく受験が近いというその味気ない危機感なのだった。
「勉強、すっかなぁ……」
気怠げな呟き。
そのどこか他人事のような感覚が、高校受験の時と少し似ていた。
――俺、成長してねぇのかな……。
牧人は少しだけ晴れやかに、苦笑した。少しだけ。
■■
そして春になった。
結局、牧人は両親と教師の勧める大学に受験し、合格した。
――マジで受かっちまったとはな……。
高校のそれより遥かに巨大な校門を前に思う。
牧人は大学生になった。
年末から年始にかけて、牧人は受験勉強に没頭した。
あれだけ勉強が嫌いだった自分にしては、驚くほど集中して机に向かった日々だった。
或いは、何かその時だけでも熱中できるものがあればよかったのかもしれない。
結果、牧人は厳しいと言われていた第一志望の大学に見事合格したのだった。
彼は昔から窮地に立てば相応の頑張りと結果を示してしまうのだ。
「…………」
……普段からそれをしない自分にまた嫌気がさす。
――それとも……運、良かっただけなのか?
自分の受験勉強が生ぬるかったとは思わないが、付け焼刃のような感覚は否めなかった。
春や夏からコツコツと地道に勉強してきた他の学生たちに比べると、牧人には自分の努力の量も苦しんだ時間も大したことがないように思われた。
薫や耕平もどこかの大学に入ったという話だった。
無論、本人から直接聞いたわけではなく、卒業式の日に誰かが話しているのを横から聞いただけだ。
……薫に関しては、勉強が上手くいっていない時期があったという噂も牧人は聞いたことがあった。
だが、どうやら無事に合格することができたようだ。
その点に関して、牧人は安心した。
――まぁ……そうさせてたのは俺なんだけどな……。
だから同時に胸が痛んだ。
「…………」
――結局、何にもできなかったなぁ……俺……。
ばらばらになった友人たちを、何とかもう一度復縁させたい。
そう思いつつも、何も実行に移せないまま牧人は高校を卒業してしまった。
当然、大学に彼等の姿はない。
微かに見えていた可能性も、共に消えてしまったようだった。
――受験勉強も、単なる“逃げ”だったのかな……。
忙しい振りをして、困難から目を背けていただけだったのか。
今にしてそんなことを思う牧人だった。
五月半ば。
大学という新しい空気にも牧人は徐々に慣れてきていた。
その日。喧騒の中に牧人はいた。
自分を含め、数百を超す生徒を収容する大教室。
遥か遠くの教壇に、いかにも研究者といった風の老人が立っている。
「レヴィ・ストロースは『親族の基本構造』の中で、社会と個人の関連性について言及しています――」
マイク越しに聞こえるしゃがれ声。
視線は手にした資料に向き、生徒の方を見ることは稀だ。
専門的過ぎる授業内容は多くが難解で、教え方も不親切だった。
――こんなの、理解してるヤツいんのかな……?
辺りを見回すと、多くの生徒が居眠りや読書に興じている。授業だというのに、解説に意識を向けている者などごく少数だ。
……不思議な空間だと思った。
「おーい、アッシー」
「……浅野か」
講義が終わり、生徒の波に乗るように教室を出て、同じクラスの友人に話しかけられる。
浅野という名のその男子学生と、牧人は入学式で知り合った。
両者とも音楽が好きという点で意気投合したのである。
「さっきの授業起きてた?」
「……まぁな」
「よかった。俺、全部寝てたからさ」
「……行こうぜ」
「おけ」
どちらともなく肩を並べ、屋外の通路を歩き出す。
「吸う?」
煙草を差し出される。
「……じゃあ、一本」
分けて貰うのはこれが初めてのことではない。
「若気の至りもほどほどにねー」
「お前が言うなよ……」
口に咥え、ライターを借りて火をつける。
「げほっ! げほっ!」
そしてむせた。
「あー、思いっきり吸い込むから……アッシーまだ慣れてないんだから、肺まで吸わないで喉の辺りまでで止めとくのがいいよ」
「……ちっ。……お前よくこんな強いの吸えるな……げほっ!」
「オッサンだから、俺」
涙を堪えながら咥えなおす。あまり吸い込まないで咥えているだけだ。
ニヒルなスモーカーにはなれない牧人だった。
「テストの話とかしてた? 範囲とか」
慣れた様子で紫煙をくゆらせつつ浅野。
「……まだ何も言ってねぇよ」
その様を少々恨めしげに見つめつつ牧人。
「俺、ほとんど寝てるからテスト範囲とか聞き漏らしたら単位無理っぽいんだよねー」
「出席重視っぽいから、いればわかんなくても大丈夫なんじゃねぇの?」
言いながら、そんなのでいいのかと違和感が募った。それでは授業に出ている意味がない。
だが、起きていても理解できなかった自分も寝ていたのと大差ないとも思ったので何も言わずにいた。
「あ、そうそう、サークルの先輩から連絡来てた。明後日の七時から南平坂で新歓だって。アッシーも来るよね?」
「……またか。ったく、今月だけで何回飲み会やってんだよ」
「アッシー飲み会嫌いだねえー」
「別に。ただ、そう何度も何度もやるようなもんじゃねぇと思うだけだ」
牧人はこの友人に誘われて、軽音楽のサークルに入った。
音楽に対する興味が再燃したというわけでもなく、偶々誘われたのが音楽サークルだっただけである。
「また新しく一年生入ったんだってさ。法学部の女の子三人。結構可愛いらしいよ?」
「楽器は? 何やってんの?」
「なんも。初心者だって」
「また初心者かよ……」
「……なんで不満そうよ?」
「この間入ってきた野郎二人もそうだったけど、あいつら全然練習してねぇじゃん。ホントに音楽やる気あんのか?」
「お堅いねー、そんなもんだって。ガチなバンドサークルなんて他にいくらでもあるし、ウチみたいなヌルいトコはほとんど飲みサーみたいなもんじゃん」
「……お前もそんな風に思ってるのか」
「んー、まあ。俺だってちょっとベース弾ける程度で、本気でバンド組みたいとかもうあんま思ってないし。アッシーだってそうなんでしょ?」
「………………」
牧人は、この浅野という友人があまり好きではなかった。
趣味は合うし、人柄も良くて話し易いとは思ったが、どうも気を許すことができない。
――いや、浅野が嫌いっていうか……、
彼に限らず、大学の知人全てに対し、牧人は不審な感覚が拭えないのだった。
周りを歩く生徒、クラスやサークルの知り合い。その中に、高校の時の友人たちほど楽しげに会話できている人間が果たしてどれほどいるだろうか。
クラス、サークル、授業……色々と新しい環境におかれている。
しかし、そのいずれにおいても牧人は違和感ばかり覚えてしまう。
どこか余所余所しい距離を保つばかりで高校の時以上に踏み入ってこないクラスメイトたち。
飲み会ばかりで実質的な活動のあまりないサークル。
重要な情報以外は聞き流し、睡眠や雑談に時間を費やすばかりの授業。
確かに大学はまだ始まったばかりである。
まだ牧人が馴染んでいないだけで、慣れればどうということはないのかもしれない。
――けど、なんか……。
今考えたような要素は、時間が経ったところで変わらないような予感もしていた。
今の牧人には、無為な日々など何の面白みも感じられないのだった。
――俺って、何しに大学来てんだっけ……?
