私の住む街、ネオ・ヴェネツィアに春が再びやってきました。
とは言っても地球に比べて2倍も長いこの季節も今はもう終わりが近づいて、やがてやってくるアクア・アルタが終われば季節はすぐに夏になるんですね。
この時期は日の暮れるのが遅くなって、早めの夕ご飯を済ませて夕暮れの街中を歩いているとなんだか不思議な気持ちになってきませんか?
沈みかけた夕方の薄明かりの空気の中、点り始めた街の優しい黄色の灯りが街中を歩く人の姿をいつもより鮮明に浮かび上がらせていて、まるで地球の日本での縁日のお祭りのようなそんな街の空気の中に居ると、どうしてだかこの夕暮れの時間がいつまでも終わる事がなくてずっと続いていくような、そんな不思議な気持ちになってくるんですね。
急いでアリアカンパニーへと戻る途中、風が凪いでその止まった空気の中、振り返って見ると今度は海のずっと向こうの丘にまで広がって見える家々の灯りがつぎつぎと点り始めるのが見えてきます。
きっとその無数の黄色い灯りの一つ一つの下にはそれを囲む人たちの姿があるんですね。見てるとなんだか人恋しくなってきちゃいます。
今は2階が使えなくて用事があってまだ寝るには早い時間なので2階の外にテーブルを出してそこでこのメールを書いています。
アリア社長は今日はお出かけです。なんだか心が騒いで人恋しい気分が続いているのは、きっとアリア社長が居ないのと、海を見ている私の耳に女の人のまるで舟歌を歌うような柔らかい声が風に載って微かに聞こえてくるせいでしょうか。
その風が触る私の頬が熱くて火照っているように感じるのは、多分アリシアさんが作ってくれて私がここ数日ずっと飲んでる特製のお茶のせいかも。
それとも夏の手前のこの夜風のせいかもしれません。
今日はアリシアさんから聞いた大昔のアクアのお話をしますね。
昔、アクアでは今よりずっと気温の高かった時期があったそうなんです。難しいことは解らないんですがアクアで予想外の冠水が発生してその後安定した気候を維持するため一定の期間、熱量をコントロールする必要があったとかだそうなんですね。
少なくとも数年の間は今の様な夏の前の暖かいというかむしろ蒸し暑いとも言える夜が短い冬のあと、春中ずっと続いていたんだそうです。
この天候の悪化はアクアの人たちの生活に悪影響を与えました。なんだか私にも解るような気がします。この夏の前の心騒ぐ季節がずっと続く訳ですから。
アクアでは元々良かった治安が一時期一斉に悪化したんですね。アクアのこの時期は恵まれた時期とは言えませんでした。
元々が砂漠だらけの砂の惑星だったのが大規模な冠水によって地表の9割以上が海になりました。
不自由だった水資源が豊富になった反面、それまでの都市計画が文字通り水面下に沈んだ訳ですから。
冠水被害の痛手も大きかった上、産業や将来の街の計画が一気に目処立たずとなって一時的に都市が無秩序状態になりかけたんですね。アクアの各入植都市はそれぞれ分断されて孤立状態のまま、冠水からの復興と将来の計画の再編成の両方を急いでいる状態だったんです。
その街の一つ、ネオ・ヴェネツィアでも状況は変わりませんでした。そしてこの時期、ネオ・ヴェネツィアでは新しい2つの職業が生まれました。
それが今の私達、ウンディーネの元になったゴンドラを扱う女性の水路での運送業者と、同じく女性で……夜の街でお金を取って男性のお相手をする夜の女の人の職業でした。
ネオ・ヴェネツィアの街の人たちは最初、この2つ目の新しい職業とその担い手である夜の女の人たちを排除しようとしました。
この職業はやがて地球から流入してくる資金と結びついて非合法な産業となって大きくなるのが解っていたんだそうです。
ネオ・ヴェネツィアの人たちは苦労して開拓したこの街の産業としては相応しくないと思っていて街に不必要と考えていたんですね。
この街の人はそんな風に考えていて……でも排除は実際には行われませんでした。
というのは当時の、この夜の女の人たちの相手の人は今のネオ・ヴェネツィアの姿から想像できる観光客の男性ではなかったんです。
その頃のネオ・ヴェネツィアはまだ復興途中の街で観光都市という位置づけもまだされておらず地球からの観光客などはほとんどいない状態の都市でした。
