三月に入り、三年生の『本当の追い出し会』があった。
基本的に三年生は夏が終わると部活を引退する。
だがうちは市内にひとつしかない中高一貫校だ。
ほぼ全員が同じ敷地内にある別校舎に進学するので、だらだらと残り続けるのもいる。運動系の部活は二年生を軸にチームを編成し直したりするので、三年生は練習相手として顔を出したりするらしいが、オレら吹奏楽部はそうもいかない。
突然三年生がごっそり抜けると音が寂しいことになる。
なにしろ初心者の集まりだから。
一年生なんか、まだ音がまともに出ないヤツもいるから。
そんな理由で三月頭まで三年生も普通に部活に参加するのだ。
そして卒業式を目前にしてようやく本当に追い出される。
「ああ、十四日の部活は休みだから」
追い出し会の真っ最中に顧問が言い出し、女子はいきり立った。
「二月は出てこいって言って、三月は休みってどういう事ですか!」
紙コップに入ったウーロン茶を啜るようにして飲みながら、うちの顧問はアホだな、と思った。
おおかた、先月のバレンタインでもらったお返しをまともにしたくないから、ってところだろう。女子全員からです、とチョコをもらい鼻の下を伸ばしていたが、その直後に、返さなければならないことに気が付いて青ざめていた。まあ、一人あたり百円くらいの支出だっただろう、と思われるチョコに対してお返しを準備するのは大変だろうとは思う。
三年生の卒業式は無視してるな、この顧問。
「先輩、お酌します」
児島がコーラのペットボトルを持ってやって来た。
「あ、オレウーロン茶」
「あれ。じゃあ混ぜて、新しい味に挑戦しますか?」
「混ぜるか、ボケ」
バレンタインに児島からチョコをもらった。泣きながら本命と言われ、断る理由もなく受け取った。
けど別にオレらの仲は変わっていない。
相変わらずクラパーの先輩後輩のまんまだ。携帯の番号もメールアドレスも互いに知っているが、それはクラパー全員が教えあいこをした四月の時から知ってる物であって、特別な物じゃない。
そしてオレから電話もしないし、児島からメールも来ない。
部活で顔を合わせるだけで、デートなんかもしてないし、まだ手だって繋いでない。
そうか。手、繋いでないな。オレ、犬撫でるみたいな気分で頭ぐりぐり撫でたけど、それだけだ。
「先輩、十四日って何か予定ありますか?」
「いや、別に」
児島はそわそわしながら訊いてきた。
「ホワイトデーなんですけど」
「ああ」
バレンタインのお返ししなきゃな。ってオレは返さないぞ。
オレ、あの時金出した側なんだからな。今度はおまえが出す番だぞ。
「予定がなかったら、うちにいらっしゃいませんか?」
はい?
お付き合いらしいお付き合いもなしに、もう両親に紹介イベントですか?
「土曜日って、うち、誰もいないんです」
両親に紹介イベントすっとばして、家に誰もいないんですイベントか!
あやうくウーロン茶をふくところだった。
そわそわする割に児島はけろりとしている。
チョコを渡してきたときのあのテンパッた感じがどこにもない。
浮ついてるのはオレだけですか。
そのようだ。
「ん。わかった」
誰もいないという児島の家に行くことになった。
「っつってもなあ」
去年までランドセル背負ってた子になんかするってわけにもいかないだろう。
それ以前に、あれをどうこうしたいって気分にならないんだよなあ。
くりくりした目で見上げてきて、ぴょこぴょこしながら後ろついてきて、顔真っ赤にしてクラ吹いて。
彼女、って感じじゃないんだ。あれはペットに近い。愛玩動物だ。ぐりぐり頭撫でてやったら、それに「えへー」って笑って返してくる。
それで充分だ。
インターホンを押す。
「はーいっ!」
出てきた児島はちょっと予想外な私服だった。
「おまっ! スカート短っ!」
「え? そうですか?」
パンツ見えるだろ、それ。上も襟ぐりがえらく広く空いてるカットソーだし。
まだ三月だぞ。鎖骨見えるって寒すぎるだろ。
露出するにしてももっとこう、小学生男子みたいな格好してると思ってた。半袖半ズボンみたいな。
「どうぞー」
招き入れられたのはリビング。
そりゃ、いきなり児島の私室とまでは期待してなかったけどな。
いや! 期待って。違うから。そういう期待と違うから。
「先輩、コーヒーと紅茶とどっちがいいですか?」
「お茶」
オレ、どっちもだめなんだわ。砂糖入れないと飲めないから。
児島はむうと頬を膨らませた。
「そこはコーヒーじゃないんですか?」
「じゃあココア」
だから甘くないと飲めないんだっつーの。
結局麦茶が出てきた。
「この季節になぜ麦茶」
「うちは麦茶好きなんですよぅ」
言いながら児島は、よりによってオレの隣に座ってきた。
いや、おたくのリビング広いですよ? ソファ、そっちにもありますよ? そんなにびったり隣にくっついて座らなくてもね?
「えへへ」
ぎゅうっと腰にしがみつかれた。
あー、やっぱこいつ犬系だわ。見上げてくる目とかちょこんとした鼻とか。頭ぐりぐり撫でて、鼻の頭つつきたくなる。
「先輩、あのね。私ホワイトデーのお返しを、って思って、き……」
き?
「き……、き……」
まさか『キスして』きた!?
頬赤らめて、視線を外しちゃ戻して、唇尖らせて。
腕は後ろで組んで、胸つきだして、鎖骨の下のスクール水着焼けの肌までちらりと見せて。
これは来た!?