まだ入学して二月も経たないうちから、そのようなことをよく思っていた。
「不満そうだねアッシー。なら今度、俺と一緒にスタジオ入ろうか? ウチのガッコ、結構機材いいみたいだよ?」
「…………考えとくよ」
ぶっきらぼうに返した。
不満は大学生活全体に向けてであり、音楽が真面目にやれないことについてではないからだ。
牧人はあれ以来ギターに触れていない。
だから、今の自分の実力がどの程度のものなのか、解らなかった。
形骸化したサークルにおいては、楽器を弾く機会もない。
あったとしても、人前で弾いてみせる勇気が彼にはあっただろうか。
――音楽サークルにいるってのによ……。
「馬鹿じゃねぇ……?」
せせら笑った。
先程嘲笑した初心者たちと自分が、あまり変わらないような気がしたからだ。
■■
六月を迎えたある日、牧人は夜遅くに帰宅した。
「くそ、頭痛ぇ……」
呻くように呟いて、ベッドに転がる。
手足は重く、頭は眩暈にも似た浮遊感を覚えていた。
「……くそっ、何が一気飲みだよ……、弱いくせに、馬鹿じゃねぇのか……!」
酔いを醒ますように悪態を吐く。
行き場のない感情は、帰宅してから吐き出されていた。
今日も飲み会があった。
バンドサークルとは名ばかりの集まりは、何かに理由をつけて酒宴を催す。
無意味だと思いつつ律儀に毎回参加しては、無理に飲まされてこのように泥酔している牧人だった。
「……水、飲んでこよう」
起き上がり、よろよろと部屋を出た。
台所へ向かう。
「…………」
乱暴に蛇口をひねり、波打つコップの水を一気に呷った。
ただの水道水が妙に美味い。体内の酒気が薄められていく感覚が心地よかった。
「ふーっ……」
経験が薄いこともあるだろうが、生来牧人はあまり酒には強くない体質のようだった。
だというのに毎回飲み会には参加し、強い先輩や友人に付き合っては浴びるように痛飲しているのだった。
――だってそうしないと空気悪くなる……。
不参加は良い顔をされない。酒の辞退も同様だ。
集団において新入りの牧人たち一年は、とかく気を使わなければならなかった。
「……馬鹿みてぇだ」
またそう呟く。
日々感じているそれら違和感が、こうして酒を飲んだ後など特に強く感じられた。
自分は何のために大学などに通っているのだろう。
急ごしらえとはいえ、苦労して受験勉強した結果だというのに。
自身は感知していないとはいえ、親は高い授業料を払っているというのに。
――それで、やってるのは媚びて愛想笑うだけかよ……?
元来無愛想とはいえ、今や先輩たちのご機嫌伺いにも大分慣れてきた牧人だ。
集団における空気の読み方も多少は心得るようになってきている。
しかしだからこそ、余計にその不自然さが鼻につくのだった。
「音楽サークル、ねぇ……」
確かに大学にあるサークルの集合場所には何点かの楽器が置かれている。
しかし、実際にそれらが演奏に用いられている場面を、牧人は見たことがなかった。
牧人とて、真剣に音楽をやっているとは言えない身分だ。
自分を棚に上げて、不真面目な彼等を糾弾する意思などない。
……だが、それでいいとも全く思わない。
その不自然な空気を奇妙に感じる意識が、共に杯を酌み交わす彼等に果たしてあるのだろうか……?
――俺は、音楽が……好きなのか?
空のコップを眺めながら、思った。
僅かな水滴が、そろそろと底面を移動しているのが見えた。
――それとも、ただつるんでいたいだけか……?
頭はすっかり冷えていた。
そして、部屋に戻った牧人は、何気なく隅に追いやられたエレキギターを手にした。
すっかり埃を被り、見る影も無くなった楽器。
そのうらぶれたような様が、どこか今の自分と重なって見えたからだ。
或いは、そうして触れることで、何もしていないサークルの連中との違いを感じたかったのかもしれない。
「………………」
とりあえず、手入れをしてみた。
埃を拭き取り、運良く残っていた分だけ弦を新品のものに張り替えた。
そのまま調律をしようとして、チューナーを使うことにした。
――どうせ今、音聞いたって、わかんねぇし……。
「……?」
しかし適当に合わせてみたら、意外と正確にチューニングできていた。
――案外、音は覚えてるもんなんだな……。
そして準備が完了した。
夜も遅い時間なので、アンプは繋がないでおく。
――何、弾こうか……。
適当に弦を爪弾いていると、最初に思いついたのは薫とよくセッションをした曲だった。
思わず手が止まる。
「……よりによって、なんであの曲かねぇ……俺」
失笑。
思えばあの時が、全てが崩れ去った最初……だと思っていた。
心が痙攣するような気分だった。
――けどまぁ、それでいいか……。
一番多く演奏した曲なのだ。自然に出てきたのも当然と言えた。
それに不思議と、弾いてみたい欲求が心の痛みより勝っていたからだ。
ストラップをかけ、ピックを手にすると、なんとなく弾けるような気がしてくる。
先程チューニングした時のように、音は覚えているのだ。
「よし……!」
深呼吸の後、牧人はピックを振るった。
未接続のエレキギター。
特有の金属的な音が物寂しくかき鳴らされた。
「うわ……、懐かしいな……」
音色が響く度に、色々な記憶が蘇る。
ギターを弾くに至ったいきさつ、苦労して練習した日々、薫との会話……、
そうした様々な出来事が、音によって震わされた心から浮き上がってくるようだ。
――しっかし……、
「ヘタクソだな……、俺」
呟いた直後、ピックが指から滑り落ちる。弾かれたそれは自室の床を幾度か跳ね、止まる。
腕は悲しいまでに落ち込んでいた。
音や曲の構成は覚えていても、それを演奏するだけ技量が自分にはまるで残っていなかった。
事ある毎につかえて、中断されてしまう。
――素人同然じゃねぇか……、何やってんだか……。
かつてあれほど心血を注いだというのに、何も残されてはいなかったのだ。
それでいて成立しているのが今の空虚な自分なら、それも必然というものだろう。
「…………」
ギターを抱えたまま、牧人はそのまま後ろに倒れた。
背後にあったベッドが、ギシリと音を立てて主を受け止める。
「カッコ悪ぃなぁ、マジで……」
呟いて、顔を覆う。涙が出ていたからだ。
色々なことが思い出された。
それらはどれもが美しく、輝かしく、楽し過ぎて、……悲しかった。
今の錆付いたままの自分と違い過ぎて、悲しかった。
抱え込んだままのギターが、心地よい重みとなって牧人に圧し掛かった。
背けるように横を向くと、自然とシーツに顔を埋める形になる。
「……薫…………?」
不意に、その名が口をついた。
なんとなく彼女の匂いがしたような気がしたからだ。
「――っ!」
あまりに突然のその錯覚。
牧人は跳ね起きた。羞恥心で静止に耐えられなかった。
「馬鹿……俺、何言って……」
そしてまた自己嫌悪。
思えば、彼女の空気がこの部屋には残っている気がする。
そんな気がしてしまうほど、彼女は長くこの部屋にいたのだ。
彼女との繋がりであったこのギターを手にしていると、それが強く意識された。
「……そっかぁ……それが俺の――」
そんな空気を愛惜するように、牧人は呼吸を止めてみた。
……苦しかった。
その日、牧人は朝になるまでギターを弾いていた。
彼女の余香を、すぐ傍に感じようと――。
■■
「…………ん――?」
牧人は携帯電話の着信音で目を覚ました。
――電話……誰から――?
