< その、初めての夜の前に…… > (◆aMG1p24QzI氏・作) 2006/05/21寄稿 |
――― 前略。お元気ですか?
私の住む街、ネオ・ヴェネツィアに春が再びやってきました。 この時期は日の暮れるのが遅くなって、早めの夕ご飯を済ませて夕暮れの街中を歩いているとなんだか不思議な気持ちになってきませんか? 沈みかけた夕方の薄明かりの空気の中、点り始めた街の優しい黄色の灯りが街中を歩く人の姿をいつもより鮮明に浮かび上がらせていて、まるで地球の日本での縁日のお祭りのようなそんな街の空気の中に居ると、どうしてだかこの夕暮れの時間がいつまでも終わる事がなくてずっと続いていくような、そんな不思議な気持ちになってくるんですね。
急いでアリアカンパニーへと戻る途中、風が凪いでその止まった空気の中、振り返って見ると今度は海のずっと向こうの丘にまで広がって見える家々の灯りがつぎつぎと点り始めるのが見えてきます。 今は2階が使えなくて用事があってまだ寝るには早い時間なので2階の外にテーブルを出してそこでこのメールを書いています。
アリア社長は今日はお出かけです。なんだか心が騒いで人恋しい気分が続いているのは、きっとアリア社長が居ないのと、海を見ている私の耳に女の人のまるで舟歌を歌うような柔らかい声が風に載って微かに聞こえてくるせいでしょうか。 それとも夏の手前のこの夜風のせいかもしれません。
昔、アクアでは今よりずっと気温の高かった時期があったそうなんです。難しいことは解らないんですがアクアで予想外の冠水が発生してその後安定した気候を維持するため一定の期間、熱量をコントロールする必要があったとかだそうなんですね。
この天候の悪化はアクアの人たちの生活に悪影響を与えました。なんだか私にも解るような気がします。この夏の前の心騒ぐ季節がずっと続く訳ですから。
元々が砂漠だらけの砂の惑星だったのが大規模な冠水によって地表の9割以上が海になりました。
その街の一つ、ネオ・ヴェネツィアでも状況は変わりませんでした。そしてこの時期、ネオ・ヴェネツィアでは新しい2つの職業が生まれました。
ネオ・ヴェネツィアの街の人たちは最初、この2つ目の新しい職業とその担い手である夜の女の人たちを排除しようとしました。
この街の人はそんな風に考えていて……でも排除は実際には行われませんでした。 その代わりに夜の女の人たちのお客さんとなった男の人たち、夜の女の人たちを必要としたのはかつての開拓技術者や労働者、地下の氷結水層の発掘作業やその融水作業に従事していた人たちで、冠水後も地球に戻らずアクアに残って分断された都市の連絡網の再設置やそのほかの復興作業を そのまま引き続いて継続することを選んだ男の人たちだったんです。
アクアに無数に作られた開拓基地には膨大な数の開拓作業者が居ました。その開拓作業者の人たちが改善しようとしていたのは水の存在しないアクアの想像を超えた不自由な生活でした。
それが起こったとき、都市の住民は避難が出来たのに開拓基地はそのほとんどが救助の間も無く、水中に沈んでしまったんです。
働いた場所も、同じ仕事をした仲間も、場合によっては家族や恋人も、その全てが水の下だったんです。 でも……夕暮れ時に復興した街の家々に灯りが点りはじめて、その下で暮らす家族が集まるとき、頑張ってその生活を切り開いた開拓作業者の人たちには……実際にはどこにも行く場所がこの街の本当にどこにも無かったんです。
ネオ・ヴェネツィアの街の人たちにはその事が解っていました。
そこで地球から行政の委託を受けてネオ・ヴェネツィアを運営する当時の街の有識者が集まって今のサン・マルコ広場近くのある場所で会合が開かれました。 美しいことで有名だったその女の人にされたのはある提案でした。それは、 『この後復興計画として実施されるこの街のヴェネツィアをモデルとした観光都市化の一環として、街の水路を案内する女性のゴンドラ漕ぎ手となってその職業を成立させて欲しい』