「きのう頑張って作りました!」
おおう、予想外。
児島は座るときにでも隠しておいたのか、レースペーパーをリボンでしばった包みをぐっと突き出してきた。
「クッキー?」
においで判断した。
「はい。味は大丈夫だと思うんです。お兄ちゃんと作ったので」
「お兄ちゃん!?」
「はいー。お兄ちゃんはたくさんチョコもらってて、そのお返しって昨日作ってたので」
児島はピンクの頬をしたまま、えへ、と笑った。
「便乗しちゃいましたー」
あー、便乗ですかー。このー。ちゃっかりさん。
とか言うとでも思ったのか!
おま、オレ本命とか言っておきながら便乗だ!? しかもお兄ちゃんが作った? それおまえあれだろ。手伝いもしてないだろ。どうせ焼き上がったの、横から失敬して包んだだけだろ!
「これであの時お借りした500円分くらいには……いたっ」
デコにチョップをお見舞いしてやった。
「おまえの兄ちゃんは世界的に有名なパティシエかなにかか? この片手に乗るくらいの包みに入ったクッキーで500円分だと? というかホワイトデーを勘違いしてないか? ホワイトデーってのはあくまで……」
あくまでも。
告白してくれた女子に対するお返しを、男子がする日じゃないかと思うんですが。
確かに500円分の貸しはある。でも、その500円を回収しつつ、オレは児島に何かプレゼントを買ってやりたかったんだが。
というか一応用意はしてきているんだが。
「でも……。その……」
児島は言いにくそうに口を開いた。
「あの時先輩、ホワイトデーで500円出せ、って言ったじゃないですか」
「言った」
「で、私お小遣い貯めてたんですよ」
ほう。
「そしたらね、今月の頭に『くだをスゥオナーレ』の新刊が出てたんですよ」
『くだをスゥオナーレ』というのは女子向け月刊漫画雑誌に連載されている、大学にある吹奏楽同好会を舞台にしたマンガだ。絵もそんなに少女漫画っぽくないし、読んでいると「あるある!」と言いたくなるネタが多く、部内にもファンが多い。貸し借りも頻繁にあって、回し読みされている。
ちなみに『くだを』はどうも『管を』らしく主人公は管楽器を担当しており、『スゥオナーレ』はイタリア語で演奏するとか合奏するとかのいう意味らしい。
「それで?」
「それでね! これがその新刊で。ほら、今回の表紙はクラリネットなんですよー」
嬉しそうに見せてくれるのはいいが児島よ。この本はいくらした?
裏を向ける。
「あっ、先輩。違いますよ。表です表」
値段が書いてあるのは裏だ。
見ろ。『本体590円+税』って書いてあるじゃないか。
「児島」
「はい」
「要点を話せ」
もうオチは見えてるけどな。
「えっと。マンガを買ったら貯金が無くなってしまって……」
ご利用は計画的に、という言葉を知らんのか。
「あっ、怒ってる? 怒ってますよね? ごめんなさい。ちゃんと貯めてたつもりだったんですけど、気が付くとなぜかお金が減ってて」
んなわけあるかい。
「児島。まさかと思うがバレンタインの時に50円しか持ってなかったのは」
「はい……。先月は『くだをスゥオナーレ』のイメージCDがでたので、お年玉を足して買ってしまいました」
イメージCDの話は誰かがしていたような記憶がある。
作中に使った曲が収録されたごちゃまぜクラシックCDだ。
中に入っているブックレットがおもしろいらしい。『くだをスゥオナーレ』のキャラクターたちによる解説マンガと聞いた。オレはまだ借りてないから見てないんだが。
「おまえは、どうも金に困るタイプだな」
欲しい、今ならお金持ってる、で買うのはどうかと先輩は思いますよ。
その性格を改めないとおまえは一生金に困る。金の力に翻弄され続けて困ることになる。断言する。
「はあ……」
情けなさそうな顔でうつむいた児島は、粗相をしてしかられた子犬のようだった。
「じゃあ、おまえにホワイトデーのプレゼントをやろう」
「え?」
びっくりした顔の児島に、文庫本サイズの紙袋を渡した。
一生金に困りそうなおまえを助けてくれるはずのアイテムだ。
「開けていいですか?」
「どうぞ」
文具屋で買って、ちょっとかわいい紙袋に入れてもらっただけだ。
児島はテープを外して中身を出した。
「おこづかい帳だ……」
「ちゃんとつけなさい。で、来年のバレンタインには困らないようにもうちょっと金銭感覚をだな」
「続かないですよぅ〜」
だからそういう『お手を失敗してしかられたような顔』をするなっつーの!
ぺち、と額を叩いた。
「いた」
「続けろ。ちゃんと書け。おまえ誕生日はいつだ」
「七月です。七月二十二日」
「オレは九月十八日だ。オレはおまえに誕生日プレゼントをやる。ちゃんと自分の小遣いを貯めておまえにプレゼントを買う。だからおまえも九月まで頑張って小遣いを貯めて、オレに誕生日プレゼントを寄越せ」
「ええー。だって先輩の欲しそうな物がわかりません」
バカ。そこは今から知るんだろうが。
オレらまだデートもしてないんだぞ。
「それ以前の問題だ。今日は小遣い帳の付け方を教えてやる。シャーペン持ってこい!」
「は、はいっ」
児島は立ち上がるとダッシュでリビングを出て行った。
了
2009年2月19日