「…………あ、れ……?」
目を開くと、ギターを抱えたまま床に転がっている自分の姿に気付く。
知らないうちに寝入って、そのまま眠り続けていたらしい。
「く、そ……なにやって――」
まだ微妙に重たい体を起こし、机の上の電話を取り、開く。
「…………公衆電話?」
着信を示すウインドウには、そのように表示されていた。
見慣れないその文字に怪訝な顔をしつつも、寝起きの頭は大した疑念も抱かなかった。
「もしもし?」
『………………』
通話ボタンを押してみるが、反応がない。
故障かと思い液晶を見てみるが、通話は正常に行われている様子だ。
「……? もしもし?」
『………………』
改めて尋ねてみるも無言。ただ、電話越しには人の気配がする。
――なんだ……?
「もしもし、誰だ? 何の用だよ?」
『……っ』
少し声を荒げると、今度は電話後しから微かな息遣いを聞いた。
「ん?」
『っ……!』
微かな反応があって、
――――ぷつん。
「あれ……、もしもし?」
聞き直したつもりだったが、電話は切られてしまっていた。
通話が終わる直前にも息を飲むような音が聞こえた気がしたが、結局相手は一言も声を発していない。
「…………?」
――無言電話……、イタ電……か?
携帯電話やナンバーディスプレイの普及した昨今では珍しいことではないだろうか。
――朝から、一体なんだ……?
狐につままれたような気分になりながら、何気なく机上に置かれた時計を見た。
……昼になっていた。
「――っ!?」
反射的に覚えた危機感に背筋が凍りつく。
――やべぇ、寝坊した!? 学校……ッ!?
慌てて立ち上がりかけて、すぐに背中を床に下ろす。
「……今から、家出たって……」
間に合うはずがない。遅刻は確定だった。
「サボるか……たまには」
そこに至ると何だか面倒になって、牧人はそのように決めた。手足を伸ばし、かけたままだったギターを外す。
そうしてどこか解放的な気分に浸っていると、ずる休みとはしばらく無縁だったことに気が付いた。
思えば、大学に入ってから初めてのことだ。
――俺……結構マジメに大学行ってたんだ……。
高校の時は、授業をサボって遊びに出た事は何度かあった。
多くが耕平やなつめに誘われてのことだったが、あまり真面目でない性格の牧人は元より怠け癖がある。
だというのに大学は一度も欠席したことはなかった。
――あんなつまんねぇ場所に、なんで真剣に通ってたんだろ……俺……?
今にして思い至る事実に、牧人は不思議な感慨を覚える。
その後、ずるずると一階へ降り、風呂に入った。
思えば昨日は帰宅してからそのままギターを始めて、そのまま眠ってしまっていたのだ。
脱衣所の鏡を見る。
「…………」
未だ酔いの残る顔と、寝癖でくしゃくしゃになった頭が情けないことになっていた。
平日の昼間。両親は仕事に出ている。
家は無人だった。
熱湯のシャワーを頭から浴びていると、色々な事が脳裏を巡る。
――今、何をしてるんだろう……?
へつらうばかりの歪な大学生活。昨夜思い返された楽しかったかつての日々。
その対比。
――今、何をするべきなんだろう……?
高校生の頃と違って騒がしくない平穏な日々。
しかし、中身の感じられないそれらは死骸や抜け殻を思わせた。
凪いだような毎日が、かえって不安を煽るのだ。
……このままで良いのだろうか、と。
……そんなもんだ、と浅野は言う。
彼のように適当に割り切って適当に日々を生きるのが、正しい姿なのかもしれない。
皆どこかで不自然に思いつつも、そのことで懊悩する間もなく毎日は過ぎていく。
だから力を抜き、流れにたゆたう。
しかし、牧人のようにそれに違和感を覚え、馴染めない者はどうすればいいのか。
上手く流れに身を任せられず、沈んでいくばかりだろうか。
唯一の個性を主張したかった頃があった。
無理せずありのままの姿でありたかった頃もあった。
そして今、牧人は再び無個性であることに疑問を感じている。
――それが、生きるってことなのかよ……?
自分を殺し、場に応じた自分を即座に構築することが大人だろうか。
「だりぃ……」
呻いた。
そのような器用な生き方、自分にできる自信がなかったからだ。
――それとも、ガキのうちからそういうのを身につけていかないといけないのか?
中学、高校……そうした生活の中で、人は自然と場に馴染む手法を得ていくのだろうか。
ならば、何も考えずに大学生にまでなってしまった牧人は既に手遅れということになる。
「……俺、なんなんだ…………?」
蛇口を捻り、シャワーを止めた。
浴室の閉塞感が、嫌になった。
そして、風呂上りにもう一度ギターを触ってみたくなった。
――なんか、アホみたいに弾いてないか……俺?
自分でも不思議だった。
今まですっかり放置していたというのに、昨夜から気になって仕方がない。
中学生の頃に戻ったような、常に触っていたい気分だったのだ。
「痛……ッ!」
だが、弦を押さえたら指が裂けた。
ギターの演奏は指を強く圧迫するため、入浴後の柔らかくなった皮膚では切れてしまうことがままある。
故に風呂上りには演奏は控えようと牧人はかつて常々思っていたのだ。
――そんなの、わかりきってたことじゃねぇか……。
色々と忘れていることも多いのだった。
――けど……、
小指の先から流れ出る血を舐めて、牧人はギターを置いた。
――なんか、楽しいな……。
音楽とは、元来そのようなものだっただろうか。
「ん――?」
その時、床に転がったままになっていた携帯電話が再び鳴った。
再び先程の悪戯電話かと思い、拾い上げる。
――いや、どうせまた浅野のヤツが代返のお願いとかか。
彼からのメールは大体がサボタージュ宣言かサークルの連絡だった。
いずれにせよ面倒な内容だ。億劫な気分になりながら、牧人は携帯電話を開く。
「………………え?」
そこに表示された名前を見て、牧人は愕然とした。
メールの送信者の欄には、芥川なつめ、とあったからだ。
■■
七月も中旬を過ぎ、前期の試験が終了した。
必修科目の試験は多くは基本的に単位進呈を念頭に作成されている。
故にそれらは、程々に勉強をして何とかなる程度のものだった。
また、難解すぎて理解できないその他の選択科目については、牧人は浅野と協力してカンニングをし、乗り切った。
――くだらねぇな……。
またしてもそう思った。
日頃授業を受けて講義を聴いていても、試験期間となって復習してみれば、何も自分に残っていないことが解る。
――ホント……俺なんで大学なんか行ってんだろ……?