その代わりに夜の女の人たちのお客さんとなった男の人たち、夜の女の人たちを必要としたのはかつての開拓技術者や労働者、地下の氷結水層の発掘作業やその融水作業に従事していた人たちで、冠水後も地球に戻らずアクアに残って分断された都市の連絡網の再設置やそのほかの復興作業を そのまま引き続いて継続することを選んだ男の人たちだったんです。
アクアに無数に作られた開拓基地には膨大な数の開拓作業者が居ました。その開拓作業者の人たちが改善しようとしていたのは水の存在しないアクアの想像を超えた不自由な生活でした。
そしてその不可能と言われたアクアの地質改善を頑張り通して実現したとき、開拓作業者たちを襲ったのは冠水事故でした。
それが起こったとき、都市の住民は避難が出来たのに開拓基地はそのほとんどが救助の間も無く、水中に沈んでしまったんです。
開拓作業に従事していた人たちは基地ごと沈んでほとんどが助かりませんでした。
奇跡的に生き残った開拓作業者の人たちに残された物は何もありませんでした。
働いた場所も、同じ仕事をした仲間も、場合によっては家族や恋人も、その全てが水の下だったんです。
努力の末、実現した地質改善は予想外の冠水で挫折感だけが残り、さらに生き延びた人には亡くなった人が残した家族からの非難が浴びせられる事もありました。
復興作業が始まってその当時、水の惑星となったアクアでの生活はようやく地に足の着いたものとなってきていて、街の人々は水と共に暮らすこのアクアでの新しい生活に感謝するようになってきました。
でも……夕暮れ時に復興した街の家々に灯りが点りはじめて、その下で暮らす家族が集まるとき、頑張ってその生活を切り開いた開拓作業者の人たちには……実際にはどこにも行く場所がこの街の本当にどこにも無かったんです。
ネオ・ヴェネツィアの街の人たちにはその事が解っていました。
街の人たちは開拓作業者の人たちの努力を覚えていて、結果もたらされた街の新しい生活を自分たちがどう感じているかを考えたんですね。
そこで地球から行政の委託を受けてネオ・ヴェネツィアを運営する当時の街の有識者が集まって今のサン・マルコ広場近くのある場所で会合が開かれました。
その場所に呼ばれたのはこの街の行政職員の一人である女の人だったんです。
美しいことで有名だったその女の人にされたのはある提案でした。それは、
『この後復興計画として実施されるこの街のヴェネツィアをモデルとした観光都市化の一環として、街の水路を案内する女性のゴンドラ漕ぎ手となってその職業を成立させて欲しい』
というものでした。
そしてその場でもう一つされた提案、それが、
『この街を愛する者として、この街を訪れる全ての人に街の感謝の気持ちを形で伝えて欲しい。今、問題となっている夜の仕事をする女性の代わりに。ただし一切の金銭の授受なしで』
というものだったんです。
その限りにおいて、この街を愛する限り、そして強制ではなくこの職業とその役割を愛し受け容れる事ができる限り、この先将来に渡ってそうした女性のゴンドラ漕ぎ手はこの街の一員として認められ、この職業を続けられる保護が街によって受けられる事が提案には含まれていました。
その為の機関もまた街に設けられる事になっていたんですね。
提案をされたその美しい女性は街の有識者達を前にしばらく考えて、そして承諾の返答をしました。
アリシアさんによれば、そういう提案は大人の世界では答えが解っている時にしかされないんだそうです。
この時の提案は記録には残されませんでした。代わりにウンディーネの間で『古(いにしえ)の契約』として語り継がれているんだそうです。
そしてそれがそれまでゴンドリエーネと呼ばれ男性漕ぎ手しか存在しなかった地球のゴンドラ漕ぎ手に代わり、アクアのネオ・ヴェネツィアでのウンディーネが生まれた瞬間でした。
ただのゴンドラ漕ぎ手/水先案内人ではなく、アクアで重要な仕事となっているサラマンダー(天候管理者)やノーム(重力管理者)と同じように街の一員で、街に欠かせない存在としてそれにふさわしく、私達がその本来の大事な仕事にふさわしい名前であるウンディーネ(水の妖精)と呼ばれるようになった本当のそれが始まりの出来事だったんですね。