というものでした。 『この街を愛する者として、この街を訪れる全ての人に街の感謝の気持ちを形で伝えて欲しい。今、問題となっている夜の仕事をする女性の代わりに。ただし一切の金銭の授受なしで』 というものだったんです。
その限りにおいて、この街を愛する限り、そして強制ではなくこの職業とその役割を愛し受け容れる事ができる限り、この先将来に渡ってそうした女性のゴンドラ漕ぎ手はこの街の一員として認められ、この職業を続けられる保護が街によって受けられる事が提案には含まれていました。
提案をされたその美しい女性は街の有識者達を前にしばらく考えて、そして承諾の返答をしました。 そしてそれがそれまでゴンドリエーネと呼ばれ男性漕ぎ手しか存在しなかった地球のゴンドラ漕ぎ手に代わり、アクアのネオ・ヴェネツィアでのウンディーネが生まれた瞬間でした。 ただのゴンドラ漕ぎ手/水先案内人ではなく、アクアで重要な仕事となっているサラマンダー(天候管理者)やノーム(重力管理者)と同じように街の一員で、街に欠かせない存在としてそれにふさわしく、私達がその本来の大事な仕事にふさわしい名前であるウンディーネ(水の妖精)と呼ばれるようになった本当のそれが始まりの出来事だったんですね。
メール、長くなっちゃいました。私は今、月明かりに照らされて光る夜の海を見つめながら熱っぽく火照る頬を春の夜風にやさしく触れられるようにしてテーブルの前に座っています。 さっきからずっと、風が頬を撫でるたびにその暖かな風が薄いネグリジェの生地とその下で息づいている胸の間に入り込んで、そのまま下に降りて小さく震える身体を触って、それに合わせて背中からそのずっと下の方までピクンと動くような、そんな風な感覚を感じたままでずっと同じ事を考えているんです。 私はアクアは幾つもの奇蹟で出来ていて、ウンディーネもその一つで、奇蹟で出来た素敵なお仕事だと思っていたんです。そしてそれは……本当にその通りだったんですね。
アリシアさんに話を聞いてからずっと想像してました。
そして私は…
このアクアを創る為に全てを失って、傷つきあの長い春の夕暮れの空気の中で丘に広がる家々に点りはじめる灯りを目にしながら、どこにも行き場のない想いをしている男の人の前に立って私は想うんです。
今、このネオ・ヴェネツィアでの素晴らしい出会いや奇蹟や生活の全てに感謝している私は……
たぶん、私は……
…………………… 「……灯里ちゃん?」 「(は……はひっ!?)」
身体を震わせながら自分の考えに沈んでいた私は急に声を掛けられて座っていた椅子から飛び上がったんですね。 アリシアさんの濡れて光る身体からは朝の湿った草に似た鮮烈な香りがして、月の青白い光に照らされたアリシアさんはこんな時のアリシアさんがいつもそうな様に、何ひとつ身体に身に付けていないのにとても綺麗に見えました。 「お客さまが半人前のウンディーネの実習もしてくださるそうよ。 ………… ……灯里ちゃん、大丈夫よ灯里ちゃんなら」
アリシアさんは裸の身体で私の肩を抱くようにして耳元で囁くようにそっとそう言ってくれました。
その透けて見える自分の身体の影を見つめたまま、両方の腕で自分の胸を抱くようにすると柔らかい生地を通して、震える胸の感触やその重さが腕に伝わってくるような気がしました。
私はお下げ髪を解いた窓に映る自分の顔をじっと見つめました。
それは……なんていったら良いんでしょう……
私はいつもどおりの笑顔で微笑みました。 私のウンディーネとしての初めてのお努めをするためにお客様の待つ部屋へと。
メール本当に長くなっちゃいました。 ではまた。 (完)
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