芽生えた違和の感情は日毎に弥増すばかりだった。
とまれ試験は終了し、その休日の午後は久々にやることがなかった。
牧人はなんとなく、以前よく通っていた楽器屋へ行ってみることにした。
「…………」
別に用はない。
弦もピックも買い足す必要には迫られていなかった。
……強いて言うなら、ギターを見てみたかった。
あれ以来、牧人は時折ギターに触るようになった。
そしたら初心の頃のように、ヴィンテージ品を手に名演を繰り広げる自分の姿を夢想したくなったのだ。
そんな妄想などカッコ悪いと解っていながら、心躍る自分を抑えられない。
いつだって牧人は名器を眺め空想することで、それを練習の活力としていたのだ。
さながら、ショーケース越しのトランペットに魅了される、童話の世界の少年のように。
思えば、牧人は楽器屋にギターを見に行ってばかりいる。
必要なものを買いに赴いた回数より多いかもしれない。
しかも、彼が音楽に触れていた全ての時期においてそんな調子である。
――なんか、俺って全然変わってねぇのな……。
こうして思い返すと、意外な事実が明らかになるのだった。
普段なら情けなく恥じ入る気もしたが、今回は不思議と快い気分だった。
「えーと、どこだったっけな……」
初めて敷居をまたいだ時に覚えた疎外感は、こうして来店する度に思い出す。
雑多な店内。強面の店員。……懐かしい空気。
相変わらず姿の見えない店員はさて置いて、牧人は中古品のスペースへ向かった。
名器は何を見ても楽しいが、やはり彼が一番に見たいのは愛器であるフライングVなのだ。
――金溜めて買おうとしてたんだよな、俺……。
結局購入はしなかったが、今から改めて貯金をするのも悪くないと思えた。
平日の午後。
様々な楽器や機材が並ぶ店内を進むのは自分だけである。
――確か、そこの裏に……。
積み上げられたアンプの脇――中古品が置かれている一角。
そこに、牧人の欲したフライングXが置かれている……はずだった。
しかし、
――――Gibson EXplorer
「え……?」
値札に書かれた名前を見て、慌てて置かれたギターを確認する。
愕然とした。
――違う、ギター……?
置かれていたのは全く別のギターだった。
配置が変更になったのかと思いコーナー全体を見回るが、牧人が目をつけていたギターはどこにもない。
「まさか――」
数秒を経てその思考に至る。
――売れちまった……のか?
店員に聞いて確かめるまでもなく、そう考えるのが一番妥当だった。
思えば、何もおかしな事ではない。
高いとはいえ値段も手頃。中古とはいえ状態も悪くない。
……あのギターを求めていた人間だって、牧人だけであるはずがないのだ。
売れてしまっていた。
むしろ、何年も売れ残っていたことのほうが奇跡だったのだろう。
「…………」
だが、牧人は魂でも抜かれたような心地だった。
――俺がモタモタしてる間に……、売れちまった……?
時間が流れていると感じた。
自分が足踏みをしている間にも、物事は次々と移り変わっていくのだ、と。
焦燥を覚えた。
現在の自分の状況が正しいものであるのか、一層不安になる。
時は流れていくものだ。
……仮に現在、自分が間違ったことをしていたとしても、それをやり直すだけの時間は果たして未来には残されているのだろうか。
……自分は、今何を……しているだろうか?
「ハハ……」
昼下がりの楽器屋。
なんだか馬鹿馬鹿しくなった牧人だった。
■■
数日後のこと。
牧人は大学の事務室にいた。
「これが必要書類です。記入して、この窓口に提出してください」
「わかりました」
事務員から一枚の用紙を受け取る。
思いのほか簡素な内容のそれを眺めつつ立ち去ろうとしたが、事務員からの視線を受けて足を止めた。
「……本当に、それでいいんですか?」
目が合うと同時にそう言葉をかけられた。
「いい……とは?」
尋ね返す。
「あなたは一年生でしょう? せっかくうちの大学に入学したというのに……」
「…………」
「例年、あなたのような学生はいます。大学生活に馴染めず、勢いに任せて夏前にこのような判断をしてしまう学生が」
「…………」
「ですが、彼らの選択が正しいとは私には思えません。実際的な学歴には大差ありませんが、“途中で投げ出した者”というレッテルを貼られ続けることになりますよ?」
「……いいんですよ」
牧人はあらかじめ用意していた印鑑を手に取りつつ、言った。
先日、楽器屋から帰るその足で作ったものだ。
「もう、決めたことですから」
それは吹っ切れたような表情だった。
「……数日後には、ご自宅に通知が届きます。学生証の返納などの手続き方法はそちらに記載されていますので――」
「わかりました。ありがとうございます」
必要な項目を記入した書類を提出し、説明を受けた。
最後に一礼を残して牧人は事務室を出る。
――なんか、あっけなかったな……。
印鑑をポケットに納めつつ、そのようなことを感じた。
事務室前の見慣れた掲示板が、今の自分には妙に遠い存在に思える。
「おい、アッシー」
声をかけられる。彼――浅野は、待ち構えるようにそこにいた。
「事務室に……なんか用事でもあったん?」
「浅野か。ちょうどいいや、言っておきたいことがあるんだよ」
「なにさ」
「――――俺、今日で大学辞めるんだ」
「は――?」
朝食の内容を話すように、あっさりと牧人は告げた。
終わってしまえばその程度のことだったからだ。
彼が今しがた事務室で提出してきた書類は退学届けである。
数日後の手続きを経てそれが決定されれば、牧人はこの学校から除籍されることになる。
……苦労して掴み取った立場は、一瞬で無に帰すことになったのだ。
「ま、マジっすか葦原サン!? それって退学ってヤツ!?」
「そうだよ。手続きであと何回かは来るかもしれないけど、授業とかはもう受けない」
「……はー、そーですかー……」
浅野は放心したような顔をしていた。
「理由とか……聞いちゃっても?」
どこか躊躇するような口調で尋ねられる。
複雑な家庭事情や、就職の必要性などを予想したようだった。
「理由ねぇ……、別に、ねぇんだよな……」
対する牧人の言葉はなんとも頼りないものだった。
「ただなんか――、馬鹿馬鹿しくなっちまって……、気付いたら届け、出してた」
冷静に見れば理由は無数にあったような気がしたし、自身が納得できるものはそのうちひとつもなかったような気もした。
しかし、決して考えなしの行動だったわけではない。
悩み、苦しんだ末の行動だった。
……だから、後悔はすまいと心に誓う。
「…………すげえことするねキミ。ロッカーみたいジャン」
数秒沈黙した後、浅野はそのように返してきた。
だが、からかうような口調はどこか弱々しい。
或いは、本当に感心していたのかもしれなかった。
「アッシーいなくなっちゃうと、寂しくなっちまうなあ……」
「……そう、か?」
意外な言葉に思わずそちらを向いてしまう。
「そうだよー! 俺、あのサークルん中じゃアッシーと喋るのが一番楽しかったのにー!」
すると浅野は不満げに頬を膨らませた。
こうしてみると、この青年は非常に表情豊かだった。感情の起伏が激しい性格なのだろう。
「もー、抜けちゃおっかな、意味ないっぽいし」
「…………そっか」
嘆息するように牧人。
心底つまらなそうな浅野の表情に彼からの本当の親愛を感じ、面映い気分になる。
――コイツと過ごす大学生活ってのも……悪くなかったのかな……。
そう思うが……、もう遅い。
「なら、最後に飯でも食いに行くか? お前とも、もう会えないだろうしな」
だからそう言って、甘く囁く過去を振り切った。
牧人は、自分一人だけの力で立ち向かっていくと決めたのだから。
「会えない? なんでさ?」
しかし浅野は呆けたような顔でそのように返してきた。
「なんで、って……」
思ってもみないことを問い返されて、言葉に窮してしまう。
「俺……大学中退だし、もう会う機会もないだろ?」
「だからなんで? アッシーはもう俺とは会いたくねえの?」
「いや……そんなことは、ねぇけど……」
真っ向から否定する気にもなれず、どこか自信のない回答になった。
「? ならいいじゃん」
「お……お前の方こそ、俺みたいに途中で逃げ出したようなヤツなんて……嫌だろ」
先程の事務員の言葉を思い出し、そう返した。
中退という言葉は、“途中で辞めた”というニュアンスを強調するように用いられる。
多くがあまりいい顔をされるものではない。
「なーに被害妄想してんのよ? んなわけないじゃん!」
しかし、牧人のそんな懸念は呆気なく笑い飛ばされた。
「大学なんてつまんねーし、辞めたくなるのもわかるって。ただでさえアッシー、窮屈そうだったしね。……ってか、俺ってば別に面接官とかじゃないんだからそんな経歴ぐらいでいちいち目くじら立てたりしませんがな」
「そ、そうなのか……?」
「当たり前だっつの! そうだ、大学辞めちゃってからも、一緒にメシとか食べようぜー。また一緒に音楽の話しようよー!」
肩を掴んでがくがくと揺すられる。
「お前――」
間近にある浅野の表情を見ながら、牧人は放心の態だった。
――なんか、翻弄されてねぇか……俺……?