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メール、長くなっちゃいました。私は今、月明かりに照らされて光る夜の海を見つめながら熱っぽく火照る頬を春の夜風にやさしく触れられるようにしてテーブルの前に座っています。
さっきからずっと、風が頬を撫でるたびにその暖かな風が薄いネグリジェの生地とその下で息づいている胸の間に入り込んで、そのまま下に降りて小さく震える身体を触って、それに合わせて背中からそのずっと下の方までピクンと動くような、そんな風な感覚を感じたままでずっと同じ事を考えているんです。
私はアクアは幾つもの奇蹟で出来ていて、ウンディーネもその一つで、奇蹟で出来た素敵なお仕事だと思っていたんです。そしてそれは……本当にその通りだったんですね。
アリシアさんに話を聞いてからずっと想像してました。
アリシアさん似の綺麗な女の人が、提案の席で街の人たちを前に承諾の返事をする所を……
アリシアさんだったらにっこりと微笑んで、それがきっととても綺麗で素敵な微笑みだったように思うんです。
そして私は…
もしもそれが私だったら……
このアクアを創る為に全てを失って、傷つきあの長い春の夕暮れの空気の中で丘に広がる家々に点りはじめる灯りを目にしながら、どこにも行き場のない想いをしている男の人の前に立って私は想うんです。
その男の人の瞳を正面から見つめて、私は…
私だったら……
今、このネオ・ヴェネツィアでの素晴らしい出会いや奇蹟や生活の全てに感謝している私は……
いったいどうしたら、この自分や街の人たちの感謝の気持ちをその男の人に伝えられるんでしょうか……
たぶん、私は……
私は……………………
……………………
……………………
「……灯里ちゃん?」
「(は……はひっ!?)」
身体を震わせながら自分の考えに沈んでいた私は急に声を掛けられて座っていた椅子から飛び上がったんですね。
夜の空気の中、海面の上、歌うような女の人の声は止んでいて、アリシアさんがいつのまにか部屋から出てきていて私の後ろに立っていたんです。
アリシアさんの濡れて光る身体からは朝の湿った草に似た鮮烈な香りがして、月の青白い光に照らされたアリシアさんはこんな時のアリシアさんがいつもそうな様に、何ひとつ身体に身に付けていないのにとても綺麗に見えました。
「お客さまが半人前のウンディーネの実習もしてくださるそうよ。 ………… ……灯里ちゃん、大丈夫よ灯里ちゃんなら」
アリシアさんは裸の身体で私の肩を抱くようにして耳元で囁くようにそっとそう言ってくれました。
私は同じように小さく無言でうなずいてそして真っ直ぐ目の前の2階の窓に映る自分の姿を見つめたんですね。
暗い夜の海の水面で跳ね返った月の青白い光を受けて、薄いネグリジェ越しに私の身体が透けて見えていて、私は小さくうつむいていてなんだか頼りなさげに見えました。
その透けて見える自分の身体の影を見つめたまま、両方の腕で自分の胸を抱くようにすると柔らかい生地を通して、震える胸の感触やその重さが腕に伝わってくるような気がしました。
アリシアさんに肩を抱かれて熱っぽい自分の身体からは、女の子の甘い匂いが立ち上っているような気がしてくるんです。
私はお下げ髪を解いた窓に映る自分の顔をじっと見つめました。
なんだかいつものお下げ髪の間で両方の目を丸くして瞳をおおきく見張ったそんな顔に見えます。
私はその自分の瞳の色の中に自分の求めていたものを見つけました。
それは……なんていったら良いんでしょう……
期待……みたいなものだと思うんです
私はいつもどおりの笑顔で微笑みました。
そしてアリシアさんに肩を抱かれて前へと裸足の足を踏み出したんですね。
私のウンディーネとしての初めてのお努めをするためにお客様の待つ部屋へと。
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メール本当に長くなっちゃいました。
次にメールできたら、今度はアリア社長の2本目のしっぽの話を書きますね。
ではまた。
(完)