振り回されるようなこの感覚には不思議な懐かしさと心地よさがあった。
「あ、そういや――」
急に手を離されて牧人はよろめく。
「アッシー学校辞めたんだから、これからはどっかで働くんでしょ?」
「え、あぁ……」
生返事。実際は何も考えていない。勢いだけの行動だったからだ。
――そんなこと言えねぇけど……、
カッコ悪いし。
「なに、その煮え切らない返事? まさかニートになるわけでもないよね?」
「は、働くよ……。仕事探す」
「なら、君は俺にとって人生の先輩じゃん。これからは働きながら、社会の厳しさを僕に教え伝えていってくれたまえ!!」
「…………」
「っつーわけで今後ともよろしくどん、葦原牧人センセイ!」
フルネームで呼ばれて敬礼をされた。
――ああ、そうか……。
それを見て、思わず感じ入る。
楽しげに笑う彼を見て、牧人は不覚にも涙が出そうになったのだ。
――これで終わりにする必要なんて……別にねぇんだよな。
思えば、この青年は牧人が初めて自然な形で仲良く出来た友人なのかも知れなかった。
「……ま、とりあえず――」
気付かれない程度に鼻をすすった。無様な姿は、見せたくない。
無意味な虚栄心からではなく、この気のいい“友人”の前でくらいはそのようにありたかったのだ。
「――メシ、食い行こうぜ」
「おう、ラーメンな!」
勢い勇んで歩き出す浅野の後に続く。
「……あれ?」
そんな中、牧人はある疑問を抱いた。
「えーと……」
「ん? どしたのアッシー?」
首をかしげる浅野を尻目に、牧人は重要な事実に気がついた。
――浅野の下の名前って……なんだっけ?
友人として名前で彼のことを呼んでみようかと思ったのだ。
だが、どうしても思い出せない。
いつも苗字でしか呼ばないので、記憶していなかった。
元より大学という環境に対して一歩退いた気持ちがあったことも原因だろう。
意識しないうちに無関心を決め込んでいたのだ。
しかし今や、牧人は彼と共にいることに違和感を覚えてはいなかった。
「浅野ってさ……」
「なに?」
だが、だからこそ……、
――今更、名前なんて聞けねぇぞ……おい……、
「えっと……浅野」
「なに苗字連呼されまくり俺? 変なアッシー」
久しぶりにそんな煮え切らない牧人なのだった。
それに戸惑わない程度に、浅野はできた人間でもあった。
そして二人は学食で安いラーメンを食した。
二人して学食の卓を囲むのもこれが最後。
……牧人は、社会人になる。
それは原野に放逐されたような不安定な気分でありながら、どこか解放されたような心持だった。
「落ち着いたらメールちょうだい」
別れ際、そのようなことを言われた。
サークルの連絡にしか使ってなかった浅野のアドレス。
そこから送られてくるメールが、これからは少し楽しいものになるだろう。
「……あぁ、またな」
「また!」
大きく手を振って、牧人は校門を後にする。
約二ヶ月間の短い大学生活。その締めくくりとなる、文字通りの門出。
何はなくとも、今だけは晴れやかな気分だった。
自分に言葉を返してくれる隣人は、いつだって心強いのだ。
何気なく空を見上げた。
いつも頭上にあったはずの青空が、何故だか懐かしく思えた。
■■
また数日が経った。
牧人はその日、就職活動と新居探しで外出していた。
自身で色々と考え行動した結果、どちらも上手く目処が立ちそうだった。
――運っつーかタイミングっつーか、色々良かったな……。
背広姿で道を歩きながら、牧人は思う。
なんとかなりそうで安心はした。だが、楽観はできない。
何のよりどころもない中途採用。当面は苦労し続ける毎日だろう。
「牧人!」
そんなことを思いながら帰宅すると、玄関で両親が待ち伏せていた。
それを見て、この日が休日であることを牧人は知った。
……しかし、そんな呑気な思考は両親の剣幕に吹き飛ばされる。
「これはどういうことだ!?」
父親が一枚の葉書を牧人に突き出してきた。
白黒の簡素な書面には、大きく退学受理通知とある。
「……ポストにこれが入っている時は目を疑った。何かの間違いかと思って大学に連絡してみれば……お前、自分が一体何をしたか解っているのか!?」
「…………」
牧人はここまで声を荒げる父親の姿を初めて見たような気がした。
今まで何度となく言い合いをしてきたが、その中でも今日ほど怒気を露にしたことがあっただろうか。
だから、
「あぁ……ようやく来たのか、ソレ」
牧人は感心したようにそんなことを言って返した。
「――ッ!」
ばしん、と音がした。
殴られていた。
突然のことで防御もできなかった牧人はそのまま殴り飛ばされ、玄関に転がる。
ぶつかった棚から、高級そうな革靴がいくつも転げ落ちた。
「ちょっと何してるんですか!? 冷静に――」
「お前は黙っていなさい!」
思わず制止の声を発する母親を押し止め、見下ろすような視線を牧人に向ける。
「大学に入ってようやく大人しくなったかと思えば……結局これか!? この――っ!」
「あなた、落ち着いてください!」
母親の再度の制止で、身を乗り出しかけていた父親はようやく一歩退いた。
未だ激昂の気配が強く残る父の心を代弁するように、母が牧人を見やる。
「……牧人、あなた一体どういうつもりなの?」
憤懣する父と対照的な、冷徹な言葉が投げかけられた。
「せっかく父さんがチャンスをくれたのに、……それをふいにしてしまうなんて」
「…………」
「あなたは何がしたいの? 大学には何をしに行ったの? これからどうするつもり?」
向けられていたのは軽蔑するような眼差しだった。
「そんな様子でどうやって、父さんの後継者になろうというの?」
「――ッ!」
その言葉で、牧人は初めて顔を上げた。
――結局、それかよ、あんたたちは……ッ!
仕事ばかりで家庭をまるで顧みない父。
そんな父に常に与し、彼の立場と家の体裁を気にしてばかりいる母。
――俺がいつ、あんたたちの後を継ぎたいって……!
三人で食事に出たことはおろか、家で食卓を囲むことすら稀だった。
…………そんな冷えた家庭だったのだ。
叶うのなら、愛がある家庭が欲しかった。温もりのある家族が欲しかった。
だが、打ち砕かれた。
この家庭でそれが叶うことなどあり得ないと、この瞬間に牧人は悟ったのだ。
「……知るかよ」
立ち上がり、背広に付いた埃を払う牧人。
「何を言って……?」
「うるせぇんだよ! 何しに大学行ったかなんてこっちが聞きてぇよ!」
猛った。
全霊の敵意を視線に宿し、親二人を射抜く。
最後くらい大人しく話を聞いてやろうかとも思ったが、殴られた段階でそんな気は失せた。
久々に見せた息子の反発に、両親は一瞬放心しかけるが、すぐに調子を取り戻す。
「この、恥さらしが……!」
歯噛みする父親。手にしていた葉書が握り潰される。
「お前は屑だ、親不孝者! 身内から中退など出してみろ、世間で何と言われるか――」
「またそれかよ!? そんなに体裁が大事かよ!?」
「お前に何が解る!? 社会のことなど何も知らない子供が、偉そうな口を叩くな!」
「わかってたまるか! あんたらだって俺のことなんか何もわかってないだろ!!」
「この、減らず口を――!」
一瞬言葉を詰まらせて、それで少し冷めたのだろう。
今にも腕を振り上げるところだった父親は、嘲るように笑った。
「出て行け」
「……なんだと?」
あまりに冷酷なその言葉に、牧人は反射的に聞き返す。
「今日を限りにお前は勘当だと言ったのだ。私たちの目の届かない場所で勝手に生きろ」
「…………」
絶縁を告げる言葉に牧人の頭脳も冷却されていく。
――なんで……、こんな人が……、
食い縛っていた歯から力が抜け、静かな吐息が口から漏れた。
「俺が――」
すっかり落ち着いたその口調。
「――自分たちの思い通りにならないなら、子供じゃないって言いたいのか」
「牧人、あなた――」
「間違いを許さないで、一緒に悩んでくれることもしないで、ただ自分が求める完璧ばかり強要して……、そんな権利が親にはあるのか?」
言葉とは裏腹に、批判する意思は微塵もなかった。
「それで、面倒見切れなくなったら無責任に親を放棄できる権利が、あんのか?」
ただ、驚くほどの速さで失せていく興味を繋ぎとめるために、敢えて心を言葉にしてみただけだった。
「――なら俺は……親になっても、そんな権利は使わないようにするよ」
そしたらそんなことを言っていた。
――俺……何、言って……?
自分が親になる仮定など、初めてだった。
それは妙に冷えた、しかし穏やかな気分だった。
「……好きにしろ」
ひり出すような父親の言葉。
「お前とはもう親子でもなんでもない」
「あなた――っ!」
母親が再度止めようとするが、父は踵を返し家の奥へ歩き出していた。
「母さん」
声をかけた。追おうとする母の足止めをするかのように。
「俺の荷物はこの住所に送っておいて。送料はこっち持ちでいいから」
「…………」
先程決まった新居のアパートのチラシを、母親は凝然と見つめていた。
「粗大ゴミに出すよりは……安く付くだろ?」
「……っ」
逃げるように父の背を追った。
最後、廊下を曲がる時すまなそうに目を伏せていたのが印象的だった。
――こんな親でも、見離されると悲しいもんだな……。
そして、そう思いながらも割に平気な自分も、また哀しかった。
「ふぅ……」
広く綺麗なその一軒家。
二度と跨ぐことのない敷居を出て、踏み慣れた砂利道を歩く。
表札の前に立って空を見た。
それが異様に広く見えて、眩暈がした。
……葦原牧人は、今初めて一人で外に出たのだ。
03
「……ただいま」
午後九時を回った頃、牧人は帰宅した。
無人の室内は真っ暗で、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
電灯をつけ、帰りがけに寄ったコンビニのビニール袋を床に下ろす。
バランスを崩した袋の口から、カップ麺とビールの缶が転がり出た。
「――たまには、ちゃんと飯も作らねぇとなぁ……」
呟きながら缶だけを拾い、冷蔵庫に収めた。
……そうして大学を辞めてから約三年の月日が流れた。
牧人はこのように実家を出て、一人暮らしをしていた。
生きていくために仕事を見つけ、通える距離でアパートを探した。
突然に大学を辞め、社会に飛び出した牧人。
高校時代にアルバイトをして貯めた金が、大分残っていたことが幸いした。
この年代にしては割に蓄積されていた貯金が、ここに来て独立資金として役立ったのだ。
新たな住まいは実家のある平坂から電車で五駅とそう離れてはいないが、これは牧人の職場もそこにあるためである。
彼の勤め先は、高校時代にアルバイトをしていた会社だった。
業種としては工業系の派遣会社――契約した施設や企業に赴き、機材や設備の修理点検、或いは新たな取り付けを行う。
技術職故に、経験が物を言う。牧人は高校三年間で既に一通りの仕事を覚えていたため、面接を受けに行った際には会社側からも歓迎された。
地元の知人と会うことは稀だった。
今やこの地は牧人にとって働くための場所であり、いても慌しく動き回るだけだったからだ。
道行く無数のサラリーマンの顔など、一つ一つ覚えるような者はいない。
仮に旧友とすれ違ったとしても、牧人は認識されなかっただろう。
敢えて会うような知り合いはいない。家族とも最早縁はない。
何の支えもない状態は不安だったが、束縛されないというのは清々しいものだった。
……得意の強がりを含めても、強くそう思ったのだ。
「………………」
水を張ったやかんをコンロに置いて、牧人はベッドに座った。
腰を下ろすと、一日の疲労が四肢に伝わるようだった。
――最近、忙しいからな……。
明日も今日と同じ時間に家を出なければならない。
たったそれだけのことを思うだけで、牧人は心の奥に微かな重圧を感じた。
……ただ、生きて働いている。
それだけの毎日でも、悲しみや孤独が蓄積されていくものだと知った。
そうしたものが心に圧し掛かり、その重みで弾力が失われていくことが予感できた。
或いは、社会に出る前から……高校や大学の頃からも、そうした重みを牧人は感じていたのかもしれない。
人とは、そんな理不尽な痛みを背負わされて生きている。
知らず感じている雑多な重荷に負けて、意図せず平穏を崩してしまうことがある。
自身を乱し狂わせる感情の原因は、多く外部にある。
……それについては、本当に理不尽だと思う。
「だけど……」
――認識しておく必要はある。
そうした世を憂うのは簡単だが、それはいじけて泣き寝入りするのと変わりない。
その中で生きるためにするべきは、そうした感覚を処理する術を探ること。
発散の方法は人によって異なる。それは酒であり、趣味であり、交友である。
……そう、牧人は考えるようになった。今なおそれを探しているのだ。
かつて愚行を犯した自分だからこそ、そのことを意識しなければならないと戒めているのだった。
熱されたやかんがカタカタと鳴る音に混じって、隣室のテレビの音が微かに混じる。
……静かだった。
テレビをつけようとして、やめる。
牧人はテレビがあまり好きではなかった。無関係な人間が喋っている声を聞いても楽しくないからだ。
自分のことなど何も知るはずがない有名人の言葉に、果たしてどれほどの重みがあるだろうと牧人は考える。
……苦しい時、辛い時、本当に支えになるのは、自分を良く知り理解してくれる相手の言葉ではないだろうか、と。
「………………」
その時、傍らに置かれた携帯電話が鳴る。
開かれた液晶には、芥川なつめの名前が表示されていた。
例えそれが、自分の立たされた苦境と何の関係もない、単なる世間話だったとしても。
対話は相手がいるから成立する。相手からの認識があって成立する。
それだけで大きな意味があるはずだ。
――誰かの中に自分がいるのは……、こんなにも心強い。
「………………」
そのようなことを思いながら、牧人は今夜もメールを読む。
メールの文面から感じられるあの少女は、今も昔も変わらない。
――――それが嬉しかった。
04
「……そっか、結婚すんのかお前」
棗耕平は夜の街並みを見ながらぼんやりとそう返答した。
芥川なつめからの電話。
高校卒業後も頻繁に連絡を取り合っていた彼等だったが、なつめが不意に発したその言葉に耕平は驚きを隠せなかった。
『そーなんすよ、相手はホールスタッフではイチバン偉い人っす。玉の輿、いぇーい!』
「……偉いっつーても、しがないイタメシ屋のマネージャーだろ? それで玉の輿なんてよく言うぜ」
『むー、ならソーセキ先輩はどーなんすか? もう四年生っすよね? 就職決まってんですか?』
「まあな、ちょっと前に内定出たぜ。大手の商社だ。少なくとも将来的にはお前のダンナよりは高収入だろうぜ」
『うわ、やめてくださいっすよー、ンなこと言われたらなびいちゃうじゃないっすか』
「……結婚前から不倫する気かお前は。思えば高校ん時からお前は魔性の女ぶってたな」
『ぶってた言うな! あたしはあれでも結構ホンキでソーセキ先輩のことが……』
そこで途端になつめの声が掻き消えた。
「え、なんだって?」
『あ、やべっ――あはははは! ハイ、どーん!!』
電話越しに手を叩く音が聞こえる。
「お、おい? どうしたんだお前? こわれたのか」
『こわれてません! ソーセキ先輩と結婚なんてちゃんちきおかしーっって言ったんすよ』
「なにぃ? こんなイイ男捕まえて何が不満だキサマは」
その言葉になつめが吹き出した。耕平の変わらぬ大言壮語が耳に心地よかったからだ。
『だって、先輩と結婚したらあたし“なつめなつめ”になっちゃうじゃないっすか。さすがのあたしも人生かけてギャグかます気にはなれないっす!』
「ハハ、逆に面白くていいじゃねえか。最初からギャグみたいな名前なんだし。それに、オレと結婚すりゃあゴミ子卒業できるぜ?」
『ブー! 残念でした、ゴミ子卒業は今の彼氏相手でも一緒っすよ! もしかして、ヤキモッチーですか先輩、むひょー!』
「だから冗談で言ってみただけだっつーに。お前は……」
逐一反応が愉快な少女だ。
電話のため仕草や表情が見られないのが惜しくさえある。
『……でも、そっすね』
不意に、なつめの声音が落ち込んだ。
『あの時、先輩がちゃんと抱きしめてくれりゃ、ダブルなつめでも我慢できたかもしんないっす』
「…………」
沈黙が走る。
……あの時とは言わずもがな、二人で海に出かけた日のことだろう。
その時の会話は、どちらにとっても未だに最も大きな意味を持っていることに気付かされる。
あそこで明言化された生きる志向性が、二人にとってどれほど強く心を支えていたのかを知ったのだ。
耕平は、あの時のなつめのことを思い出していた。
生きることに後ろ向きで、逃げたいと言って泣いていた彼女。それを支えることができなかった自分。
――今の、オレなら……あるいは……、
彼女を守ることができるのではないかと思い――
「お前さ――」
『すんません、今のは忘れてください先輩』
声をかけるも、遮られる耕平だった。
……電話口から聞こえてくる声がやけにくぐもっているのは、彼女が涙を拭いているからだろうか。
「ハハ……」
そう思ったら、乾いた笑いがこぼれた。
――何浸ってんだよ、オレ……?
「オレともあろう男が……自惚れもいいところだぜ。まるで誰かさんのようだな」
『……先輩?』
耕平の発したどこか弱々しい言葉に、今度はなつめが戸惑いの声。
「気にすんな。……まあ、せいぜいゴミ子卒業まで、頑張れよ」
耕平は、できるだけ明るい声音を装った。
そして言ってやることにする。
「――――そしたら、今度からはちゃんと名前で呼んでやるさ」
別れの言葉を告げるように。
――茶番だな……。
……その後も、二人は思いつくままに色々と話をした。
いつも通り簡単な近況を語り合うことから始まり、話題は思い出話に移っていく。
その中で、どちらにとっても高校時代が一番楽しかったことが再認されるのだった。
急速に意識に浮上し始めた、かつての輝かしい日々の記憶。
恐らくは、なつめの放った結婚するという言葉が原因だ。
結婚――それは彼女に関わる者全てにとって、大きな転機となるはずである。
変わるのは何も苗字だけではないだろう。意識も立場も、今までとは全て異なってくる。
遠からぬ未来に控えた大きな変容。その予感。
移り行く時間の存在が否応なく感じられ、過去築かれた絆が微かに、けれど確かに揺らぐ。
だから、かつてのそんな日々を確かめ合った。
それらは本当に楽しかった。予想を遥かに超えて、楽しかった。
仲間たちと共にいた過去があまりに愉快で、耕平もなつめも、現在の日常の褪せた色合いを一層強く感じてしまう程だった。
……立ち向かうどころか、かえって気力を萎えさせてしまったのだ。
『それじゃ、今日はこの辺にしておきますか』
「ん、そうだな」
互いに引き際を察し、別れを交わした。
これ以上話していると、心が益々甘く堕ちていく予感がしたからだ。
……友人五人で過ごした日々が、今となってはかけがえのないものであったこと。
…………そしてそんな大切な関係でも、取り戻すことが出来ない今の無力な自分。
気付かされるそうした事実が辛くもあったのだろう。
だから二人は会話を終わらせる。
「また電話よこせよ」
『せんぱいこそ』
しかし、最後にそのような言葉を交わしたのは二人の弱さと糾弾して良いものか。
かつて語られた退廃のモジュールを、耕平は今ではより強く己が内に認識させられた。
――人間ってのは、意外に逃避的なもんだ。
付け加えると、耕平は最後まで、なつめが電話の最中にどんな顔をしていたのかが気になっていた。
「ふー」
通話を終え、耕平は携帯電話を閉じる。
痛くなるほど押し当てられた受話器の感触がまだ耳に残っていた。
何気なく窓を開き、身を乗り出す。
……濁流のような都市の喧騒が、夜の街から響いてくる。
棗耕平、大学生。
……彼は今、東京にいた。
高校三年時。成績優秀な彼は進路指導教諭などから首都圏の大学への進学を勧められた。
両親もそれに同意し、耕平自身も悪くないと考えていた。
或いは、牧人と絶縁した直後のことで自棄になっていた部分もあるのかもしれない。
どこか遠くへ行って、一新された環境に身を置きたいという意識も確かに彼の中にはあったのだ。
そして耕平は大学に推薦合格した。
卒業後、春を待たずして彼は上京することになる。
首都での暮らしは、彼にとって何もかも新しかった。
異様なまでに施設が整った街、無数の人口に比例するように増えた知人。
異質な環境だ。当然、楽しいばかりではなかった。
初めての一人暮らし、忙しい大学、友人との付き合い、次々と伝わってくる情報、複雑な路線図、止まない騒音、濁った空気、星の見えない空――――
街並みと通ずるような雑多な諸々が、彼の時間を変異させる。
大学の日々は忙しく、都会の感覚は馴染めず、知らず余裕が失せていった。
「…………」
妙に整った自室を見渡す。
お気に入りだった玩具の類はまだ大事にとってある。
だが、今ではその全てがダンボールに詰め込まれ、物置にしまわれている。
のんびりと手入れをする暇が彼の生活から失われたからだ。飾っておいても埃を被ってしまう。
――偉そうなこと言っといて、俺だってアイツと似たようなモンじゃねえかよ……。
苦笑しつつ、携帯電話を手に取る耕平。
表示されたアドレス帳の一番上に登録された番号には、もう二度とかけることはないだろう。
……それは、高校時代に付き合っていた恋人の番号だ。
上京してきたことで、耕平は自動的に彼女と遠距離恋愛をすることになってしまった。
最初の数ヶ月間は、毎日欠かさずメールを送り、休日には電話をかけていた。
だが、慌しい日々に忙殺されていくうちに、徐々に連絡はおろそかになっていった。
結果、一年を経て彼等は別れる運びとなった。
必死になって弁明する自分が無様でもあり、少し遠くに来た程度で何もできなくなる自分が歯痒かった。
――耕平くんの気持ちがわからないよ。遠すぎてここまで届かないの。
最後に、そのようなことも言われた。どうすることもできなかった。
…………ただ、どうしてか高校時代に仲の良かった少年のことが脳裏にちらついていた。
再度、窓の外へ視線を戻した。
まさしく夜景という言葉が似合うこの景色は、実際は存外小汚いものだと耕平は思った。
一人考える。
今頃、皆は何をしているだろうかと。
振られた直後は酷い有様だった薫がその後元気にしているのか心配だった。
たまにしか連絡を取り合わない明彦は何をしているのか気になった。
……そして牧人には少し酷いことを言ってしまったな、と心が痛んだ。
なつめと会話したことで、その辺りの記憶が刺激されたのだ。
「………………」
自分は変わった、と耕平は思う。
根源的には変わらずとも、どこか冷たく無色な性質を帯びてしまった、と。
表層を覆うその冷気が、心を奥底まで冷やしていく感覚があった。
そしていつか、深層まで凍結させられてしまった時、果たして自分はどうなるのだろう?
……そう思うと、別の冷たさが背筋を走る。
入り乱れる情報、それを処理するための時間の不足。
そうした多忙な日々の中で、以前あれだけ大切にしてしまった玩具の山にも恋人にも興味が失せていったのだ。
無くしてから、気が付いたのだ。がらんどうになりかけていた自分に。
――オレは、いつもそうだな……。
かなり昔の話だが、人の痛みがわからないと言われたことがあった。
当時は何のことだかわからなかったが、この頃になってようやく耕平はその意味を理解し始めた。
なまじ優れた能力があるため、挫折や失敗の味を知らなかった。
そうした状況に置かれた人の思考を、慮ることができなかったのだ。
異なる価値観を容認できず、外れた行動を取られると途端に興味が失せてしまっていた。
そして、思うが侭に言葉を放ち、相手を叩き潰してしまう。
常に人より優れている棗耕平の理論は、いつだって圧倒的に正しいからだ。
「……しかしここには、誰もいねえ」
呟いた。
一人都会に飛び出して、彼は初めて孤独というものを知った。
刹那のように過ぎ行く日々に、心を許せる友はない。
かつて親しかった友人たちと切り離されたことで、その大切さを知ったのだ。
一方的な関係性の消失が、ここまで哀しいものだったとは。
牧人に拒絶された薫の心情とはこのようなものだろう。
ならば、耕平に拒絶された牧人は? 捨て置かれたかつての恋人は?
「……ああ、哀しいな」
――無関心に取られるってことは、こんなにも辛い……。
自分のしてきた行為が、いかに残酷で身勝手だったか。
――オレもずいぶん……ガキだったもんだな。
そのように認識していた。
だから、高校時代より少しは優しくなれるような気分だった。
――そうだな、優しくしてやりゃ……良かったのに。
どうして、何の望みもないような厳しい言葉ばかりかけてしまったのか。
どうして、積極的に彼を助けようと動かなかったのだろうか。
答えはあった。それが正しいと思ったからだ。
そして確かに、正しさという点のみに絞れば、今振り返ってみても反省すべき点は無い。
……だが、正しい事を教えるだけの言葉や行動に何の意味も力もないことを知ったのは、随分と後のこと。
かつて、人が道を踏み外すのは、正しいことを知らないからだと思っていた。
違うのだ。
『正しいことが何か解っている』なんてのは当たり前で、問題は『正しいことを行う心身の力』が備わっているかどうかだった。
その力に不自由した例の無かった青年は、それに気づくのが遅すぎた。
『弱い人間』というのは、確かにいるのである。
彼は、適当に耳障りの良い言葉を並べて、ただ慰めてやれば良かったのだ。
そうやって、打ちひしがれた牧人に、活力を与えてやれれば良かったのだ。
自分は味方であると、ただそれだけを伝えてやれれば良かったのだ。
――本当は誰でも解っている様なことを得意げに諭す自分は、客観的に見れば……随分と滑稽だっただろう。
「………………」
棗耕平は、自分が優れているなどと思ったことは一度もない。
しかし、
――オレって案外、大したことねえヤツなのかもな。
自分の言葉が最適かどうかを理解することが出来ない程度には、彼も子供だったのだろう。
この時はそのようなことを思ったのだった。
――牧人……か。
こうした思考と共に抱くのは、常にその少年だ。
砕かれた絆は修復不可能だろうか。今からでもやり直せはしないだろうか。
「…………」
そう思ったら、いつの間にかアドレス帳に彼の名前を探していた。
急に彼と話がしたくなった。
しかし、その機会を持てない自分の臆病さが、笑えなかった。
携帯電話を閉じる。
耕平は空を見上げた。
星のない夜空。
彼等が見ているものと同じであるとは、正直少しも思えなかった。
…………それがなんとも、哀しかった。
……棗耕平は、そのように日々を生きていた。
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